第8回古代史講演会レポート

テーマ:磐井の乱」とその後

日時:2022年(令和4年)11月27日(日)午後1時~4時 

<最初に>

 友の会の斉藤さんから今回の講演の概要の紹介があり、その後、次回以降の講演会の会場についての説明があった。「さいたま歴史と民俗の博物館」は、これから2023年9月まで休館となるため、次回以降は別の会場で実施することになる。次回の第9回講演会は、3月5日(日)午後1時から「さいたま市宇宙劇場」(大宮駅近く)で実施することが決まっている。その会場では、使用時間の関係などから参加者が会場設営に手を貸して皆で準備することが必要になり、書籍の販売はできなくなる。また、会費が若干値上がりすることなどが話された。(今回も内容が豊富なため、レポートが長くなってしまいました。区切って、あるいは印刷してから読むと読み易くなるかもしれません。)

      (博物館横の池のある公園)

 

 前回は、資料『特別講演「倭の五王」と日本、半島の征服』の第6章 倭王興まで終了した。

 「日本の歴史学」は、「倭の五王」は日本の天皇であると考えている。しかし、年代が全く合っていない。日本の歴史学者はこのことの考察を放棄してしまっているのではないか、と佃氏は訴える。前回講演会では第6章で、倭王興はさきたま古墳から、百済を再興した偉大な王であったことを話した。このことを確認して、第7章 倭王武に入る。

 

【第7章 倭王武

倭の五王による全国支配の検証>

 「筑紫舞」という西山村光寿氏が伝えている舞がある。『よみがえる九州王朝』(角川選書)の中で古田武彦氏が詳しく紹介している。舞は、「翁」によってなされ、三人立、五人立、七人立、十三人立があるという。三人立では、肥後の翁、加賀の翁、都の翁があり、五人立では肥後の翁、加賀の翁、都の翁、難波津より上がりし翁、出雲の翁があり、七人立では肥後の翁、加賀の翁、都の翁、難波津より上がりし翁、尾張の翁、出雲の翁、夷の翁がある。(十三人立については、西山村氏は習わなかった)

 

 「筑紫舞」は「各地の翁(王)」が参上して、「都の翁」に各地の舞を披露するものである。始終「肥後の翁」が中心になって舞が進行する。

 

 この舞は、倭王武の全国支配を如実に表現している、と佃氏は指摘する。舞を取り仕切る「肥後の翁」は「无利弖(ムリテ)」であり、都の翁は「獲加多鹵(ワカタケル)大王=倭王武」である。筑紫の舞は「无利弖」によって呼び出された「全国の倭王権」の「王」が集まり、「獲加多鹵大王」を讃える様子を表現している。

 

 それぞれの翁(王)の墓を考察してみると、舞の進行を司る「肥後の翁」は「无利弖」と考えられ、江田船山古墳の「追葬1」として埋葬されている。

「加賀の翁」は「都の翁」より先に、二番目として登場する。「大彦」は崇神天皇とともに渡来し、越(加賀)に四道将軍として派遣された。その後に「倭の五王」は「倭城」から渡来していて、「大彦」の子孫である。このことから「加賀の翁」は同じ「大彦」の子孫であり、「獲加多鹵大王」も一目置いている。福井県永平寺町にある「二本松山古墳」は6世紀初頭の古墳であり、銀メッキ製の王冠が出土している。これが「加賀の翁」の墓であろう。

 

 「難波津より上がりし翁」は「継体天皇の父」と考えられ、前回の講演で見たように「今城塚古墳」は「継体天皇の父」の墓である。また、「継体天皇」はここに追葬されている。

 「尾張の翁」の墓は「断夫山古墳」と考えられる。名古屋台地は5世紀後半から突如として周濠のある古墳が造られる。「倭王権」によって派遣された武将が尾張地方を征服したためである。この時代の古墳に、他と比べて圧倒的に大きい「断夫山古墳」がある。

 「出雲の翁」は出雲地方の王であり、現段階では特定できないが、出雲地方にも北部九州系の古墳が造られている。

 「夷の翁」は埼玉古墳群を支配した王であり、「二子山古墳」がその墓と考えられる。(これについては後に詳しく述べる)

 

 「都の翁」は「獲加多鹵大王=倭王武」である。各地の「翁(王)」の墓が全国に展開されていることから、筑後を拠点とする「倭王権」が全国を支配していることを確認できる。そのことを、この舞は示している。

 

倭王武と年号>

 倭王武は中国王朝に3回朝貢している。第1回目は478年に即位したとき「宋」に対してである。自ら「使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して「上表文」を述べた朝貢であった。

 

 ところが、「宋」は翌年の479年4月、「斉」に禅位する。そのため、479年今度は「斉」に朝貢する。「斉」も、「宋」と同じように、倭王武が自称した「倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事」を認めず、「百済」を抜かした「倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」しか認めなかった。

 

 「斉」は502年3月「梁」に禅位する。そのため、倭王武は502年直ちに「梁」に第3回目の朝貢をする。「梁」も「斉」と同じ様に「征東将軍に進号せしむ」として、百済への支配権を認めていない。その後、倭王武は中国王朝に朝貢しない。(この後、西暦600年に俀国が隋に朝貢するまで約100年間、日本列島から中国への朝貢は途絶える。)倭王武は、中国王朝は目まぐるしく交代し、信頼することができないと考えたのではないだろうか。

 

 一方、「梁」の高祖は521年、百済王餘隆に対して、「使持節都督百済諸軍事寧東大将軍百済王」の官爵を授ける。百済が475年に滅びたとき、兄の倭王興百済を再興している。百済はその後も、倭国の支配を受けている。ところが、「梁」は「倭王」の武に対しては「征東将軍」の官爵を与えているにもかかわらず、百済王に対しては「征東将軍」より上の「寧東大将軍」の官爵を与えている。倭王武の怒りは収まらない。これについては、次の「九州年号」を見ると一層明確になる。

 

 江戸時代の学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が書いた『襲国偽僣考』に「継体天皇16年(522年)、武王、年を建て善記という。是九州年号の始めなり。…善記4年で終わる。」とある。本居宣長や鶴峯戊申らの江戸時代の学者たちは、「卑弥呼」や「倭の五王」は「大和朝廷」とは別の九州に本拠地を持つ「襲人の国」が偽って「倭王」を僭称して、中国や朝鮮半島の国と交流したと考えた。そのため、この本に『襲国偽僣考』という名前が付けられている。522年に武王が年号「善記」を建て、その年号は4年で終わるとある。九州に本拠地をもつ「武王」は倭王武である。倭王武は522年に年号を建てている。この年、どうして日本列島で初めて年号を建てたか。それは、倭王武が中国から独立して「天子」となったということである。前から、中国への朝貢は中止していた。521年、倭国が支配している百済に対して、中国王朝は倭国より上の官爵を与えた。このことから、武は翌年に年号を建てることを決断したのではないか、と佃氏は述べる。

 

 522年に建てられた「善記」以降、連綿と年号は続いている。そのことは、15世紀に撰録された李氏朝鮮の重要な史書『海東諸国紀』にも記載されている。鶴峯戊申は、この「倭国」とは「大和朝廷」とは別の九州の国と考えられるから、「倭国」の年号を「九州年号」と呼んだ。以来、この「善記」以降の年号を「九州年号」と呼ぶようになった。

 「日本の歴史学」は、大和朝廷とは別の王権が中国や朝鮮半島の国々と交流していることを認めていない。そのため、鶴峯戊申の『襲国偽僣考』を検討しようとすらしない。(九州年号については、「日本古代史の復元HP」にまとめたものがあるので参照してください。→日本古代史についての考察)

 

倭王武の墓、倭王興の長子の墓、塚坊主古墳>

 倭王武の年号は善記4年(525年)で終わっている。このことから、倭王武の在位は478年~525年と考えられる。

     岩戸山古墳(「装飾古墳ガイドブック」より)

 

 岩戸山古墳(福岡県八女市)は、外提まで含めた総長は176mに達し、北部九州最大の古墳であり、広い別区が特徴的である。墳丘・別区から武装石人・裸体石人・馬・猪・鶏などが発見されており、「石人・石馬」文化の頂点にある倭王権の王墓である。また、6世紀前半に築造されている。これらのことから、岩戸山古墳が倭王武の墓と考えられる。この古墳はまだ未発掘であり、発掘すれば、墓誌などが発見されるのではないかと佃氏は述べる。

        (別区に並べられた石物)

 

 

 次に、埼玉古墳群の中で最大の古墳である二子山古墳について考えよう。埼玉古墳群では、稲荷山古墳が5世紀末に築造され、6世紀初頭前後に二子山古墳が築造された。前に見たように、稲荷山古墳の最初の被葬者は倭王興であった。

 

 驚くことに、埼玉古墳群の二子山古墳は筑後の岩戸山古墳と同形で同大である。このことから、二子山古墳の被葬者は、倭王武と同格ということになる。倭王興倭王武は兄弟であるが、年の差が25歳以上離れているであろう。すると、倭王興の長子は、倭王武より年上ということになる。倭王武は、寿墓(生前に造る墓)を岩戸山古墳に造っている。倭王武は、年上に当たる倭王興の長子には気を遣っている。そのため、岩戸山古墳と同形・同大の二子山古墳を倭王興の長子のために造ったのではないか。

   (二子山古墳)

 

 

 次に、埼玉県から熊本県に目を転じて、江田船山古墳の南にある塚坊主古墳に移ろう。塚坊主古墳は、この地方で江田船山古墳の次に造られた前方後円墳である。築造は6世紀前半で、「江田王(倭隋)」の子孫の墓と考えられる。

 

 「江田王(倭隋)」の墓は江田船山古墳であったが、近畿地方に遠征した「江田王二代目」の墓は、古市古墳群の中の市野山古墳であった。「无利弖(ムリテ)」は「江田王三代目」であり、倭王斉の要望により、倭王権の本拠地の筑後に行き、幼い「獲加多鹵(ワカタケル)大王=倭王武」の養育をする。「典曹人」という「文官」になって、江田船山古墳に追葬されている。その時期は5世紀末から6世紀初頭であり、「无利弖」の方が、塚坊主古墳の主より早く死去している。「无利弖」には王冠が副葬されているが、塚坊主古墳の方には王冠はない。このことから、塚坊主古墳の主は「无利弖」の弟ではないかとする。

 

 「无利弖」の弟は、王ではないが、兄が「獲加多鹵(ワカタケル)」の養育のために筑後に行っているので、「江田」を守る役割を果たしている。そのため、王ではないが、「江田」に塚坊主古墳が造られている。他方、「无利弖」は祖父と同じ江田船山古墳に追葬されることを望んだ、のではないか。

 

 江田船山古墳には、もう一つの追葬2があり、王冠をもっている。これは、江田王4代目」である、「无利弖」の長子であろう。531年の「磐井の乱」で「倭王権」は滅びる。そのため、新たに墓を造らず追葬されたのではないかと、佃氏は述べている。

 

   [ここまでが第7回資料「倭の五王」と日本、半島の征服 の部分]

          [ここで、15分の休憩に入る]

 

第8回資料「磐井の乱」とその後

【第1章 「磐井の乱」】

<『日本書紀』の「磐井の乱」>

 『日本書紀』継体紀は、暴虐で後継者がいない武列天皇の後に、継体天皇が請われて即位する経緯、天皇の妃や子、百済新羅加羅などの朝鮮半島の国々との関わり合いの経過などが記されている。その中に、「磐井の乱」といわれる戦いがある。

 

 継体21年(527年)6月、新羅に取られた二国を任那に取り戻すため、近江の毛野臣が六万の軍勢を率いて任那に行こうとした。この時、筑紫国造磐井が陰(ひそか)に反逆をはかる。これを知った新羅はわいろを磐井に届けて、毛野臣の軍勢を阻止しようとする。戦いは起こり、毛野臣の軍勢は途中で滞留してしまう。磐井は「火(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)」の二国を勢力下に置き、高麗・百済新羅任那朝貢船を誘い入れている。継体天皇は、物部麁鹿火(あらかひ)に磐井を討つように命じ、討つことができたら「長門より以東は朕これを制し、筑紫より以西は汝これを制せよ」と物部麁鹿火に言う。

 

 翌、継体22年(528年)11月、物部麁鹿火は筑紫の御井郡で交戦し、遂に磐井を斬り、境界を定めた。12月筑紫君葛の子は父の罪により誅殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上して、死罪を免れることを願った。これが、『日本書紀』に書かれた「磐井の乱」である。

古事記』は、24代仁賢天皇以降については、基本的に妃と子と御陵の記録だけ記している。26代継体天皇の記述でも、筑紫君石井(磐井)が、天皇に従わず、これを殺したと簡単に書いているだけである。

 

 さて、改めて「筑紫国造磐井」の勢力範囲を見てみよう。磐井は「火(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)」の二国を支配している。「長門より以東は朕これを制し、筑紫より以西は汝これを制せよ」と継体天皇が言ったということは、「長門山口県)より以東」や「筑紫より以西(筑前筑後)」も支配している。筑紫国造磐井は西日本を支配している、と言える。

 

 今まで見てきたように、この時代、倭の五王が日本列島や朝鮮半島を支配してきた。倭王武の在位は478年~525年であり、527年に西日本を支配しているのは「倭王権」であり、倭王武の次の「倭王」である。

このことから、「磐井の乱」は物部麁鹿火が「倭王権」を伐った事件であることが分かる。筑紫国造磐井は、「筑紫国造」ではなく、倭王武の次の「倭王」である。

 

<「継体天皇」と「磐井の乱」>

 この時代に日本列島を支配しているのは「倭王権」であり、「大和朝廷」は存在していない。『日本書紀』が「継体天皇」と述べる人物の父は、前に調べたように、「倭王興」の命令で熊本県宇土市から近畿地方の征伐に行った「宇土王」の二代目であった。『古事記』に「継体天皇」の崩年干支が記されている。「丁未年(527年)4月9日」に43歳で死去したとある。「磐井の乱」が始まるのは527年6月であるから、「継体天皇」の死後であり、「磐井の乱」と「継体天皇」は全く関係がないと言える。

 

 ところが、『日本書紀』は、「(継体)25年(531年)2月、天皇、病甚だし。丁未(7日)に天皇、磐余玉穂宮に崩ず。」として異なる崩年を書いている。続いて、二行割小字で、「(継体)25年(531年)歳次辛亥に崩ず」というのは、『百済本紀』から取って文を作ったのだと記し、『百済本紀』に「辛亥年(531年)に日本の天皇・太子・皇子がともに薨去した」と書かれているので、それにより辛亥年(531年)を継体天皇の崩じた年「(継体)25年(531年)」とした、と述べている。

 

 この『古事記』と『日本書紀』の「継体天皇」の崩年のくい違いを考察してみよう。『日本書紀』の記述は、『百済本紀』の記事から取ったものである。この時代、日本を支配していたのは「倭王権」であり、百済から見た「日本の天皇」は「倭王」である。倭王武の次の「倭王」であった磐井を、『百済本紀』は「日本の天皇」としているのではないか。すると、「辛亥年(531年)」に「磐井の乱」で討たれた磐井の死去を『百済本紀』は、「日本の天皇薨去した」と述べている。

 

 『古事記』には「継体天皇」が「丁未年(527年)」4月9日に崩じた、と書かれていた。『日本書紀』には、「(継体)25年の春2月に天皇、病おもし。丁未に、天皇崩御する。」と書かれている。『古事記』の「丁未年」が、『日本書紀』では単に「丁未」となり、年を表すものから日を表すもの(「丁未(7日)」)に変ってしまった。これは、『日本書紀』の編集者が、『百済本紀』を見て、(継体)25年(531年)2月の条に丁未(年)に、天皇崩御する。」という記事を挿入したために生じたのではないか、と佃氏は述べる。

 

 「継体天皇」の崩年は「丁未年(527年)」であり、「磐井の乱」で磐井が討たれるのは「辛亥年(531年)」である、と考えられる。「辛亥年(531年)」は、「倭王権」が倒された年である。前回の講演会で、埼玉古墳群の中の稲荷山古墳から出土した有名な金錯銘鉄剣について述べた。この剣に刻まれた銘文は「辛亥年」から始まっていた。どうしてここにも「辛亥年(531年)」が出て来るかは、「倭王権」が倒されたことと深く関係している。

継体天皇」の崩年については、『古事記』が正しく、『日本書紀』が間違っていることは、次の「九州年号」を考えることからも裏付けられる。

         

 

<「磐井の乱」と「九州年号」>

 ここで再び、江戸時代の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)の『襲国偽僣考』や『如是院年代記』に書かれた「九州年号」を考察する。522年に、「倭王武」は日本で初めて年号「善記」を建てた。

 

 以降、善記(522~525年)-正和(526~530年)-定和(531~537年)-常色(538~545年)と続き、それと重なる別の系列の年号である殷到(531~535年)-僧聴(536~539年)が続いている。『如是院年代記』の記述から、「殷到」年号は初めて建てられた年号であることが分かる。(『新「日本の古代史」(中)』62号参照)531年は「磐井の乱」で物部麁鹿火が「筑紫以西」を支配するようになった年である。このことから、「殷到」年号は、物部麁鹿火が初めて建てた年号と考えられる。

 

 また、『日本書紀』によれば、物部麁鹿火は「太歳丙辰年(536年)7月」に死去しているので、「殷到」年号は536年7月に終わり、536年8月から次の「僧聴」年号が始まるのだろうとする。

 

 531年の「磐井の乱」で物部麁鹿火は「倭王権」を討ち、「天子」となって年号「殷到」を建てる。「殷到」の次の「僧聴」は、物部麁鹿火王権二代目の年号である。

 

 一方、「倭王権」の年号は、善記から始まり531年以降も続いている。物部麁鹿火は「倭王権」を討ったが、「倭王権」を消滅させることはできなかった。「倭王権」は敗れたが、年号を継続している。「松野連系図」から倭王武の後の「倭王」が分かる。その王の名と年号を記せば、武→「善記」(522~525年)、哲→「正和」(526~530年)、満→「定和」(531~537年)である。(「哲」が「磐井の乱」で伐たれた「6番目」の「倭王」に当たる。)

 

<「倭王権」と称号>

 前回の講演で述べたように、「倭王興」は「連(むらじ)」の称号を制定する。「連」は「倭王権」の称号である。物部氏は「貴国」の支配下にあるときは「宿禰」の称号を「貴国」からもらっていた。「倭王権」が412年頃「貴国」を追い出し「倭国」を樹立すると、物部氏は「倭国」の支配下に入り、「連」の称号が与えられる。

 

 物部氏の歴史を詳しく述べる『先代旧事本紀』を見ると、十一世孫物部真椋連公以降みな「連」か「大連」の称号が付いている。物部麁鹿火の称号は「連」であり、物部麁鹿火は「倭王権」の支配下にあった。『日本書紀』では、物部麁鹿火は「大連」と書かれている。しかし、物部氏系図などから考えて、「連」が正しいと判断される。

 

 「磐井の乱」は、臣下の物部麁鹿火が「辛亥年(531年)」に主君の「倭王」を伐った事件であり、下克上であった。

 

【第2章 物部麁鹿火王権】

<「物部麁鹿火王権」の領土>

 物部麁鹿火は531年から536年7月まで九州を支配している。『日本書紀』安閑元年に「是年、太歳甲寅にあり」という記事があり、「太歳甲寅」から安閑元年は534年であることが分かる。『日本書紀』安閑元年の記事は534年に起こった事柄を述べている。

 

 安閑元年(534年)3月の記事に、皇后を決めた後に、別に「三妃」を立てるという記事があり、「許勢男人大臣の女紗手媛、紗手媛の弟香香有媛、物部木蓮子大連の女宅媛を立てる。」とある。「物部木蓮子大連」は物部氏の「十二世」であり、「許勢(巨勢)男人大臣」も本拠地を「肥前の巨勢(佐賀県巨勢町)」とし、ともに九州の人である。534年に九州を支配していたのは物部麁鹿火であり、「三妃」は「安閑天皇」ではなく、物部麁鹿火の妃である。このことから分かるように、『日本書紀』安閑紀の記事は、「物部麁鹿火王権」についての記事であると理解できる。

 

 安閑元年10月、大伴大連金村が「三妃」に屯倉を賜るよう奏言する。「大伴金村」は物部麁鹿火と共に「磐井の乱」で筑紫君を伐った「九州の人」であり、「博多の住吉」に住んでいる。「大伴金村」の働きにより、物部麁鹿火は小墾田屯倉肥前の養父郡)、桜井屯倉肥前三根郡)、難波屯倉福岡市東区)を獲得する。

 

 安閑元年12月、大伴金村物部麁鹿火の命令で、縣主飯粒に良田を献上するよう申し入れ、縣主飯粒は悦んで「上御野・上桑原・下桑原」の地を献上した。縣主飯粒が献上した土地はすべて肥前の土地である。物部麁鹿火は「肥前南部」の土地も手に入れる。

 

 安閑元年閏12月に、物部尾輿筑前の土地を献上したことが書かれている。物部麁鹿火は534年までに、筑前肥前の土地を手に入れている。

 

物部麁鹿火の本拠地>

 『日本書紀』継体22年(528年)12月、筑紫君葛の子は父の罪により誅殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上して、死罪を免れることを願った、とある。(「松野連系図」では、「葛」は「哲」になっている。どちらかが、「字(あざな)」であろう。)

 

 『百済本紀』では、「辛亥年(531年)に日本の天皇・太子・皇子がともに薨去した」と書かれていた。「磐井の乱」のとき、「葛の子」は幼少で戦に出陣せず、一人だけ生き残ったのではないか、と佃氏は述べる。

 

 さて、筑紫君葛の子から献上された「糟屋屯倉」は福岡県糟屋郡糟屋町にあり、多々良川の南側である。一方、「物部木蓮子大連」は物部氏の「十二世」であったが、「宅媛」と難波屯倉福岡市東区)を献上した。「難波」は多々良川の北側の地域である。

 物部麁鹿火は、多々良川の北側と南側の土地を得ることによって、多々良川の水利権を手に入れている。「物部麁鹿火王権」の本拠地は、多々良川の上流にあると考えられる。

       (資料図2 多々良川と王塚古墳)

 

 多々良川の上流に、「桂川王塚古墳」がある。全長78mの前方後円墳で、横穴式石室は遠賀川流域では最大で、装飾古墳としても有名である。6世紀中頃の築造で、遠賀川水系に突如として出現したとしか言いようがない、とされている。位置的にも時期的にも物部麁鹿火が新しく本拠地を定めたことと一致する。

 「磐井の乱」で、「物部氏」のトップに躍り出た物部麁鹿火の墓にふさわしく、「最高の装飾古墳」として知られ、石室側面には多数の配列された靭、盾、大刀などの武器が描かれている。副葬品も武具・馬具が多く、武力を誇る物部氏の墓と言える。『日本書紀』は、「物部麁鹿火」を「可畏(おそるべき)天皇」と書いており、主君を伐った「恐ろしい物部麁鹿火」の墓と言えるだろう。

 

 物部麁鹿火は福岡県嘉穂郡桂川町に新たに本拠地を造り、「桂川王塚古墳」を墓としている。

  右:王塚古墳玄室

    (「装飾古墳ガイドブック」より)        左:王塚古墳玄室前面壁画

 

【第3章 仏教伝来】

<仏教伝来と「欽明天皇」>

 「仏教伝来」には、「538年」説と「552年」説がある。

 

 「552年」説は、欽明13年(552年)10月に百済聖明王が釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上したという『日本書紀』の記述をそのまま受け入れて、それが「初めて」だとしている。

 

 これに対して、佃氏は『日本書紀』欽明15年(554年)2月の記事と欽明8年(547年)の記事に注目する。欽明15年(554年)2月、新羅に攻められ、百済は救いの兵を請うて、前の番の(奈率)東城子言を交代させて、(徳率)東城子莫古を貢上し、五経博士柳貴を固徳馬丁安に代え、僧曇慧等九人を僧道深等七人に代える。

交代したこの「東城子言」は何時来ているかといえば、欽明8年(547年)の記事から、他の使者との交代で欽明8年(547年)に来ていることが分かる。それでは、交代した「僧曇慧等九人」は何時来ているのだろうか。国の使者と五経博士や僧は、国の代表としてまとまって来ているのであるから、当然「僧曇慧等九人」も「東城子言」や五経博士と一緒に欽明8年(547年)に来ていると考えられる。このことから、「552年」説は成立しない、と佃氏は説く。

 

 「538年」説は『元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳』(以下『元興寺縁起』と略)の次の記事による。「大倭国の仏法、創めて斯帰嶋宮治天下天国案春岐斯廣庭天皇欽明天皇)の御世、蘇我大臣稲目宿禰仕え奉る時、治天下七年歳次戊午十二月より度(わた)り来る。百済聖明王の時、太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書巻一篋を渡し、言う、「まさに仏法はすでに是世間無上の法、其の国亦修行に応えると聞く」。」

 

 「治天下七年歳次戊午」に伝えられたとある。「歳次戊午」は「538年」である。『上宮聖徳法王帝説』にも、仏教伝来の次の記事がある。「志癸島天皇欽明天皇)の御世。戊午年十一月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教並びに僧等を度らせ奉る。」

 

 異なる資料が、ともに「戊午年(538年)」に百済聖明王が仏教を伝えたと記し、「僧」も来ている。538年伝来は間違いない。しかし、欽明天皇の在位中に「戊午年」はない。次に、天皇の在位と「戊午年」の関係を調べてみる。戊午(538年)-宣化3年、己未(539年)-宣化4年、…、庚申(540年)-欽明元年(欽明天皇即位)、辛卯(571年)-欽明32年(欽明天皇崩御)である。同じ干支は60年後にしか来ないから、欽明天皇の時ではないことが分かる。仏教伝来は、「戊午年(538年)」であり、この年は宣化3年に当たる。

 

<仏教伝来と「九州年号」>

 前に「九州年号」の考察から、「物部麁鹿火王権」の二代目の在位は536年~539年であり、年号は「僧聴」であることが分かっている。「戊午年(538年)」は「物部麁鹿火王権」の二代目の時である。

 

 上で見た『元興寺縁起』の記事の中での「治天下七年歳次戊午(538年)」という表現は、「物部麁鹿火王権」が531年に「治天下(天子)」になって、「7年目」であることを意味している。治天下1年目が532年で、治天下7年目が538年である。『元興寺縁起』の記述は確かだ、と確認できる。

 

 「物部麁鹿火王権」の二代目の年号は「僧聴」であった。「僧に聴く」のであるから、二代目は即位する前から仏教に関心を持っていて、時代にぴったりの年号を定めている。即位して二年後の「戊午年(538年)」に、「物部麁鹿火王権」の二代目のとき、百済聖明王から仏教が伝来する。「欽明天皇」のときではなく、「大和」に伝来したのでもない。

 このようなことは、「九州年号」を「偽年号だ」として考察さえもしないのでは、全く分からないのではないか、と佃氏は強調する。

      

 

【第4章 任那復興】

 『日本書紀』は、「任那復興」を最重大事件として扱っている。このことは、「任那復興」について、古代最大の戦争といわれる「壬申の乱」と同じ分量の詳しい記述をしていることからも分かる。欽明23年(562年)正月、新羅任那を打ち滅ぼす。朝鮮半島から完全撤退となり、「任那復興」は消滅する。今まで、そうなった詳しい事由を述べた「歴史学者」はいなかったとして、佃氏は新たな日本古代史(佃説)を展開する。

 

<「物部麁鹿火王権」の半島支配と「任那復興」>

 継体23年(532年)4月、毛野臣は熊川に宿って、新羅百済の二王を召集するが、二王は来ず、使者を送ってきた。毛野臣は「二王はどうして自ら出向いて、天皇の勅命を聞こうとしないのか。自らやって来たとしても、私は勅命を告げはしない。」と怒った。新羅は改めて、軍衆三千人を率いた上臣を派遣し、勅命を聞きたいと願った。ところが、毛野臣は軍兵数千人を見て脅え、熊川から任那の城に入り、新羅の上臣が三ヶ月間待機して勅命を聞こうと請うたが、勅命を宣しなかった。

 その後、新羅の上臣は四村を攻略して、人や者をことごとく取って、本国に帰った。四村を掠め取られたのは、毛野臣の過失である。このように『日本書紀』に書かれている。

 

 『日本書紀』は、継体天皇が「毛野臣」を派遣したとしているが、532年に支配権をもっているのは物部麁鹿火であり、物部麁鹿火が「毛野臣」を派遣している。新羅百済に「物部麁鹿火天皇)」の「勅」を告げるためである。「物部麁鹿火王権」は「倭王権」に引き続いて朝鮮半島を支配しようとした。しかし、「物部麁鹿火王権」は朝鮮半島を支配するだけの実力はなく、上の記事が示すように、支配に失敗する。

 

 『日本書紀』欽明2年(541年)4月、百済聖明王任那の旱岐らに、「日本の天皇の詔する所は、全てを以って任那を復建せよということである。何の策を用いて任那を起し建てることができるだろうか。」と述べて、詔書を読み上げ、卓淳・とくことん・南加羅の3国が新羅に滅ぼされたことを語り、この「3国」を復興させるのが「任那復興」であり、天皇の詔だと述べる。

 

 「日本の天皇物部麁鹿火の二代目)」の詔書百済聖明王が伝えている。「物部麁鹿火王権」は朝鮮半島の支配に失敗し、「任那諸国」を集めて「詔」を述べる力がなかったからである。

 

 更に聖明王は、任那の3国が新羅に敗れたのは、「百済の責任」であると言い、「任那復興」に力を注いでいく。「物部麁鹿火王権」は百済聖明王を頼りにしている。

 

<「任那復興」の妨害者、「任那復興」の終焉>

 その3ヶ月後の欽明2年(541年)7月、百済は、安羅の任那日本府の河内直(かわちのあたい)が計略を新羅に伝えたことを強くののしる。任那日本府の河内直が「任那復興」を妨害している。

 

 欽明4年(543年)12月、百済は「任那復興」を推進するため、「任那の執事」と「日本府の執事」を呼ぶが、正月を過ぎたら往くと答え、正月を過ぎたら、祭が終わったら往くと答え、来ようとしない。

 

 欽明5年(544年)3月、百済はこの状況を「日本の天皇」に説明する。「任那」を喚ぶのに来ないのは、「任那の意」ではなく、「阿賢移那斬(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)」がそうさせている。「任那日本府」の中でも「的臣・吉備臣・河内直」等みな、二人の指示に従っているのみである。二人が安羅にいて多くの奸計を行えば、任那の再建は難しい。この二人を本国に帰して、任那再建を図ってほしい。

 

 「阿賢移那斬・佐魯麻都」はどのような人物だろうか。欽明5年(544年)3月の記事に、「佐魯麻都は是れ韓の腹といえども位は大連に居る。」とある。「佐魯麻都」は韓国の女性が生んだ人であるが、「大連」の称号を与えられている。「大連」は「倭王権」の称号である。「佐魯麻都」は「倭王権」によって「任那日本府」に派遣された「大連」である。

 

 一方、物部麁鹿火は、前に見たように「連」であった。「倭王権」で「佐魯麻都」より位が低いから、物部麁鹿火の指示は通用しない。そのため、「毛野臣」は「任那日本府」に入ることができなかった。

 

 「物部麁鹿火王権」は臣下の物部麁鹿火が主君の「倭王権」を伐って樹立した王権である。「倭王権」により「任那日本府」に派遣された「阿賢移那斬・佐魯麻都」にとって、「物部麁鹿火王権」は主君を伐った許せない王権である。「物部麁鹿火王権」が朝鮮半島を支配することは絶対に阻止したい。これが、「任那復興」を妨害した理由であった。

 

 欽明12年(551年)3月、百済聖明王は自らの衆と二国の軍兵を率いて高麗を伐って漢城の地を得、また進軍して平壌を征討し、かつての領地を取り戻している。

 ところが、翌年(552年)5月、高句麗新羅が通和して、百済任那を攻めることが、「物部麁鹿火王権」の三代目に報告される。

 

 その5ヵ月後の552年10月に、「物部尾輿」は「物部麁鹿火王権」から王権を奪い「阿毎王権(『隋書』の俀国)」を樹立する。「物部麁鹿火王権」は滅びる。(これについては、次回述べる。)

 

 欽明16年(555年)2月、百済聖明王は王子余昌を援助するため新羅に入り、戦死する。その後、欽明23年(562年)正月、新羅任那を滅ぼす。「任那復興」は自然消滅する。

 

 【第5章 朝鮮半島前方後円墳については、次回の第9回講演会で扱います。第5章を見た後、『通史』に戻り、『通史』の第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(p.146~)から始める予定です。

 次回は3月5日(日)午後1時から、「さいたま市宇宙劇場」で開催します。

                          (以上、HP作成委員会記)

     埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

               日本古代史の復元 -佃收著作集-