第4回古代史講演会報告

渡来後の「倭人(天氏)」と「日本語」の起源

2022(令和4)年1月15日(土)午後1時~4時

<最初に>

 首都圏に「まん延防止等重点措置」が適用される前、『埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会』「古代文化を考える会」の皆さんによる様々な対策が取られ、第4回講演会を開催することができた。資料は「友の会」の皆様が印刷し、参加者全員にA-4紙28ページの資料が配布された。また、佃先生の本も販売され、会員の方々のご尽力により講演会は支えられている。    

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 最初に、「友の会」の斉藤さんから簡単な挨拶があり、何点かの注意事項が話された。コロナ禍で様々な催しが中止された後の最初の開催となるため、81名の人数制限をしていること、「友の会」の活動として実施しているので、「友の会」に入会していただくことが望ましいこと、次回は卑弥呼が登場する邪馬壹(台)国関連のテーマになるので、このテーマでは2回程度を予定していることなどである。             

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 講演の冒頭、今後の予定に関連して佃先生は次のように話された。「コロナ禍で約2年講演会が延期されたため、これからのコロナの感染状況を見なければならないが、できれば2ヶ月に1回のペースで開催したいと考えている。というのは、佃古代史は「古事記」と「日本書紀」をテリトリーとしており、奈良時代の「長屋親王」までを是非ともお話ししたいからだ。」

 

 『日本書紀』にも『万葉集』にも出てくる「朱鳥(あかみとり)」年号は、686年7月から始まり694年まで続く。686年9月に天武天皇は亡くなりますから、「朱鳥」は天武天皇の年号ではありません。持統天皇の即位は690年ですから、持統天皇の年号でもありません。現在の日本の歴史では、天武天皇の後の天皇持統天皇ということになっていますから、「朱鳥」はどの天皇の年号か?という疑問が出てきます。天武天皇には長男に当たる高市皇子がいて、天智天皇と争う壬申の乱では、高市皇子が大活躍して勝利を収めます。実は、この高市皇子天皇に即位していて、「朱鳥」は高市天皇の年号なのです。高市皇子の息子に「長屋王」がいます。天皇の兄弟や皇子は「親王」と呼ばれ、それ以外は「王」と呼ばれる決まりになっています。『続日本紀』では、「長屋王」と記されていますから、「長屋王」は天皇の子供ではない、つまり武市皇子は天皇ではないということになります。

 

 ところが、1986年平城宮の東南の一等地にあった長屋王邸跡の発掘調査が行われ、「長屋親王」と書かれた木簡が出土され、大きな波紋を呼び起こしました。「長屋王」が単なる「王」ではなく、「親王」である物的な証拠が出てきたわけです。高市皇子は「高市天皇」だった。

ところが、歴史学者は、未だにこのことを認めてはいません。「親王」も「王」も古代においては同じだと言う者もいて、データに基づき理論を作るのではなく、仮説にデータを合わせているのです。この辺までを是非お話したい、と考えているのです。

※1 このことについては、『新「日本の古代史」(下)』(p.319~)の67号(2)「九州の王権」と年号(その六)「天武王権」と「日本の歴史」(二)-高市天皇と長屋親王に詳しく書かれています。

※2 日本の年号は645年に「大化」から始まるとされているが、大宝(701年~)以前は、連続していず、不明な点が多い。この辺の事情については佃HPの九州年号等のブログに詳しく書かれています。 

  

<講演>

第1章 「倭人(天氏)」の先祖

第2章 渡来後の「倭人(天氏)」

 

 資料にしたがって、前回までの復習を兼ね、考古学的な事実を踏まえて話された。この後、10分間の休憩に入る。

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第3章 前漢時代の辰

 

 第2回講演会で扱った『契丹古伝』を読み解き、大凌河の東の医巫閭山付近に渡来しているとされる古代の大国「辰」について考察する。「辰」は悠遠な上代から存在していて、その中で最も顕著なる者が「安冕辰(ウン)氏(倭人(天氏))」であるという。「倭人(天氏)」は「辰」から生れている。

 

 倭人は「辰」から分かれて南下し、紀元前1200年頃には中国の呉地方(長江下流域)にいる。紀元前5世紀「呉越の戦い」のため、東表(黄河下流域)に行き、その後、大凌河の上流に移っていく。

 

 一方、もとの「辰」は紀元前200年頃には遼河の近くにあることが確認できる。紀元前195年「衛氏朝鮮」を樹立した衛満が、遼河付近にいた「殷(箕氏朝鮮)」を攻める。「殷(箕氏朝鮮)」は「辰」を頼りに逃げるが、滅亡する。紀元前190年~180年頃には「辰」も「衛氏朝鮮」に滅ぼされることが分かる。

 

 詳しくは次の章で述べるが、松本克己氏の論文「私の日本語系統論」で示されたY染色体遺伝子の研究から、日本人、朝鮮人満州人に共通して30%程度の割合を占めるO2bハプロタイプが環日本海地域の北方モンゴロイド共通の遺伝子であり、この系列は1万5000年前頃沿海州地域で誕生したのではないかとする。さらに、言語学者服部四郎氏の研究から、「日本語」が「満州語」から分かれるのが約9000年前、「朝鮮語」から分かれるのが6700年前頃とし、言語の分離と国や集団の分離を対応させることにより、次のような結論を得る。

 

 沿海州地域で誕生したO2b系列の北方モンゴロイドの集団が、満州、朝鮮と分かれて6700年頃「辰」が誕生した。その中の一部(倭人)は渤海沿岸をまわって呉地方に行く。それ以外の「辰」の人々は遼河の近くに住み続け、前漢時代までは医巫閭山付近におり、紀元前190年~180年頃「「衛氏朝鮮」に滅ぼされる。       

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 第4章 「日本語」の起源

 

 『日本語の起源と古代日本語』(京都大学文学研究科編 臨川書店)に収められた論文「私の日本語系統論-言語類型地理論から遺伝子系統地理論へ」(松本克己)で示された研究を基に考察を進めていく。

 

 松本氏は次のように述べる。「日本語系統または起源という問題は、今から百年以上も前から内外の大勢の研究者が取り組んできて、未だに決着のつかない問題とされてきました。…ユーラシア大陸には、数にして2,000ないし2,500以上の言語が話されていると見られていますが、…同系関係によって10余りの語族の中に纏められています。…日本語の場合、そのような基礎語彙のレベルで同系関係が確かめられるというような言語は、これまで見つかっていません。この意味で、従来の歴史・比較言語学の立場からは、日本語は外部に確実な同系関係を持たない、つまり系統的に孤立した言語として位置づけられてきたわけです。」

 

 そのため、松本氏は「伝統的な歴史・比較言語学の手法と違った何か別のアプローチを試みなければなりません。」と述べ、「…言語の内奥に潜む特徴、通常は「類型的特徴」と呼ばれるもの…(8つの)言語特質を選び出し、それらの地理的な分布を通して、…言語群の位置づけを見極めようとする…。」8つの類型的特徴とは、①流音のタイプ(r,lを別々に発音するかどうか、または発音しないか)②形容詞のタイプ(形容詞を体言型に使うか、用言型に使うか)」など…⑧まである。

 

 類型的特徴による地理的分布を見てみる。全体が「ユーラシア内陸言語圏」と「太平洋沿岸言語圏」の二つに大きく分類でき、「太平洋沿岸言語圏」はさらに「南方群」と「北方群」に分かれ、「北方群」はギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語からなり、これを「環日本海諸語」と名づけている。

 

 次に遺伝子系統地理論に移るため、男性遺伝子Y染色体を考察する。現生人類のY染色体は8万年前のアフリカにいた単一の祖先に遡とされ、A~Tまでのハプロタイプに分類されている。各ハプロタイプの地域分布の特徴を調べるのが遺伝子系統地理論だが、言語の類型地理論による地域分布と照らし合わせることにより、言語間の類縁関係や発生の過程を考察することができる。

 

 それによると、類型地理論による「太平洋沿岸言語圏」はごく概略的には遺伝子O系列のハプロタイプの分布域に対応し、「ユーラシア内陸言語圏は遺伝子R系統のハプロタイプの分布域に対応している。「太平洋沿岸言語圏」に対応する分布を持つ遺伝子はO2系列であるが、O2aは南方域に、O2bは北方域に、重なり合わずにはっきりと別れて分布している。これは南北の言語圏の分岐した年代が非常に古いことを示している。また、北方域は「環日本海諸語」の地域にほぼ正確に一致している。ギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語の「環日本海諸語」の地域がY染色体O2b系列の分布地域(日本・朝鮮・満州)に一致している。

 

 第3章で簡単に触れたが、服部四郎氏の研究から、「日本語」が「満州語」から分かれるのが約9000年前、「朝鮮語」から分かれるのが6700年~4700年前と推定され、この言語の分離と国、集団の分離を同じ頃と考えることができる。このことから、日本語を話す集団の先祖は、約9000年前に満州と別れ、6700年~4700年前に朝鮮と分かれ、大凌河付近に「辰」として誕生する。その後、その中の一部(倭人)が渤海沿岸をまわって呉地方まで南下する。

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 次に、『三国志』韓伝の記述に注目する。韓伝では、朝鮮半島馬韓辰韓弁韓の3つの種族に分けて、辰韓弁韓は「古の辰国」であると述べている。弁辰伝では、弁韓を弁辰(国)として紹介している。『三国史記新羅本紀では、新羅の第一代王は、辰の言葉を採用して、姓を決めたと記されている。他の資料も揚げ、「辰」の国の人々が、朝鮮半島に来ていることを示す。

 

 『三国志辰韓伝では、自分のことを「阿」と言うと書かれている。(古代日本語でも自分のことを「阿」と言っている。)また、馬韓辰韓と言葉が異なるとされるが、辰韓では、国を邦とし、弓を弧とし、賊を寇とすると書かれている。「国=邦」、「弓=弧」、「賊=寇」は現在の日本語でも使われている。これらのことからも、「辰」の言葉が、日本語の基になっていったと考えられる。

 

 現在の日本語は、日本列島が縄文時代から弥生時代に移行してから、指導的な役割を演じた部族や集団の言語が、西日本を中心に拡散して形成されていったと考えられている。

 

 ハプロタイプO2bをもつ集団が沿海州地域にいて、約9000年前に満州と分かれ、6700年~4700年前に朝鮮と分かれ、大凌河付近に「辰」が誕生する。その中の一部(倭人)が渤海沿岸をまわって呉地方まで南下する。「安冕辰(ウン)氏(倭人(天氏))」である。日本を指導的に形作った「倭人(天氏)」の言葉は「辰」の言葉であった。

 弁辰、辰韓も「辰」の言葉であったが、弁辰、辰韓三国時代新羅百済高句麗)に滅びて、朝鮮半島から「辰」の言葉は消滅する。「辰」の言葉で残っているのは、「日本語」だけである。したがって、「日本語」は「孤立した言語」となったと佃先生は説明する。

 

 『三国志』や『契丹古伝』を読んで「辰」について研究することができた。『契丹古伝』を偽書として退けていたのでは、「日本語の起源」は解明できない、と佃先生は強調された。         

<講演後>

 先生の本をよく読まれている参加者の方から、一点質問が出された。これについては、今日の講義は多くを復習し、分量が多かったので端折って説明した部分が多い。質問された事項は次回詳しく説明する、という先生の返答があり、ほぼ時間通り終了した。

 

※3 「友の会」の斉藤さんから、毎日新聞記事(2021年11月13付)を紹介していただいた。「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」」という見出しで、日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だった、とドイツなどの国際研究チームが発表し、英科学誌ネイチャーに掲載されたという記事である。

 研究チームはマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、アメリカなどの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成され、98言語の農業に関連した語彙や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーロシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 この結果、この共通の祖先は約9000年前中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民で、その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉語族」として、水田耕作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論付けている。

 約9000年前中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民は、今回の講義での「辰」に時期的にも、地域的にもかなり重なっているように感じられます。皆様はどう思われるでしょうか。 

 

 なお、次回の開催日時は今の段階では決まっていません。決まり次第、このページでお知らせいたします。                                 (以上、HP作成委員会記)

  日本古代史の復元 -佃收著作集-