第6回古代史講演会レポート

テーマ:倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い」から阿智王の渡来まで

2022(令和4)年7月24日(日)午後1時~4時

     (博物館は深い緑に囲まれている)

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の内容について話された。(1)志賀島で発見された金印で有名な倭奴国は、狗奴国になり、後に熊襲と呼ばれるようになった、(2)『日本書紀』に記載されている「貴国」は日本に実際にあった国である、(3)神武東征は神話ではなく実際に歴史上に起こった、(4)崇神天皇は中国東北地方から渡来してきた扶余の王子である。

 私たちが通常の社会科の授業などで習ったことと大いに違っていることに驚かれるかもしれない。しかし、じっくりと話を聞き、学んでいってほしいと続けられた。

 

 なお、次回第7回講演会は9月25日(日)午後1時から開催され、最後のところで佃先生が自らお話になられたように「特別講義 倭の五王がテーマである。途中、斉藤さんから光武帝倭奴国に贈った金印のレプリカの印影が配られた。

            

<邪馬壹(台)国と他の国々との戦い>

 前回の復習を少しした後、『三国志倭人伝の記述について説明する。「…相攻伐暦年、乃共立女子為王。名曰卑弥呼。」卑弥呼は「共立」されて王となる。「共立」の意味について、『三国志』で使われている他の事例を確かめ、「王や王になるべき人物が居るのに他の人を王に立てる場合に使われている」とする。「相攻伐暦年」と記されているように、すでに北部九州に成立していた伊都国と、朝鮮半島から逃げてきた倭国の人々は戦っている。伊都国王に対抗して、渡来人の卑弥呼は王になる。そのため「共立」と記されている。

 

 卑弥呼は『三国志倭人伝の中で、「王」、「女王」、「倭王」、「倭女王」と別々の表記がされている(全部で20回)。佃氏は、景初2年6月に魏に朝貢する以前はすべて「王」または「女王」と記され、それ以後はすべて「倭王」または「倭女王」と記されていることをしっかり見なければならない、と指摘する。「倭国」は景初2年(238年)以前には、朝鮮半島にあった。卑弥呼が238年に朝貢して、初めて日本列島に「倭国」が成立した。このことを陳寿は書き分けている。

 

 次に、原文の『三国志倭人伝に記されている景初2年6月の魏への朝貢を、景初3年6月と書き換えてしまう歴史学者が多いことを指摘する。朝鮮半島南部を支配している公孫淵親子が滅ぼされるのは景初2年8月だから、景初2年6月にはまだ、大夫難升米等は帯方郡に行くことはできない、という論旨からである。しかし、魏の明帝は景初2年6月には、帯方郡を平定していることが、『三国志』韓伝の記述から明らかになり、このことは成り立たない。原文を勝手な推測で変更してはならないことを強調する。

 

 『日本書紀』に「卑弥呼」という名は、は全くでてこない。ところが、神功皇后紀摂政39年に「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等、至郡…」という小書二行の割注が突如載る。『日本書紀』も「景初三年六月」としている。しかし、明帝は景初三年正月に崩御しており、「明帝景初三年六月」と記すこの記事もあり得ない。(もともと、卑弥呼神功皇后は全く違う時代の人物であるが…)

 

 次に「狗奴国」について考察する。

光武帝に金印を賜った「倭奴国」は「不彌国」に追われて筑紫野市隈に移住する。さらに、「奴国」と「不彌国」の間を通り「福岡市南区筑紫野市小郡市」に住み着き、朝鮮半島南部から逃げてきた「倭国」に追い出されて、さらに「朝倉市」に逃げる。「倭国」と「倭奴国」の戦いが始まる。

 

 正始8年(247年)卑弥呼帯方郡に使いを遣わし、魏に「狗奴国」との戦いの様子を説明する。「狗奴国の男王卑弥弓呼と素より不和」とある。「卑弥弓呼」とは、「卑弥氏の弓呼」ということから分かるように、同族の「卑弥氏」であり、戦う相手を同族としたくないために、卑弥呼は「倭奴国」を「狗奴国」として、魏へ報告したと考えられる。

 

 魏は「張政」を倭国に派遣する。「張政」は247年に来て、266年に帰国する。約20年間倭国に居て、「狗奴国」との戦いを支援している。「狗奴国」との戦いを報告した直後頃に、卑弥呼は戦死する。

 

 一方、「倭国」と伊都国王権の戦いは、卑弥呼朝鮮半島から逃げてきたとき、「倭国」が勝利し、卑弥呼は伊都国王権を監視する。伊都国王権の中心国である「伊都国」には「一大率」を常駐させて伊都国王権の国々を検察している。「一大率」は(中国の)「刺史」のようだと記している。

 

 卑弥呼が死去した後、「更に男王を立てるが国中不服。更に相誅殺す。時に当たり千余人を殺す。復た卑弥呼宗女壹與年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。」とある。国と国との戦いであり、「倭国」と「伊都国」が戦っている。十三歳の壹與が立って、王と為り、国中遂に定まる。「倭国」が勝利し、「伊都国」は再び破れ、国を挙げて東に逃げる。これが、「神武東征」となる。

         

          (ここで、10分ほどの休憩に入った)

<邪馬壹国の滅亡>

 神武東征の前に、邪馬壹国の滅亡について述べる予定であったので、休憩後は、邪馬壹国の滅亡から始まる。

266年、壹與は、大夫率善中郎将掖邪狗等20人を遣わし、多くの貢物を携えさせ、張政を送る。この記事で、『三国志倭人伝は終わる。その後、「倭国」も「壹與」も中国の史書に出てこない。

 

 『契丹古伝』に、「…辰之墟を訪ねるに、…逸豫(いつよ)・臺米與民率為末合」と記している記事がある。「空山にほととぎすが叫び、風や川は冷たい。…彼の丘は是れ誰が行くかを知らず、弔人なし。…」女王壹與(逸豫)(いつよ)は国を捨てて逃げ出している。「倭国」の地は廃墟になっていて、訪れる人もいない。

 

 4世紀になると、北部九州には「熊襲」と記される人々がいる。「狗奴国」が「倭国」との戦いに勝利し、「倭国」を追い出して北部九州を支配するようになる。このことからも「狗奴(くな)」が「熊(隈)(くま)」になり、「熊襲」になったと考えられる。同志社大学の故森浩一先生も、熊襲は狗奴国ではないか、と述べているようである。

 

※ 佃説では、邪馬壹国(「倭国」)は、「狗奴国」に敗北し、この段階で滅んだとする。一方、邪馬壹国は東に移動して、ヤマト朝廷になったとする説の歴史学者は多い。『古事記』や『日本書紀』に卑弥呼や邪馬壹国が全く出てこないのは、邪馬壹国とヤマト朝廷が全く別系統の王権であることを示している。この点でも、邪馬壹国東遷説は妥当性を欠くと思われる。同じ系統の王権であれば、大切な自分たちの祖先のことを詳しく記述するのだろう。

 

 邪馬壹国の「壹」は漢音では「イト」と読むが、呉音では「イツ」と読む。有名な『邪馬台国はなかった』を書いた古田武彦先生は、邪馬壹国を「ヤマイチコク」と読んでいるが、佃説では「ヤマイツコク」と読む。その点で、卑弥呼の次の女王壹與(イツヨ)であり、これが『契丹古伝』では逸豫(イツヨ)となっている。

 

国名の「邪馬壹国」は世界中の歴史書で、『三国志倭人伝に一回出てくるだけである。女王国は、景初2年6月に魏に朝貢した後に「倭国」として正式に認められたが、それ以前は固有名がなかった。陳寿は、すでに有力な「伊都(イツ)国」が海岸近くにあり、それに対して女王国は山の方にあるので、「山の方にあるイツ国」という意味で、女王国を取りあえず「邪馬壹(やまいつ)国」の名前で表わしたのではないだろうか、と佃先生は私見を述べられた。

        

<神武東征>

 ここから、神武東征に戻る。「倭国」と「伊都国」が戦い、勝利した「倭国」が、266年魏に朝貢している。敗れた「伊都国」は国を挙げて東に移り、平安に暮せる土地を求める。神武天皇を含む4人の兄弟は一緒に「伊都国」を出発する。長子は五瀬命神武天皇は末っ子の4男である。「五」(イツ)、伊都(イツ)国、であるから、五瀬命は「伊都国の瀬(イツの瀬)」の意味である。

 

 神武天皇の一行は、安岐国(広島県)や吉備(岡山県)に長期間滞在し、瀬戸内海を通って、大阪に到る。「浪速(難波)」の「草香=日下(くさか)」で登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦う。『日本書紀』では、「川を遡りて、ただちに河内国草加邑の青雲の白肩津に至る」とあり、『古事記』では「ここに御船を入れていた楯を取りて下りて立てる。故、其の地を楯津という。今は日下(くさか)の蓼津(たでつ)というなり」とある。東大阪市に日下(くさか)町がある。日下は生駒山の西麓にあり、陸地であって、船で行けるような所ではない。

 

 本居宣長も『古事記伝』のなかで、「遡流而上(カワヨリサカノボリテ)と云ることいと心得ず。草加はたとひ河内の草加にしてもより遡流て至る処にあらず。甚だ地理にたがえり。」と『記紀』の記述に疑問を呈している。

ところが、1972年に発表された梶山氏と市原氏の研究論文で、後氷河期の9つの時代に区分された大阪平野の古地図を見ると、この時代に確かに河内湖が日下まで広がっている。『記紀』の記述は神武東征の史実を正確に伝えていることが分かる。

 

 神武東征のルートについて、『記紀』は日下から「熊野」に来たと記している。一般に「熊野」は「和歌山県新宮市」に比定されている。しかし、佃氏は、新宮市から吉野川に行けるような道はないとして、「熊野」は海南市であり、「熊野(海南市)」から「貴志川」を下って「紀ノ川」へ出ているとする。

 

 紀伊国伊都郡があること、見田・大沢4号墳に三種の神器が出土し、絹は弥生時代には北部九州しかないのに、この鏡が絹で包まれていることなどを説明した。(詳しく知りたい場合は、『新「日本の古代史」(上)』所収46号論文「伊都国と「神武東征」」参照)

 

 佃氏は、『記紀』の記述から、神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳であるとする。この古墳からは、80面以上の鏡が出土している。

一方、既存の日本史では、神武天皇の墓は、幕末に橿原神宮に隣接する地とされ、明治になって、ようやく神武天皇を祀る橿原神宮が創建されている。

 

 『記紀』の神武東征は、五瀬命神武天皇の兄弟ばかりが登場するが、『宮下文書』では、父「第51代神皇」のことが書かれている。『宮下文書』によると、神武東征のとき、父「第51代神皇」は「伊都国・斯馬国」の人々を連れて安住の地を求めて三重県に来ている。そこに、故郷と同じ「伊勢・志摩」という地名をつけた。父「第51代神皇」は長男の五瀬命が戦死したことを聞き、「伊勢崎の多気の宮に着御ましましき」とある。三重県多気郡に着いた。その後、父親王は戦死して五十鈴川に埋葬される。博多湾岸の「伊都国」に五十鈴川がある。「伊都国」の人々が三重県に来て同じ名前を付けている。伊勢神宮の由来が、神武東征についての『宮下文書』から理解できる。神武東征は史実である。

        (ロビーから見える森の中の彫刻)

 

崇神天皇

 少しの休憩の後、崇神天皇について語られる。まず、『晋書』に書かれた鮮卑の慕容廆についての記述を見る。慕容廆は父の死(284年)のうらみをはらすために武帝に宇文鮮卑を討つ事を願い出る。しかし、武帝は許さない。それを怒り、慕容廆は遼西に入り殺戮をする。また、東に扶餘を伐ち、扶餘王依慮は自殺して、依慮の子を立てて王とする。

『桓檀古記』大震国本紀には、次のように書かれている。正州の依羅国は都を鮮卑慕容廆のためにやぶられる。依羅国の王子「扶羅」は衆数千を率いて逃げ、白狼山を越え、海を渡り、倭人を定めて王になる。依羅王は鮮卑にやぶられて海に入り、還らず。

崇神天皇は『古事記』に崩年干支が書かれた最初の天皇である。この時代に干支を使っているのは中国だけであるから、崇神天皇は、中国からの渡来人と見ることができる。「戌寅年十二月崩」とある。「戌寅年」は318年である。崇神天皇は扶餘の王子「扶羅」であり、284年のすぐ後に渡来し、318年に死去している。

 

 崇神天皇(扶餘の王子扶羅)は瀬戸内海に入り、大阪に来て、淀川を遡る。武埴安彦軍と木津川を挟んで対峙し、戦闘に入る。「その地は屍骨が多く溢(はふ)れり。故、その地の処を号して羽振苑(はふりその)という」と、『日本書紀』に書かれている「羽振苑(はふりその)」は京都府相楽郡精華町祝園(ほうその)である。

 

古事記』に「御陵は山辺の道の勾(まが)りの岡の上に在るなり」と書かれていることから、天理市柳本町字アンドにある「行灯山(あんどんやま)古墳」が崇神天皇陵であると言われてきた。現在の「山辺の道」の位置からこのように比定されたのだろうが、この「山辺の道」は真っ直ぐであり、『記紀』の記述と合っていない。「椿井大塚山古墳」は、木津川が直角に曲る岡の上にあり、『記紀』の記述に合致している。またこの古墳からは、30数面の鏡、小札革綴冑(日本で最初に現れた鉄製冑)、中国製と推定される長大刀などが出土している。崇神天皇は渡来して京都府木津川山城に住み着き、その墓は「椿井大塚山古墳」である。

次に駆け足で、「貴国」に移る。

 

神功皇后、「貴国」>

 仲哀天皇は、熊襲と戦い戦死する。崩年干支は壬戌年(362年)6月であり、崩年干支があることから中国からの渡来人であることが分かる。仲哀天皇の後を継いだのが、神功皇后であり、『日本書紀』では「気長足姫尊」、『古事記』では「息長帯日売命」と記されている。「足=帯(たらし)」は「多羅の」を意味し、仲愛天皇神功皇后も中国からの渡来人の「多羅氏」である。

 神功皇后は、「橿日宮(香椎宮)」を出発して、「御笠」「安(夜須)」を通り、「筑後の山門」へ行き、引き返して「(肥前の)松浦縣に到る」。これが、熊襲征伐ルートである。熊襲征伐により、364年に「貴国」が樹立される。「貴国」の範囲は筑前肥前であり、「貴国」の天皇肥前にいる。

 『日本書紀』応神3年(392年)の記事に「百済の辰斯王立ちて貴国の天皇に礼を失す。故、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わし、其の礼なき状をせめる。是により百済国は辰斯王を殺して謝す。紀角宿禰等は阿花王を立て王と為し帰る。」とある。392年には、「貴国」は百済より強い国になっている。

 高句麗の「好太王碑」に「辛卯年(391年)倭が海を渡り、百済新羅を臣民にした」と書かれている。「好太王碑」に書かれている「倭」はすべて「貴国」のことであることが分かる。

 

 この間「貴国」内では、神功皇后が372年ころ九州から大和(佐紀)へ逃亡する。新たに「筑前王」となった「武内宿禰」によって、追い出される。神功皇后の墓は佐紀盾列古墳群の五社神古墳と言われている。また、「武内宿禰」も398年に「貴国の天皇」に追い出されて、和歌山を経由して奈良県御所市へ逃げる。室宮山古墳が「武内宿禰」の墓である。

 

 高句麗好太王と戦っていた「貴国」は「好太王碑」に書かれているように、407年朝鮮半島で壊滅的な敗北を喫する。410年ごろ「貴国」は滅びる。「貴国」の最後の天皇である「仁徳天皇」は肥前から難波に逃げて「難波の堀江」を造り、「河内湖」の水を大阪湾に流して広大な土地を得る。「仁徳天皇」は繁栄をして堺市の「大仙古墳(仁徳天皇陵)」に埋葬される。

 

 この間、390年ごろ中国大凌河上流の「倭城」から「讃・珍」が筑後に渡来して、「倭国」を樹立し、「貴国」の支配権を奪っていく。「倭の五王」の「倭国」が成立していく。

        

<次回(9/25)について>

 「阿智王」が呼び寄せた人々は「貴国」があった肥前に住み着き、肥前に30の村ができる。この後「阿智王」の渡来について話す予定であったが、時間がなくなってしまった。「阿智王」の渡来については、次回以降の適当なときに話すこととしたい。

 

 さらに、次回(9/25)のことを考えると、「倭の五王」についての特別講演とすることに今決めたい。倭の五王 讃・珍・済・興・武は、例えば、武=雄略天皇のように崩年が全く異なる日本の天皇に比定されている。今まで、「倭の五王」をキチンと説明した人がいない。次回は、十分な資料を用意して、詳細に「倭の五王」を解き明かす「特別講義 倭の五王」としたい。是非期待してください、と佃先生は力強く話され、3時間の講演を終えられた。(以上、HP作成委員会記)

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-