第8回古代史講演会レポート

テーマ:磐井の乱」とその後

日時:2022年(令和4年)11月27日(日)午後1時~4時 

<最初に>

 友の会の斉藤さんから今回の講演の概要の紹介があり、その後、次回以降の講演会の会場についての説明があった。「さいたま歴史と民俗の博物館」は、これから2023年9月まで休館となるため、次回以降は別の会場で実施することになる。次回の第9回講演会は、3月5日(日)「さいたま市宇宙劇場」(大宮駅近く)で実施することが決まっている。その会場では、使用時間の関係などから参加者が会場設営に手を貸して皆で準備することが必要になり、書籍の販売はできなくなる。また、会費が若干値上がりすることなどが話された。(今回も内容が豊富なため、レポートが長くなってしまいました。区切って、あるいは印刷してから読むと読み易くなるかもしれません。)

      (博物館横の池のある公園)

 

 前回は、資料『特別講演「倭の五王」と日本、半島の征服』の第6章 倭王興まで終了した。

 「日本の歴史学」は、「倭の五王」は日本の天皇であると考えている。しかし、年代が全く合っていない。日本の歴史学者はこのことの考察を放棄してしまっているのではないか、と佃氏は訴える。前回講演会では第6章で、倭王興はさきたま古墳から、百済を再興した偉大な王であったことを話した。このことを確認して、第7章 倭王武に入る。

 

【第7章 倭王武

倭の五王による全国支配の検証>

 「筑紫舞」という西山村光寿氏が伝えている舞がある。『よみがえる九州王朝』(角川選書)の中で古田武彦氏が詳しく紹介している。舞は、「翁」によってなされ、三人立、五人立、七人立、十三人立があるという。三人立では、肥後の翁、加賀の翁、都の翁があり、五人立では肥後の翁、加賀の翁、都の翁、難波津より上がりし翁、出雲の翁があり、七人立では肥後の翁、加賀の翁、都の翁、難波津より上がりし翁、尾張の翁、出雲の翁、夷の翁がある。(十三人立については、西山村氏は習わなかった)

 

 「筑紫舞」は「各地の翁(王)」が参上して、「都の翁」に各地の舞を披露するものである。始終「肥後の翁」が中心になって舞が進行する。

 

 この舞は、倭王武の全国支配を如実に表現している、と佃氏は指摘する。舞を取り仕切る「肥後の翁」は「无利弖(ムリテ)」であり、都の翁は「獲加多鹵(ワカタケル)大王=倭王武」である。筑紫の舞は「无利弖」によって呼び出された「全国の倭王権」の「王」が集まり、「獲加多鹵大王」を讃える様子を表現している。

 

 それぞれの翁(王)の墓を考察してみると、舞の進行を司る「肥後の翁」は「无利弖」と考えられ、江田船山古墳の「追葬1」として埋葬されている。

「加賀の翁」は「都の翁」より先に、二番目として登場する。「大彦」は崇神天皇とともに渡来し、越(加賀)に四道将軍として派遣された。その後に「倭の五王」は「倭城」から渡来していて、「大彦」の子孫である。このことから「加賀の翁」は同じ「大彦」の子孫であり、「獲加多鹵大王」も一目置いている。福井県永平寺町にある「二本松山古墳」は6世紀初頭の古墳であり、銀メッキ製の王冠が出土している。これが「加賀の翁」の墓であろう。

 

 「難波津より上がりし翁」は「継体天皇の父」と考えられ、前回の講演で見たように「今城塚古墳」は「継体天皇の父」の墓である。また、「継体天皇」はここに追葬されている。

 「尾張の翁」の墓は「断夫山古墳」と考えられる。名古屋台地は5世紀後半から突如として周濠のある古墳が造られる。「倭王権」によって派遣された武将が尾張地方を征服したためである。この時代の古墳に、他と比べて圧倒的に大きい「断夫山古墳」がある。

 「出雲の翁」は出雲地方の王であり、現段階では特定できないが、出雲地方にも北部九州系の古墳が造られている。

 「夷の翁」は埼玉古墳群を支配した王であり、「二子山古墳」がその墓と考えられる。(これについては後に詳しく述べる)

 

 「都の翁」は「獲加多鹵大王=倭王武」である。各地の「翁(王)」の墓が全国に展開されていることから、筑後を拠点とする「倭王権」が全国を支配していることを確認できる。そのことを、この舞は示している。

 

倭王武と年号>

 倭王武は中国王朝に3回朝貢している。第1回目は478年に即位したとき「宋」に対してである。自ら「使持節都督倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称して「上表文」を述べた朝貢であった。

 

 ところが、「宋」は翌年の479年4月、「斉」に禅位する。そのため、479年今度は「斉」に朝貢する。「斉」も、「宋」と同じように、倭王武が自称した「倭・百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事」を認めず、「百済」を抜かした「倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」しか認めなかった。

 

 「斉」は502年3月「梁」に禅位する。そのため、倭王武は502年直ちに「梁」に第3回目の朝貢をする。「梁」も「斉」と同じ様に「征東将軍に進号せしむ」として、百済への支配権を認めていない。その後、倭王武は中国王朝に朝貢しない。(この後、西暦600年に俀国が隋に朝貢するまで約100年間、日本列島から中国への朝貢は途絶える。)倭王武は、中国王朝は目まぐるしく交代し、信頼することができないと考えたのではないだろうか。

 

 一方、「梁」の高祖は521年、百済王餘隆に対して、「使持節都督百済諸軍事寧東大将軍百済王」の官爵を授ける。百済が475年に滅びたとき、兄の倭王興百済を再興している。百済はその後も、倭国の支配を受けている。ところが、「梁」は「倭王」の武に対しては「征東将軍」の官爵を与えているにもかかわらず、百済王に対しては「征東将軍」より上の「寧東大将軍」の官爵を与えている。倭王武の怒りは収まらない。これについては、次の「九州年号」を見ると一層明確になる。

 

 江戸時代の学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)が書いた『襲国偽僣考』に「継体天皇16年(522年)、武王、年を建て善記という。是九州年号の始めなり。…善記4年で終わる。」とある。本居宣長や鶴峯戊申らの江戸時代の学者たちは、「卑弥呼」や「倭の五王」は「大和朝廷」とは別の九州に本拠地を持つ「襲人の国」が偽って「倭王」を僭称して、中国や朝鮮半島の国と交流したと考えた。そのため、この本に『襲国偽僣考』という名前が付けられている。522年に武王が年号「善記」を建て、その年号は4年で終わるとある。九州に本拠地をもつ「武王」は倭王武である。倭王武は522年に年号を建てている。この年、どうして日本列島で初めて年号を建てたか。それは、倭王武が中国から独立して「天子」となったということである。前から、中国への朝貢は中止していた。521年、倭国が支配している百済に対して、中国王朝は倭国より上の官爵を与えた。このことから、武は翌年に年号を建てることを決断したのではないか、と佃氏は述べる。

 

 522年に建てられた「善記」以降、連綿と年号は続いている。そのことは、15世紀に撰録された李氏朝鮮の重要な史書『海東諸国紀』にも記載されている。鶴峯戊申は、この「倭国」とは「大和朝廷」とは別の九州の国と考えられるから、「倭国」の年号を「九州年号」と呼んだ。以来、この「善記」以降の年号を「九州年号」と呼ぶようになった。

 「日本の歴史学」は、大和朝廷とは別の王権が中国や朝鮮半島の国々と交流していることを認めていない。そのため、鶴峯戊申の『襲国偽僣考』を検討しようとすらしない。(九州年号については、「日本古代史の復元HP」にまとめたものがあるので参照してください。→日本古代史についての考察)

 

倭王武の墓、倭王興の長子の墓、塚坊主古墳>

 倭王武の年号は善記4年(525年)で終わっている。このことから、倭王武の在位は478年~525年と考えられる。

     岩戸山古墳(「装飾古墳ガイドブック」より)

 

 岩戸山古墳(福岡県八女市)は、外提まで含めた総長は176mに達し、北部九州最大の古墳であり、広い別区が特徴的である。墳丘・別区から武装石人・裸体石人・馬・猪・鶏などが発見されており、「石人・石馬」文化の頂点にある倭王権の王墓である。また、6世紀前半に築造されている。これらのことから、岩戸山古墳が倭王武の墓と考えられる。この古墳はまだ未発掘であり、発掘すれば、墓誌などが発見されるのではないかと佃氏は述べる。

        (別区に並べられた石物)

 

 

 次に、埼玉古墳群の中で最大の古墳である二子山古墳について考えよう。埼玉古墳群では、稲荷山古墳が5世紀末に築造され、6世紀初頭前後に二子山古墳が築造された。前に見たように、稲荷山古墳の最初の被葬者は倭王興であった。

 

 驚くことに、埼玉古墳群の二子山古墳は筑後の岩戸山古墳と同形で同大である。このことから、二子山古墳の被葬者は、倭王武と同格ということになる。倭王興倭王武は兄弟であるが、年の差が25歳以上離れているであろう。すると、倭王興の長子は、倭王武より年上ということになる。倭王武は、寿墓(生前に造る墓)を岩戸山古墳に造っている。倭王武は、年上に当たる倭王興の長子には気を遣っている。そのため、岩戸山古墳と同形・同大の二子山古墳を倭王興の長子のために造ったのではないか。

   (二子山古墳)

 

 

 次に、埼玉県から熊本県に目を転じて、江田船山古墳の南にある塚坊主古墳に移ろう。塚坊主古墳は、この地方で江田船山古墳の次に造られた前方後円墳である。築造は6世紀前半で、「江田王(倭隋)」の子孫の墓と考えられる。

 

 「江田王(倭隋)」の墓は江田船山古墳であったが、近畿地方に遠征した「江田王二代目」の墓は、古市古墳群の中の市野山古墳であった。「无利弖(ムリテ)」は「江田王三代目」であり、倭王斉の要望により、倭王権の本拠地の筑後に行き、幼い「獲加多鹵(ワカタケル)大王=倭王武」の養育をする。「典曹人」という「文官」になって、江田船山古墳に追葬されている。その時期は5世紀末から6世紀初頭であり、「无利弖」の方が、塚坊主古墳の主より早く死去している。「无利弖」には王冠が副葬されているが、塚坊主古墳の方には王冠はない。このことから、塚坊主古墳の主は「无利弖」の弟ではないかとする。

 

 「无利弖」の弟は、王ではないが、兄が「獲加多鹵(ワカタケル)」の養育のために筑後に行っているので、「江田」を守る役割を果たしている。そのため、王ではないが、「江田」に塚坊主古墳が造られている。他方、「无利弖」は祖父と同じ江田船山古墳に追葬されることを望んだ、のではないか。

 

 江田船山古墳には、もう一つの追葬2があり、王冠をもっている。これは、江田王4代目」である、「无利弖」の長子であろう。531年の「磐井の乱」で「倭王権」は滅びる。そのため、新たに墓を造らず追葬されたのではないかと、佃氏は述べている。

 

   [ここまでが第7回資料「倭の五王」と日本、半島の征服 の部分]

          [ここで、15分の休憩に入る]

 

第8回資料「磐井の乱」とその後

【第1章 「磐井の乱」】

<『日本書紀』の「磐井の乱」>

 『日本書紀』継体紀は、暴虐で後継者がいない武列天皇の後に、継体天皇が請われて即位する経緯、天皇の妃や子、百済新羅加羅などの朝鮮半島の国々との関わり合いの経過などが記されている。その中に、「磐井の乱」といわれる戦いがある。

 

 継体21年(527年)6月、新羅に取られた二国を任那に取り戻すため、近江の毛野臣が六万の軍勢を率いて任那に行こうとした。この時、筑紫国造磐井が陰(ひそか)に反逆をはかる。これを知った新羅はわいろを磐井に届けて、毛野臣の軍勢を阻止しようとする。戦いは起こり、毛野臣の軍勢は途中で滞留してしまう。磐井は「火(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)」の二国を勢力下に置き、高麗・百済新羅任那朝貢船を誘い入れている。継体天皇は、物部麁鹿火(あらかひ)に磐井を討つように命じ、討つことができたら「長門より以東は朕これを制し、筑紫より以西は汝これを制せよ」と物部麁鹿火に言う。

 

 翌、継体22年(528年)11月、物部麁鹿火は筑紫の御井郡で交戦し、遂に磐井を斬り、境界を定めた。12月筑紫君葛の子は父の罪により誅殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上して、死罪を免れることを願った。これが、『日本書紀』に書かれた「磐井の乱」である。

古事記』は、24代仁賢天皇以降については、基本的に妃と子と御陵の記録だけ記している。26代継体天皇の記述でも、筑紫君石井(磐井)が、天皇に従わず、これを殺したと簡単に書いているだけである。

 

 さて、改めて「筑紫国造磐井」の勢力範囲を見てみよう。磐井は「火(肥前・肥後)、豊(豊前・豊後)」の二国を支配している。「長門より以東は朕これを制し、筑紫より以西は汝これを制せよ」と継体天皇が言ったということは、「長門山口県)より以東」や「筑紫より以西(筑前筑後)」も支配している。筑紫国造磐井は西日本を支配している、と言える。

 

 今まで見てきたように、この時代、倭の五王が日本列島や朝鮮半島を支配してきた。倭王武の在位は478年~525年であり、527年に西日本を支配しているのは「倭王権」であり、倭王武の次の「倭王」である。

このことから、「磐井の乱」は物部麁鹿火が「倭王権」を伐った事件であることが分かる。筑紫国造磐井は、「筑紫国造」ではなく、倭王武の次の「倭王」である。

 

<「継体天皇」と「磐井の乱」>

 この時代に日本列島を支配しているのは「倭王権」であり、「大和朝廷」は存在していない。『日本書紀』が「継体天皇」と述べる人物の父は、前に調べたように、「倭王興」の命令で熊本県宇土市から近畿地方の征伐に行った「宇土王」の二代目であった。『古事記』に「継体天皇」の崩年干支が記されている。「丁未年(527年)4月9日」に43歳で死去したとある。「磐井の乱」が始まるのは527年6月であるから、「継体天皇」の死後であり、「磐井の乱」と「継体天皇」は全く関係がないと言える。

 

 ところが、『日本書紀』は、「(継体)25年(531年)2月、天皇、病甚だし。丁未(7日)に天皇、磐余玉穂宮に崩ず。」として異なる崩年を書いている。続いて、二行割小字で、「(継体)25年(531年)歳次辛亥に崩ず」というのは、『百済本紀』から取って文を作ったのだと記し、『百済本紀』に「辛亥年(531年)に日本の天皇・太子・皇子がともに薨去した」と書かれているので、それにより辛亥年(531年)を継体天皇の崩じた年「(継体)25年(531年)」とした、と述べている。

 

 この『古事記』と『日本書紀』の「継体天皇」の崩年のくい違いを考察してみよう。『日本書紀』の記述は、『百済本紀』の記事から取ったものである。この時代、日本を支配していたのは「倭王権」であり、百済から見た「日本の天皇」は「倭王」である。倭王武の次の「倭王」であった磐井を、『百済本紀』は「日本の天皇」としているのではないか。すると、「辛亥年(531年)」に「磐井の乱」で討たれた磐井の死去を『百済本紀』は、「日本の天皇薨去した」と述べている。

 

 『古事記』には「継体天皇」が「丁未年(527年)」4月9日に崩じた、と書かれていた。『日本書紀』には、「(継体)25年の春2月に天皇、病おもし。丁未に、天皇崩御する。」と書かれている。『古事記』の「丁未年」が、『日本書紀』では単に「丁未」となり、年を表すものから日を表すもの(「丁未(7日)」)に変ってしまった。これは、『日本書紀』の編集者が、『百済本紀』を見て、(継体)25年(531年)2月の条に丁未(年)に、天皇崩御する。」という記事を挿入したために生じたのではないか、と佃氏は述べる。

 

 「継体天皇」の崩年は「丁未年(527年)」であり、「磐井の乱」で磐井が討たれるのは「辛亥年(531年)」である、と考えられる。「辛亥年(531年)」は、「倭王権」が倒された年である。前回の講演会で、埼玉古墳群の中の稲荷山古墳から出土した有名な金錯銘鉄剣について述べた。この剣に刻まれた銘文は「辛亥年」から始まっていた。どうしてここにも「辛亥年(531年)」が出て来るかは、「倭王権」が倒されたことと深く関係している。

継体天皇」の崩年については、『古事記』が正しく、『日本書紀』が間違っていることは、次の「九州年号」を考えることからも裏付けられる。

         

 

<「磐井の乱」と「九州年号」>

 ここで再び、江戸時代の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)の『襲国偽僣考』や『如是院年代記』に書かれた「九州年号」を考察する。522年に、「倭王武」は日本で初めて年号「善記」を建てた。

 

 以降、善記(522~525年)-正和(526~530年)-定和(531~537年)-常色(538~545年)と続き、それと重なる別の系列の年号である殷到(531~535年)-僧聴(536~539年)が続いている。『如是院年代記』の記述から、「殷到」年号は初めて建てられた年号であることが分かる。(『新「日本の古代史」(中)』62号参照)531年は「磐井の乱」で物部麁鹿火が「筑紫以西」を支配するようになった年である。このことから、「殷到」年号は、物部麁鹿火が初めて建てた年号と考えられる。

 

 また、『日本書紀』によれば、物部麁鹿火は「太歳丙辰年(536年)7月」に死去しているので、「殷到」年号は536年7月に終わり、536年8月から次の「僧聴」年号が始まるのだろうとする。

 

 531年の「磐井の乱」で物部麁鹿火は「倭王権」を討ち、「天子」となって年号「殷到」を建てる。「殷到」の次の「僧聴」は、物部麁鹿火王権二代目の年号である。

 

 一方、「倭王権」の年号は、善記から始まり531年以降も続いている。物部麁鹿火は「倭王権」を討ったが、「倭王権」を消滅させることはできなかった。「倭王権」は敗れたが、年号を継続している。「松野連系図」から倭王武の後の「倭王」が分かる。その王の名と年号を記せば、武→「善記」(522~525年)、哲→「正和」(526~530年)、満→「定和」(531~537年)である。(「哲」が「磐井の乱」で伐たれた「6番目」の「倭王」に当たる。)

 

<「倭王権」と称号>

 前回の講演で述べたように、「倭王興」は「連(むらじ)」の称号を制定する。「連」は「倭王権」の称号である。物部氏は「貴国」の支配下にあるときは「宿禰」の称号を「貴国」からもらっていた。「倭王権」が412年頃「貴国」を追い出し「倭国」を樹立すると、物部氏は「倭国」の支配下に入り、「連」の称号が与えられる。

 

 物部氏の歴史を詳しく述べる『先代旧事本紀』を見ると、十一世孫物部真椋連公以降みな「連」か「大連」の称号が付いている。物部麁鹿火の称号は「連」であり、物部麁鹿火は「倭王権」の支配下にあった。『日本書紀』では、物部麁鹿火は「大連」と書かれている。しかし、物部氏系図などから考えて、「連」が正しいと判断される。

 

 「磐井の乱」は、臣下の物部麁鹿火が「辛亥年(531年)」に主君の「倭王」を伐った事件であり、下克上であった。

 

【第2章 物部麁鹿火王権】

<「物部麁鹿火王権」の領土>

 物部麁鹿火は531年から536年7月まで九州を支配している。『日本書紀』安閑元年に「是年、太歳甲寅にあり」という記事があり、「太歳甲寅」から安閑元年は534年であることが分かる。『日本書紀』安閑元年の記事は534年に起こった事柄を述べている。

 

 安閑元年(534年)3月の記事に、皇后を決めた後に、別に「三妃」を立てるという記事があり、「許勢男人大臣の女紗手媛、紗手媛の弟香香有媛、物部木蓮子大連の女宅媛を立てる。」とある。「物部木蓮子大連」は物部氏の「十二世」であり、「許勢(巨勢)男人大臣」も本拠地を「肥前の巨勢(佐賀県巨勢町)」とし、ともに九州の人である。534年に九州を支配していたのは物部麁鹿火であり、「三妃」は「安閑天皇」ではなく、物部麁鹿火の妃である。このことから分かるように、『日本書紀』安閑紀の記事は、「物部麁鹿火王権」についての記事であると理解できる。

 

 安閑元年10月、大伴大連金村が「三妃」に屯倉を賜るよう奏言する。「大伴金村」は物部麁鹿火と共に「磐井の乱」で筑紫君を伐った「九州の人」であり、「博多の住吉」に住んでいる。「大伴金村」の働きにより、物部麁鹿火は小墾田屯倉肥前の養父郡)、桜井屯倉肥前三根郡)、難波屯倉福岡市東区)を獲得する。

 

 安閑元年12月、大伴金村物部麁鹿火の命令で、縣主飯粒に良田を献上するよう申し入れ、縣主飯粒は悦んで「上御野・上桑原・下桑原」の地を献上した。縣主飯粒が献上した土地はすべて肥前の土地である。物部麁鹿火は「肥前南部」の土地も手に入れる。

 

 安閑元年閏12月に、物部尾輿筑前の土地を献上したことが書かれている。物部麁鹿火は534年までに、筑前肥前の土地を手に入れている。

 

物部麁鹿火の本拠地>

 『日本書紀』継体22年(528年)12月、筑紫君葛の子は父の罪により誅殺されることを恐れて糟屋屯倉を献上して、死罪を免れることを願った、とある。(「松野連系図」では、「葛」は「哲」になっている。どちらかが、「字(あざな)」であろう。)

 

 『百済本紀』では、「辛亥年(531年)に日本の天皇・太子・皇子がともに薨去した」と書かれていた。「磐井の乱」のとき、「葛の子」は幼少で戦に出陣せず、一人だけ生き残ったのではないか、と佃氏は述べる。

 

 さて、筑紫君葛の子から献上された「糟屋屯倉」は福岡県糟屋郡糟屋町にあり、多々良川の南側である。一方、「物部木蓮子大連」は物部氏の「十二世」であったが、「宅媛」と難波屯倉福岡市東区)を献上した。「難波」は多々良川の北側の地域である。

 物部麁鹿火は、多々良川の北側と南側の土地を得ることによって、多々良川の水利権を手に入れている。「物部麁鹿火王権」の本拠地は、多々良川の上流にあると考えられる。

       (資料図2 多々良川と王塚古墳)

 

 多々良川の上流に、「桂川王塚古墳」がある。全長78mの前方後円墳で、横穴式石室は遠賀川流域では最大で、装飾古墳としても有名である。6世紀中頃の築造で、遠賀川水系に突如として出現したとしか言いようがない、とされている。位置的にも時期的にも物部麁鹿火が新しく本拠地を定めたことと一致する。

 「磐井の乱」で、「物部氏」のトップに躍り出た物部麁鹿火の墓にふさわしく、「最高の装飾古墳」として知られ、石室側面には多数の配列された靭、盾、大刀などの武器が描かれている。副葬品も武具・馬具が多く、武力を誇る物部氏の墓と言える。『日本書紀』は、「物部麁鹿火」を「可畏(おそるべき)天皇」と書いており、主君を伐った「恐ろしい物部麁鹿火」の墓と言えるだろう。

 

 物部麁鹿火は福岡県嘉穂郡桂川町に新たに本拠地を造り、「桂川王塚古墳」を墓としている。

  右:王塚古墳玄室

    (「装飾古墳ガイドブック」より)        左:王塚古墳玄室前面壁画

 

【第3章 仏教伝来】

<仏教伝来と「欽明天皇」>

 「仏教伝来」には、「538年」説と「552年」説がある。

 

 「552年」説は、欽明13年(552年)10月に百済聖明王が釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上したという『日本書紀』の記述をそのまま受け入れて、それが「初めて」だとしている。

 

 これに対して、佃氏は『日本書紀』欽明15年(554年)2月の記事と欽明8年(547年)の記事に注目する。欽明15年(554年)2月、新羅に攻められ、百済は救いの兵を請うて、前の番の(奈率)東城子言を交代させて、(徳率)東城子莫古を貢上し、五経博士柳貴を固徳馬丁安に代え、僧曇慧等九人を僧道深等七人に代える。

交代したこの「東城子言」は何時来ているかといえば、欽明8年(547年)の記事から、他の使者との交代で欽明8年(547年)に来ていることが分かる。それでは、交代した「僧曇慧等九人」は何時来ているのだろうか。国の使者と五経博士や僧は、国の代表としてまとまって来ているのであるから、当然「僧曇慧等九人」も「東城子言」や五経博士と一緒に欽明8年(547年)に来ていると考えられる。このことから、「552年」説は成立しない、と佃氏は説く。

 

 「538年」説は『元興寺伽藍縁起並びに流記資材帳』(以下『元興寺縁起』と略)の次の記事による。「大倭国の仏法、創めて斯帰嶋宮治天下天国案春岐斯廣庭天皇欽明天皇)の御世、蘇我大臣稲目宿禰仕え奉る時、治天下七年歳次戊午十二月より度(わた)り来る。百済聖明王の時、太子像並びに潅仏の器一具及び説仏起書巻一篋を渡し、言う、「まさに仏法はすでに是世間無上の法、其の国亦修行に応えると聞く」。」

 

 「治天下七年歳次戊午」に伝えられたとある。「歳次戊午」は「538年」である。『上宮聖徳法王帝説』にも、仏教伝来の次の記事がある。「志癸島天皇欽明天皇)の御世。戊午年十一月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教並びに僧等を度らせ奉る。」

 

 異なる資料が、ともに「戊午年(538年)」に百済聖明王が仏教を伝えたと記し、「僧」も来ている。538年伝来は間違いない。しかし、欽明天皇の在位中に「戊午年」はない。次に、天皇の在位と「戊午年」の関係を調べてみる。戊午(538年)-宣化3年、己未(539年)-宣化4年、…、庚申(540年)-欽明元年(欽明天皇即位)、辛卯(571年)-欽明32年(欽明天皇崩御)である。同じ干支は60年後にしか来ないから、欽明天皇の時ではないことが分かる。仏教伝来は、「戊午年(538年)」であり、この年は宣化3年に当たる。

 

<仏教伝来と「九州年号」>

 前に「九州年号」の考察から、「物部麁鹿火王権」の二代目の在位は536年~539年であり、年号は「僧聴」であることが分かっている。「戊午年(538年)」は「物部麁鹿火王権」の二代目の時である。

 

 上で見た『元興寺縁起』の記事の中での「治天下七年歳次戊午(538年)」という表現は、「物部麁鹿火王権」が531年に「治天下(天子)」になって、「7年目」であることを意味している。治天下1年目が532年で、治天下7年目が538年である。『元興寺縁起』の記述は確かだ、と確認できる。

 

 「物部麁鹿火王権」の二代目の年号は「僧聴」であった。「僧に聴く」のであるから、二代目は即位する前から仏教に関心を持っていて、時代にぴったりの年号を定めている。即位して二年後の「戊午年(538年)」に、「物部麁鹿火王権」の二代目のとき、百済聖明王から仏教が伝来する。「欽明天皇」のときではなく、「大和」に伝来したのでもない。

 このようなことは、「九州年号」を「偽年号だ」として考察さえもしないのでは、全く分からないのではないか、と佃氏は強調する。

      

 

【第4章 任那復興】

 『日本書紀』は、「任那復興」を最重大事件として扱っている。このことは、「任那復興」について、古代最大の戦争といわれる「壬申の乱」と同じ分量の詳しい記述をしていることからも分かる。欽明23年(562年)正月、新羅任那を打ち滅ぼす。朝鮮半島から完全撤退となり、「任那復興」は消滅する。今まで、そうなった詳しい事由を述べた「歴史学者」はいなかったとして、佃氏は新たな日本古代史(佃説)を展開する。

 

<「物部麁鹿火王権」の半島支配と「任那復興」>

 継体23年(532年)4月、毛野臣は熊川に宿って、新羅百済の二王を召集するが、二王は来ず、使者を送ってきた。毛野臣は「二王はどうして自ら出向いて、天皇の勅命を聞こうとしないのか。自らやって来たとしても、私は勅命を告げはしない。」と怒った。新羅は改めて、軍衆三千人を率いた上臣を派遣し、勅命を聞きたいと願った。ところが、毛野臣は軍兵数千人を見て脅え、熊川から任那の城に入り、新羅の上臣が三ヶ月間待機して勅命を聞こうと請うたが、勅命を宣しなかった。

 その後、新羅の上臣は四村を攻略して、人や者をことごとく取って、本国に帰った。四村を掠め取られたのは、毛野臣の過失である。このように『日本書紀』に書かれている。

 

 『日本書紀』は、継体天皇が「毛野臣」を派遣したとしているが、532年に支配権をもっているのは物部麁鹿火であり、物部麁鹿火が「毛野臣」を派遣している。新羅百済に「物部麁鹿火天皇)」の「勅」を告げるためである。「物部麁鹿火王権」は「倭王権」に引き続いて朝鮮半島を支配しようとした。しかし、「物部麁鹿火王権」は朝鮮半島を支配するだけの実力はなく、上の記事が示すように、支配に失敗する。

 

 『日本書紀』欽明2年(541年)4月、百済聖明王任那の旱岐らに、「日本の天皇の詔する所は、全てを以って任那を復建せよということである。何の策を用いて任那を起し建てることができるだろうか。」と述べて、詔書を読み上げ、卓淳・とくことん・南加羅の3国が新羅に滅ぼされたことを語り、この「3国」を復興させるのが「任那復興」であり、天皇の詔だと述べる。

 

 「日本の天皇物部麁鹿火の二代目)」の詔書百済聖明王が伝えている。「物部麁鹿火王権」は朝鮮半島の支配に失敗し、「任那諸国」を集めて「詔」を述べる力がなかったからである。

 

 更に聖明王は、任那の3国が新羅に敗れたのは、「百済の責任」であると言い、「任那復興」に力を注いでいく。「物部麁鹿火王権」は百済聖明王を頼りにしている。

 

<「任那復興」の妨害者、「任那復興」の終焉>

 その3ヶ月後の欽明2年(541年)7月、百済は、安羅の任那日本府の河内直(かわちのあたい)が計略を新羅に伝えたことを強くののしる。任那日本府の河内直が「任那復興」を妨害している。

 

 欽明4年(543年)12月、百済は「任那復興」を推進するため、「任那の執事」と「日本府の執事」を呼ぶが、正月を過ぎたら往くと答え、正月を過ぎたら、祭が終わったら往くと答え、来ようとしない。

 

 欽明5年(544年)3月、百済はこの状況を「日本の天皇」に説明する。「任那」を喚ぶのに来ないのは、「任那の意」ではなく、「阿賢移那斬(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)」がそうさせている。「任那日本府」の中でも「的臣・吉備臣・河内直」等みな、二人の指示に従っているのみである。二人が安羅にいて多くの奸計を行えば、任那の再建は難しい。この二人を本国に帰して、任那再建を図ってほしい。

 

 「阿賢移那斬・佐魯麻都」はどのような人物だろうか。欽明5年(544年)3月の記事に、「佐魯麻都は是れ韓の腹といえども位は大連に居る。」とある。「佐魯麻都」は韓国の女性が生んだ人であるが、「大連」の称号を与えられている。「大連」は「倭王権」の称号である。「佐魯麻都」は「倭王権」によって「任那日本府」に派遣された「大連」である。

 

 一方、物部麁鹿火は、前に見たように「連」であった。「倭王権」で「佐魯麻都」より位が低いから、物部麁鹿火の指示は通用しない。そのため、「毛野臣」は「任那日本府」に入ることができなかった。

 

 「物部麁鹿火王権」は臣下の物部麁鹿火が主君の「倭王権」を伐って樹立した王権である。「倭王権」により「任那日本府」に派遣された「阿賢移那斬・佐魯麻都」にとって、「物部麁鹿火王権」は主君を伐った許せない王権である。「物部麁鹿火王権」が朝鮮半島を支配することは絶対に阻止したい。これが、「任那復興」を妨害した理由であった。

 

 欽明12年(551年)3月、百済聖明王は自らの衆と二国の軍兵を率いて高麗を伐って漢城の地を得、また進軍して平壌を征討し、かつての領地を取り戻している。

 ところが、翌年(552年)5月、高句麗新羅が通和して、百済任那を攻めることが、「物部麁鹿火王権」の三代目に報告される。

 

 その5ヵ月後の552年10月に、「物部尾輿」は「物部麁鹿火王権」から王権を奪い「阿毎王権(『隋書』の俀国)」を樹立する。「物部麁鹿火王権」は滅びる。(これについては、次回述べる。)

 

 欽明16年(555年)2月、百済聖明王は王子余昌を援助するため新羅に入り、戦死する。その後、欽明23年(562年)正月、新羅任那を滅ぼす。「任那復興」は自然消滅する。

 

 【第5章 朝鮮半島前方後円墳については、次回の第9回講演会で扱います。第5章を見た後、『通史』に戻り、『通史』の第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(p.146~)から始める予定です。

 次回は3月5日(日)午後1時から、「さいたま市宇宙劇場」で開催します。

                          (以上、HP作成委員会記)

      日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

第7回古代史講演会レポート

テーマ:倭の五王」と日本、半島の征服

日時: 令和4年(2022年)9月25日(日)午後1時~4時

  <最初に>

 友の会の斉藤さんから今回の講演の概要の紹介があり、次回の第8回(11/27(日))のテーマ「磐井の乱とその後」の連絡があった。

 

 「倭の五王」については、中国南朝の宋(420~479年)の国書である『宋書』などに明確に記載されている。名前が漢字一字で表されている「倭国」の五人の王である、讃、珍、済、興、武が410年代頃から百年ほどにわたり日本や朝鮮半島などを支配していたこと、珍は讃の弟で、兄興と弟武は済の子であることも記されている。

 

 『宋書倭国伝の中で、478年に最後の倭王武朝貢して上表した文書(「上表文」)が長く記されている。その現代語訳を一部記そう。「封国(倭国)は偏遠で、藩を外になしている。昔から祖禰(父祖)がみずから甲冑をきて、山川を跋渉し、ほっとするひまさえなかった。東は毛人(蝦夷アイヌ)を征すること五十五国、西は衆夷(熊襲・隼人)を服すること六十六国、渡って海北を平らげること九十五国。王道はむつまじく平安であって、土をひらき畿をはるかにした。代々、中国に朝宗し、歳をたがえあやまることはなかった。臣(倭王武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒をつぎ、統べるところを駆り率い、天極に帰崇し、…」(岩波文庫

 この「上表文」は、「卑弥呼」が書かれている魏志倭人伝ほどは知られていないが、「倭王」が五代に渡って力を尽くし、日本及び朝鮮半島を支配するようになったことが力強く述べられている。

 

 一方、日本の文献では、712年に提出されたとされている『古事記』、720年に完成されたとされる『日本書紀』が最も古いが、いずれにも倭王讃、珍、済、興、武の記載はない。

 「日本の歴史学」では、『記紀』に記された天皇が「倭の五王」に該当するとして、倭王讃応神天皇仁徳天皇などの説があり、倭王珍、済、興についても諸説がある。しかし、倭王武雄略天皇だけは間違いがないとして、これが現在、「日本の歴史学」の定説になっている。

 

 今回は、45ページに渡る説明資料、16ページの基礎資料が配布された。基礎資料は、『宋書倭国伝、松野連系図国会図書館マイクロフィルムに入っている資料を佃先生が20年前に見つけ、そのコピーを入手されたもの)、『古事記』に記された天皇の崩年干支の表、各地の古墳の編年表、石製表飾品や石棺の分布表など、佃説を裏付けるものになっている。

       (受付の沢山の資料)

 

【第1章 「倭の五王」の「倭国」の成立】

  <「貴国」の衰退と「倭讃・珍」の渡来>

 前回述べたように、364年「貴国」が筑前肥前を支配領域として樹立された。「貴国」はその後、朝鮮半島にも支配を拡大していく。高句麗の「好太王碑」に「辛卯年(391年)倭が海を渡り、百済新羅を臣民にした。」と書かれている。また、404年「倭は、不軌にも、帯方界に侵入し」407年、好太王は「歩騎五万を遣わし」、(倭と)「合戦し、斬殺蕩尽した。穫るところの鎧鉀(かぶとよろい)一万余領であった。」と記されている。「日本の歴史学」では、ヤマト朝廷が高句麗好太王と戦い、壊滅的な打撃を受けたとしている。「好太王碑」に記されている「倭」はヤマト朝廷ではなく、「貴国」であることをまず確認する必要がある。(後で見るように、瀬戸内海が啓海されるのは、5世紀後半(倭王興の時代以降)であり、この時代に近畿から朝鮮半島での大戦を戦うことはできない。)

 

 一方、中国の代表的な史書である『資治通鑑』によれば、卑弥氏の拠点の「倭城」がある「北平郡」で390年に大きな戦乱が起きている。

 この戦乱を避けるため、「倭讃・珍」の兄弟は、中国の大凌河上流の「倭城」から五島列島を通り、有明海に入り、「矢部川」を遡り、「福岡県八女郡広川町」に渡来し、この地域を拠点とする。

 

 「倭讃・珍」は、407年に壊滅的な打撃を受けた「貴国」を攻めて、410年頃、筑前肥前から「貴国」を追い出し、この地域を領土とする。「貴国」最後の天皇である仁徳天皇は難波(大阪)へ逃げる。「倭讃」は、412年頃広川町に「倭国」を建設し、直後の413年「晋」に朝貢する。(『晋書』安帝紀、『梁書』倭伝)「倭讃・珍」は卑弥氏であり、卑弥氏は卑弥呼のように、「倭国」を名乗り、「倭王」となる。


【第2章    「倭の五王」の在位】

  <「倭の五王」の在位>

  歴史を解明するには、時間と空間を解明することから始めるべきであり、最初に「倭の五王」の在位を確定することから始める。

(1)「倭王讃」の在位

 上に述べたことに加えて、「倭王讃」は421年、425年と宋に朝貢し、朝貢の後に讃が死んで弟の珍が立つとある。これらのことから、「倭王讃」の在位は「412年~426年」頃としてよい。

(2)「倭王珍」の在位

 「倭王珍」は430年、438年に朝貢している。443年には「倭王済」が朝貢しているが、「倭王」は即位すると直ちに朝貢していることから考えて、「倭王珍」の在位は「427年~442年」と考えられる。

(3)「倭王済」の在位

 「倭王済」は443年、451年、460年に朝貢している。『宋書倭国伝(462年)に「済死す。世子興、使を遣わして貢献す。…」とある。このことから、「倭王済」の在位は「443年~461年」であろうとする。

(4)「倭王興」の在位

 「倭王興」は462年、477年に朝貢している。478年には、上表文で有名な「倭王武」の朝貢がある。このことから、「倭王興」の在位は「462年~477年」であろう。

(5)「倭王武」の在位

 「倭王武」は478年に宋に朝貢し、502年に梁に朝貢している。「倭王武」の在位は「478年~502年以降」とすることができる。

 以上をまとめて、讃(412年~426年)、珍(427年~442年)、済(443年~461年)、興(462年~477年)、武(478年~502年以降)と整理する。

  <雄略天皇倭王武

 『日本書紀』では雄略天皇の在位は457年~479年である。『古事記』では崩年干支の「己巳」が記され、489年に死去したとされている。どちらを取るにせよ、倭王武の在位は502年以降も続いており、『記紀』に書かれた雄略天皇は、倭王武ではない。

 

 『日本書紀』雄略紀は457年~479年であり、倭王興の在位(462年~477年)とほぼ一致している。また、『宋書帝紀に462年3月「倭国王の世子、興をもって安東将軍と為す。」という記事がある。翌月の4月に呉(宋王朝)から使者が来る。倭王興にそのことを伝えるためである。一方、『日本書紀』雄略6年(462年)には「夏四月、呉国、使いを遣わして貢献する。」という記事がある。見事に、『宋書』と『日本書紀』の記事が整合している。

 このことなどから、『日本書紀』雄略紀は、倭王興の記録であると考えることができる。

 『日本書紀』雄略紀に、雄略8年(464年)身狭村主青(みさのすぐりあお)などが呉国に使いとして派遣された記事がある。次に、雄略10年(466年)身狭村主青などは、呉の献じた二つのガチョウをもって筑紫に到り、このガチョウは水間君の犬に噛まれて死ぬことが書かれている。身狭村主青などは、呉から帰国し「筑後の三潴(水間)」に上陸している。「筑後の三潴(水間)」から東に行くと「八女市」があり、「倭の五王」の本拠地がある。身狭村主青は「大和」に行くのではなく、「筑後」に帰ってきている。『日本書紀』雄略紀が倭王興の事績の記録であることを裏付けている。

 ここから、倭王讃、珍、済、興、武について順に見ていく。

 

【第3章 倭王讃

  <阿知使主(あちおみ)と『記紀』の年代>

 『日本書紀』応神20年9月、「倭漢の祖阿知使主(あちおみ)が其の子都加使主、並びに己のともがら十七縣を率いて来帰(く)る。」と書かれている。紀元前660年から始まるとされる『日本書紀』の年代では応神20年は西暦289年にあたる。この年の特定について、次に少し考察してみよう。

 

 『日本書紀』では神武天皇は127歳、崇神天皇は120歳、応神天皇は110歳まで生きたとされ(『古事記』でも優に百歳を越えている)、百歳を越える天皇は12人もいる。『日本書紀』の年代を史実と見る人はいないだろう。それでは、『記紀』に書かれた歴史的事件の年をどのように特定できるのか、という問題が生じる。佃説古代史では、『古事記』に記された特定の天皇の崩年干支に注目する。歴史学者の中でも、この崩年干支を基礎に自説を展開する人、崩年干支は余り信用しないほうがいいという立場の人がいる。応神天皇以降が信頼できるという人、雄略天皇以降が信頼できるという人と、学者によって見解はまちまちである。

 

 第10代崇神天皇の頃には、まだ日本列島に中国の干支に関する思想・知識が入っていないと思われるが、この第10代崇神天皇から第33代推古天皇までの中の15人の天皇に対してのみ、『古事記』に崩年干支が記されている。この崩年干支の記述を信頼するかどうかを一般的に論ずるのではなく、崩年干支が示す年を他の事件の年と比べて考察したり、中国や朝鮮半島史書に書かれた事件や年と比べて、崩年干支の年が信頼できるかどうか、検討していくのが佃説古代史である。(例えば、「古代史の復元」シリーズ④p214~)もちろん、同じ干支は60年ごとに現れるから、60年前後することの検討も必要になる。このような検討を加えた結果、推古天皇の崩年は信頼できない年になっており(75号「二つの「大化」年号」に詳述)、その結果をまとめたものが今回配布された「古事記の崩年干支」の表である。

 

 佃氏は『古事記』に崩年干支があるお陰で、日本古代史の実年代(定点)を知ることができる、と述べる。更に、『日本書紀』では特に応神紀と仁徳紀の時系列が混乱しているとして、考察を加え(「古代史の復元」シリーズ④)、応神20年は412年ころとする。

 

 ここで阿知使主の渡来に戻ろう。阿知使主が子の都加使主、並びに己のともがら十七縣を率いて来ているのは応神20年だったから、412年頃になる。このころは、倭王讃が「貴国」を追い出して、「倭国」を樹立した時期である。倭王讃が、中国から朝鮮半島へ逃げてきた人々を迎えている。

 

 『新撰姓氏録逸文に「阿智王(=阿知使主)が誉田(応神)天皇の御世、本国の乱を避け、母並びに妻子、同母の弟迂興徳、七姓の漢人等を率いて帰化する。」とある。続いて、「天皇、…、阿智王を号して使主と為す、仍りて大和国桧隈郡郷を賜り、之に居す。」また、「大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、落(村落)を挙げて随い来る。」とあり、「高向村主、…、飛鳥村主、…、牟佐村主、…、鞍作村主、…石村主…など(30の村主は)、是其の後なり。」と書かれている。

 大和に「桧隈郡」はなく、「桧隈」は佐賀県鳥栖市原古賀町の「日の隈(檜隈)」である。(79号参照)阿智王は肥前に来ている。肥前に30の村が誕生し、「飛鳥村」は「肥前の飛鳥村」であり、前に雄略紀のところで見た「身狭村主青」は「牟佐村主」の子孫であろう。

 

 応神37年に阿知使主は呉(宋王朝)へ派遣される。応神41年2月「天皇、明宮に崩ず。是月、阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等を乞う有り。故、兄媛を以って胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫国に在る御使君の祖なり。すでにして其の三婦女を率いて以て津国に至り、武庫に及ぶ。而して天皇、之に崩じ、及ばず。」と『日本書紀』にある。先に触れたように、応神紀では百済の直支王が死去したという記事の14年後の記事に直支王がその妹を朝廷に遣わしたという記事があるなど、時系列がまったく混乱している。このようなことを勘案すると、応神37年は422年であり、応神41年は426年となる。(「古代史の復元」シリーズ④参照)

 

 422年に中国の状況に詳しい阿知使主は呉王朝に派遣され、426年に帰国する。この時代は倭王讃の時代であり、倭王讃の命令によって派遣されている。帰国については、「呉より筑紫に至る」「津国に至り、武庫に及ぶ」とある。「津国」は島原半島であり、「武庫」は佐賀市諸富町諸富津である。有明海に入り、筑後川の「諸富津」に上陸している。倭王讃の本拠地である八女郡広川町に向かっている。「而して天皇、之に崩じ、及ばず。」とあるように、帰国報告をする直前に倭王讃は死去する。

  <称号「連」と倭王讃の墓>

 この後、物部氏の歴史を記している『先代旧事本紀』を考察して、「宿禰」の称号が「貴国」の称号であったように、「連」は倭王讃が制定した「倭国」の称号であることを述べる。

           石人山古墳頂上の石人

 

 「石人山古墳」は八女郡広川町にある全長130mの前方後円墳であり、5世紀前半の古墳である。頂上に「石人」が立てられていたことから、このように名づけられた。「倭王讃」は426年頃死去している。石人山古墳は倭王讃の墓であろう。「石人」は優れた石工技術で作られている。日本列島にはこのような石工技術は存在せず、倭王讃・珍が石工技術をもたらした。「石人・石馬」は肥後や豊後まで広がっており、「倭王権」が中部九州を支配していることを示している。

 

 倭王讃は、「倭城」から渡来した卑弥氏であり、八女郡広川町を本拠地とし、中部九州を支配して「倭国」を建設する。宋に朝貢して倭国の王として冊封を受け、阿知使主(あちおみ)などの渡来人を肥前に受け入れている。石人山古墳がその墓である。

 

【第4章 倭王珍

  <倭王珍朝貢と倭隋>

 426年に倭王讃が死去して、427年に弟の倭王珍が即位し、直ちに宋へ朝貢する。「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に除せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。」(『宋書』)

 

 珍は自らの官爵以外に、「倭隋」等十三人の将軍に対しての将軍号を求めている。筆頭の「倭隋」は「倭」という王族の姓を持っている。「倭王」と同族であり、佃氏は「讃・珍」と従兄弟ではないかとする。「平西」将軍とは、「西を平定する」将軍の意味であろう。

          復元された江田船山古墳の原型

 

 「江田船山古墳」は熊本県玉名郡和水町大字江田にある前方後円墳で、全長62m、盾形の周掘をめぐらし、円筒埴輪を樹立している。この古墳では追葬が2回行われていて、3人が埋葬されている。何れの埋葬でも副葬品に王冠があり、王の墓になっている。その時期は、初葬(古層)が5世紀後半、追葬(1回目)5世紀末~6世紀初頭、追葬(2回目)が6世紀後半となる。倭隋は倭王讃にも倭王珍にも仕えている。讃は426年に死去し、珍は442年に死去している。このことから倭隋が死去するのは「440年~450年」頃であろう。墓が作られるのは、5世紀後半になる。倭隋は「江田王」となって、江田船山古墳に初葬者として埋葬されている。

 

 石人山古墳の石棺は「妻入横口式家型石棺」である。石人山古墳の石材は熊本県菊池川下流域から運ばれてきている。菊池川下流域には、江田船山古墳がある。江田船山古墳の石棺も「妻入横口式家型石棺」である。「横口式家型石棺」は「倭王権」の石棺であり、有明海沿岸に多く分布している。倭隋は倭王讃の石棺を江田で造り、八女古墳群まで運んでいる。倭王讃の石棺の蓋には素晴らしい直弧文が彫ってある。

 

  <倭王珍による「西日本」の征服>

 菊池川下流域産石棺の分布を調べると、5世紀中葉に四国に運ばれていることが分かる。愛媛県蓮華寺石棺、香川県観音寺円山古墳の石棺などである。「倭王珍(427年~442年)」の時代に、西日本の征服が始まる。「平西将軍」の倭隋が実行し、「四国ルート」を支配した武将は、死去するとき、故郷の菊池川下流域から石棺を運んでいると考えられる。

                         古市古墳群


 古市古墳群大阪府藤井寺市から羽曳野市古市にかけて築かれた123基の古墳からなっている。4世紀末に津堂城山古墳が造られ、5世紀前半から中頃にかけて仲津山古墳、古室山古墳、誉田山古墳(現応神陵)、古市墓山古墳、市野山古墳がほぼこの順に造られたとされている。(古市古墳群HP)

 4世紀後半に、津堂城山古墳の主が「古市」地方を支配して、「古市王権」を樹立し、4世紀末に津堂城山古墳が造られる。その後、仲津山古墳、古室山古墳、誉田山古墳(現応神陵)、墓山古墳が造られていく。(71号「王権と古墳」参照)

 

 次に造られるのは、市野山古墳(5世紀中葉から後葉)である。この古墳には陪塚があり、陪塚から菊池川下流域産石棺である「北肥後Ⅰ型舟形石棺」が出土している。

 

 「江田王」は江田船山古墳を墓とした。「江田王の二代目」も倭王珍のもとで「平西将軍」を引き継ぎ、「四国ルート」を開拓し、大阪まで征服している。市野山古墳は、「倭国」の将軍である「江田王の二代目」の墓と考えられる。

 市野山古墳は、その前に造られた墓山古墳と同じ設計で造られている。「江田王の二代目」は「古市王権」を征伐した後、墓山古墳を造った工人に自分の墓を造らせているのであろう。

           [ ここで、10分間の休憩に入る ]

   倭王珍の墓>

 更に興味深いのは、大阪市茨木市にある5世紀中葉の太田茶臼山古墳(伝継体天皇陵)である。この古墳は、市野山古墳とまったく同形・同大である。外側には盾形の素晴らしい周濠がめぐっており、市野山古墳より上位の人物の墓と考えられる。倭王珍の在位は427年~442年であったので、その墓は5世紀中葉に造られる。この古墳の被葬者は倭王珍であり、「江田王の二代目」が墓山古墳の工人に造らせている。    

         盾形周濠が巡る太田茶臼山古墳

 

 倭王珍は「四国ルート」を開拓し、大阪府茨木市藤井寺市まで征服し、西日本を支配した偉大な王であり、太田茶臼山古墳がその墓であると言える。また、市野山古墳は「江田王の二代目」の墓である。

 

【第5章 倭王済

  <倭王済朝鮮半島

宋書』(425年)によれば、倭王珍は「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求」めた。しかし、宋からは「詔して安東将軍倭国王に除す」とだけ認められた。同時に、「珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に除せんことを求」め、これに対しては「詔して並びに聴(ゆる)す。」と認めた。

 

 一方、倭王済は443年に即位し、直ちに宋に朝貢する

宋書』(443年)「倭国済、使を遣わして奉献する。復た以て安東将軍倭国王と為す。」

宋書』(451年)「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東大将軍は故の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。」

 

 倭王済の最初の朝貢では、倭王珍の時と同様に認められなかったが、451年の朝貢では「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が宋から初めて認められている。

 宋に認められなかったが、倭王珍も「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求」めているのであり、すでに朝鮮半島に進出している。

 

 倭王讃・珍は390年頃、倭城から筑後の広川町に渡来している。この頃は「貴国」の全盛期であり、朝鮮半島に進出しているのは「貴国」である。その後、「貴国」は407年の戦いで高句麗好太王との戦いで壊滅的な敗北を喫した。倭王讃・珍は「貴国」を攻め、「貴国」の最後の天皇である仁徳天皇を追い出し、「貴国」の支配している土地は「倭国」の領土とする。(好太王は412年に死去している。)

 倭王珍は、「四国ルート」を開拓して、「西日本」の支配を拡大している。しかし、朝鮮半島での軍事的支配を拡大していく余裕はなく、「貴国」から支配を受け継ぐ以上のことはできていないと思われる。このような事情のため、宋は倭王珍による朝鮮半島の支配を認めなかった、と考えられる。

 

 『日本書紀』雄略8年(464年)「新羅王、人を任那王のもとに使わし曰く、「高麗王、我が国を征伐す。…伏して救いを日本府の行軍元帥等に請う」という。新羅王が「任那日本府」に救いを求めている。464年より前に「任那日本府」は設置されている。451年の朝貢で、倭王済新羅任那に対する支配が宋から認められていることからも、倭王済が「任那日本府」を設置していると考えられる。

 

 『日本書紀』欽明五年(544年)「三月、百済、…を遣わして上表して曰く、早く任那を建てるために日本府と任那とを召す。…久しくても来ず。…それ任那は安羅を以って兄と為し、唯その意に従う。安羅人は日本府をもって天と為し、唯その意に従う。」

この記事から、「任那日本府」は「安羅国」にあり、任那諸国(10国)を支配していることが分かる。

 倭王済が「任那日本府」を設置し、朝鮮半島を軍事的に支配している。このことを認めたため、宋王朝倭王済を「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に除している。

 なお、この中に百済が入っていないのは、百済は416年に「鎮東将軍」を、420年には倭王済より上位の「鎮東大将軍」の将軍号を宋から与えられているためである。

  <近畿地方の征服>

 5世紀代の近畿地方の有力古墳は河内地方に集中している。5世紀後半から河内地方では九州の菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺が入るようになり、5世紀末から6世紀初頭に阿蘇ピンク石製の舟形石棺が持ち込まれ、この段階では、もう菊池川産の石棺は入っていない。阿蘇ピンク石製舟形石棺は熊本県宇土市付近で造られた石棺である。配布された資料表3の「九州外阿蘇石製石棺の変遷」の表を見ると、阿蘇ピンク石製石棺は5世紀後半頃から始まり、最初に480年頃「備前」で埋納されている。

 

 『日本書紀』雄略7年(463年)に次の記事がある。吉備下道前津屋は少女を以って天皇の人とし、大女を以って己の人とし、相闘わし、もし、少女が勝つと殺したという。また、小鶏を以って天皇の鶏とし、毛を抜き羽を切り、大雄鶏を以って己の鶏とし、闘わせて、小鶏が勝てば刀を抜いて殺したという。これを聞いた天皇は、物部の兵士三十人を派遣して、前津屋および族七十人を誅殺したという。この記事は、「吉備」が支配されたことを表している。

 

 倭王興の在位は462年~477年である。興は即位すると直ちに「吉備」を征服する。480年頃「備前」に埋葬された阿蘇ピンク石製石棺は、「吉備」や「備前」の中国地方を征服して、そこに駐留した武将の墓と考えられる。

 

 倭王済の在位は443年~461年であり、後に第7章倭王武のところで詳しく述べるが、子である倭王武の在位は478年~525年である。武は461年以前に生れているから、64歳以上の長寿ということになる。このことから、倭王武は済が死去する直前に生れているのであろう。

 

 さて、江田船山古墳は筆頭将軍の倭隋の墓であった。倭隋は「平西将軍」として西日本を征服していた。江田船山古墳の「追葬1」に鉄刀が発見され、嶺に銀象嵌で有名な銘文が刻まれている。最初この銘文には読み取れない文字があったが、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文が昭和53年に解読され、それと照し合せた結果、この鉄刀の銘文が解読された。

 

 「治天下獲加多鹵(ワカタケル)大王世、奉事典曹人名无利弖(ムリテ)」で始まる銘文である。「治天下」である獲加多鹵(ワカタケル)大王」に「无利弖(ムリテ)」という名の「典曹人」が仕え、四尺延刀八十錬などを作る。この刀を服する者は長寿、子孫は三恩を得、其の統ぶる所を失わない、と書かれている。「典曹人」は「文官」である。最初の被葬者の倭隋は「武官」であったが、「追葬1」の被葬者の「无利弖(ムリテ)」は「文官」である。「追葬1」の年代は5世紀末~6世紀初頭である。「无利弖(ムリテ)」は埋葬される15年~20年前頃に活躍しているだろうから、活躍の時期は5世紀後半頃で、丁度「ピンク石製石棺」が出現する時期といえる。

 

 江田船山古墳の「追葬1」では、「獲加多鹵(ワカタケル)大王」に「无利弖(ムリテ)」が「典曹人」として仕えたとあった。第6章 倭王興で、埼玉古墳群の稲荷山古墳から発掘された鉄剣の銘文について詳しく論ずるが、この銘文は、被葬者が「杖刀人」として「獲加多鹵(ワカタケル)大王」に仕えたとある。「獲加多鹵(ワカタケル)大王」は、九州から関東までを支配している。このことから、「獲加多鹵(ワカタケル)大王」は倭王武と考えられる。兄の倭王興が即位したときはまだ赤ん坊か幼年であり、即位してからも少年時代の呼び名「ワカタケル(若武)」で呼ばれたのではないか、と佃氏は述べる。

 

 倭王済は征服活動のため近畿地方に来ている。幼い武(ワカタケル)を育てることができない。そこで、同族であり最も信頼のできる「倭隋」の子孫に養育を任せたいと考えた。そのために、「倭隋」の子孫を「武官」から「文官」にして、本拠地に招いた。それが「无利弖(ムリテ)」である。

 そのために「倭王権」の武官は「江田王」から「宇土王」に交代する。「宇土王」配下の武将は故郷の石棺であるピンク石製石棺を求める。これが、5世紀末から6世紀初頭に、菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺に代わって、ピンク石製の舟形石棺が持ち込まれるようになった理由と考えられる。

 

  <倭王済の墓>

 畿内における大型の前方後円墳は「河内」の「岡ミサンザイ古墳」を最後に築かれなくなる。「岡ミサンザイ古墳」は「古市古墳群」にあり、墳丘長242mで、円筒埴輪、形象埴輪があり、幅の広い盾形周濠がめぐっている。この古墳のHPでは5世紀末~6世紀初とされているが、Wikipediaでは5世紀後半となっている。

        盾形周濠が巡る岡ミサンザイ古墳

 

 古市古墳群は「江田王二代目」が征服し、市野山古墳は「江田王二代目」の墓であった。「岡ミサンザイ古墳」は市野山古墳の後に造られている。しかも、市野山古墳と同じ型の前方後円墳である「倭王権」の墓である。市野山古墳の墳丘長は230mであるから、これより大きく、「倭王権」の「王墓」と考えられる。「岡ミサンザイ古墳」は宮内庁から仲哀天皇の陵とされているが、「倭王済」の墓とするのが妥当である。

 

 倭王済は、朝鮮半島での支配を拡大し、「任那日本府」を設置している。宋王朝から初めて「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に除された。その墓は、河内の「岡ミサンザイ古墳」である。

         

【第6章 倭王興

  <倭王興の征服>

 前章で触れたように、興は即位すると直ちに「吉備」を征服する。中国地方を征服すると、「四国ルート」に代わり港が大きい「中国地方ルート」を確保でき、大軍を派遣することが可能となる。倭王済は「宇土王」に近畿地方の征服を命じている。倭王興は父の意思を継いで近畿地方の征伐を進める。

 

 『日本書紀』雄略17年(473年)3月に次のような記事がある。天皇は土師連に、朝夕の食事を盛る清浄な器を作る者を進上するよう仰せられ、「土師連の祖である吾筍(あけ)は摂津国の来狭狭村、山背国の内村・附見村、伊勢国の藤形村、及び丹波・但馬・因幡の私の民部を進(たてまつ)る。」前に述べたように、雄略紀は、倭王興の事績を述べたものである。この記事から分かるように、倭王興は473年以前に、摂津、山背、丹波、但馬、因幡などの日本海沿岸地方を征服している。

 

 河内(近畿地方)では、5世紀末になると、菊池川流域の舟形石棺に代わって阿蘇ピンク石製舟形石棺が入ってきた。九州外阿蘇石製石棺の分布(高木恭二1993)を見ると、宇土半島産石棺の項目に、金谷ミロク谷石棺(桜井市)、兜塚石棺(桜井市)、野神石棺(奈良市)などがある。5世紀末の「宇土王」の武将の墓だと思われる。倭王興は、中国地方を開拓すると、日本海沿岸地方、近畿地方まで征服している。

 

 次に群馬県(上毛野)にある多くの古墳群を見て、A~Eの5つの古墳群に分類する。A:高崎市浅間山古墳を中心にした古墳群(5世紀初)B:太田市の太田天神山古墳を中心にした古墳群(5世紀前半)C:高崎市の不動山古墳を中心にした古墳群(5世紀後半)D:高崎市保渡田地方の二子山古墳を中心にした古墳群(5世紀末)E:前橋市の前二子古墳を中心にした古墳群(6世紀)である。

 Cグループの岩鼻二子山古墳、不動山古墳は「舟形石棺」である。この石棺は形状は少し異なるが「北肥後Ⅰ型」である。故郷の石棺で埋葬されたいと願うが、玉名から運ぶのは大変なので、関東の石工に作らせたと思われる。Cグループは「熊本県玉名」から派遣されて、高崎市に来て、Aグループ、Bグループ(古市王権)を征服していったと考えられる。5世紀後半、「倭王権」は高崎市まで侵攻している。

 Dグループの二子山古墳などから「舟形石棺」が出土している。「倭王権」の「江田王」が造る石棺であり、やはり「玉名」から来ている。この古墳が誕生すると、群馬県の他の地域での古墳の築造が終わる。Dグループは本格的な討伐隊であろう。

 Eグループの古墳は「Ⅲ型前方後円墳」であり(76号)、「倭王権」の古墳である。このグループの進出により群馬県内の古墳は「横穴式石室」となる。このグループは、Dグループも吸収して、群馬県全域を支配する。

 

 「舟形石棺」から「江田王」の子孫が関東地方を征伐していることが分かる。倭王興は、関東地方に来ている。倭王興は「中国地方ルート」を開拓し、日本海沿岸地域、近畿地方、東日本を征服した偉大な「大王」である。

 

  <継体天皇と今城塚古墳>

 今城塚古墳は古墳時代後期(6世紀前半)の淀川流域では最大級の前方後円墳で、総長350mあり、墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されている。この古墳は継体天皇の墓であると言われている。『古事記』に継体天皇の崩年干支と年齢が記されている。これによれば、484年に生まれ、527年に43歳で死去している。年代的にも合致しており、今城塚古墳は継体天皇の墓と考えられる。

ところが、この古墳から「阿蘇ピンク石製石棺」の破片が出土している。そうすると、この古墳は「宇土」出身の「王」の墓ということになる。こうなる事情を考察してみよう。

 

 『日本書紀継体天皇即位前紀に次の記述がある。継体天皇の父は振姫が美人であることを聞いて、近江国高嶋郡三尾の別業(別邸)から使いを遣わして三国の坂中井に聘(むか)えて妃と為す。遂に(継体)天皇を生む。「継体天皇の父」は別邸で天皇を生んでいて、「継体天皇の父」の出自は明らかにされていない。

 今城塚古墳からは、「宇土のピンク石片」と「二上山白石片」「竜山石片」が採取されており、「宇土のピンク石製石棺」が最初に納められたという。「継体天皇の父」は「宇土」の出自ではないだろうか。「宇土」から「近江」へ派遣されて、死去するとき「宇土」から石棺を取り寄せているのではないか。

 

 一世代23年~25年として、継体天皇の崩年から見てみると、「継体天皇の父」は502年~504年くらいに死去していることになる。50歳で死去したとすると、生れは450年頃になる。460年頃に倭王済は「宇土王」に近畿地方の征伐を命じている。「継体天皇の父」は10歳くらいである。そうしてみると、「宇土王」は「継体天皇の祖父」と考えられる。

 「継体天皇の祖父」が「宇土王」ではないだろうか。30歳くらいで「宇土王」に任命されている。480年頃死去して、「継体天皇の父」に後を引き継いでいる。その後、「継体天皇の父」は活躍して、500年頃死去して、今城塚古墳が造られる。故郷の宇土から「阿蘇ピンク石製石棺」が運ばれた。したがって、継体天皇は父の今城塚古墳に追葬されたことになる。

  <倭王興の墓>

 埼玉古墳群には、丸墓山古墳、稲荷山古墳、二子山古墳など多くの古墳がある。「5世紀末から6世紀末の100年間にわたって、狭い地域に大型古墳群が周濠を接するような近さで、一貫した計画性を以って次々と築造されたのは何故か。大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、巡らされているのは何故か。中堤(ちゅうてい)に造り出しを持つ古墳が多いのは何故か。」とHPに記されている。

   

     稲荷山古墳


 その中で、金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳は全長120m、5世紀末の築造で、前方後円墳の後円部の頂上から2つの埋葬施設が発見された。一つは粘土槨で、もう一つは船の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けその底に棺を置いた礫槨(れきかく)である。礫槨からこの金錯銘鉄剣と多くの遺物が出土しており、馬具や武具の出土から、被葬者は武人であったことが分かる。

 

 この鉄剣には金象嵌の銘文が剣の表と裏に刻まれている。「辛亥年七月中、記す。乎獲居(オワケ)の臣。上祖、名は意冨比垝(オオヒコ)其の児、多加利足(タカリノスクネ)…、世世、為(なり)杖刀人の首と、奉事し、来至今(きたりいまにいたり)、獲加多支鹵(ワカタケル)大王…作(つくらしめ)此(の)百錬(の)利刀(を)記(す)吾(が)奉事(の)根原(を)也」と読まれている。

 

 祖先の「意冨比垝(オオヒコ)」から始まって、8代目に当たる「乎獲居(オワケ)の臣」が、代々「杖刀人の首として、奉事し」、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の治天下を」助けた。「此(の)百錬(の)利刀(を)」を作って、「吾(が)奉事(の)根原(を)記す、というものである。

              金錯銘鉄剣

 「意冨比垝(オオヒコ))=「大彦」である。「大彦」は「倭城」の「卑弥氏」で、285年頃、崇神天皇を遼西から日本に連れてきた人物で、崇神天皇のもと越の国で四道将軍となっている。「大彦」の子孫では倭城に留まった人も居た。「倭讃・珍」は390年頃、倭城から筑後の八女郡広川町に来て、「倭国」を樹立する。関東地方は「倭王権」が征服している。したがって、「乎獲居(オワケ)の臣」は「倭王讃・珍」とともに「倭城」から逃げてきた人物の子孫と考えられる。

 

 鉄剣が出土した稲荷山古墳の礫槨は古墳の頂上に造られており、「追葬墓」である。2016年にレーザー探査が行われた。後円部の中軸線上の深さ2.5mのところに長さ4m、幅3m、厚さ最大1mの石棺がある。巨大な石棺が埋められており、王の墓と思われ、稲荷山古墳の主の石棺である。この古墳の築造が5世紀末、倭王興の在位が462年~477年であることを考えると、稲荷山古墳は倭王興の墓であろう。金錯銘鉄剣が出土した礫槨は追葬であり、鉄剣に刻まれた「辛亥年」は531年である

 

 この「辛亥年」を「歴史学」「考古学」では、60年前の471年としている。鉄剣には、「乎獲居(オワケ)の臣」は、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が天下を治めるのを助けた、と刻まれている。「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」=「倭王武」が即位するのは478年であり、471年にはまだ即位していない。大王は天下を治めているのであるから、「辛亥年」は531年である。

  <倭王興百済

 475年に百済高句麗に滅ぼされる。『日本書紀』雄略二十一年(477年)三月、「天皇百済が高麗の為に破られると聞いて、久麻那利(くまなり)を以て汶州王に賜いて其の国を救い興す。」

 

 倭王興はその年の477年に「埼玉」で死去して稲荷山古墳に埋葬される。倭王興は「汶州王」に朝鮮半島の土地を与えて百済を再興する。倭王興は関東にいるから、報告を聞いて、指示を出していたのだろう。興は本拠地(八女市)にいる「弟のワカタケル」と何度も連絡を取り合うことになる。それが、百済再興に「2年」かかった理由ではないか、と佃氏は述べる。

 

 倭王興は、瀬戸内海の「中国地方ルート」を開発し、関東まで支配を拡大し、稲荷山古墳に埋葬される。また、朝鮮半島の土地を与えて、高句麗に征服された百済を再興する。

 今回はここまでで、この続きの第7章 倭王武は、次回(第8回)に講演される。

                             (HP作成委員会記)

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

第8回古代史講演会のご案内

<日時>  2022年(令和4年) 11月27日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      (東武アーバンバークライン(東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 磐井の乱」とその後

<内容>  

 「磐井の乱」(辛亥年・531年)とその後の混乱について講演いただきます。

 「磐井の乱」の始まりは「新羅に破られた南加羅などを復興する」ためであったと言われている。しかし「南加羅金官国)」が新羅に服するのは532年である。また、「磐井の乱」は「継体天皇」が「物部麁鹿火」を派遣して「倭王」を伐った事件であると言われているが、「継体天皇」はすでに527年に死去している。これらのことから「磐井の乱」の始まりの記述は『日本書紀』の捏造であることが分かる。

 「物部麁鹿火」には「倭王権」の臣下の称号「大連」が付いている。「磐井の乱」は臣下の「麁鹿火」が主君である6番目の倭王「葛」(松野連系図では「哲」)を伐った事件であった。

 「物部麁鹿火王権」は倭王権を倒したが、朝鮮半島の「任那日本府」や任那諸国は支配できずにいた。「任那日本府」にとって「物部麁鹿火王権」は主君を伐った憎い存在であったからでもある。そして「任那復興」は終焉に向かう。「物部麁鹿火王権」は531年に始まり、「三代目」の552年に終わる。

 『日本書紀』は「倭の五王」の「倭王権」、「物部麁鹿火王権」、それに続く「俀国(阿毎王権)」を抹殺し、大和朝廷での出来事として記している。日本の歴史の真相をしっかり掴みたい。

[参加される方は『早わかり「日本通史」』の他、前回の第7回講演会の資料もご持参ください。]

 

<講師>   佃收先生

<費用>   資料代として500円、本代『早わかり「日本通史」』1,000円(希望者)

<申込方法> 次の方法でお申込ください

                              ① 「友の会ホームページ」より送信フォームで

                              ② ①の方法でできない場合、「普通ハガキ」で

   (「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」 

    参加の他、氏名・住所・電話番号を明記)

  ※ 締切期日:11月20日 申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただ

    き、抽選にもれた方のみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先>   斉藤 048-853-6728

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

第7回古代史講演会のご案内

<日時>  2022年(令和4年) 9月25日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      (東武アーバンバークライン(東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 倭の五王」と日本、半島の征服

<内容>  

 410年頃から531年にかけて日本列島を統括した「倭王権(倭の五王)」についてお話しいただきます。

 390年頃に、中国遼河上流の倭城から「讃・珍」が筑後に渡来して、「倭の五王」の「倭国」を樹立する。『宋書』に見る「倭王武」の上表文によれば、478年までには日本列島及び朝鮮半島までを支配する。

 「倭国」は日本列島を統一した最初の王権であるが、辛亥年(531年)の「磐井の乱」で物部麁鹿火に討たれて衰退し、その後消滅する。

 定説では「獲加多支鹵大王=倭王武雄略天皇」とする。しかし、雄略天皇の崩年は479年(日本書紀古事記では489年)であり、「倭王武」は502年に梁に朝貢している。雄略天皇≠「倭王武」である。また、継体天皇が辛亥年(531年)に物部麁鹿火を派遣して「筑紫国造」を伐つと記紀に記述されているが、これは継体天皇の崩年(527年)からあり得ない。「磐井の乱」は臣下の物部麁鹿火が主君「筑紫君(倭王葛)」を伐った下克上である。

 また、「倭王興・武」と金錯銘鉄剣及び埼玉県行田市の稲荷山古墳との関連を説く佃説は大変興味深く、聞き逃せない。

<講師>   佃收先生

<費用>   資料代として500円、本代『早わかり「日本通史」』1,000円(希望者)

<申込方法> 次の方法でお申込ください

                              ① 「友の会ホームページ」より送信フォームで

                              ② ①の方法でできない場合、「普通ハガキ」で

   (「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」 

    参加の他、氏名・住所・電話番号を明記)

  ※ 締切期日:9月15日 申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただき、

   抽選にもれた方のみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先>   斉藤 048-853-6728

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

 

 

 

 

 

第6回古代史講演会レポート

テーマ:倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い」から阿智王の渡来まで

2022(令和4)年7月24日(日)午後1時~4時

     (博物館は深い緑に囲まれている)

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の内容について話された。(1)志賀島で発見された金印で有名な倭奴国は、狗奴国になり、後に熊襲と呼ばれるようになった、(2)『日本書紀』に記載されている「貴国」は日本に実際にあった国である、(3)神武東征は神話ではなく実際に歴史上に起こった、(4)崇神天皇は中国東北地方から渡来してきた扶余の王子である。

 私たちが通常の社会科の授業などで習ったことと大いに違っていることに驚かれるかもしれない。しかし、じっくりと話を聞き、学んでいってほしいと続けられた。

 

 なお、次回第7回講演会は9月25日(日)午後1時から開催され、最後のところで佃先生が自らお話になられたように「特別講義 倭の五王がテーマである。途中、斉藤さんから光武帝倭奴国に贈った金印のレプリカの印影が配られた。

            

<邪馬壹(台)国と他の国々との戦い>

 前回の復習を少しした後、『三国志倭人伝の記述について説明する。「…相攻伐暦年、乃共立女子為王。名曰卑弥呼。」卑弥呼は「共立」されて王となる。「共立」の意味について、『三国志』で使われている他の事例を確かめ、「王や王になるべき人物が居るのに他の人を王に立てる場合に使われている」とする。「相攻伐暦年」と記されているように、すでに北部九州に成立していた伊都国と、朝鮮半島から逃げてきた倭国の人々は戦っている。伊都国王に対抗して、渡来人の卑弥呼は王になる。そのため「共立」と記されている。

 

 卑弥呼は『三国志倭人伝の中で、「王」、「女王」、「倭王」、「倭女王」と別々の表記がされている(全部で20回)。佃氏は、景初2年6月に魏に朝貢する以前はすべて「王」または「女王」と記され、それ以後はすべて「倭王」または「倭女王」と記されていることをしっかり見なければならない、と指摘する。「倭国」は景初2年(238年)以前には、朝鮮半島にあった。卑弥呼が238年に朝貢して、初めて日本列島に「倭国」が成立した。このことを陳寿は書き分けている。

 

 次に、原文の『三国志倭人伝に記されている景初2年6月の魏への朝貢を、景初3年6月と書き換えてしまう歴史学者が多いことを指摘する。朝鮮半島南部を支配している公孫淵親子が滅ぼされるのは景初2年8月だから、景初2年6月にはまだ、大夫難升米等は帯方郡に行くことはできない、という論旨からである。しかし、魏の明帝は景初2年6月には、帯方郡を平定していることが、『三国志』韓伝の記述から明らかになり、このことは成り立たない。原文を勝手な推測で変更してはならないことを強調する。

 

 『日本書紀』に「卑弥呼」という名は、は全くでてこない。ところが、神功皇后紀摂政39年に「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等、至郡…」という小書二行の割注が突如載る。『日本書紀』も「景初三年六月」としている。しかし、明帝は景初三年正月に崩御しており、「明帝景初三年六月」と記すこの記事もあり得ない。(もともと、卑弥呼神功皇后は全く違う時代の人物であるが…)

 

 次に「狗奴国」について考察する。

光武帝に金印を賜った「倭奴国」は「不彌国」に追われて筑紫野市隈に移住する。さらに、「奴国」と「不彌国」の間を通り「福岡市南区筑紫野市小郡市」に住み着き、朝鮮半島南部から逃げてきた「倭国」に追い出されて、さらに「朝倉市」に逃げる。「倭国」と「倭奴国」の戦いが始まる。

 

 正始8年(247年)卑弥呼帯方郡に使いを遣わし、魏に「狗奴国」との戦いの様子を説明する。「狗奴国の男王卑弥弓呼と素より不和」とある。「卑弥弓呼」とは、「卑弥氏の弓呼」ということから分かるように、同族の「卑弥氏」であり、戦う相手を同族としたくないために、卑弥呼は「倭奴国」を「狗奴国」として、魏へ報告したと考えられる。

 

 魏は「張政」を倭国に派遣する。「張政」は247年に来て、266年に帰国する。約20年間倭国に居て、「狗奴国」との戦いを支援している。「狗奴国」との戦いを報告した直後頃に、卑弥呼は戦死する。

 

 一方、「倭国」と伊都国王権の戦いは、卑弥呼朝鮮半島から逃げてきたとき、「倭国」が勝利し、卑弥呼は伊都国王権を監視する。伊都国王権の中心国である「伊都国」には「一大率」を常駐させて伊都国王権の国々を検察している。「一大率」は(中国の)「刺史」のようだと記している。

 

 卑弥呼が死去した後、「更に男王を立てるが国中不服。更に相誅殺す。時に当たり千余人を殺す。復た卑弥呼宗女壹與年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。」とある。国と国との戦いであり、「倭国」と「伊都国」が戦っている。十三歳の壹與が立って、王と為り、国中遂に定まる。「倭国」が勝利し、「伊都国」は再び破れ、国を挙げて東に逃げる。これが、「神武東征」となる。

         

          (ここで、10分ほどの休憩に入った)

<邪馬壹国の滅亡>

 神武東征の前に、邪馬壹国の滅亡について述べる予定であったので、休憩後は、邪馬壹国の滅亡から始まる。

266年、壹與は、大夫率善中郎将掖邪狗等20人を遣わし、多くの貢物を携えさせ、張政を送る。この記事で、『三国志倭人伝は終わる。その後、「倭国」も「壹與」も中国の史書に出てこない。

 

 『契丹古伝』に、「…辰之墟を訪ねるに、…逸豫(いつよ)・臺米與民率為末合」と記している記事がある。「空山にほととぎすが叫び、風や川は冷たい。…彼の丘は是れ誰が行くかを知らず、弔人なし。…」女王壹與(逸豫)(いつよ)は国を捨てて逃げ出している。「倭国」の地は廃墟になっていて、訪れる人もいない。

 

 4世紀になると、北部九州には「熊襲」と記される人々がいる。「狗奴国」が「倭国」との戦いに勝利し、「倭国」を追い出して北部九州を支配するようになる。このことからも「狗奴(くな)」が「熊(隈)(くま)」になり、「熊襲」になったと考えられる。同志社大学の故森浩一先生も、熊襲は狗奴国ではないか、と述べているようである。

 

※ 佃説では、邪馬壹国(「倭国」)は、「狗奴国」に敗北し、この段階で滅んだとする。一方、邪馬壹国は東に移動して、ヤマト朝廷になったとする説の歴史学者は多い。『古事記』や『日本書紀』に卑弥呼や邪馬壹国が全く出てこないのは、邪馬壹国とヤマト朝廷が全く別系統の王権であることを示している。この点でも、邪馬壹国東遷説は妥当性を欠くと思われる。同じ系統の王権であれば、大切な自分たちの祖先のことを詳しく記述するのだろう。

 

 邪馬壹国の「壹」は漢音では「イト」と読むが、呉音では「イツ」と読む。有名な『邪馬台国はなかった』を書いた古田武彦先生は、邪馬壹国を「ヤマイチコク」と読んでいるが、佃説では「ヤマイツコク」と読む。その点で、卑弥呼の次の女王壹與(イツヨ)であり、これが『契丹古伝』では逸豫(イツヨ)となっている。

 

国名の「邪馬壹国」は世界中の歴史書で、『三国志倭人伝に一回出てくるだけである。女王国は、景初2年6月に魏に朝貢した後に「倭国」として正式に認められたが、それ以前は固有名がなかった。陳寿は、すでに有力な「伊都(イツ)国」が海岸近くにあり、それに対して女王国は山の方にあるので、「山の方にあるイツ国」という意味で、女王国を取りあえず「邪馬壹(やまいつ)国」の名前で表わしたのではないだろうか、と佃先生は私見を述べられた。

        

<神武東征>

 ここから、神武東征に戻る。「倭国」と「伊都国」が戦い、勝利した「倭国」が、266年魏に朝貢している。敗れた「伊都国」は国を挙げて東に移り、平安に暮せる土地を求める。神武天皇を含む4人の兄弟は一緒に「伊都国」を出発する。長子は五瀬命神武天皇は末っ子の4男である。「五」(イツ)、伊都(イツ)国、であるから、五瀬命は「伊都国の瀬(イツの瀬)」の意味である。

 

 神武天皇の一行は、安岐国(広島県)や吉備(岡山県)に長期間滞在し、瀬戸内海を通って、大阪に到る。「浪速(難波)」の「草香=日下(くさか)」で登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦う。『日本書紀』では、「川を遡りて、ただちに河内国草加邑の青雲の白肩津に至る」とあり、『古事記』では「ここに御船を入れていた楯を取りて下りて立てる。故、其の地を楯津という。今は日下(くさか)の蓼津(たでつ)というなり」とある。東大阪市に日下(くさか)町がある。日下は生駒山の西麓にあり、陸地であって、船で行けるような所ではない。

 

 本居宣長も『古事記伝』のなかで、「遡流而上(カワヨリサカノボリテ)と云ることいと心得ず。草加はたとひ河内の草加にしてもより遡流て至る処にあらず。甚だ地理にたがえり。」と『記紀』の記述に疑問を呈している。

ところが、1972年に発表された梶山氏と市原氏の研究論文で、後氷河期の9つの時代に区分された大阪平野の古地図を見ると、この時代に確かに河内湖が日下まで広がっている。『記紀』の記述は神武東征の史実を正確に伝えていることが分かる。

 

 神武東征のルートについて、『記紀』は日下から「熊野」に来たと記している。一般に「熊野」は「和歌山県新宮市」に比定されている。しかし、佃氏は、新宮市から吉野川に行けるような道はないとして、「熊野」は海南市であり、「熊野(海南市)」から「貴志川」を下って「紀ノ川」へ出ているとする。

 

 紀伊国伊都郡があること、見田・大沢4号墳に三種の神器が出土し、絹は弥生時代には北部九州しかないのに、この鏡が絹で包まれていることなどを説明した。(詳しく知りたい場合は、『新「日本の古代史」(上)』所収46号論文「伊都国と「神武東征」」参照)

 

 佃氏は、『記紀』の記述から、神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳であるとする。この古墳からは、80面以上の鏡が出土している。

一方、既存の日本史では、神武天皇の墓は、幕末に橿原神宮に隣接する地とされ、明治になって、ようやく神武天皇を祀る橿原神宮が創建されている。

 

 『記紀』の神武東征は、五瀬命神武天皇の兄弟ばかりが登場するが、『宮下文書』では、父「第51代神皇」のことが書かれている。『宮下文書』によると、神武東征のとき、父「第51代神皇」は「伊都国・斯馬国」の人々を連れて安住の地を求めて三重県に来ている。そこに、故郷と同じ「伊勢・志摩」という地名をつけた。父「第51代神皇」は長男の五瀬命が戦死したことを聞き、「伊勢崎の多気の宮に着御ましましき」とある。三重県多気郡に着いた。その後、父親王は戦死して五十鈴川に埋葬される。博多湾岸の「伊都国」に五十鈴川がある。「伊都国」の人々が三重県に来て同じ名前を付けている。伊勢神宮の由来が、神武東征についての『宮下文書』から理解できる。神武東征は史実である。

        (ロビーから見える森の中の彫刻)

 

崇神天皇

 少しの休憩の後、崇神天皇について語られる。まず、『晋書』に書かれた鮮卑の慕容廆についての記述を見る。慕容廆は父の死(284年)のうらみをはらすために武帝に宇文鮮卑を討つ事を願い出る。しかし、武帝は許さない。それを怒り、慕容廆は遼西に入り殺戮をする。また、東に扶餘を伐ち、扶餘王依慮は自殺して、依慮の子を立てて王とする。

『桓檀古記』大震国本紀には、次のように書かれている。正州の依羅国は都を鮮卑慕容廆のためにやぶられる。依羅国の王子「扶羅」は衆数千を率いて逃げ、白狼山を越え、海を渡り、倭人を定めて王になる。依羅王は鮮卑にやぶられて海に入り、還らず。

崇神天皇は『古事記』に崩年干支が書かれた最初の天皇である。この時代に干支を使っているのは中国だけであるから、崇神天皇は、中国からの渡来人と見ることができる。「戌寅年十二月崩」とある。「戌寅年」は318年である。崇神天皇は扶餘の王子「扶羅」であり、284年のすぐ後に渡来し、318年に死去している。

 

 崇神天皇(扶餘の王子扶羅)は瀬戸内海に入り、大阪に来て、淀川を遡る。武埴安彦軍と木津川を挟んで対峙し、戦闘に入る。「その地は屍骨が多く溢(はふ)れり。故、その地の処を号して羽振苑(はふりその)という」と、『日本書紀』に書かれている「羽振苑(はふりその)」は京都府相楽郡精華町祝園(ほうその)である。

 

古事記』に「御陵は山辺の道の勾(まが)りの岡の上に在るなり」と書かれていることから、天理市柳本町字アンドにある「行灯山(あんどんやま)古墳」が崇神天皇陵であると言われてきた。現在の「山辺の道」の位置からこのように比定されたのだろうが、この「山辺の道」は真っ直ぐであり、『記紀』の記述と合っていない。「椿井大塚山古墳」は、木津川が直角に曲る岡の上にあり、『記紀』の記述に合致している。またこの古墳からは、30数面の鏡、小札革綴冑(日本で最初に現れた鉄製冑)、中国製と推定される長大刀などが出土している。崇神天皇は渡来して京都府木津川山城に住み着き、その墓は「椿井大塚山古墳」である。

次に駆け足で、「貴国」に移る。

 

神功皇后、「貴国」>

 仲哀天皇は、熊襲と戦い戦死する。崩年干支は壬戌年(362年)6月であり、崩年干支があることから中国からの渡来人であることが分かる。仲哀天皇の後を継いだのが、神功皇后であり、『日本書紀』では「気長足姫尊」、『古事記』では「息長帯日売命」と記されている。「足=帯(たらし)」は「多羅の」を意味し、仲愛天皇神功皇后も中国からの渡来人の「多羅氏」である。

 神功皇后は、「橿日宮(香椎宮)」を出発して、「御笠」「安(夜須)」を通り、「筑後の山門」へ行き、引き返して「(肥前の)松浦縣に到る」。これが、熊襲征伐ルートである。熊襲征伐により、364年に「貴国」が樹立される。「貴国」の範囲は筑前肥前であり、「貴国」の天皇肥前にいる。

 『日本書紀』応神3年(392年)の記事に「百済の辰斯王立ちて貴国の天皇に礼を失す。故、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わし、其の礼なき状をせめる。是により百済国は辰斯王を殺して謝す。紀角宿禰等は阿花王を立て王と為し帰る。」とある。392年には、「貴国」は百済より強い国になっている。

 高句麗の「好太王碑」に「辛卯年(391年)倭が海を渡り、百済新羅を臣民にした」と書かれている。「好太王碑」に書かれている「倭」はすべて「貴国」のことであることが分かる。

 

 この間「貴国」内では、神功皇后が372年ころ九州から大和(佐紀)へ逃亡する。新たに「筑前王」となった「武内宿禰」によって、追い出される。神功皇后の墓は佐紀盾列古墳群の五社神古墳と言われている。また、「武内宿禰」も398年に「貴国の天皇」に追い出されて、和歌山を経由して奈良県御所市へ逃げる。室宮山古墳が「武内宿禰」の墓である。

 

 高句麗好太王と戦っていた「貴国」は「好太王碑」に書かれているように、407年朝鮮半島で壊滅的な敗北を喫する。410年ごろ「貴国」は滅びる。「貴国」の最後の天皇である「仁徳天皇」は肥前から難波に逃げて「難波の堀江」を造り、「河内湖」の水を大阪湾に流して広大な土地を得る。「仁徳天皇」は繁栄をして堺市の「大仙古墳(仁徳天皇陵)」に埋葬される。

 

 この間、390年ごろ中国大凌河上流の「倭城」から「讃・珍」が筑後に渡来して、「倭国」を樹立し、「貴国」の支配権を奪っていく。「倭の五王」の「倭国」が成立していく。

        

<次回(9/25)について>

 「阿智王」が呼び寄せた人々は「貴国」があった肥前に住み着き、肥前に30の村ができる。この後「阿智王」の渡来について話す予定であったが、時間がなくなってしまった。「阿智王」の渡来については、次回以降の適当なときに話すこととしたい。

 

 さらに、次回(9/25)のことを考えると、「倭の五王」についての特別講演とすることに今決めたい。倭の五王 讃・珍・済・興・武は、例えば、武=雄略天皇のように崩年が全く異なる日本の天皇に比定されている。今まで、「倭の五王」をキチンと説明した人がいない。次回は、十分な資料を用意して、詳細に「倭の五王」を解き明かす「特別講義 倭の五王」としたい。是非期待してください、と佃先生は力強く話され、3時間の講演を終えられた。(以上、HP作成委員会記)

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

第6回古代史講演会のご案内

<日時>  2022年(令和4年) 7月24日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

      (東武アーバンバークライン(東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い」から阿智王の渡来まで

<内容>  

 狗奴国のあった位置、倭国と伊都国王権、狗奴国の戦い、神武東征(逃亡)、崇神天皇の渡来、貴国の樹立、阿智王の渡来などについて佃説を披露していただきます。

 「倭奴国」は57年に後漢から金印を賜った直後頃に、半島から渡来してきた「不彌国」に追われ、「筑紫野市隈」へ移住する。更に220年~230年頃には半島から渡来してきた「倭国」に追い出され、「朝倉市」へ逃げる。

 「狗奴国」は「狗奴国の男王卑弥弓呼」であることから、「卑弥氏」であり、元の「倭奴国」であると考えられる。

 「貴国」という表現は『日本書紀神功皇后紀、応神天皇紀に11回出、『続日本紀』にも出てくる。ところが、「日本の歴史」に「貴国」という国は登場しない。しかし、「貴国」は熊襲征伐をして北部九州に樹立されて、「364年~410年」頃まで肥前南部に実在した国である。

 有名な朝鮮半島の「好太王碑」に書かれた「倭国」はすべてこの「貴国」のことである。また、「宿祢」という称号は、「日本の歴史」によく出てくるが、「宿祢」は「貴国」の称号である。「貴国」という国は、「日本の歴史」に欠かすことができない重要な国であるということができる。

<講師>   佃收先生

<費用>   資料代として500円、本代『早わかり「日本通史」』1,000円(希望者)

<申込方法> 次の①または②の方法でお申込ください。

①「普通ハガキ」

    (「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会-「古代文化を考える会」-宛て」 

      参加の他、氏名・住所・電話番号を明記)

②「友の会ホームページ」

  ※ 締切期日:7月15日 申込多数の場合(定員81名)は抽選とさせていただき、

   抽選にもれた方のみ別途ご連絡させていただきます。

<問合せ先>   斉藤 048-853-6728

    日本古代史の復元 -佃收著作集-

第5回古代史講演会レポ―ト

テーマ:倭人(卑弥氏)の渡来

2022(令和4)年4月29日(金)午後1時~4時

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の3点の重要項目のこと、次回は7月24日(日)に予定されていること、友の会に多くの人が入会されることが望まれることなどの話があった。

   

 今回は講演の資料以外に三国志』濊(ワイ)伝以下東夷伝までの4枚のコピーが全員に配布された。冒頭、佃先生から「『三国志』については様々な資料があるが、一番信頼性が高いとされている資料のコピーなので各自大切に保管して、書き込みする場合は、これのコピーに書くとよい。」という説明があった。

<講演>

 第3回、第4回講演で「倭人(天氏)」の移住、天孫降臨について話されたので、それに続いて、今回のテーマは次の内容であった。

   第1章 「倭人(卑弥氏)」の移動

   第2章 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

   第3章 卑弥呼の渡来

 

第1章「倭人(卑弥氏)」の移動

 前221年に始皇帝は秦を樹立する。この前、「天氏」は「大凌河下流域」に、「卑弥氏」は「大凌河上流」にある「倭城」に居る。

 前200年頃、漢が大凌河周辺まで攻めてくる。「天氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に移り、「高天原」を建国する。「卑弥氏」は「大凌河上流」から「大凌河下流域」に下って、「天氏」の国を譲り受け、漢に応戦していることが『契丹古伝』の文書から確認できる。

 前50年頃、漢は支配を強化し、そのため「卑弥氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に逃げ、「倭国」を建設する。同じ倭人でも「倭国」を名のるのは「卑弥氏」だけであり、「天氏」は「倭国」を名のらない。『三国志』韓伝、弁辰伝に「倭国」が出てくるが、これは朝鮮半島の「倭国」であり、「卑弥氏」の国である。

 朝鮮半島の「倭国」から一部が博多湾沿岸に渡来している。『後漢書』に、57年に後漢光武帝から金印をもらったと書かれている「倭奴国」は「卑弥氏」の国であることが、「松野連系図(卑弥氏)」からも確認できる。

 

 最近真贋論争が起きている「倭奴国」の金印は江戸時代に志賀島から発見されて、古代史の議論に大きな影響を与えている。金印は急斜面の畑の石囲いの中から発見されており、見つからないようなところに埋めてあったことなどから、本物であると考えることが妥当である。そうすると、「倭奴国」は滅ぼされたために金印を隠したと考えられる。

 『三国志倭人伝に、「不彌国」がでてきて、「倭奴国」が在った博多湾沿岸に「不彌国」がある。一方、『三国志』韓伝にも「不彌国」が記載されている。倭人伝の「不彌国」は、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部の人々が渡来して建国した分国であり、この「不彌国」が「倭奴国」を滅ぼしたと考えることができる。「倭奴国」は、「不彌国」に追い出され、「筑紫野市隈」へ逃げている。(このことについては次回触れる)

   

 

2 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

 九州北部では、「倭人(天氏)」は吉武高木遺跡に天孫降臨し、その子孫が糸島市に移り、「伊都国」を樹立している。神皇は、須玖岡本遺跡に降臨して神都とする。「伊都国」は漢王朝朝貢し、鏡や璧(へき)をもらっている。それは大量の鏡や璧が三雲南小路遺跡ほかの王墓から出土していることからも分かる。

 一方、紀元0年頃、1章で見たように朝鮮半島の「倭国」の一部が渡来する。博多湾沿岸に「倭奴国」を樹立し、「神都」を滅ぼし、57年に光武帝から金印を賜る。その直後頃、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部が博多湾に渡来し、「倭奴国」を追い出して「不弥国」(不彌国)を樹立する。

 「倭奴国」を追い出した「不弥国」は、200年頃までには「伊都国」に支配されている。『三国志倭人伝の記述で、「伊都国」にだけ王が居て、他の国には共通の副官「卑奴母離」(ひなもり:辺ぴなところを守る意味か)がいる。「卑奴母離」は「不弥国」他の国を監視している。70年~80年頃、「伊都国」は「不弥国」を討伐して、「伊都国王権」を樹立していると考えられる。

 

 朝鮮半島では、後漢時代に入り、107年「倭国王帥升」は後漢朝貢する。「倭国王帥升」は朝鮮半島南部にいた「倭人(卑弥氏)」の王である。その後、桓帝(147~167)と霊帝(178~183)の末に朝鮮半島で「韓国」と「濊国」が近隣諸国を荒らしまわる。「倭国乱」はこのとき朝鮮半島の「倭国」が乱れたことを表わしている。

 

 また、このとき多くの人々が日本列島に渡来している。「濊」に追い出された人々は朝鮮半島の東側を南下して、「山陰」「北陸」「四隅突出型墳丘墓」を造る。

 

 「韓」に追い出された人々は瀬戸内海に入り、岡山県「楯築墳丘墓」を造る。

 

 その後、朝鮮半島では204年に公孫度が死去して、公孫康が位を継ぎ、帯方郡を設置し、「韓」と「倭」を伐つ。

 

 この直後に、奈良県桜井市纏向纏向遺跡が突如として出現する。「庄内式土器」と呼ばれる土器様式が「纏向遺跡」とともに日本列島に初めて出現する。また、この遺跡からはベニバナの花粉が出土しており、ベニバナは3世紀の日本列島にはない。これらのことなどから、纏向遺跡を築いた人々は公孫康に追われて、朝鮮半島から渡来していることが分かる。

 

 第3章 卑弥呼の渡来

 『三国志』韓伝では、「倭は韓の南にある」と述べ、弁辰伝では「倭は弁辰の西隣にある」と述べているように、韓伝、弁辰伝の記述での「倭国」は朝鮮半島にある。後漢時代以降に「倭国」は朝鮮半島から北部九州に移っている。『三国志倭人伝は、「天氏」のように北部九州にすでに住み着いている「倭人」と「卑弥氏」のように後漢時代以降に渡来した「倭人」の記録であり、日本列島(北部九州)での記述となる。

          (ここで、10分間の休憩に入る)

           

 『三国志倭人伝の記述では、次の文「其国本亦男子為王住七八年倭国乱相攻伐暦年乃共立女子為王名曰卑弥呼」で初めて、女王卑弥呼が登場する。この文では、従来「倭国乱相攻伐暦年」が続けて解釈されてきた。しかし、佃説では、「倭国乱」の後に句点が打たれている意味であり、「倭国乱」と「相攻伐暦年」を別のこととして解釈しなければならないとする。「倭国乱」は霊帝の末(180年)頃の朝鮮半島南部の倭国のことであり、「韓国」が「倭国」を侵略したので、「倭国」は乱れていることを表わしている。「相攻伐暦年」は朝鮮半島南部から北部九州に移った「倭国」についてのことであり、すでに北部九州に渡来していた伊都国王朝と「倭国」との戦いを意味している。

 

 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島にあった。その後「倭国」は北部九州に移る卑弥呼朝鮮半島の「卑弥国」の出自で、名を「呼」という、あるいは「卑弥氏」で名を「呼」というと考えられる。220年~230年頃に、「倭国」は朝鮮半島南部から北部九州に移動して「伊都国王権」と戦い、「卑弥呼」が女王に共立されて勝利し、238年「卑弥呼」は魏に朝貢して「親魏倭王」の称号を得る。朝鮮半島の「倭国」が完全に消滅し、「卑弥呼」の北部九州の国が正式に「倭国」となる。

 

    (レジュメではここまでの予定であったが、時間があるので、

    「通史」を使って、邪馬壹国の位置についての内容に進んだ。)

          

 『三国志倭人伝に書かれている通りに辿って行くと、帯方郡から女王国までちょうど12,000里となる。辿っていく行程で、「行」の字が使われている場合は、実際に行く行程を表し、「行」の字がなく方向だけが示されている場合は行かないことを意味している。また、「到」の字は目的地に到ることを意味し、「至」の字は目的地ではないことを意味していると解釈する。

 

 女王国より以北の国々については戸数・道里を略載することができると書かれており、玄界灘に面した「末盧国」「伊都国」「奴国」「不彌国」の南に邪馬壹国はある。

 

 そのように考えていくと、邪馬壹国は「福岡県南区~小郡市」までにあり、邪馬壹国の都は「小郡市」にあり、卑弥呼の墓は「津古生掛古墳」と検証できる。

『新「日本の古代史」(上)』p.335~「私案「卑弥呼の墓」-津古生掛古墳と「径百餘歩」‐」に詳しく論じられている)

 

 今回の内容はここまでであり、次回(7月24日(日))にこの続きが話されることになった。                     (以上、HP作成委員会記)

 

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