第4回古代史講演会のご案内

1 日時   令和2年3月1日(日)午後1時~4時


2 場所   埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂
                    (東武アーバンパークライン 大宮公園駅下車)


3 テーマ 

                 『渡来後の「倭人(天氏)」と「日本語」の起源』

 

4 その他
         (1)参加費
           資料代として、500円をお願いします。
         (2)参加連絡
           これまでに参加されたことのある方は、参加連絡は不要です。

           新たに参加される方は「普通はがき」での参加連絡(第1回の

           案内参照)または、「友の会ホームページ」を通しての連絡によ

          りお申し込みください。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  佃收玉名講演会

  

第3回(12/1)倭人(天氏)の渡来(天孫降臨)

 <最初に>

 今回も、古文書「宮下文書」や吉武高木遺跡などの考察するため、参加者全員にA-4用紙27ページの資料が配布された。『埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会』「古代文化を考える会」の会員の方々が印刷し、受付で参加者全員に配られている。また、佃先生の本も販売され、会員の方々のご尽力により講演会は支えられている。   

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 今回は、「天孫降臨」を実証的に考察する。現代の歴史学の通論では、初代神武天皇から第9代開化天皇までを架空とみなし、第10代崇神天皇から実在とみなすようだ。また、第15代応神天皇より前の天皇は史実ではない、という説を述べる学者もいる。戦前・戦中の皇国史観からの反動もあり、「天孫降臨」や「神武東征」は史実ではなく、神話だというのが歴史学の常識とされてきた。
 一方、「天孫降臨」は史実だと主張する歴史家はいるが、古い地名の解釈に基づいているだけであったり、古い史跡との関連をイメージ的に指摘する程度のものが大部分である。
 文献からキチンと考証し、遺跡等からの物的証拠からも検証する説は、極めて稀である。佃氏は1、2章で文献からの考証をし、3、4章で遺跡等からの検証を行なっている。今回の講演内容は、『新「日本の古代史」(上)』33号論文p.15~39、『新「日本の古代史」(下)』70号(2)論文p.575~592に概要が述べられているが、新たに考古学的な資料や考察が加えられている。今回の資料が必要な方は、「古代文化を考える会」の事務局に頼めば、入手できるのではないか。

<第1章  『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」>

 最初に、『日本書紀』や『古事記』に書かれている「天孫降臨」の様子を、資料をもとにして確認する。
日本書紀』には、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に、日向の襲の高千穂峯に天降らせた、とある。「一書に曰く」という書き方で、他の説も併記しているが、まとめれば「日向の〇〇の高千穂峯」に降臨したと書いている。
 『古事記』では、高御産巣日(たかみむすひ)神と天照大御神が、邇邇藝命(瓊瓊杵尊 ににぎのみこと)に詔命して、天孫降臨させたとある。『古事記』の方が天孫降臨の場所を具体的に記している。(1)韓国に向かい、(2)笠沙の御前に真来通り、(3)朝日の直刺す国、(4)夕日に日照る国、とある。この条件を満たす地は「福岡市西区の飯盛山付近」と考えられる。室見川の支流に日向川が流れていて、近くに「日向峠」があり、現在でも「日向(ひなた)」の地名がある。
 ただ、『日本書紀』や『古事記』の神話では、出てくる神の名前が、必ずしも一致せず、独り身の神に子が生れるなど、曖昧な記述であることは読んだ人は誰しも感じるところである。      

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<第2章 「倭人(天氏)」の移住(『宮下文書』)>

 『宮下文書』は、天皇家の歴史を『日本書紀』や『古事記』の歴史よりはるかに古い時代から記述している。最初に天世天之神七代(第1神朝)があり、その次に天之御中主神(あめのみなかぬし)を初代とする天之御中世火高見神十五代(第2神朝)が続き、第2神朝の最後の高皇産霊神(たかみむすひ)の第5子の国常立命(くにとこたち)と第7子の国狭槌命(くにさつち)が高天原世天神七代(第3神朝)の始まりとなり、「高天原」を建国している。『古事記』では、天之御中主神(あめのみなかぬし)から始まり、『日本書紀』は、国常立尊(くにとこたち)から始まるが、『古事記』に記された「五柱の別天神」が書かれていない。『宮下文書』では、どの神とどの神が結ばれてどの神が生まれてきたかが、矛盾無く、実に整合的・体系的に記述されている。秦の徐福が原本を書いたとされ、この部分については検討の余地があるだろうが、神皇の系譜がキチンと示されており、むしろ『日本書紀』や『古事記』の記述は、『宮下文書』の記述を摘み食いして書かれているような感じさえ受ける。


 佃氏は、『宮下文書』に記された「天孫降臨」についての記述を注視する。『宮下文書』の豊阿始原世地神五代(第4神朝)の初代は天照大御神であり、この第三代目が邇邇藝命(ににぎのみこと)である。邇邇藝命の時代に「西北大陸」からの侵攻があるが、苦戦しながらも何とか敵を撃退している。次の第四代目日子火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の時に再び「西大陸」から外冦がある。日子火火出見尊は、多くの神々を集め議論し、次の代(第五代目)の日子波瀲武鵜葺不合尊(ひこなぎさたけふきあえずのみこと)に譲位して、高天原から筑紫に天下り(侵攻し)、神都を附地見島(筑紫)に移すことを決意する。


 「軍勢を二手に分ち、附地見島、東の水門より攻むる大将は、元帥火照須(ほてるす)命、副帥武甕槌命・稚武王命、軍勢5萬餘神とし、他の一軍は、附地見島、南の水門より攻むる大将は、元帥火須勢理(ほすせり)命、副帥経津主命建御名方命、軍勢5萬餘神とす。」と書かれている。「二手」の「附地見島、東の水門」とは、博多湾筑前)であり、元帥火照須命とし、他方の「附地見島、南の水門」とは、有明海肥前南部)であり、元帥火須勢理命とする。火照須(ほてるす)命、火須勢理(ほすせり)命はともに、邇邇藝命(ににぎのみこと)の子であり、日子火火出見尊(ほほでみのみこと)の兄弟で、日子波瀲武鵜葺不合尊(ふきあえずのみこと)の伯父に当たる。
 戦いに勝利し、附地見島(筑前肥前南部)を支配したので、神皇日子波瀲武鵜葺不合尊は、「高天原から附地見島の新宮に天下りましまし給う。…其御船の初めて着きましし水門を津久始(つくし)初古崎(はこさき)とそ名つけける。」と書かれている。日子波瀲武鵜葺不合尊は、附地見島に天下り、最初、筥崎宮がある福岡市箱崎付近に上陸している。


 『記紀』より具体的に述べられている。更に、佃氏は、前200年頃に国常立命や国狭槌命が高天原を建国したことと『宮下文書』が示す系図などから考えて、「天孫降臨」の時期は、前後に余裕を見て「前140年~前110年」頃との説を示す。

<休憩の後、「歴史研究のあり方」について>

 2章までで1時間話され、この後15分の休憩を取り、休憩の後に第1回講演会の時に説明した「歴史研究のあり方」をもう一度確認した。歴史研究の基本は、科学的かつ論理的に、年代と場所を解明することから始めなければならないが、「情報(データ)」は多いほど史実に近づく、と述べる。検討もしないで、「偽書」として排除したのでは、自ら情報量を少なくして、史実に立脚した歴史認識を諦めているようなものである、と語る。
 更に、文献の解釈には「解釈の誤り」が意外と多いことから、「歴史認識」には「物的証拠」が必要であることを強調し、「遺跡・遺物」、「地形・地質」、「地名」等を取り入れて、「文献」と照合すべきであると述べる。
 今回の講演では、『記紀』だけでは分からないことが、第2章で『宮下文書』を考察することで明確になり、次の第3章の吉武高木遺跡や須玖岡本遺跡などを考察することで、「物的証拠」との照合ができる。
 尚、『神皇紀』(『宮下文書』)は、神奈川徐福研究会・神皇紀刊行部会から現代語訳が出ている。また、長年『宮下文書』に取り組まれた故鈴木貞一氏が書かれた『日本古代文書の謎』(大陸書房は、古い本ではあるが古本を手軽に入手することができ、比較的読み易いのではないかと思う。

<第3章 「倭人(天氏)」の渡来」の「検証」>

 初めに、『記紀』や『宮下文書』では、天孫降臨した天氏の邇邇藝命(ににぎのみこと)がどの様に埋葬されたと書かれているか、を見る。『日本書紀』には、「天津彦彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)崩ず。因りて筑紫の日向の可愛の山稜に葬す。」とある。『古事記』には記載がない。『宮下文書』には次のように書かれている。「火照須尊は高天原の金山の陵より吾父母即ち天孫二柱の御霊・剣・鏡を日向の可愛の山裾の長井宮に遷し祀りき。後、霊・剣・鏡をその宮の西の可愛の山稜に葬りぬ。」
埋葬したところは、両方とも「日向の可愛の山稜」としている。しかし、『宮下文書』には、火照須尊の両親である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と木花之咲夜媛(このはなのさくやひめ)の「御霊・剣・鏡」を「高天原」から掘り起こして、「日向の可愛の山裾の長井宮に遷し祀り」、その後に、「その宮の西の可愛の山稜に葬りぬ」と書かれている。   

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 「福岡市西区の飯盛山」の山裾(「日向の可愛の山稜」)に位置している吉武高木遺跡は、1980年に畑の整備のための発掘調査が開始され、1984年に34基の甕棺墓と4基の木棺墓、大型の建物跡が発掘され、注目を集めた。特に、3号木棺墓からは、多鈕細文鏡、細型銅剣、細型銅矛、細型銅戈、勾玉、管玉(三種の神器)が出土しており、「日本最古の王墓」であると言われている。4基の木棺墓の中で、この3号木棺墓だけは他のものと異なり、「祭壇」をそのまま埋めているような形状である。また、副葬品が崩れていないことから、遺体が埋葬されていたのではなく、遺体の代わりに藁人形のようなものが置かれていたのではないかと考えられる。
 大型建物は紀元前2世紀頃のもので、我が国で最古・最大の大型建物であると言われ、この建物の「真西」に、上に述べた3号木棺墓が位置している。この建物は『宮下文書』の「長井宮」と考えられる。
 『宮下文書』に書かれている通りの遺跡が、吉武高木遺跡である。『宮下文書』は、紀元前2世紀の様子を驚くべき正確さで記述している。  

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     ※ 吉武高木遺跡は2012年から「やよいの風公園」と名付けられ、子供を連れたお母さん方や犬の散歩をする方々に利用されている広々とした公園となっている。実際に出土した位置に甕棺墓や大型建物の説明のパネルが配置されている。


 次に、須玖式土器や粘土帯土器の分布、鋳造鉄斧の製作技術、甕棺KⅠc式の分布圏などを考察し、「前140年~前110年」に倭人(天氏)が朝鮮半島南部から北部九州に進出し(天下り)、日本列島の「弥生時代前期」が終わり、「弥生時代中期」が始まることを裏付けているとする。


 須玖岡本遺跡は、弥生時代中期前葉以降、突如として集落数が増加するとともに、多数の甕棺墓群が形成され、他地区から移動してきた集団によって計画的に作られた、とされている。春日丘陵の一帯はすでに1000基ほどの甕棺が発見されているが、副葬品をもつ甕が集中するのはこの須玖岡本遺跡のみである。須玖岡本遺跡の大石の下に埋められていた甕棺の内外には、前漢鏡30枚、細型・中細型銅剣、銅戈、銅矛、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉などの副葬品があり、「王墓」である。この時期に、この地方に大勢が移動してきたのは倭人(天氏)であるから、須玖岡本遺跡の「王墓」は日子波瀲武鵜葺不合尊(ふきあえずのみこと)の墓であろうと、佃氏は指摘する。


 また、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓からは甕棺14基が発掘されている。この墳丘墓の中心の甕棺は長さ2.5mもあり、現在国内最大であり「古い形式に属す」とされている。「天孫降臨」の「南の水門より攻める」軍は元帥火須勢理命とあるが、火須勢理命高天原に戻っているという記述が『宮下文書』にあるので、この甕棺は副帥経津主命の墓だろうと佃氏は述べる。


 KⅠc式の甕棺は、朝鮮半島南部の甕棺であり、弥生時代前期末の短期間に「筑前肥前南」まで一斉に埋められている。この地方に、朝鮮半島南部から多くの人々が渡来している証拠である。甕棺墓は吉野ヶ里遺跡だけで2000基以上、須玖遺跡でも1000基以上、筑紫野市の隈・西小田遺跡でも1500基以上が出土し、甕棺墓の総数は1万基を越える。甕棺墓で埋葬されるのは支配層であり、一般の人はその数十倍、数百倍であることを考えると、『宮下文書』に「5万+5万」の人々が渡来したと書かれているのは誇張とは言えない。
 続いて、「倭人(天氏)」は日本列島に「日本語」をもたらしたと述べ、これは次回の講演会のテーマとする、と語った。

<第4章 「倭人(天氏)」の渡来の年代」の「検証」

                 f:id:kodaishi:20200126212340j:plain 壱岐の図

 壱岐原の辻遺跡についての2008年のシンポジウムで、次のことが報告されている。弥生時代中期前葉(前2世紀後半)に濠に囲まれた居住域と濠の外側に墓域が存在する「原の辻大集落」が成立する。祭儀場、船着場など、全体計画に基づいた大土木工事が行なわれ、青銅製の鏃や前漢の貨幣、中国製銅剣、ヤリガンナ・刀子などの鉄器、玉類、管玉、ガラス小玉などが出土している。ちょうど「天孫降臨」の時期に、朝鮮半島または中国東北部から壱岐への計画的な移住が行なわれたことが確認できる。佃氏は、「日本の考古学」は「弥生時代の年代」をここまで正確に言えるようになったと、評価している。
 一方で、国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏が、吉武高木遺跡の年代を紀元前4世紀~前3世紀としていることに言及し、これは遺跡から出土した「遺物」から年代を決めているのであり、考古学ではやってはいけないことであると苦言を呈する。前に見たように、吉武高木遺跡3号木棺墓は邇邇藝命の墓と考えられ、副葬品は高天原に埋められていたものを掘り返して、吉武高木遺跡に埋められている。副葬品と遺跡の年代が異なるはずである。併せて、藤尾氏と同じ本の中で説を展開している李昌熙氏の「弥生時代中期」の始まりの時期も誤りである、と指摘した。

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 今回は余った時間で、2件の質問があった。

〇<『宮下文書』で、「西北の大陸」からの侵攻があると書かれているが、誰が、どのような理由で攻めて来たのか。>


 衛氏朝鮮が攻めて来ている。その理由については、次回に話す予定にしているので、次回の講演を聞いてほしい。


〇<『宮下文書』は誰が書いたのか。それは信用できるのか。>


 大勢の人が書いたのではないかと、考えている。書いてあることは、どこから引用したかがすべて示されている。遺跡と一致している、見事に一致している、と言える。でたらめな文書とは考えられない。ただ、書いてあることがすべて正しい訳ではなく、自分なりに検証する必要がある。むやみに引用することは危ない。実際、神武天皇の前のウガヤフキアエズ朝が51代続いていたと書いてあり、1代20年としても、ウガヤフキアエズ朝は1000年以上続いたことになり、この点については信用できない。
朝鮮半島では紀元前に、伊都国では1世紀に硯石が出土している。漢字ではない文字があったのではないかと考えられ、何らかの形で、記録するということが行なわれていたのではないか思われる。 

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   佃收玉名講演会

 

 

第2回(9/1)倭人(天氏)と高天原

<最初に>

 会場の「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は、有名な建築家前川國男さんが設計された、時間の流れと奥ゆきを感じさせる建物です。(下写真)

 初めの20分は前回講演の大きな流れを復習しました。今回は、紀元前1200年頃に長江流域に居たとされる倭人が、東表地方から渤海沿岸を経て、朝鮮半島南部に至り、紀元前200年頃に高天原(泗川)を建設するまでの経緯を中国などの古文書、『宮下文書』などを手掛かりに、解明していくものです。中国や朝鮮半島での遺跡等の発掘がまだ十分でないことなどもあり、現段階では古文書を中心に考察していく以外ありません。尚、余り知られていない古文書については、HP作成委員会が一般的な説明の注を添えました。

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<第1章  倭人「卑弥氏」>

 前回、『魏略』(注1)が「倭人は呉の太伯の後裔である」と記していることを確認した。今回は、『新撰姓氏録(注2)が「松野連(むらじ)」(注3)呉王夫差より出る、と記している記事から始まる。倭人たちは、初代太伯が建てた呉という国に住んでいた。夫差は第7代目の呉王で「呉越の戦い」で越に敗れた最後の呉王である。『新撰姓氏録』にも、「松野連」という氏族はこの第7代目の呉王夫差から始まっている、と記されている。更に、「松野連系図(注4)をたどって見ると、「松野連」は卑弥氏であることが分かる。「松野連」(卑弥氏)は呉地方から日本列島に渡来していることを確認できる。


 次に、『山海経(注5)の記述から、卑弥氏は呉地方から黄河下流域に移動したことが分かり、『水経注』(注6)の記述より、その後渤海沿岸に移り、大凌河上流に「倭城」を建国していることが分かる。


 注1 『魏略』・・・陳寿の書いた『三国志』(魏志倭人伝を含む)とほぼ同じ時代の西暦280年頃に、魚豢(ぎょかん)が書いた魏の歴史を記した私撰書。現在、完本は残っておらず、他の本に逸文が見られるのみである。「『魏略』にいう。…」という形の『三国志』の裴松之による注が多く出てくる事からも、魏志倭人伝を論ずる時必ず言及される本で、陳寿はこの『魏略』を参考に『三国志』を書いたという説もあれば、逆に『魏略』は『三国志』を参考にして書いたハンドブックのようなものであるという説などがある。

 注2 『新撰姓氏録』・・・平安初期に嵯峨天皇空海の時代の天皇)が万多親王らにまとめさせた、天皇家が編纂したもので、京及び畿内に住む1182氏の出自を「皇別」335、「神別」404、「諸蕃」326、その他117に分類して、その出身地、祖先、同属などを明らかにした書。日本古代史族の研究には欠かせない史料である。現在、本文は残っておらず、抄録本だけが残っている。詳しい内容はインターネット等で見ることができる。
 注3 「松野連(まつのむらじ)」・・・前の『新撰姓氏録』の「諸蕃」(右京)の中に記載されている日本の(倭の)一氏族である。
 注4 「松野連系図」・・・明治時代に古代豪族の系図を私的に蒐集研究してきた系図研究の第一人者である鈴木真年氏が蒐集した系図の中に、「松野連」の系図が発見された。これには、「松野連」は姫氏であり、呉王夫差を始祖とし、戦国時代の武将松野正重までの系図が記載されている。現在、この系図国会図書館で見ることができ、静嘉堂文庫所蔵系図としても残っている。
 佃收氏は『「新「日本の古代史(中)』(P.300~319)で、「松野連系図」に関する研究を詳細に述べている。この研究により、「委奴国」、「狗奴国」、「熊襲」、「倭の五王」が「卑弥氏」であることが判明したとする。これは、佃氏のHPで全文見ることができる。また、佃氏が国会図書館で得たコピーもこの本の中に載せられている。尚、この部分へは、HP上で『新「日本の古代史」(中)』の下の詳しく見るをクリックし、1章関連論文を読むというボタンから入ります。
 注5 『山海経(せんがいきょう)』・・・中国最古の地理書で前4~3世紀にかけて成立したとされる。もともと絵地図と解説文の組み合わせで、中国人の伝説的地理認識を示したと言われている。古い時代に絵地図も失われ、本文もそのままの形では伝来していず、後世に編集がされていると言われている。
 注6 『水経注(すいけいちゅう)』・・・中国の地理書。3世紀成立の『水経』に6世紀初めに道元が自身の地理的体験を注として加え、各地の河川の水系と流域の歴史などを詳細に記述している。

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<第2章 中国東北地方の古代史1(周~戦国時代)>

 『魏略』、『契丹古伝』(注7)、『史記』は三書ともに、箕子朝鮮(きし)が燕(今の北京付近を都とする古代国家)との戦いに敗れ、東に退き、燕が城塞を築いたことを記している。これが「燕の長城」であり、時期は前284年頃である。
続いて『契丹古伝』は、殷(=箕子朝鮮)が大凌河を越えて燕を伐ち、孤竹にまで至り、殷の失地を回復したと述べる。この記事によって、箕子朝鮮の位置が確定し、「燕の長城」の位置と燕の五郡(上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡)の位置が分かる。また、『史記』は、秦が「秦・趙・燕」の長城」を利用して「万里の長城」を築いたことを記し、「万里の長城」は「臨洮より起こし遼東に至る」とする。「遼東」は「燕の遼東郡」であり、「燕の遼東郡」は遼水の東にあると記している。


 ここで大きな問題が発生していると、佃氏は指摘する。上の「遼水」は、『契丹古伝』の記述などでも分かるように、碣石山の西を流れる灤河(らんが)である。しかし、今までの中国の学者も日本の学者も、医巫閭山(いふろさん)の南側を流れ、渤海の一番北側の部分に流れ込む大凌河があるが、更に大凌河の東に「遼河」があり、この「遼河」を「遼水」であると誤解している、とする。そのため、秦・漢の時代の「万里の長城」の位置が間違っていて、この「万里の長城」の東側が大凌河の付近まで達していたり、遼寧省の遼陽市や鴨緑江まで伸びているものもある。こうなった理由については、中国では最近になって実地調査・発掘を行なうようになったが、長い間文献資料による研究であったためではないか、と佃氏は述べる。詳しい内容については『倭人のルーツと渤海沿岸』(佃收著「古代史の復元」シリーズ①)の第2章以降に詳述されており、HPで全文読むことが出来る。ここには、秦・漢の時代の「万里の長城」の誤まった位置の図も参考に載せられている。また、『新「日本の古代史」(上)』の中の論文「中国東北地方の郡の変遷」(p.41~73)にも詳しい記述がある。ここでは、中国や日本の学者が、なぜ秦・漢の時代の「万里の長城」の東端の位置を間違えたのかについての端的な説明もある。
 『契丹古伝』は更に、秦が燕を滅ぼしたため、箕子朝鮮は燕を破った後に再び東に退いて、大凌河の東に移っていることを記している。
 前回学んだように、「倭人(天氏)」は箕子朝鮮と氏族間の「婚姻」の状態にあり、箕子朝鮮と行動を共にしている、したがって倭人(天氏)」も燕と戦い、その後大凌河の東に移っていると考えられる。


注7 『契丹古伝』・・・日露戦争中の明治38年奉天(現在の瀋陽)郊外の黄寺(ラマ教寺院)に駐屯中の兵站経理部長の浜名寛祐(はまなひろすけ)は奇妙な巻物を見せられた。元はある古陵墓より出土した秘物であったが、兵禍を恐れて、同寺院に保管されていたという。漢文で書かれているが、漢学者の家に生まれて漢文が堪能な浜名にも理解することはできなかった。これを書写した浜名寛祐は、20年以上の歳月をかけて研究し、大正15年に『契丹古伝』と名付けて発表した。2980字の漢字が羅列されているこの文書は、10世紀初頭に成立した契丹国(遼)の名臣耶律羽之(やりつうし)が古くからの民族の神話や歴史等を撰録したものであるとされている。アカデミックな学者たちには偽書とする意見が多いが、モンゴル、中国、朝鮮半島、日本などからなる東アジア地域の伝承の宝庫として、今後の再評価が待たれる異色の古代文献でもあると高く評価する学者もいる。

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<第3章 中国東北地方の古代史2(前漢時代)>


 「倭人(天氏)」は大凌河の東に国を作ったが、それまで大凌河の上流の「倭城」に居た「倭人(卑弥氏)」にこの国を譲った、と『契丹古伝』は述べる。更に、それから日が経たないうちに、漢が攻めてきたが、「倭人(卑弥氏)」は漢を撃退した、と記す。漢は大凌河までを支配領域としたかったが、「遠く守り難い」ので万里の長城を修復し、バイ水までを支配領域とした、と記している『史記』の記述と合致している。
 その後、前195年に、もと燕の人だった衛満がバイ水から大凌河までを支配領域とした「衛氏朝鮮」を樹立する。長城の外で蛮夷を押さえ、諸蛮夷が漢に朝貢するときは邪魔をしないという約束を、「衛氏朝鮮」は漢と交わしている。ところが、衛満の孫の右渠(うきょ)の代になると、右渠はこの約束を守らなくなり、漢は「衛氏朝鮮」の都の「王険城」を陸と海から攻める。「船を渤海に浮かぶ」という『史書』の記事などから、「王険城」や「万里の長城」が渤海沿岸に在ることが分かる。更に、「王険城」はバイ水の東にあることも記事から分かる。このバイ水は、『史記』や『水経注』で、「東に流れて海に入る」と記されていることから、佃氏は、バイ水=興城河であるとする。

 従来は、「衛氏朝鮮」の「王険城」は朝鮮半島の「平壌市」であると言われ、中国、韓国、日本でもそれが定説になっている。ところが、今述べ、図7で示しているように、渤海沿岸のバイ水は東に流れ、「衛氏朝鮮」は大凌河の西にある。それ故、真番朝鮮や旁衆国が漢への朝賀することを妨害できたのであり、もし「衛氏朝鮮」が「平壌市」に在ったとしたら妨害することは出来ないと、佃氏は定説の誤りを鋭く指摘している。                        

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<第4章 「倭人(天氏)」と高天原


 秦や漢の圧力から逃れるため「天氏」や「卑弥氏」は東に向かう。漢の成立は、前206年である。「天氏」が「卑弥氏」に大凌河の東の地域を譲った直後に、漢が攻めてきて、「卑弥氏」はこれをはね返した。その後、前195年に「衛氏朝鮮」がバイ水から大凌河までの地域に建国した。したがって、「天氏」が大凌河の東から去ったのは、前206~195年、つまり、前200年頃「天氏」はこの地域を譲って、東に移動している。
 その後の足取りは、『宮下文書』(注8)が示している。「天氏」は「蓬莱国(高天原)」を目指す。先ず、「高皇産霊神」の第5子「農立比古尊(国常立尊)」が「蓬莱山(高天原)」を目指し出発するが、音沙汰が無いので、後を追って第7子の「農佐比古尊(国狭槌尊)」が父「高皇産霊神」と母を連れ、後を追って天降る。
 大凌河下流域から渤海に出て、黄海を渡り、朝鮮半島南西部に行く。『宮下文書』は、そこから「高天原(泗川市)」へ行く行程を詳しく記述している。これは、レジュメに詳しく書かれている。
 

 『宮下文書』は「天氏」の系図について記し、天照大神は「農佐比古尊(国狭槌尊)」の孫であり、イザナギ尊とイザナミ尊の皇女で「豊阿始原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の初代の神としている。二代目の「天之忍穂耳尊」は「農立比古尊(国常立尊)」の曾孫である。子供がない天照大神が、養子にして、二代目としたのであって、「王統」が替わったのではないと佃氏は説明する。
 『契丹古伝』では「安冕辰ウン氏」と記された「安冕(あめ)氏」は「天氏」である。一方、『宮下文書』では「天之忍穂耳尊」のように「天之(あめの)」であり、「天氏」である。このように、「倭人(天氏)」の歴史は『契丹古伝』から『宮下文書』に続いて記されている、と佃氏は述べる。
 今回の講演会で述べた「天氏」と「卑弥氏」の歴史は、『契丹古伝』や『宮下文書』を偽書として退け、検討することもしないなら、解明することはできないと佃氏は強調する。

 注8 『宮下文書』・・・富士太神宮の大宮司を代々つとめてきた富士山麓富士吉田市の「宮下家」に、幾多の困難を越えて保存されてきた古文書である。日本の古代の神、尊などの神皇について、記紀とは別の観点から、神代の秘史が詳しく書かれ、秦の徐福が漢文で筆録したものともされている。封印されていたが、公証人であった三輪義熈(みわよしひろ)氏が宮下家から依頼され、30年の歳月をかけて整理できた部分を大正10年(1921年)に『神皇紀』として出版した。直ぐに、内大臣、高級官僚、東大教授などを含む有識者によって『宮下文書』を調査する富士文庫が設立された。当時の新聞の多くは「国史研究家の一読に値するは論を待たざるところなり。」とか「…この書の特色とするところは、少しも神経不思議の時事なく、科学的である。」といった好意的な論評をしていた。ところが、1年後に富士文庫は解散を命じられ、『神皇紀』は偽史だとされるようになった。更に、大正12年(1923年)関東大震災が起こり、浅草橋にある三輪の家は崩壊し、『神皇紀』の原型も焼失した。現在、『神代富士古文献大成』(1986年刊)として、『宮下文書』の全文が公開されている。『神皇紀』も『宮下文書』と呼ばれることが多い。

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 今回の講演は難しい文献が多かったせいか、早めに終わったので、余った時間で質問を受け付けた。概略、次のような質問、意見が出された。
○<『宮下文書』はどうして、富士山麓に残されたか。>
 秦から渡って来た徐福が筆録したともされていて、その文書を、神社のあった富士吉田市宮司の家に代々保存されるようになったからではないか。
○<「万里の長城」についての既存の説との違いを整理して下さい。>
 秦や漢の時代の「万里の長城」の東端の位置が誤まっている、ということです。この「万里の長城」の東端は碣石山のやや東の山海関で渤海に及んでいます。ところが、東端が大凌河の直ぐ東付近まで達していたり、遼寧省の遼陽市や鴨緑江まで伸びているものもあります。高校の世界史資料集等もこのようになっています。『新「日本の古代史」(上)』の中の論文「中国東北地方の郡の変遷」(p.41~73)では、後漢末に中国東北地方で勢力を拡大した公孫度が、「遼河」を新たに名付け、「遼河」の東に新たに遼東郡を設置して、遼東郡の位置を移動させたことを述べています。遼東郡の位置が公孫度以後では大幅に変わりました。その為、遼水はラン河を意味していたのですが、「遼河」と解釈され、「ラン河の東」を「遼河の東」と考えて、誤りが生じたと、佃氏は指摘しています。
○ <古代史を勉強させていただいていて、ありがたい。>
○ <『宮下文書』に出てくる地名が、日本の地名に見えるが…?>
 歴史を調べると、自分たちが住んでいた所の地名を、新たな土地に行っても使うということが多くある。これらの地名は、最初朝鮮半島にあり、移り住んで日本の地名になったのではないかと思われる。

 最後に事務局から、次回の予定12月1日(日)、テーマ:倭人(天氏)の渡来(天孫降臨)等について説明があり、第2回は終了しました。

   

日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

 

第1回(5/18)日本人の起源と倭人の移動

<講演会の開始に先立って>

 1時に開会して、「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」の「古代文化を考える会」斉藤亨さんから簡単に講演会の説明があり、今後1回3時間程度の講演会を年4回開催していくことが話されました。途中、「会」の伊藤英明さんから、質問の仕方等についても説明がありました。
 講師紹介の後、佃先生は、自分が歴史研究に取り組むようになった経緯について話されました。有名な「騎馬民族国家説」を提出された江上波夫先生が亡くなられるまで会長を務められていた「東アジアの古代文化を考える会」に40年ほど前から参加し、以来、現在まで研究成果を「古代文化を考える会」同人誌に寄稿されて来ました。それ以外に著書は11冊で、すべてホームページ(tsukudaosamu.com)で全文見ることができます。

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<講演会の最初に>

 講演の最初、「歴史研究」のあり方についての考えを6点にまとめて示しました。(詳しくは、ホームページのトップページ参照)古代の情報は少なく、多くの情報を集める必要があり、検討もしないで「偽書」として排除してはならないこと、仮説(理論)は、検証されなければならないことなどを強調されました。誰でも分かる例として、日本書紀皇極天皇即位前紀元年正月の記事を挙げました。舒明天皇の葬儀に際して、百済に派遣されていた「阿曇連比羅夫」は百済の弔使と共に筑紫に帰って来た。その後、葬儀に仕えたいので、先に「駅馬に乗」って、「独り」で筑紫から来た、と書かれている記事です。実際、もし都が大和にあるのなら、筑紫から「駅馬に乗」っていくことはできない。都は、筑紫から「駅馬に乗」っていくところ、即ち九州にしか在り得ない。このようなことが、全く検討されずに、当時都が大和にあると信じられている。
 佃先生は、今回分の23ページのレジュメを全員に配布し、できるならクリアファイルを用意し、これからのレジュメもファイルしていき、一緒に勉強していってほしいと語られました。第一回のテーマは「日本人の起源と倭人の移動」、第1章 日本人の誕生、第2章 倭人(天氏)の移動、第3章 倭人(天氏)と箕子朝鮮、の構成です。

f:id:kodaishi:20190609204807j:plain<第1章 日本人の誕生>

 ここ40年程でDNAの解析が急速に進み、その成果が古代史に大きな影響を与えている。最初に基本的なことを確認し、母から娘に伝わるミトコンドリアDNA、父親から息子に伝わるY染色体DNAのハプログループに触れ、日本語のルーツを日本人の遺伝的ルーツから探ろうとする言語学者松本克己氏の研究から、Y染色体DNAのハプログループについての分析を紹介する。また、最近の核DNA分析についても考察し、現代日本人の8割が弥生人のDNAであるとしている。
 九州地方の弥生人の人骨を3つのタイプに分類した松下孝幸氏(形質人類学者、医学博士)の研究も詳しく紹介し、3つのタイプ(A)北部九州・山口タイプ、(B)西北九州タイプ、(C)南九州・南西諸島タイプ、についても詳しく特徴を述べた。

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<第2章 倭人(天氏)の移動>

 中国の古文書『魏略』、『論衡』をもとに、紀元前1200年ごろに、「倭人」は中国の呉地方に居たことが示される。『史記』の記事から、「呉越の戦い」によって、呉は越に敗れて滅亡し、呉の人々は北方に逃げ、やがて東表地方に至る。
福岡県や佐賀県の遺跡から発掘された甕棺墓の中の人骨は、弥生時代に大陸から渡来して来た人々(渡来系弥生人)のものであり、上の分類では(A)である。これが、前漢時代の中国東表地方の人骨のタイプに酷似しているとする、松下孝幸氏の研究を揚げている。また、約2千年前の中国東表地方から出土した人骨と渡来系弥生人の人骨のDNAの配列が特定の部分で同じ人がいるという、研究にも言及する。
 『契丹古伝』の記事から、古代「辰」の中に倭人がおり、この中に「天氏」と「卑弥氏」がいることが分かる。「天氏」はやがて北部九州に渡来する渡来系弥生人の氏族であり、「卑弥氏」は卑弥呼が属した氏族である。

<第3章 倭人(天氏)と箕子朝鮮>

 中国古代殷王朝の宰相である「箕子(きし)」は、殷滅亡後、渤海沿岸に箕子朝鮮を建てる。『契丹古伝』に、倭人(天氏)は殷と姻を為す、と書かれている。これは、倭人(天氏)が東表地方から渤海沿岸に移動して、箕子朝鮮と婚姻(混血)していることを示している。
 殷墟の人骨と渡来系弥生人の人骨が著しく近いと述べている著作も示される。
 殷では、甲骨に穴を開け、火箸を突っ込んだひび割れの形から吉凶を占う「亀卜法」と呼ばれる占いが行なわれた。『三国志倭人伝で、倭人は骨を灼き卜い、その辞は亀法のごとし、と陳寿が述べている。この占いは、記紀にも出てくる。渡来系弥生人である倭人(天氏)が、箕子朝鮮から学んだからである。倭人(天氏)は、東表地方から渤海沿岸を経て、北部九州に渡来する。このことを、様々な資料や文献を根拠に示したのが第1回の講演内容である。

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日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

佃收氏による新しい「日本古代史」

1 主催:「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」傘下の「古代文化を考える会」

2 内容:古代史研究者「佃收氏」を招いて、原則3ヶ月に1回のペースで、

     ≪日本人の起源から奈良時代初期までの新しい「日本の古代史」≫を学ぶ。
    ※記紀、中国、朝鮮半島史書など豊富な資料に基づく研究成果を発表する。
3 会場:基本的に埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂」

4 申し込み方法:①「古代文化を考える会」講演に参加したい旨

         ②住所・氏名・電話番号
         ③友の会会員は会員番号
         ④資料準備のため、第1回への出欠

         を書き、ハガキで下記まで申し込む。
       〒330-0803 さいたま市大宮区高鼻町4-219
        埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会「古代文化を考える会」 

5 第1回講演
 日時:2019年5月18日(土)午後1時~4時
 テーマ:「日本人の起源と倭人の移動」
 費用:1回500円(資料代)  

 <照会先:斉藤(048-853-6728)>

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日本古代史の復元 -佃收著作集-