第3回(12/1)倭人(天氏)の渡来(天孫降臨)

 <最初に>

 今回も、古文書「宮下文書」や吉武高木遺跡などの考察するため、参加者全員にA-4用紙27ページの資料が配布された。『埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会』「古代文化を考える会」の会員の方々が印刷し、受付で参加者全員に配られている。また、佃先生の本も販売され、会員の方々のご尽力により講演会は支えられている。   

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 今回は、「天孫降臨」を実証的に考察する。現代の歴史学の通論では、初代神武天皇から第9代開化天皇までを架空とみなし、第10代崇神天皇から実在とみなすようだ。また、第15代応神天皇より前の天皇は史実ではない、という説を述べる学者もいる。戦前・戦中の皇国史観からの反動もあり、「天孫降臨」や「神武東征」は史実ではなく、神話だというのが歴史学の常識とされてきた。
 一方、「天孫降臨」は史実だと主張する歴史家はいるが、古い地名の解釈に基づいているだけであったり、古い史跡との関連をイメージ的に指摘する程度のものが大部分である。
 文献からキチンと考証し、遺跡等からの物的証拠からも検証する説は、極めて稀である。佃氏は1、2章で文献からの考証をし、3、4章で遺跡等からの検証を行なっている。今回の講演内容は、『新「日本の古代史」(上)』33号論文p.15~39、『新「日本の古代史」(下)』70号(2)論文p.575~592に概要が述べられているが、新たに考古学的な資料や考察が加えられている。今回の資料が必要な方は、「古代文化を考える会」の事務局に頼めば、入手できるのではないか。

<第1章  『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」>

 最初に、『日本書紀』や『古事記』に書かれている「天孫降臨」の様子を、資料をもとにして確認する。
日本書紀』には、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、日向の襲の高千穂峯に天降らせた、とある。「一書に曰く」という書き方で、他の説も併記しているが、まとめれば「日向の〇〇の高千穂峯」に降臨したと書いている。
 『古事記』では、高御産巣日(たかみむすひ)神と天照大御神が、邇邇藝命(瓊瓊杵尊 ににぎのみこと)に詔命して、天孫降臨させたとある。『古事記』の方が天孫降臨の場所を具体的に記している。(1)韓国に向かい、(2)笠沙の御前に真来通り、(3)朝日の直刺す国、(4)夕日に日照る国、とある。この条件を満たす地は「福岡市西区の飯盛山付近」と考えられる。室見川の支流に日向川が流れていて、近くに「日向峠」があり、現在でも「日向(ひなた)」の地名がある。
 ただ、『日本書紀』や『古事記』の神話では、出てくる神の名前が、必ずしも一致せず、独り身の神に子が生れるなど、曖昧な記述であることは読んだ人は誰しも感じるところである。      

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<第2章 「倭人(天氏)」の移住(『宮下文書』)>

 『宮下文書』は、天皇家の歴史を『日本書紀』や『古事記』の歴史よりはるかに古い時代から記述している。最初に天世天之神七代(第1神朝)があり、その次に天之御中主神(あめのみなかぬし)を初代とする天之御中世火高見神十五代(第2神朝)が続き、第2神朝の最後の高皇産霊神(たかみむすひ)の第5子の国常立命(くにとこたち)と第7子の国狭槌命(くにさつち)が高天原世天神七代(第3神朝)の始まりとなり、「高天原」を建国している。『古事記』では、天之御中主神(あめのみなかぬし)から始まり、『日本書紀』は、国常立尊(くにとこたち)から始まるが、『古事記』に記された「五柱の別天神」が書かれていない。『宮下文書』では、どの神とどの神が結ばれてどの神が生まれてきたかが、矛盾無く、実に整合的・体系的に記述されている。秦の徐福が原本を書いたとされ、この部分については検討の余地があるだろうが、神皇の系譜がキチンと示されており、むしろ『日本書紀』や『古事記』の記述は、『宮下文書』の記述を摘み食いして書かれているような感じさえ受ける。


 佃氏は、『宮下文書』に記された「天孫降臨」についての記述を注視する。『宮下文書』の豊阿始原世地神五代(第4神朝)の初代は天照大御神であり、この第三代目が邇邇藝命(ににぎのみこと)である。邇邇藝命の時代に「西北大陸」からの侵攻があるが、苦戦しながらも何とか敵を撃退している。次の第四代目日子火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の時に再び「西大陸」から外冦がある。日子火火出見尊は、多くの神々を集め議論し、次の代(第五代目)の日子波瀲武鵜葺不合尊(ひこなぎさたけふきあえずのみこと)に譲位して、高天原から筑紫に天下り(侵攻し)、神都を附地見島(筑紫)に移すことを決意する。


 「軍勢を二手に分ち、附地見島、東の水門より攻むる大将は、元帥火照須(ほてるす)命、副帥武甕槌命・稚武王命、軍勢5萬餘神とし、他の一軍は、附地見島、南の水門より攻むる大将は、元帥火須勢理(ほすせり)命、副帥経津主命建御名方命、軍勢5萬餘神とす。」と書かれている。「二手」の「附地見島、東の水門」とは、博多湾筑前)であり、元帥火照須命とし、他方の「附地見島、南の水門」とは、有明海肥前南部)であり、元帥火須勢理命とする。火照須(ほてるす)命、火須勢理(ほすせり)命はともに、邇邇藝命(ににぎのみこと)の子であり、日子火火出見尊(ほほでみのみこと)の兄弟で、日子波瀲武鵜葺不合尊(ふきあえずのみこと)の伯父に当たる。
 戦いに勝利し、附地見島(筑前肥前南部)を支配したので、神皇日子波瀲武鵜葺不合尊は、「高天原から附地見島の新宮に天下りましまし給う。…其御船の初めて着きましし水門を津久始(つくし)初古崎(はこさき)とそ名つけける。」と書かれている。日子波瀲武鵜葺不合尊は、附地見島に天下り、最初、筥崎宮がある福岡市箱崎付近に上陸している。


 『記紀』より具体的に述べられている。更に、佃氏は、前200年頃に国常立命や国狭槌命が高天原を建国したことと『宮下文書』が示す系図などから考えて、「天孫降臨」の時期は、前後に余裕を見て「前140年~前110年」頃との説を示す。

<休憩の後、「歴史研究のあり方」について>

 2章までで1時間話され、この後15分の休憩を取り、休憩の後に第1回講演会の時に説明した「歴史研究のあり方」をもう一度確認した。歴史研究の基本は、科学的かつ論理的に、年代と場所を解明することから始めなければならないが、「情報(データ)」は多いほど史実に近づく、と述べる。検討もしないで、「偽書」として排除したのでは、自ら情報量を少なくして、史実に立脚した歴史認識を諦めているようなものである、と語る。
 更に、文献の解釈には「解釈の誤り」が意外と多いことから、「歴史認識」には「物的証拠」が必要であることを強調し、「遺跡・遺物」、「地形・地質」、「地名」等を取り入れて、「文献」と照合すべきであると述べる。
 今回の講演では、『記紀』だけでは分からないことが、第2章で『宮下文書』を考察することで明確になり、次の第3章の吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡などを考察することで、「物的証拠」との照合ができる。
 尚、『神皇紀』(『宮下文書』)は、神奈川徐福研究会・神皇紀刊行部会から現代語訳が出ている。また、長年『宮下文書』に取り組まれた故鈴木貞一氏が書かれた『日本古代文書の謎』(大陸書房は、古い本ではあるが古本を手軽に入手することができ、比較的読み易いのではないかと思う。

<第3章 「倭人(天氏)」の渡来」の「検証」>

 初めに、『記紀』や『宮下文書』では、天孫降臨した天氏の邇邇藝命(ににぎのみこと)がどの様に埋葬されたと書かれているか、を見る。『日本書紀』には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)崩ず。因りて筑紫の日向の可愛の山稜に葬す。」とある。『古事記』には記載がない。『宮下文書』には次のように書かれている。「火照須尊は高天原の金山の陵より吾父母即ち天孫二柱の御霊・剣・鏡を日向の可愛の山裾の長井宮に遷し祀りき。後、霊・剣・鏡をその宮の西の可愛の山稜に葬りぬ。」
埋葬したところは、両方とも「日向の可愛の山稜」としている。しかし、『宮下文書』には、火照須尊の両親である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と木花之咲夜媛(このはなのさくやひめ)の「御霊・剣・鏡」を「高天原」から掘り起こして、「日向の可愛の山裾の長井宮に遷し祀り」、その後に、「その宮の西の可愛の山稜に葬りぬ」と書かれている。   

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 「福岡市西区の飯盛山」の山裾(「日向の可愛の山稜」)に位置している吉武高木遺跡は、1980年に畑の整備のための発掘調査が開始され、1984年に34基の甕棺墓と4基の木棺墓、大型の建物跡が発掘され、注目を集めた。特に、3号木棺墓からは、多鈕細文鏡、細型銅剣、細型銅矛、細型銅戈、勾玉、管玉(三種の神器)が出土しており、「日本最古の王墓」であると言われている。4基の木棺墓の中で、この3号木棺墓だけは他のものと異なり、「祭壇」をそのまま埋めているような形状である。また、副葬品が崩れていないことから、遺体が埋葬されていたのではなく、遺体の代わりに藁人形のようなものが置かれていたのではないかと考えられる。
 大型建物は紀元前2世紀頃のもので、我が国で最古・最大の大型建物であると言われ、この建物の「真西」に、上に述べた3号木棺墓が位置している。この建物は『宮下文書』の「長井宮」と考えられる。
 『宮下文書』に書かれている通りの遺跡が、吉武高木遺跡である。『宮下文書』は、紀元前2世紀の様子を驚くべき正確さで記述している。  

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     ※ 吉武高木遺跡は2012年から「やよいの風公園」と名付けられ、子供を連れたお母さん方や犬の散歩をする方々に利用されている広々とした公園となっている。実際に出土した位置に甕棺墓や大型建物の説明のパネルが配置されている。


 次に、須玖式土器や粘土帯土器の分布、鋳造鉄斧の製作技術、甕棺KⅠc式の分布圏などを考察し、「前140年~前110年」に倭人(天氏)が朝鮮半島南部から北部九州に進出し(天下り)、日本列島の「弥生時代前期」が終わり、「弥生時代中期」が始まることを裏付けているとする。


 須玖岡本遺跡は、弥生時代中期前葉以降、突如として集落数が増加するとともに、多数の甕棺墓群が形成され、他地区から移動してきた集団によって計画的に作られた、とされている。春日丘陵の一帯はすでに1000基ほどの甕棺が発見されているが、副葬品をもつ甕が集中するのはこの須玖岡本遺跡のみである。須玖岡本遺跡の大石の下に埋められていた甕棺の内外には、前漢鏡30枚、細型・中細型銅剣、銅戈、銅矛、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉などの副葬品があり、「王墓」である。この時期に、この地方に大勢が移動してきたのは倭人(天氏)であるから、須玖岡本遺跡の「王墓」は日子波瀲武鵜葺不合尊(ふきあえずのみこと)の墓であろうと、佃氏は指摘する。


 また、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓からは甕棺14基が発掘されている。この墳丘墓の中心の甕棺は長さ2.5mもあり、現在国内最大であり「古い形式に属す」とされている。「天孫降臨」の「南の水門より攻める」軍は元帥火須勢理命とあるが、火須勢理命高天原に戻っているという記述が『宮下文書』にあるので、この甕棺は副帥経津主命の墓だろうと佃氏は述べる。


 KⅠc式の甕棺は、朝鮮半島南部の甕棺であり、弥生時代前期末の短期間に「筑前肥前南」まで一斉に埋められている。この地方に、朝鮮半島南部から多くの人々が渡来している証拠である。甕棺墓は吉野ヶ里遺跡だけで2000基以上、須玖遺跡でも1000基以上、筑紫野市の隈・西小田遺跡でも1500基以上が出土し、甕棺墓の総数は1万基を越える。甕棺墓で埋葬されるのは支配層であり、一般の人はその数十倍、数百倍であることを考えると、『宮下文書』に「5万+5万」の人々が渡来したと書かれているのは誇張とは言えない。
 続いて、「倭人(天氏)」は日本列島に「日本語」をもたらしたと述べ、これは次回の講演会のテーマとする、と語った。

<第4章 「倭人(天氏)」の渡来の年代」の「検証」

                 f:id:kodaishi:20200126212340j:plain 壱岐の図

 壱岐原の辻遺跡についての2008年のシンポジウムで、次のことが報告されている。弥生時代中期前葉(前2世紀後半)に濠に囲まれた居住域と濠の外側に墓域が存在する「原の辻大集落」が成立する。祭儀場、船着場など、全体計画に基づいた大土木工事が行なわれ、青銅製の鏃や前漢の貨幣、中国製銅剣、ヤリガンナ・刀子などの鉄器、玉類、管玉、ガラス小玉などが出土している。ちょうど「天孫降臨」の時期に、朝鮮半島または中国東北部から壱岐への計画的な移住が行なわれたことが確認できる。佃氏は、「日本の考古学」は「弥生時代の年代」をここまで正確に言えるようになったと、評価している。
 一方で、国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏が、吉武高木遺跡の年代を紀元前4世紀~前3世紀としていることに言及し、これは遺跡から出土した「遺物」から年代を決めているのであり、考古学ではやってはいけないことであると苦言を呈する。前に見たように、吉武高木遺跡3号木棺墓は邇邇藝命の墓と考えられ、副葬品は高天原に埋められていたものを掘り返して、吉武高木遺跡に埋められている。副葬品と遺跡の年代が異なるはずである。併せて、藤尾氏と同じ本の中で説を展開している李昌熙氏の「弥生時代中期」の始まりの時期も誤りである、と指摘した。

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 今回は余った時間で、2件の質問があった。

〇<『宮下文書』で、「西北の大陸」からの侵攻があると書かれているが、誰が、どのような理由で攻めて来たのか。>


 衛氏朝鮮が攻めて来ている。その理由については、次回に話す予定にしているので、次回の講演を聞いてほしい。


〇<『宮下文書』は誰が書いたのか。それは信用できるのか。>


 大勢の人が書いたのではないかと、考えている。書いてあることは、どこから引用したかがすべて示されている。遺跡と一致している、見事に一致している、と言える。でたらめな文書とは考えられない。ただ、書いてあることがすべて正しい訳ではなく、自分なりに検証する必要がある。むやみに引用することは危ない。実際、神武天皇の前のウガヤフキアエズ朝が51代続いていたと書いてあり、1代20年としても、ウガヤフキアエズ朝は1000年以上続いたことになり、この点については信用できない。
朝鮮半島では紀元前に、伊都国では1世紀に硯石が出土している。漢字ではない文字があったのではないかと考えられ、何らかの形で、記録するということが行なわれていたのではないか思われる。 

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   佃收玉名講演会