第7回古代史講演会のご案内

<日時>  2022年(令和4年) 9月25日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      (東武アーバンバークライン(東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 倭の五王」と日本、半島の征服

<内容>  

 410年頃から531年にかけて日本列島を統括した「倭王権(倭の五王)」についてお話しいただきます。

 390年頃に、中国遼河上流の倭城から「讃・珍」が筑後に渡来して、「倭の五王」の「倭国」を樹立する。『宋書』に見る「倭王武」の上表文によれば、478年までには日本列島及び朝鮮半島までを支配する。

 「倭国」は日本列島を統一した最初の王権であるが、辛亥年(531年)の「磐井の乱」で物部麁鹿火に討たれて衰退し、その後消滅する。

 定説では「獲加多支鹵大王=倭王武雄略天皇」とする。しかし、雄略天皇の崩年は479年(日本書紀古事記では489年)であり、「倭王武」は502年に梁に朝貢している。雄略天皇≠「倭王武」である。また、継体天皇が辛亥年(531年)に物部麁鹿火を派遣して「筑紫国造」を伐つと記紀に記述されているが、これは継体天皇の崩年(479年)からあり得ない。「磐井の乱」は臣下の物部麁鹿火が主君「筑紫君(倭王葛)」を伐った下克上である。

 また、「倭王興・武」と金錯銘鉄剣及び埼玉県行田市の稲荷山古墳との関連を説く佃説は大変興味深く、聞き逃せない。

<講師>   佃收先生

<費用>   資料代として500円、本代『早わかり「日本通史」』1,000円(希望者)

<申込方法> 次の方法でお申込ください

                              ① 「友の会ホームページ」より送信フォームで

                              ② ①の方法でできない場合、「普通ハガキ」で

   (「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」 

    参加の他、氏名・住所・電話番号を明記)

  ※ 締切期日:9月15日 申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただき、

   抽選にもれた方のみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先>   斉藤 048-853-6728

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

 

 

 

 

 

第6回古代史講演会レポート

テーマ:倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い」から阿智王の渡来まで

2022(令和4)年7月24日(日)午後1時~4時

     (博物館は深い緑に囲まれている)

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の内容について話された。(1)志賀島で発見された金印で有名な倭奴国は、狗奴国になり、後に熊襲と呼ばれるようになった、(2)『日本書紀』に記載されている「貴国」は日本に実際にあった国である、(3)神武東征は神話ではなく実際に歴史上に起こった、(4)崇神天皇は中国東北地方から渡来してきた扶余の王子である。

 私たちが通常の社会科の授業などで習ったことと大いに違っていることに驚かれるかもしれない。しかし、じっくりと話を聞き、学んでいってほしいと続けられた。

 

 なお、次回第7回講演会は9月25日(日)午後1時から開催され、最後のところで佃先生が自らお話になられたように「特別講義 倭の五王がテーマである。途中、斉藤さんから光武帝倭奴国に贈った金印のレプリカの印影が配られた。

            

<邪馬壹(台)国と他の国々との戦い>

 前回の復習を少しした後、『三国志倭人伝の記述について説明する。「…相攻伐暦年、乃共立女子為王。名曰卑弥呼。」卑弥呼は「共立」されて王となる。「共立」の意味について、『三国志』で使われている他の事例を確かめ、「王や王になるべき人物が居るのに他の人を王に立てる場合に使われている」とする。「相攻伐暦年」と記されているように、すでに北部九州に成立していた伊都国と、朝鮮半島から逃げてきた倭国の人々は戦っている。伊都国王に対抗して、渡来人の卑弥呼は王になる。そのため「共立」と記されている。

 

 卑弥呼は『三国志倭人伝の中で、「王」、「女王」、「倭王」、「倭女王」と別々の表記がされている(全部で20回)。佃氏は、景初2年6月に魏に朝貢する以前はすべて「王」または「女王」と記され、それ以後はすべて「倭王」または「倭女王」と記されていることをしっかり見なければならない、と指摘する。「倭国」は景初2年(238年)以前には、朝鮮半島にあった。卑弥呼が238年に朝貢して、初めて日本列島に「倭国」が成立した。このことを陳寿は書き分けている。

 

 次に、原文の『三国志倭人伝に記されている景初2年6月の魏への朝貢を、景初3年6月と書き換えてしまう歴史学者が多いことを指摘する。朝鮮半島南部を支配している公孫淵親子が滅ぼされるのは景初2年8月だから、景初2年6月にはまだ、大夫難升米等は帯方郡に行くことはできない、という論旨からである。しかし、魏の明帝は景初2年6月には、帯方郡を平定していることが、『三国志』韓伝の記述から明らかになり、このことは成り立たない。原文を勝手な推測で変更してはならないことを強調する。

 

 『日本書紀』に「卑弥呼」という名は、は全くでてこない。ところが、神功皇后紀摂政39年に「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等、至郡…」という小書二行の割注が突如載る。『日本書紀』も「景初三年六月」としている。しかし、明帝は景初三年正月に崩御しており、「明帝景初三年六月」と記すこの記事もあり得ない。(もともと、卑弥呼神功皇后は全く違う時代の人物であるが…)

 

 次に「狗奴国」について考察する。

光武帝に金印を賜った「倭奴国」は「不彌国」に追われて筑紫野市隈に移住する。さらに、「奴国」と「不彌国」の間を通り「福岡市南区筑紫野市小郡市」に住み着き、朝鮮半島南部から逃げてきた「倭国」に追い出されて、さらに「朝倉市」に逃げる。「倭国」と「倭奴国」の戦いが始まる。

 

 正始8年(247年)卑弥呼帯方郡に使いを遣わし、魏に「狗奴国」との戦いの様子を説明する。「狗奴国の男王卑弥弓呼と素より不和」とある。「卑弥弓呼」とは、「卑弥氏の弓呼」ということから分かるように、同族の「卑弥氏」であり、戦う相手を同族としたくないために、卑弥呼は「倭奴国」を「狗奴国」として、魏へ報告したと考えられる。

 

 魏は「張政」を倭国に派遣する。「張政」は247年に来て、266年に帰国する。約20年間倭国に居て、「狗奴国」との戦いを支援している。「狗奴国」との戦いを報告した直後頃に、卑弥呼は戦死する。

 

 一方、「倭国」と伊都国王権の戦いは、卑弥呼朝鮮半島から逃げてきたとき、「倭国」が勝利し、卑弥呼は伊都国王権を監視する。伊都国王権の中心国である「伊都国」には「一大率」を常駐させて伊都国王権の国々を検察している。「一大率」は(中国の)「刺史」のようだと記している。

 

 卑弥呼が死去した後、「更に男王を立てるが国中不服。更に相誅殺す。時に当たり千余人を殺す。復た卑弥呼宗女壹與年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。」とある。国と国との戦いであり、「倭国」と「伊都国」が戦っている。十三歳の壹與が立って、王と為り、国中遂に定まる。「倭国」が勝利し、「伊都国」は再び破れ、国を挙げて東に逃げる。これが、「神武東征」となる。

         

          (ここで、10分ほどの休憩に入った)

<邪馬壹国の滅亡>

 神武東征の前に、邪馬壹国の滅亡について述べる予定であったので、休憩後は、邪馬壹国の滅亡から始まる。

266年、壹與は、大夫率善中郎将掖邪狗等20人を遣わし、多くの貢物を携えさせ、張政を送る。この記事で、『三国志倭人伝は終わる。その後、「倭国」も「壹與」も中国の史書に出てこない。

 

 『契丹古伝』に、「…辰之墟を訪ねるに、…逸豫(いつよ)・臺米與民率為末合」と記している記事がある。「空山にほととぎすが叫び、風や川は冷たい。…彼の丘は是れ誰が行くかを知らず、弔人なし。…」女王壹與(逸豫)(いつよ)は国を捨てて逃げ出している。「倭国」の地は廃墟になっていて、訪れる人もいない。

 

 4世紀になると、北部九州には「熊襲」と記される人々がいる。「狗奴国」が「倭国」との戦いに勝利し、「倭国」を追い出して北部九州を支配するようになる。このことからも「狗奴(くな)」が「熊(隈)(くま)」になり、「熊襲」になったと考えられる。同志社大学の故森浩一先生も、熊襲は狗奴国ではないか、と述べているようである。

 

※ 佃説では、邪馬壹国(「倭国」)は、「狗奴国」に敗北し、この段階で滅んだとする。一方、邪馬壹国は東に移動して、ヤマト朝廷になったとする説の歴史学者は多い。『古事記』や『日本書紀』に卑弥呼や邪馬壹国が全く出てこないのは、邪馬壹国とヤマト朝廷が全く別系統の王権であることを示している。この点でも、邪馬壹国東遷説は妥当性を欠くと思われる。同じ系統の王権であれば、大切な自分たちの祖先のことを詳しく記述するのだろう。

 

 邪馬壹国の「壹」は漢音では「イト」と読むが、呉音では「イツ」と読む。有名な『邪馬台国はなかった』を書いた古田武彦先生は、邪馬壹国を「ヤマイチコク」と読んでいるが、佃説では「ヤマイツコク」と読む。その点で、卑弥呼の次の女王壹與(イツヨ)であり、これが『契丹古伝』では逸豫(イツヨ)となっている。

 

国名の「邪馬壹国」は世界中の歴史書で、『三国志倭人伝に一回出てくるだけである。女王国は、景初2年6月に魏に朝貢した後に「倭国」として正式に認められたが、それ以前は固有名がなかった。陳寿は、すでに有力な「伊都(イツ)国」が海岸近くにあり、それに対して女王国は山の方にあるので、「山の方にあるイツ国」という意味で、女王国を取りあえず「邪馬壹(やまいつ)国」の名前で表わしたのではないだろうか、と佃先生は私見を述べられた。

        

<神武東征>

 ここから、神武東征に戻る。「倭国」と「伊都国」が戦い、勝利した「倭国」が、266年魏に朝貢している。敗れた「伊都国」は国を挙げて東に移り、平安に暮せる土地を求める。神武天皇を含む4人の兄弟は一緒に「伊都国」を出発する。長子は五瀬命神武天皇は末っ子の4男である。「五」(イツ)、伊都(イツ)国、であるから、五瀬命は「伊都国の瀬(イツの瀬)」の意味である。

 

 神武天皇の一行は、安岐国(広島県)や吉備(岡山県)に長期間滞在し、瀬戸内海を通って、大阪に到る。「浪速(難波)」の「草香=日下(くさか)」で登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦う。『日本書紀』では、「川を遡りて、ただちに河内国草加邑の青雲の白肩津に至る」とあり、『古事記』では「ここに御船を入れていた楯を取りて下りて立てる。故、其の地を楯津という。今は日下(くさか)の蓼津(たでつ)というなり」とある。東大阪市に日下(くさか)町がある。日下は生駒山の西麓にあり、陸地であって、船で行けるような所ではない。

 

 本居宣長も『古事記伝』のなかで、「遡流而上(カワヨリサカノボリテ)と云ることいと心得ず。草加はたとひ河内の草加にしてもより遡流て至る処にあらず。甚だ地理にたがえり。」と『記紀』の記述に疑問を呈している。

ところが、1972年に発表された梶山氏と市原氏の研究論文で、後氷河期の9つの時代に区分された大阪平野の古地図を見ると、この時代に確かに河内湖が日下まで広がっている。『記紀』の記述は神武東征の史実を正確に伝えていることが分かる。

 

 神武東征のルートについて、『記紀』は日下から「熊野」に来たと記している。一般に「熊野」は「和歌山県新宮市」に比定されている。しかし、佃氏は、新宮市から吉野川に行けるような道はないとして、「熊野」は海南市であり、「熊野(海南市)」から「貴志川」を下って「紀ノ川」へ出ているとする。

 

 紀伊国伊都郡があること、見田・大沢4号墳に三種の神器が出土し、絹は弥生時代には北部九州しかないのに、この鏡が絹で包まれていることなどを説明した。(詳しく知りたい場合は、『新「日本の古代史」(上)』所収46号論文「伊都国と「神武東征」」参照)

 

 佃氏は、『記紀』の記述から、神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳であるとする。この古墳からは、80面以上の鏡が出土している。

一方、既存の日本史では、神武天皇の墓は、幕末に橿原神宮に隣接する地とされ、明治になって、ようやく神武天皇を祀る橿原神宮が創建されている。

 

 『記紀』の神武東征は、五瀬命神武天皇の兄弟ばかりが登場するが、『宮下文書』では、父「第51代神皇」のことが書かれている。『宮下文書』によると、神武東征のとき、父「第51代神皇」は「伊都国・斯馬国」の人々を連れて安住の地を求めて三重県に来ている。そこに、故郷と同じ「伊勢・志摩」という地名をつけた。父「第51代神皇」は長男の五瀬命が戦死したことを聞き、「伊勢崎の多気の宮に着御ましましき」とある。三重県多気郡に着いた。その後、父親王は戦死して五十鈴川に埋葬される。博多湾岸の「伊都国」に五十鈴川がある。「伊都国」の人々が三重県に来て同じ名前を付けている。伊勢神宮の由来が、神武東征についての『宮下文書』から理解できる。神武東征は史実である。

        (ロビーから見える森の中の彫刻)

 

崇神天皇

 少しの休憩の後、崇神天皇について語られる。まず、『晋書』に書かれた鮮卑の慕容廆についての記述を見る。慕容廆は父の死(284年)のうらみをはらすために武帝に宇文鮮卑を討つ事を願い出る。しかし、武帝は許さない。それを怒り、慕容廆は遼西に入り殺戮をする。また、東に扶餘を伐ち、扶餘王依慮は自殺して、依慮の子を立てて王とする。

『桓檀古記』大震国本紀には、次のように書かれている。正州の依羅国は都を鮮卑慕容廆のためにやぶられる。依羅国の王子「扶羅」は衆数千を率いて逃げ、白狼山を越え、海を渡り、倭人を定めて王になる。依羅王は鮮卑にやぶられて海に入り、還らず。

崇神天皇は『古事記』に崩年干支が書かれた最初の天皇である。この時代に干支を使っているのは中国だけであるから、崇神天皇は、中国からの渡来人と見ることができる。「戌寅年十二月崩」とある。「戌寅年」は318年である。崇神天皇は扶餘の王子「扶羅」であり、284年のすぐ後に渡来し、318年に死去している。

 

 崇神天皇(扶餘の王子扶羅)は瀬戸内海に入り、大阪に来て、淀川を遡る。武埴安彦軍と木津川を挟んで対峙し、戦闘に入る。「その地は屍骨が多く溢(はふ)れり。故、その地の処を号して羽振苑(はふりその)という」と、『日本書紀』に書かれている「羽振苑(はふりその)」は京都府相楽郡精華町祝園(ほうその)である。

 

古事記』に「御陵は山辺の道の勾(まが)りの岡の上に在るなり」と書かれていることから、天理市柳本町字アンドにある「行灯山(あんどんやま)古墳」が崇神天皇陵であると言われてきた。現在の「山辺の道」の位置からこのように比定されたのだろうが、この「山辺の道」は真っ直ぐであり、『記紀』の記述と合っていない。「椿井大塚山古墳」は、木津川が直角に曲る岡の上にあり、『記紀』の記述に合致している。またこの古墳からは、30数面の鏡、小札革綴冑(日本で最初に現れた鉄製冑)、中国製と推定される長大刀などが出土している。崇神天皇は渡来して京都府木津川山城に住み着き、その墓は「椿井大塚山古墳」である。

次に駆け足で、「貴国」に移る。

 

神功皇后、「貴国」>

 仲哀天皇は、熊襲と戦い戦死する。崩年干支は壬戌年(362年)6月であり、崩年干支があることから中国からの渡来人であることが分かる。仲哀天皇の後を継いだのが、神功皇后であり、『日本書紀』では「気長足姫尊」、『古事記』では「息長帯日売命」と記されている。「足=帯(たらし)」は「多羅の」を意味し、仲愛天皇神功皇后も中国からの渡来人の「多羅氏」である。

 神功皇后は、「橿日宮(香椎宮)」を出発して、「御笠」「安(夜須)」を通り、「筑後の山門」へ行き、引き返して「(肥前の)松浦縣に到る」。これが、熊襲征伐ルートである。熊襲征伐により、364年に「貴国」が樹立される。「貴国」の範囲は筑前肥前であり、「貴国」の天皇肥前にいる。

 『日本書紀』応神3年(392年)の記事に「百済の辰斯王立ちて貴国の天皇に礼を失す。故、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わし、其の礼なき状をせめる。是により百済国は辰斯王を殺して謝す。紀角宿禰等は阿花王を立て王と為し帰る。」とある。392年には、「貴国」は百済より強い国になっている。

 高句麗の「好太王碑」に「辛卯年(391年)倭が海を渡り、百済新羅を臣民にした」と書かれている。「好太王碑」に書かれている「倭」はすべて「貴国」のことであることが分かる。

 

 この間「貴国」内では、神功皇后が372年ころ九州から大和(佐紀)へ逃亡する。新たに「筑前王」となった「武内宿禰」によって、追い出される。神功皇后の墓は佐紀盾列古墳群の五社神古墳と言われている。また、「武内宿禰」も398年に「貴国の天皇」に追い出されて、和歌山を経由して奈良県御所市へ逃げる。室宮山古墳が「武内宿禰」の墓である。

 

 高句麗好太王と戦っていた「貴国」は「好太王碑」に書かれているように、407年朝鮮半島で壊滅的な敗北を喫する。410年ごろ「貴国」は滅びる。「貴国」の最後の天皇である「仁徳天皇」は肥前から難波に逃げて「難波の堀江」を造り、「河内湖」の水を大阪湾に流して広大な土地を得る。「仁徳天皇」は繁栄をして堺市の「大仙古墳(仁徳天皇陵)」に埋葬される。

 

 この間、390年ごろ中国大凌河上流の「倭城」から「讃・珍」が筑後に渡来して、「倭国」を樹立し、「貴国」の支配権を奪っていく。「倭の五王」の「倭国」が成立していく。

        

<次回(9/25)について>

 「阿智王」が呼び寄せた人々は「貴国」があった肥前に住み着き、肥前に30の村ができる。この後「阿智王」の渡来について話す予定であったが、時間がなくなってしまった。「阿智王」の渡来については、次回以降の適当なときに話すこととしたい。

 

 さらに、次回(9/25)のことを考えると、「倭の五王」についての特別講演とすることに今決めたい。倭の五王 讃・珍・済・興・武は、例えば、武=雄略天皇のように崩年が全く異なる日本の天皇に比定されている。今まで、「倭の五王」をキチンと説明した人がいない。次回は、十分な資料を用意して、詳細に「倭の五王」を解き明かす「特別講義 倭の五王」としたい。是非期待してください、と佃先生は力強く話され、3時間の講演を終えられた。(以上、HP作成委員会記)

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

第6回古代史講演会のご案内

<日時>  2022年(令和4年) 7月24日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      (東武アーバンバークライン(東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い」から阿智王の渡来まで

<内容>  

 狗奴国のあった位置、倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い、神武東征(逃亡)、崇神天皇の渡来、貴国の樹立、阿智王の渡来などについて佃説を披露していただきます。

 「倭奴国」は57年に後漢から金印を賜った直後頃に、半島から渡来してきた「不彌国」に追われ、「筑紫野市隈」へ移住する。更に220年~230年頃には半島から渡来してきた「倭国」に追い出され、「朝倉市」へ逃げる。

 「狗奴国」は「狗奴国の男王卑弥弓呼」であることから、「卑弥氏」であり、元の「倭奴国」であると考えられる。

 「貴国」という表現は『日本書紀神功皇后紀、応神天皇紀に11回出、『続日本紀』にも出てくる。ところが、「日本の歴史」に「貴国」という国は登場しない。しかし、「貴国」は熊襲征伐をして北部九州に樹立されて、「364年~410年」頃まで肥前南部に実在した国である。

 有名な朝鮮半島の「好太王碑」に書かれた「倭国」はすべてこの「貴国」のことである。また、「宿祢」という称号は、「日本の歴史」によく出てくるが、「宿祢」は「貴国」の称号である。「貴国」という国は、「日本の歴史」に欠かすことができない重要な国であるということができる。

<講師>   佃收先生

<費用>   資料代として500円、本代『早わかり「日本通史」』1,000円(希望者)

<申込方法> 次の①または②の方法でお申込ください。

①「普通ハガキ」

    (「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」 

      参加の他、氏名・住所・電話番号を明記)

②「友の会ホームページ」

  ※ 締切期日:7月15日 申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただき、

   抽選にもれた方のみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先>   斉藤 048-853-6728

    日本古代史の復元 -佃收著作集-

第5回古代史講演会レポ―ト

テーマ:倭人(卑弥氏)の渡来

2022(令和4)年4月29日(金)午後1時~4時

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の3点の重要項目のこと、次回は7月24日(日)に予定されていること、友の会に多くの人が入会されることが望まれることなどの話があった。

   

 今回は講演の資料以外に三国志』濊(ワイ)伝以下東夷伝までの4枚のコピーが全員に配布された。冒頭、佃先生から「『三国志』については様々な資料があるが、一番信頼性が高いとされている資料のコピーなので各自大切に保管して、書き込みする場合は、これのコピーに書くとよい。」という説明があった。

<講演>

 第3回、第4回講演で「倭人(天氏)」の移住、天孫降臨について話されたので、それに続いて、今回のテーマは次の内容であった。

   第1章 「倭人(卑弥氏)」の移動

   第2章 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

   第3章 卑弥呼の渡来

 

第1章「倭人(卑弥氏)」の移動

 前221年に始皇帝は秦を樹立する。この前、「天氏」は「大凌河下流域」に、「卑弥氏」は「大凌河上流」にある「倭城」に居る。

 前200年頃、漢が大凌河周辺まで攻めてくる。「天氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に移り、「高天原」を建国する。「卑弥氏」は「大凌河上流」から「大凌河下流域」に下って、「天氏」の国を譲り受け、漢に応戦していることが『契丹古伝』の文書から確認できる。

 前50年頃、漢は支配を強化し、そのため「卑弥氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に逃げ、「倭国」を建設する。同じ倭人でも「倭国」を名のるのは「卑弥氏」だけであり、「天氏」は「倭国」を名のらない。『三国志』韓伝、弁辰伝に「倭国」が出てくるが、これは朝鮮半島の「倭国」であり、「卑弥氏」の国である。

 朝鮮半島の「倭国」から一部が博多湾沿岸に渡来している。『後漢書』に、57年に後漢光武帝から金印をもらったと書かれている「倭奴国」は「卑弥氏」の国であることが、「松野連系図(卑弥氏)」からも確認できる。

 

 最近真贋論争が起きている「倭奴国」の金印は江戸時代に志賀島から発見されて、古代史の議論に大きな影響を与えている。金印は急斜面の畑の石囲いの中から発見されており、見つからないようなところに埋めてあったことなどから、本物であると考えることが妥当である。そうすると、「倭奴国」は滅ぼされたために金印を隠したと考えられる。

 『三国志倭人伝に、「不彌国」がでてきて、「倭奴国」が在った博多湾沿岸に「不彌国」がある。一方、『三国志』韓伝にも「不彌国」が記載されている。倭人伝の「不彌国」は、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部の人々が渡来して建国した分国であり、この「不彌国」が「倭奴国」を滅ぼしたと考えることができる。「倭奴国」は、「不彌国」に追い出され、「筑紫野市隈」へ逃げている。(このことについては次回触れる)

   

 

2 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

 九州北部では、「倭人(天氏)」は吉武高木遺跡に天孫降臨し、その子孫が糸島市に移り、「伊都国」を樹立している。神皇は、須玖岡本遺跡に降臨して神都とする。「伊都国」は漢王朝朝貢し、鏡や璧(へき)をもらっている。それは大量の鏡や璧が三雲南小路遺跡ほかの王墓から出土していることからも分かる。

 一方、紀元0年頃、1章で見たように朝鮮半島の「倭国」の一部が渡来する。博多湾沿岸に「倭奴国」を樹立し、「神都」を滅ぼし、57年に光武帝から金印を賜る。その直後頃、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部が博多湾に渡来し、「倭奴国」を追い出して「不弥国」(不彌国)を樹立する。

 「倭奴国」を追い出した「不弥国」は、200年頃までには「伊都国」に支配されている。『三国志倭人伝の記述で、「伊都国」にだけ王が居て、他の国には共通の副官「卑奴母離」(ひなもり:辺ぴなところを守る意味か)がいる。「卑奴母離」は「不弥国」他の国を監視している。70年~80年頃、「伊都国」は「不弥国」を討伐して、「伊都国王権」を樹立していると考えられる。

 

 朝鮮半島では、後漢時代に入り、107年「倭国王帥升」は後漢朝貢する。「倭国王帥升」は朝鮮半島南部にいた「倭人(卑弥氏)」の王である。その後、桓帝(147~167)と霊帝(178~183)の末に朝鮮半島で「韓国」と「濊国」が近隣諸国を荒らしまわる。「倭国乱」はこのとき朝鮮半島の「倭国」が乱れたことを表わしている。

 

 また、このとき多くの人々が日本列島に渡来している。「濊」に追い出された人々は朝鮮半島の東側を南下して、「山陰」「北陸」「四隅突出型墳丘墓」を造る。

 

 「韓」に追い出された人々は瀬戸内海に入り、岡山県「楯築墳丘墓」を造る。

 

 その後、朝鮮半島では204年に公孫度が死去して、公孫康が位を継ぎ、帯方郡を設置し、「韓」と「倭」を伐つ。

 

 この直後に、奈良県桜井市纏向纏向遺跡が突如として出現する。「庄内式土器」と呼ばれる土器様式が「纏向遺跡」とともに日本列島に初めて出現する。また、この遺跡からはベニバナの花粉が出土しており、ベニバナは3世紀の日本列島にはない。これらのことなどから、纏向遺跡を築いた人々は公孫康に追われて、朝鮮半島から渡来していることが分かる。

 

 第3章 卑弥呼の渡来

 『三国志』韓伝では、「倭は韓の南にある」と述べ、弁辰伝では「倭は弁辰の西隣にある」と述べているように、韓伝、弁辰伝の記述での「倭国」は朝鮮半島にある。後漢時代以降に「倭国」は朝鮮半島から北部九州に移っている。『三国志倭人伝は、「天氏」のように北部九州にすでに住み着いている「倭人」と「卑弥氏」のように後漢時代以降に渡来した「倭人」の記録であり、日本列島(北部九州)での記述となる。

          (ここで、10分間の休憩に入る)

           

 『三国志倭人伝の記述では、次の文「其国本亦男子為王住七八年倭国乱相攻伐暦年乃共立女子為王名曰卑弥呼」で初めて、女王卑弥呼が登場する。この文では、従来「倭国乱相攻伐暦年」が続けて解釈されてきた。しかし、佃説では、「倭国乱」の後に句点が打たれている意味であり、「倭国乱」と「相攻伐暦年」を別のこととして解釈しなければならないとする。「倭国乱」は霊帝の末(180年)頃の朝鮮半島南部の倭国のことであり、「韓国」が「倭国」を侵略したので、「倭国」は乱れていることを表わしている。「相攻伐暦年」は朝鮮半島南部から北部九州に移った「倭国」についてのことであり、すでに北部九州に渡来していた伊都国王朝と「倭国」との戦いを意味している。

 

 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島にあった。その後「倭国」は北部九州に移る卑弥呼朝鮮半島の「卑弥国」の出自で、名を「呼」という、あるいは「卑弥氏」で名を「呼」というと考えられる。220年~230年頃に、「倭国」は朝鮮半島南部から北部九州に移動して「伊都国王権」と戦い、「卑弥呼」が女王に共立されて勝利し、238年「卑弥呼」は魏に朝貢して「親魏倭王」の称号を得る。朝鮮半島の「倭国」が完全に消滅し、「卑弥呼」の北部九州の国が正式に「倭国」となる。

 

    (レジュメではここまでの予定であったが、時間があるので、

    「通史」を使って、邪馬壹国の位置についての内容に進んだ。)

          

 『三国志倭人伝に書かれている通りに辿って行くと、帯方郡から女王国までちょうど12,000里となる。辿っていく行程で、「行」の字が使われている場合は、実際に行く行程を表し、「行」の字がなく方向だけが示されている場合は行かないことを意味している。また、「到」の字は目的地に到ることを意味し、「至」の字は目的地ではないことを意味していると解釈する。

 

 女王国より以北の国々については戸数・道里を略載することができると書かれており、玄界灘に面した「末盧国」「伊都国」「奴国」「不彌国」の南に邪馬壹国はある。

 

 そのように考えていくと、邪馬壹国は「福岡県南区~小郡市」までにあり、邪馬壹国の都は「小郡市」にあり、卑弥呼の墓は「津古生掛古墳」と検証できる。

『新「日本の古代史」(上)』p.335~「私案「卑弥呼の墓」-津古生掛古墳と「径百餘歩」‐」に詳しく論じられている)

 

 今回の内容はここまでであり、次回(7月24日(日))にこの続きが話されることになった。                     (以上、HP作成委員会記)

 

     日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

第5回古代史講演会(4/29)のご案内

<日時>  2022年(令和4年)4月29日(金 昭和の日)午後1時~4時 

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      東武アーバンパークライン東武野田線大宮公園駅下車

<テーマ> 倭人(卑弥氏)の渡来

 いよいよ卑弥氏の登場である。今回と次回の二回に分け、「卑弥氏の渡来から倭国と伊都国、狗奴国の戦い」をお話いただく予定です。紀元前60年頃に「漢」が中国東北地方の支配を強化したのに伴い、それを嫌った卑弥氏は大凌河下流域から半島南部に逃げ「倭国」を建国したという。『三国志』「韓伝」によれば「後漢時代」の「倭国」は「朝鮮半島南部」にあった。最初から日本列島に存在したのではない。

【(韓の)南は倭と接す。(弁韓)の涜盧国は倭と堺を接す。】(『三国志』)

 「倭人伝」では半島南部の「倭」は消えて、「倭」は日本列島に移っている(204年~238年)。「景初二年」(238年)以前の「卑弥呼」は「女王」、国は「女王国」と記され、238年に魏へ朝貢して「親魏倭王」に任命された後は、北部九州の「倭国倭王」になっている。日本列島初めての「倭国」の誕生である。倭奴国の樹立、「帯方郡」から「倭」への行程と邪馬壹国(邪馬台国)の位置など、何れも興味深い話が期待できそうである。

<講師>  佃收先生

<費用>  資料代として500円、本代1,000円(希望者)

<申込>  参加を希望される方は、

      次の①または②の方法でお申込ください。

   ①「普通ハガキ」

(〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町4-219

埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」

 参加希望の他、氏名・住所・電話番号を明記)

   ②「友の会ホームページ」を通して

(締切期限:4月25日)申し込み多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただき、抽選に漏れた方に対してのみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先> 斉藤 048-853-6728

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

 

第4回古代史講演会報告

渡来後の「倭人(天氏)」と「日本語」の起源

2022(令和4)年1月15日(土)午後1時~4時

<最初に>

 首都圏に「まん延防止等重点措置」が適用される前、『埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会』「古代文化を考える会」の皆さんによる様々な対策が取られ、第4回講演会を開催することができた。資料は「友の会」の皆様が印刷し、参加者全員にA-4紙28ページの資料が配布された。また、佃先生の本も販売され、会員の方々のご尽力により講演会は支えられている。    

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 最初に、「友の会」の斉藤さんから簡単な挨拶があり、何点かの注意事項が話された。コロナ禍で様々な催しが中止された後の最初の開催となるため、81名の人数制限をしていること、「友の会」の活動として実施しているので、「友の会」に入会していただくことが望ましいこと、次回は卑弥呼が登場する邪馬壹(台)国関連のテーマになるので、このテーマでは2回程度を予定していることなどである。             

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 講演の冒頭、今後の予定に関連して佃先生は次のように話された。「コロナ禍で約2年講演会が延期されたため、これからのコロナの感染状況を見なければならないが、できれば2ヶ月に1回のペースで開催したいと考えている。というのは、佃古代史は「古事記」と「日本書紀」をテリトリーとしており、奈良時代の「長屋親王」までを是非ともお話ししたいからだ。」

 

 『日本書紀』にも『万葉集』にも出てくる「朱鳥(あかみとり)」年号は、686年7月から始まり694年まで続く。686年9月に天武天皇は亡くなりますから、「朱鳥」は天武天皇の年号ではありません。持統天皇の即位は690年ですから、持統天皇の年号でもありません。現在の日本の歴史では、天武天皇の後の天皇持統天皇ということになっていますから、「朱鳥」はどの天皇の年号か?という疑問が出てきます。天武天皇には長男に当たる高市皇子がいて、天智天皇と争う壬申の乱では、高市皇子が大活躍して勝利を収めます。実は、この高市皇子天皇に即位していて、「朱鳥」は高市天皇の年号なのです。高市皇子の息子に「長屋王」がいます。天皇の兄弟や皇子は「親王」と呼ばれ、それ以外は「王」と呼ばれる決まりになっています。『続日本紀』では、「長屋王」と記されていますから、「長屋王」は天皇の子供ではない、つまり武市皇子は天皇ではないということになります。

 

 ところが、1986年平城宮の東南の一等地にあった長屋王邸跡の発掘調査が行われ、「長屋親王」と書かれた木簡が出土され、大きな波紋を呼び起こしました。「長屋王」が単なる「王」ではなく、「親王」である物的な証拠が出てきたわけです。高市皇子は「高市天皇」だった。

ところが、歴史学者は、未だにこのことを認めてはいません。「親王」も「王」も古代においては同じだと言う者もいて、データに基づき理論を作るのではなく、仮説にデータを合わせているのです。この辺までを是非お話したい、と考えているのです。

※1 このことについては、『新「日本の古代史」(下)』(p.319~)の67号(2)「九州の王権」と年号(その六)「天武王権」と「日本の歴史」(二)-高市天皇と長屋親王に詳しく書かれています。

※2 日本の年号は645年に「大化」から始まるとされているが、大宝(701年~)以前は、連続していず、不明な点が多い。この辺の事情については佃HPの九州年号等のブログに詳しく書かれています。 

  

<講演>

第1章 「倭人(天氏)」の先祖

第2章 渡来後の「倭人(天氏)」

 

 資料にしたがって、前回までの復習を兼ね、考古学的な事実を踏まえて話された。この後、10分間の休憩に入る。

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第3章 前漢時代の辰

 

 第2回講演会で扱った『契丹古伝』を読み解き、大凌河の東の医巫閭山付近に渡来しているとされる古代の大国「辰」について考察する。「辰」は悠遠な上代から存在していて、その中で最も顕著なる者が「安冕辰(ウン)氏(倭人(天氏))」であるという。「倭人(天氏)」は「辰」から生れている。

 

 倭人は「辰」から分かれて南下し、紀元前1200年頃には中国の呉地方(長江下流域)にいる。紀元前5世紀「呉越の戦い」のため、東表(黄河下流域)に行き、その後、大凌河の上流に移っていく。

 

 一方、もとの「辰」は紀元前200年頃には遼河の近くにあることが確認できる。紀元前195年「衛氏朝鮮」を樹立した衛満が、遼河付近にいた「殷(箕氏朝鮮)」を攻める。「殷(箕氏朝鮮)」は「辰」を頼りに逃げるが、滅亡する。紀元前190年~180年頃には「辰」も「衛氏朝鮮」に滅ぼされることが分かる。

 

 詳しくは次の章で述べるが、松本克己氏の論文「私の日本語系統論」で示されたY染色体遺伝子の研究から、日本人、朝鮮人満州人に共通して30%程度の割合を占めるO2bハプロタイプが環日本海地域の北方モンゴロイド共通の遺伝子であり、この系列は1万5000年前頃沿海州地域で誕生したのではないかとする。さらに、言語学者服部四郎氏の研究から、「日本語」が「満州語」から分かれるのが約9000年前、「朝鮮語」から分かれるのが6700年前頃とし、言語の分離と国や集団の分離を対応させることにより、次のような結論を得る。

 

 沿海州地域で誕生したO2b系列の北方モンゴロイドの集団が、満州、朝鮮と分かれて6700年頃「辰」が誕生した。その中の一部(倭人)は渤海沿岸をまわって呉地方に行く。それ以外の「辰」の人々は遼河の近くに住み続け、前漢時代までは医巫閭山付近におり、紀元前190年~180年頃「「衛氏朝鮮」に滅ぼされる。       

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 第4章 「日本語」の起源

 

 『日本語の起源と古代日本語』(京都大学文学研究科編 臨川書店)に収められた論文「私の日本語系統論-言語類型地理論から遺伝子系統地理論へ」(松本克己)で示された研究を基に考察を進めていく。

 

 松本氏は次のように述べる。「日本語系統または起源という問題は、今から百年以上も前から内外の大勢の研究者が取り組んできて、未だに決着のつかない問題とされてきました。…ユーラシア大陸には、数にして2,000ないし2,500以上の言語が話されていると見られていますが、…同系関係によって10余りの語族の中に纏められています。…日本語の場合、そのような基礎語彙のレベルで同系関係が確かめられるというような言語は、これまで見つかっていません。この意味で、従来の歴史・比較言語学の立場からは、日本語は外部に確実な同系関係を持たない、つまり系統的に孤立した言語として位置づけられてきたわけです。」

 

 そのため、松本氏は「伝統的な歴史・比較言語学の手法と違った何か別のアプローチを試みなければなりません。」と述べ、「…言語の内奥に潜む特徴、通常は「類型的特徴」と呼ばれるもの…(8つの)言語特質を選び出し、それらの地理的な分布を通して、…言語群の位置づけを見極めようとする…。」8つの類型的特徴とは、①流音のタイプ(r,lを別々に発音するかどうか、または発音しないか)②形容詞のタイプ(形容詞を体言型に使うか、用言型に使うか)」など…⑧まである。

 

 類型的特徴による地理的分布を見てみる。全体が「ユーラシア内陸言語圏」と「太平洋沿岸言語圏」の二つに大きく分類でき、「太平洋沿岸言語圏」はさらに「南方群」と「北方群」に分かれ、「北方群」はギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語からなり、これを「環日本海諸語」と名づけている。

 

 次に遺伝子系統地理論に移るため、男性遺伝子Y染色体を考察する。現生人類のY染色体は8万年前のアフリカにいた単一の祖先に遡とされ、A~Tまでのハプロタイプに分類されている。各ハプロタイプの地域分布の特徴を調べるのが遺伝子系統地理論だが、言語の類型地理論による地域分布と照らし合わせることにより、言語間の類縁関係や発生の過程を考察することができる。

 

 それによると、類型地理論による「太平洋沿岸言語圏」はごく概略的には遺伝子O系列のハプロタイプの分布域に対応し、「ユーラシア内陸言語圏は遺伝子R系統のハプロタイプの分布域に対応している。「太平洋沿岸言語圏」に対応する分布を持つ遺伝子はO2系列であるが、O2aは南方域に、O2bは北方域に、重なり合わずにはっきりと別れて分布している。これは南北の言語圏の分岐した年代が非常に古いことを示している。また、北方域は「環日本海諸語」の地域にほぼ正確に一致している。ギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語の「環日本海諸語」の地域がY染色体O2b系列の分布地域(日本・朝鮮・満州)に一致している。

 

 第3章で簡単に触れたが、服部四郎氏の研究から、「日本語」が「満州語」から分かれるのが約9000年前、「朝鮮語」から分かれるのが6700年~4700年前と推定され、この言語の分離と国、集団の分離を同じ頃と考えることができる。このことから、日本語を話す集団の先祖は、約9000年前に満州と別れ、6700年~4700年前に朝鮮と分かれ、大凌河付近に「辰」として誕生する。その後、その中の一部(倭人)が渤海沿岸をまわって呉地方まで南下する。

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 次に、『三国志』韓伝の記述に注目する。韓伝では、朝鮮半島馬韓辰韓弁韓の3つの種族に分けて、辰韓弁韓は「古の辰国」であると述べている。弁辰伝では、弁韓を弁辰(国)として紹介している。『三国史記新羅本紀では、新羅の第一代王は、辰の言葉を採用して、姓を決めたと記されている。他の資料も揚げ、「辰」の国の人々が、朝鮮半島に来ていることを示す。

 

 『三国志辰韓伝では、自分のことを「阿」と言うと書かれている。(古代日本語でも自分のことを「阿」と言っている。)また、馬韓辰韓と言葉が異なるとされるが、辰韓では、国を邦とし、弓を弧とし、賊を寇とすると書かれている。「国=邦」、「弓=弧」、「賊=寇」は現在の日本語でも使われている。これらのことからも、「辰」の言葉が、日本語の基になっていったと考えられる。

 

 現在の日本語は、日本列島が縄文時代から弥生時代に移行してから、指導的な役割を演じた部族や集団の言語が、西日本を中心に拡散して形成されていったと考えられている。

 

 ハプロタイプO2bをもつ集団が沿海州地域にいて、約9000年前に満州と分かれ、6700年~4700年前に朝鮮と分かれ、大凌河付近に「辰」が誕生する。その中の一部(倭人)が渤海沿岸をまわって呉地方まで南下する。「安冕辰(ウン)氏(倭人(天氏))」である。日本を指導的に形作った「倭人(天氏)」の言葉は「辰」の言葉であった。

 弁辰、辰韓も「辰」の言葉であったが、弁辰、辰韓三国時代新羅百済高句麗)に滅びて、朝鮮半島から「辰」の言葉は消滅する。「辰」の言葉で残っているのは、「日本語」だけである。したがって、「日本語」は「孤立した言語」となったと佃先生は説明する。

 

 『三国志』や『契丹古伝』を読んで「辰」について研究することができた。『契丹古伝』を偽書として退けていたのでは、「日本語の起源」は解明できない、と佃先生は強調された。         

<講演後>

 先生の本をよく読まれている参加者の方から、一点質問が出された。これについては、今日の講義は多くを復習し、分量が多かったので端折って説明した部分が多い。質問された事項は次回詳しく説明する、という先生の返答があり、ほぼ時間通り終了した。

 

※3 「友の会」の斉藤さんから、毎日新聞記事(2021年11月13付)を紹介していただいた。「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」」という見出しで、日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だった、とドイツなどの国際研究チームが発表し、英科学誌ネイチャーに掲載されたという記事である。

 研究チームはマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、アメリカなどの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成され、98言語の農業に関連した語彙や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーロシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 この結果、この共通の祖先は約9000年前中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民で、その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉語族」として、水田耕作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論付けている。

 約9000年前中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民は、今回の講義での「辰」に時期的にも、地域的にもかなり重なっているように感じられます。皆様はどう思われるでしょうか。 

 

 なお、次回の開催日時は今の段階では決まっていません。決まり次第、このページでお知らせいたします。                                 (以上、HP作成委員会記)

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

再開!古代史講演会のご案内

 新型コロナウィルス感染防止のため、中断されていました古代史講演会が再開されます。

<日時>  2022年(令和4年) 1月15日(土) 午後1時~4時 

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      東武アーバンパークライン東武野田線大宮公園駅下車

<テーマ> 渡来後の「倭人(天氏)」と「日本語」の起源

 「Y染色体遺伝子」の研究成果により、日本人の遠い祖先「日本・朝鮮・満州」グループが生れたのは「1万5000年~1万年前」の「沿海州」付近であったろうという。その後、満州と分化しながら南下し、「紀元前4700年~前2700年」頃には朝鮮と分かれて「渤海沿岸」(医巫閭山)付近に住み着く。「辰」の誕生である。-「辰人」の誕生「辰の言語」の誕生。「辰」の一部は中国の「呉地方」まで南下する。紀元前1200年頃には倭人と呼ばれる。それは「辰」の代表的な氏族である「安冕辰ウン氏」である。「安冕辰ウン氏」は「倭人(天氏)」であり、北部九州に渡来する「渡来系弥生人」である。紀元前437年の「呉越の戦い」で呉が越に敗れると、彼ら「倭人」は北上して、「渤海沿岸」をまわり、「朝鮮半島南部」を経て(高天原を建国)、前140年~前120年頃には北部九州に渡来する。「天孫降臨」である。彼らが「日本人」の基盤になると同時に「日本列島」に「辰の言語」をもたらす。それが「日本語」になる。日本以外の地域の「辰人」(干霊辰ウン氏:弁辰、辰韓を樹立)は他の氏族に吸収されて「辰の言語」は消滅する。そのため「日本語」は外部に同系言語を持たない孤立した「言語」になった。先生にはいまだ定説のない「日本人」と「日本語」の起源を解き明かしていただきます。

 《本の紹介》

 先生は『新「日本の古代史」(佃説)-早わかり「日本通史」(概要篇)-』を講演会参加者のために執筆されました。今後は従来の資料に加え、当該本を使用する予定です。B5版234ページ 定価1,600円+税。当日は特価で販売いたしますのでご購入をご検討いただければと思います。

<講師>  佃收先生

<費用>  資料代として500円、本代1,000円(希望者)

<申込>  暫くぶりの開催となりますので参加を希望される方は、

      次の①または②の方法でお申込ください。

   ①「普通ハガキ」

(〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町4-219

埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」

 参加希望の他、氏名・住所・電話番号を明記

   ②「友の会ホームページ」を通して

(締切期限:1月8日)申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただきます。

<その他> マスク着用など感染病対策をお願いいたします。

<問合先> 斉藤 048-853-6728

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