第2回(9/1)倭人(天氏)と高天原

<最初に>

 会場の「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は、有名な建築家前川國男さんが設計された、時間の流れと奥ゆきを感じさせる建物です。(下写真)

 初めの20分は前回講演の大きな流れを復習しました。今回は、紀元前1200年頃に長江流域に居たとされる倭人が、東表地方から渤海沿岸を経て、朝鮮半島南部に至り、紀元前200年頃に高天原(泗川)を建設するまでの経緯を中国などの古文書、『宮下文書』などを手掛かりに、解明していくものです。中国や朝鮮半島での遺跡等の発掘がまだ十分でないことなどもあり、現段階では古文書を中心に考察していく以外ありません。尚、余り知られていない古文書については、HP作成委員会が一般的な説明の注を添えました。

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<第1章  倭人「卑弥氏」>

 前回、『魏略』(注1)が「倭人は呉の太伯の後裔である」と記していることを確認した。今回は、『新撰姓氏録(注2)が「松野連(むらじ)」(注3)呉王夫差より出る、と記している記事から始まる。倭人たちは、初代太伯が建てた呉という国に住んでいた。夫差は第7代目の呉王で「呉越の戦い」で越に敗れた最後の呉王である。『新撰姓氏録』にも、「松野連」という氏族はこの第7代目の呉王夫差から始まっている、と記されている。更に、「松野連系図(注4)をたどって見ると、「松野連」は卑弥氏であることが分かる。「松野連」(卑弥氏)は呉地方から日本列島に渡来していることを確認できる。


 次に、『山海経(注5)の記述から、卑弥氏は呉地方から黄河下流域に移動したことが分かり、『水経注』(注6)の記述より、その後渤海沿岸に移り、大凌河上流に「倭城」を建国していることが分かる。


 注1 『魏略』・・・陳寿の書いた『三国志』(魏志倭人伝を含む)とほぼ同じ時代の西暦280年頃に、魚豢(ぎょかん)が書いた魏の歴史を記した私撰書。現在、完本は残っておらず、他の本に逸文が見られるのみである。「『魏略』にいう。…」という形の『三国志』の裴松之による注が多く出てくる事からも、魏志倭人伝を論ずる時必ず言及される本で、陳寿はこの『魏略』を参考に『三国志』を書いたという説もあれば、逆に『魏略』は『三国志』を参考にして書いたハンドブックのようなものであるという説などがある。

 注2 『新撰姓氏録』・・・平安初期に嵯峨天皇空海の時代の天皇)が万多親王らにまとめさせた、天皇家が編纂したもので、京及び畿内に住む1182氏の出自を「皇別」335、「神別」404、「諸蕃」326、その他117に分類して、その出身地、祖先、同属などを明らかにした書。日本古代史族の研究には欠かせない史料である。現在、本文は残っておらず、抄録本だけが残っている。詳しい内容はインターネット等で見ることができる。
 注3 「松野連(まつのむらじ)」・・・前の『新撰姓氏録』の「諸蕃」(右京)の中に記載されている日本の(倭の)一氏族である。
 注4 「松野連系図」・・・明治時代に古代豪族の系図を私的に蒐集研究してきた系図研究の第一人者である鈴木真年氏が蒐集した系図の中に、「松野連」の系図が発見された。これには、「松野連」は姫氏であり、呉王夫差を始祖とし、戦国時代の武将松野正重までの系図が記載されている。現在、この系図国会図書館で見ることができ、静嘉堂文庫所蔵系図としても残っている。
 佃收氏は『「新「日本の古代史(中)』(P.300~319)で、「松野連系図」に関する研究を詳細に述べている。この研究により、「委奴国」、「狗奴国」、「熊襲」、「倭の五王」が「卑弥氏」であることが判明したとする。これは、佃氏のHPで全文見ることができる。また、佃氏が国会図書館で得たコピーもこの本の中に載せられている。尚、この部分へは、HP上で『新「日本の古代史」(中)』の下の詳しく見るをクリックし、1章関連論文を読むというボタンから入ります。
 注5 『山海経(せんがいきょう)』・・・中国最古の地理書で前4~3世紀にかけて成立したとされる。もともと絵地図と解説文の組み合わせで、中国人の伝説的地理認識を示したと言われている。古い時代に絵地図も失われ、本文もそのままの形では伝来していず、後世に編集がされていると言われている。
 注6 『水経注(すいけいちゅう)』・・・中国の地理書。3世紀成立の『水経』に6世紀初めに道元が自身の地理的体験を注として加え、各地の河川の水系と流域の歴史などを詳細に記述している。

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<第2章 中国東北地方の古代史1(周~戦国時代)>

 『魏略』、『契丹古伝』(注7)、『史記』は三書ともに、箕子朝鮮(きし)が燕(今の北京付近を都とする古代国家)との戦いに敗れ、東に退き、燕が城塞を築いたことを記している。これが「燕の長城」であり、時期は前284年頃である。
続いて『契丹古伝』は、殷(=箕子朝鮮)が大凌河を越えて燕を伐ち、孤竹にまで至り、殷の失地を回復したと述べる。この記事によって、箕子朝鮮の位置が確定し、「燕の長城」の位置と燕の五郡(上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡)の位置が分かる。また、『史記』は、秦が「秦・趙・燕」の長城」を利用して「万里の長城」を築いたことを記し、「万里の長城」は「臨洮より起こし遼東に至る」とする。「遼東」は「燕の遼東郡」であり、「燕の遼東郡」は遼水の東にあると記している。


 ここで大きな問題が発生していると、佃氏は指摘する。上の「遼水」は、『契丹古伝』の記述などでも分かるように、碣石山の西を流れる灤河(らんが)である。しかし、今までの中国の学者も日本の学者も、医巫閭山(いふろさん)の南側を流れ、渤海の一番北側の部分に流れ込む大凌河があるが、更に大凌河の東に「遼河」があり、この「遼河」を「遼水」であると誤解している、とする。そのため、秦・漢の時代の「万里の長城」の位置が間違っていて、この「万里の長城」の東側が大凌河の付近まで達していたり、遼寧省の遼陽市や鴨緑江まで伸びているものもある。こうなった理由については、中国では最近になって実地調査・発掘を行なうようになったが、長い間文献資料による研究であったためではないか、と佃氏は述べる。詳しい内容については『倭人のルーツと渤海沿岸』(佃收著「古代史の復元」シリーズ①)の第2章以降に詳述されており、HPで全文読むことが出来る。ここには、秦・漢の時代の「万里の長城」の誤まった位置の図も参考に載せられている。また、『新「日本の古代史」(上)』の中の論文「中国東北地方の郡の変遷」(p.41~73)にも詳しい記述がある。ここでは、中国や日本の学者が、なぜ秦・漢の時代の「万里の長城」の東端の位置を間違えたのかについての端的な説明もある。
 『契丹古伝』は更に、秦が燕を滅ぼしたため、箕子朝鮮は燕を破った後に再び東に退いて、大凌河の東に移っていることを記している。
 前回学んだように、「倭人(天氏)」は箕子朝鮮と氏族間の「婚姻」の状態にあり、箕子朝鮮と行動を共にしている、したがって倭人(天氏)」も燕と戦い、その後大凌河の東に移っていると考えられる。


注7 『契丹古伝』・・・日露戦争中の明治38年奉天(現在の瀋陽)郊外の黄寺(ラマ教寺院)に駐屯中の兵站経理部長の浜名寛祐(はまなひろすけ)は奇妙な巻物を見せられた。元はある古陵墓より出土した秘物であったが、兵禍を恐れて、同寺院に保管されていたという。漢文で書かれているが、漢学者の家に生まれて漢文が堪能な浜名にも理解することはできなかった。これを書写した浜名寛祐は、20年以上の歳月をかけて研究し、大正15年に『契丹古伝』と名付けて発表した。2980字の漢字が羅列されているこの文書は、10世紀初頭に成立した契丹国(遼)の名臣耶律羽之(やりつうし)が古くからの民族の神話や歴史等を撰録したものであるとされている。アカデミックな学者たちには偽書とする意見が多いが、モンゴル、中国、朝鮮半島、日本などからなる東アジア地域の伝承の宝庫として、今後の再評価が待たれる異色の古代文献でもあると高く評価する学者もいる。

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<第3章 中国東北地方の古代史2(前漢時代)>


 「倭人(天氏)」は大凌河の東に国を作ったが、それまで大凌河の上流の「倭城」に居た「倭人(卑弥氏)」にこの国を譲った、と『契丹古伝』は述べる。更に、それから日が経たないうちに、漢が攻めてきたが、「倭人(卑弥氏)」は漢を撃退した、と記す。漢は大凌河までを支配領域としたかったが、「遠く守り難い」ので万里の長城を修復し、バイ水までを支配領域とした、と記している『史記』の記述と合致している。
 その後、前195年に、もと燕の人だった衛満がバイ水から大凌河までを支配領域とした「衛氏朝鮮」を樹立する。長城の外で蛮夷を押さえ、諸蛮夷が漢に朝貢するときは邪魔をしないという約束を、「衛氏朝鮮」は漢と交わしている。ところが、衛満の孫の右渠(うきょ)の代になると、右渠はこの約束を守らなくなり、漢は「衛氏朝鮮」の都の「王険城」を陸と海から攻める。「船を渤海に浮かぶ」という『史書』の記事などから、「王険城」や「万里の長城」が渤海沿岸に在ることが分かる。更に、「王険城」はバイ水の東にあることも記事から分かる。このバイ水は、『史記』や『水経注』で、「東に流れて海に入る」と記されていることから、佃氏は、バイ水=興城河であるとする。

 従来は、「衛氏朝鮮」の「王険城」は朝鮮半島の「平壌市」であると言われ、中国、韓国、日本でもそれが定説になっている。ところが、今述べ、図7で示しているように、渤海沿岸のバイ水は東に流れ、「衛氏朝鮮」は大凌河の西にある。それ故、真番朝鮮や旁衆国が漢への朝賀することを妨害できたのであり、もし「衛氏朝鮮」が「平壌市」に在ったとしたら妨害することは出来ないと、佃氏は定説の誤りを鋭く指摘している。                        

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<第4章 「倭人(天氏)」と高天原


 秦や漢の圧力から逃れるため「天氏」や「卑弥氏」は東に向かう。漢の成立は、前206年である。「天氏」が「卑弥氏」に大凌河の東の地域を譲った直後に、漢が攻めてきて、「卑弥氏」はこれをはね返した。その後、前195年に「衛氏朝鮮」がバイ水から大凌河までの地域に建国した。したがって、「天氏」が大凌河の東から去ったのは、前206~195年、つまり、前200年頃「天氏」はこの地域を譲って、東に移動している。
 その後の足取りは、『宮下文書』(注8)が示している。「天氏」は「蓬莱国(高天原)」を目指す。先ず、「高皇産霊神」の第5子「農立比古尊(国常立尊)」が「蓬莱山(高天原)」を目指し出発するが、音沙汰が無いので、後を追って第7子の「農佐比古尊(国狭槌尊)」が父「高皇産霊神」と母を連れ、後を追って天降る。
 大凌河下流域から渤海に出て、黄海を渡り、朝鮮半島南西部に行く。『宮下文書』は、そこから「高天原(泗川市)」へ行く行程を詳しく記述している。これは、レジュメに詳しく書かれている。
 

 『宮下文書』は「天氏」の系図について記し、天照大神は「農佐比古尊(国狭槌尊)」の孫であり、イザナギ尊とイザナミ尊の皇女で「豊阿始原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の初代の神としている。二代目の「天之忍穂耳尊」は「農立比古尊(国常立尊)」の曾孫である。子供がない天照大神が、養子にして、二代目としたのであって、「王統」が替わったのではないと佃氏は説明する。
 『契丹古伝』では「安冕辰ウン氏」と記された「安冕(あめ)氏」は「天氏」である。一方、『宮下文書』では「天之忍穂耳尊」のように「天之(あめの)」であり、「天氏」である。このように、「倭人(天氏)」の歴史は『契丹古伝』から『宮下文書』に続いて記されている、と佃氏は述べる。
 今回の講演会で述べた「天氏」と「卑弥氏」の歴史は、『契丹古伝』や『宮下文書』を偽書として退け、検討することもしないなら、解明することはできないと佃氏は強調する。

 注8 『宮下文書』・・・富士太神宮の大宮司を代々つとめてきた富士山麓富士吉田市の「宮下家」に、幾多の困難を越えて保存されてきた古文書である。日本の古代の神、尊などの神皇について、記紀とは別の観点から、神代の秘史が詳しく書かれ、秦の徐福が漢文で筆録したものともされている。封印されていたが、公証人であった三輪義熙(よしひろ)氏が宮下家から依頼され、30年の歳月をかけて整理できた部分を大正10年に『神皇紀』として出版した。直ぐに、内大臣、高級官僚、東大教授などを含む有識者によって『宮下文書』を調査する富士文庫が設立された。しかし、1年後に解散され、偽史だとされるようになった。現在、『神代富士古文献大成』(1986年刊)として、『宮下文書』の全文が公開されている。『神皇紀』も『宮下文書』と呼ばれることが多い。

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 今回の講演は難しい文献が多かったせいか、早めに終わったので、余った時間で質問を受け付けた。概略、次のような質問、意見が出された。
○<『宮下文書』はどうして、富士山麓に残されたか。>
 秦から渡って来た徐福が筆録したともされていて、その文書を、神社のあった富士吉田市宮司の家に代々保存されるようになったからではないか。
○<「万里の長城」についての既存の説との違いを整理して下さい。>
 秦や漢の時代の「万里の長城」の東端の位置が誤まっている、ということです。この「万里の長城」の東端は碣石山のやや東の山海関で渤海に及んでいます。ところが、東端が大凌河の直ぐ東付近まで達していたり、遼寧省の遼陽市や鴨緑江まで伸びているものもあります。高校の世界史資料集等もこのようになっています。『新「日本の古代史」(上)』の中の論文「中国東北地方の郡の変遷」(p.41~73)では、後漢末に中国東北地方で勢力を拡大した公孫度が、「遼河」を新たに名付け、「遼河」の東に新たに遼東郡を設置して、遼東郡の位置を移動させたことを述べています。遼東郡の位置が公孫度以後では大幅に変わりました。その為、遼水はラン河を意味していたのですが、「遼河」と解釈され、「ラン河の東」を「遼河の東」と考えて、誤りが生じたと、佃氏は指摘しています。
○ <古代史を勉強させていただいていて、ありがたい。>
○ <『宮下文書』に出てくる地名が、日本の地名に見えるが…?>
 歴史を調べると、自分たちが住んでいた所の地名を、新たな土地に行っても使うということが多くある。これらの地名は、最初朝鮮半島にあり、移り住んで日本の地名になったのではないかと思われる。

 最後に事務局から、次回の予定12月1日(日)、テーマ:倭人(天氏)の渡来(天孫降臨)等について説明があり、第2回は終了しました。

   

日本古代史の復元 -佃收著作集-