第13回古代史講演会のご案内

<日時>  2024年(令和6年)3月10日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

     (東武アーバンパークライン東武野田線) 大宮公園駅下車)

<テーマ> 高市天皇と長屋親王

<概要>

 天武天皇の長男は、壬申の乱で大活躍したが、『日本書紀』では「高市皇子」と呼んでいて、天皇位に就いていないと述べている。天皇の兄弟や皇子は「親王」と呼ばれるが、『続日本紀』は『日本書紀』の記述に合わせて、「高市皇子」の長男を「長屋親王」ではなく、「長屋王」としている。『日本書紀』は「高市皇子」の死を「(持統)十年(696年)七月、後皇子尊薨る。」と記す。

 

 ところが『懐風藻』には「高市皇子薨る後、皇太后(持統)は王・公・卿・士を禁中に引き入れて、継嗣を立てることを謀る。」と書かれている。「高市皇子」が死去したので次の天皇を立てることを議論している。太政大臣・皇子が死んだときは「日嗣を立てる」とは言わないであろう。「高市皇子」は「天皇」だったのではないだろうか。

 

 また『万葉集』では、この「高市皇子」に対して、御名部皇女(妃)が「巻一77番」で「大君」、「巻二199番」で人麻呂が「大王」、と詠っている。「高市皇子」が「天皇」であった証拠ではないか。

 

 昭和61年から平成元年にかけて、奈良市二条大路南のデパート建設予定地(平城宮の東南角に隣接)の発掘調査が行われ、出土した3万5千点以上の木簡の中に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字が入った木簡が発見された。明確に「長屋親王」と記されており、「長屋王」の父「高市皇子」が「天皇」であった物的証拠である。

 

その「長屋王」は729年2月に誣告を受けて自害する。(「長屋王の変」)

 

 聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原不比等の子の藤原四兄弟長屋王家(長屋王及び吉備内親王所生の諸王)を抹殺した政変で、一般的には藤原氏による、皇親の大官である長屋王の排斥事件とされている。

 

 しかし優れた血筋と力を持つ長屋王家を自身の皇位と子孫の皇位継承への脅威と見做す聖武天皇が引き起こした事件とする見方がある。「変」では天皇の警護に当たる六衛府が動員されている。また最近では長屋親王の排除より、吉備内親王と息子の膳夫王を滅ぼすことに主眼があったともいわれている。

 

 この事件の発端は、『続日本紀』の記述によると従七位下漆部君足中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学び国家を傾けんと欲す」と密告したことであった。事件後の738年、「語、長屋王に及べば墳して罵り」と、長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人大伴子虫が斬殺するという事件が起こった。しかし、子虫が厳罰を受けた形跡はない。『続日本紀』も「東人は長屋王のことを誣告せし人なり」と記している。

 日本の基礎を作り、絶大な権力を持っていた「天武王権」の滅亡に至る経緯を、今回と次回でお話しいただく予定である。

<講師> 佃收先生

<参加費> 500円 、本代(早わかり「日本通史」)1,000円

<申込>  A:下記junosaitamaホームページの申し込みフォーム
      B:ハガキによる場合:会員番号・氏名・住所・電話番号・ 

      「古代文化を考える会」の講演会参加を明記し、

      「〒338-0811 さいたま市桜区白鍬776-5 斉藤 亨」宛

       お申し込みください。【締切期日:3月3日】

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

第12回古代史講演会レポート

<テーマ> 天武王権とその業績

<日時>  2023年(令和5年)11月18日(土)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

<最初に>

 「友の会」の斉藤亨さんが、今回の講演の概要を述べられた。天武王権が日本の新しい制度を始めたこと、天武天皇が多くの大寺院を移築し、藤原京の造成をしたことなどである。

 斉藤さんは九州各地を歩かれ、多々良川沿いや鳥栖市周辺で、今では瓦と礎石しか残っていない廃寺を多く見つけられたことを話された。また、現存する国内最古の戸籍と言われる「川邊里」戸籍(筑前国嶋郡)についても話をされた。

 

 次回は、3月10日(日)午後1時からこの会場で予定され、テーマは「高市天皇と長屋親王であることが伝えられた。今回も、21ページの資料が受付で配布された。

 

 講演の冒頭、佃先生は「天武天皇は大変なことをやっている。そのことはその都度話してきたが、今回はその業績を整理してまとめて話してみたい。」と述べられ、

第1部 天武王権と各制度、第2部 「日本国」、第3部 天武王権と仏教、第4部 藤原京、と4部にわたる講演を開始された。

 

第1部 天武王権と各制度

<第1章 遣隋使・遣唐使

 日本列島から中国王朝への朝貢は、502年「倭王武」による「梁」への朝貢以降、途絶えていた。約百年後の600年(隋開皇20年)、俀国(たいこく)が隋に朝貢したことが、『隋書』俀国伝に書かれている。

 

 第9回古代史講演会レポートでも詳しく見たとおり、この『隋書』俀国伝は、日本の歴史学では、『隋書』倭国と呼ばれていて、大部分の本が「俀(たい)」の字を「倭(わ)」の字に直して出版している。(岩波文庫魏志倭人伝 他三篇』など)原文の表題に「俀国」と書かれ、原文の本文中に8回もでてくる「俀」の字をすべて「倭」の字に直している。『日本書紀』には、俀国(阿毎王権)は全く出てこないから、『日本書紀』の記述に合うように、日本の歴史学は資料の字を書き替えてしまっている。

 

 前に見たように、『隋書』俀国伝の記述を見てみよう。「俀国は百済新羅の東南水陸三千里の大海中にあり、…俀王の姓は阿毎(あま)、字は多利思比弧(たりしひこ)、阿輩雞彌と号す。…王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利となす。」

 

 俀王である「多利思比弧(たりしひこ)」は女帝の推古天皇聖徳太子ではなく、第9回講演会で詳しく述べたように、阿毎王権三代目の十五世物部大人連公である。

 

 607年にも阿毎王権は隋に朝貢する。『隋書』俀国伝に「大業3年(607年)、その王多利思比弧は使いを遣わし朝貢す。使者の曰く、「聞く海西の菩薩のような天子が重ねて仏法を興すと。故、遣わし朝拝して、兼ねて沙門数十人が来たり仏法を学びたい」という。その国書に曰く、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云々」と云う。帝は之を覧て悦ばず。鴻臚卿(そのときの外相)に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼有り。復た以て聞くことなかれ」という。」とある。

 

 「日出る処の天子」からの国書に対して、「日没する処の天子」である隋の煬帝が烈火のごとく怒ったという有名な文書である。「日出る処の天子」は聖徳太子ではなく、阿毎王権の多利思比弧である。阿毎王権は、仏教を学ぶために沙門数十人を隋に派遣している。

 

 遣隋使・遣唐使や冠位制度について考えるとき、『隋書』俀国伝は貴重な資料であり、同時に言うまでもなく『日本書紀』は最重要な資料である。古代について記された数少ない貴重な資料をどのように生かしていくかが重要である。『日本書紀』の記述だけが正しいとして、それに合致しない『隋書』俀国伝の表記を勝手に変更することは許されないだろう。両方の貴重な情報を生かす複合的な歴史的視点が必要になる。その点で、佃説「日本の古代史」は、これから見るように、『隋書』俀国伝と『日本書紀』の情報をともに生かした一つの規範と言えるのではないだろうか。

 

 翌年608年、隋の皇帝は文林郎裴清を俀国に遣わす、と『隋書』俀国伝は記している。

 

 裴世清が帰国するとき、学生四人、学問僧四人を隋に派遣したと、『日本書紀』は述べる。学生は、倭漢直福因、奈羅因訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧は、漢人日文南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済である。「漢人」と書かれているから中国からの渡来人であろう。

 

 やがて、中国大陸では618年に隋から唐の時代となる。『日本書紀』舒明4年(632年)8月、唐が高表仁を派遣し、これにしたがって僧旻(日文)などが帰国した、と記されている。同じく、『日本書紀』舒明12年(640年)10月、大唐の学問僧請安、学生高向漢人玄理、が帰国した、と記されている。

 

 日本では、635年、阿毎王権から天武王権に支配権が移る。阿毎王権が派遣した遣隋使・遣唐使である学問僧請安、学生高向漢人玄理は、天武王権に帰国していることを確認できる。

 

<第2章 諸制度の始まり>

 『隋書』俀国伝は600年に俀国が朝貢したという記事のすぐ後に、俀国(阿毎王権)の冠位制度を次のように記している。「内官に十二等有り。一を大徳という。次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員に定数無し。」俀国(阿毎王権)には、徳・仁・義・禮・智・信の大小十二階があることがわかる。

 

 『日本書紀』では、冠位制度が推古紀に出てくる。推古11年(603年)12月、始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智併せて十二階。

 

 「推古11年(603年)に始めて冠位を行う」とあり、十二階の冠位は、下位の順番が少し変わるだけで俀国の冠位とほとんど同じである。隋に朝貢し、日本を支配していたのは俀国だから、『日本書紀』推古紀は、俀国(阿毎王権)の冠位制度のことを書いていることがわかる。このことから日本の冠位制度は、603年に俀国(阿毎王権)が初めて制定している、と考えられる。

 

 西暦635年以降、天武王権が日本を支配している。『日本書紀』は、天武王権を創始した「天武天皇の父」を歴史上に登場させない。したがって、その業績は孝徳天皇の業績として記述している。そのように読み解いていくと、『日本書紀』の記述から、遣隋使・遣唐使を重用して天武王権が国の制度を整えていく様を見ていくことができる。

 

 『日本書紀』孝徳即位前記(645年)、沙門旻(みん)法師高向史玄理を以て国博士と為す。僧旻は阿毎王権に帰国し、高向玄理は天武王権に帰国している。ともに、天武天皇の父によって、645年に国博士に任命されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化元年(645年)8月、故、沙門狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙を以て十師と為す。別に恵妙法師を以て百済寺の寺主と為す。「沙門狛大法師」は高句麗からの僧だろう。恵妙法師は「百済寺の寺主」だから、上宮王権の僧だろう。このように多くの僧を重用している。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、是月、博士高向玄理と釈僧旻に詔して八省・百官を置かしむ。

 

新しい制度を学んできた博士高向玄理と釈僧旻を起用し、中国の制度を見習って、国博士、八省・百官などの国の制度を整えている。

 

<第3章 「天武王権」の冠位制度>

 天武王権は635年に支配権を持ち、649年に九州を統一した。661年天武天皇の父が死去した後、天武天皇が即位する。天武天皇は663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、国を防衛しながら、国を整備していく。この流れの中で、天武王権は官位制度を制定していく。その様子を『日本書紀』から読み解いていこう。

 

その場合、前に見たように、「天武天皇の父」の業績は、舒明紀、皇極紀、孝徳紀の事績として、壬申の乱までの天武天皇の業績は天智紀などの事績として記されていることに注意する必要がある。

 

 『日本書紀』(舒明)9年(637年)、蝦夷征伐のために、大仁上毛野君形名を派遣する。「大仁上毛野君形名」には、「大仁」という阿毎王権の冠位が付いている。

 

 『日本書紀』(皇極)元年(642年)8月、百済から人質として来ている達率長福に「小徳」の位を授ける。

 

 「大仁」も「小徳」も阿毎王権の冠位である。最初、天武天皇の父は阿毎王権の冠位をそのまま引き継いでいる。天武王権は、同じ「倭人(天子)」系列の阿毎王権を支配下に置いて、王権を樹立したからだと考えられる。

 

 次の冠位制度についての『日本書紀』の記述を見よう。(孝徳)大化3年(647年)、是歳、七色の一三階の冠を制す。一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。…四曰、錦冠。大小二階有り。…五曰、青冠。大小二階有り。…六曰、黒冠。大小二階有り。…七曰、建武

 

 「七色の一三階」は「織冠」から始まり、阿毎王権の「大小十二階」(徳・仁・…)の冠位と全くなる。「七色の一三階」は天武王権が制定した最初の「官位」制度である。天武天皇の父は、独自の冠位制度を作っている。

 

 635年阿毎王権が天武王権に支配された後、九州には天武王権と上宮王権が並立していた。前回の講演会で述べたように、649年3月、上宮王権の重臣である蘇我倉山田石川麻呂を天武天皇の父が討って、上宮王権は天武王権の支配下に入り、天武王権は九州を統一する。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、冠の一九階を制す。一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。七曰、大花上。八曰、大花下。九曰、小花上。十曰、小花下。十一曰、大山上。十二曰、大山下。十三曰、小山上。十四曰、小山下。十五曰、大乙上。十六曰、大乙下。十七曰、小乙上。十八曰、小乙下。十九曰、立身。

 

 647年の「七色の一三階」では、「一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。」となっていた。649年の「冠位一九階」では、「一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。」と、初めの六階が全く同じである。同じ王権が制定し、冠位を増やしていることが分かる。

 

 従来は、「七色の一三階」も「冠位一九階」も『日本書紀』孝徳紀に書かれているので、ともに孝徳天皇が制定したと言われていた。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等を新羅に遣わす。是歳、新羅王、沙(タク)部沙飡金多遂を遣わし、質とす。従者三十七人。

 

 「冠位一九階」の「小花下」、「大山上」の位がついた使者が、新羅に派遣され、新羅王は人質と従者37名を出し、朝貢したと書かれている。

 

 649年当時、新羅朝貢し、九州を支配していたのは天武王権であって、孝徳天皇ではない。「小花下」、「大山上」の冠位を使っていたのは天武王権であるから、天武天皇の父が「七色の一三階」や「冠位一九階」を制定していることがわかる。

 

 翌月の649年3月、天武天皇の父は上宮王権を討ち、王権を剥奪する。王権を剥奪された上宮王権の皇極は、656年に肥前から大和に移り、飛鳥京を造った。

 

 飛鳥京跡から、天武王権の官位が書かれた木簡が出土している。上宮王権が天武王権の支配下となった証拠である。天武天皇の父は、上宮王権を討つ計画を立てていたが、上宮王権の人々は「臣下」になる。それを見込んで、官位の数を増やしていたと考えられる。

 

 661年7月天武天皇の父は崩御する。直ちに天武天皇が即位して、「白鳳」年号を建てる。百済を滅亡から救うため、唐・新羅連合軍と戦っていた天武天皇は、663年の白村江の戦いで連合軍に敗れ、百済から大量の人々が日本に逃げて来る。

 

 この翌年664年、「冠位二十六階」が制定される。

 『日本書紀』(天智)3年(664年)2月、天皇、大皇弟に命じて冠位の階名を増し換えること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ぶ。其の冠は二十六階有り。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建。是を二十六階と為す。前の花を改めて錦という。錦より乙に至るまでに十階を加える。又前の初位一階を加え換えて大建・小建、二階と為す。

 

 天智天皇は上宮王権に属し、天武天皇は天武王権に属していて、全く王権が異なる。しかし、『日本書紀』は天武天皇天智天皇を同父母の兄弟として記述しているため、天智天皇が、弟の大海人皇子天武天皇)に命じて制定したと書いている。

 

 「冠位一九階」と「冠位二十六階」での冠位名を比べてみれば明らかに分かるように、「冠位二十六階」は「冠位一九階」を下敷きに作成している。ともに同じ王権によって作られている。「冠位二十六階」を制定したのは、天武天皇である。

 

 天武天皇は、663年の白村江の戦いの後、百済から逃れてきた人々を大量に受け入れている。その人々に冠位を与えるため、冠位を増やしているのである。

 

 『日本書紀』の記述により、古代日本では4回、冠位制度が定められたことが分かった。

 

 603年の「冠位十二階」、647年の「七色の十三階」、649年の「冠位一九階」、664年の「冠位二十六階」である。しかし、大和朝廷が一元的に支配していたとする『日本書紀』の記述では、なぜその時期にそのような冠位が定められたかが分からない。『日本書紀』の記述を単になぞるのではなく、深く記述の意味を読み解く佃説日本の古代史によって、このように解明することができた。

 

<第4章 氏姓制度

 各時代、各王権は、それぞれの「称号(姓)」を持っていた。「和気」=「別」(わけ)は渡来人の称号で、中国の称号である。

 

 中国から渡来した「多羅氏(たらし)」は「貴国」を建国した。(仲哀天皇神功皇后)「貴国」の称号は「宿祢(すくね)」であった。

 

 「倭の五王」は「倭国」を建設し、称号「連(むらじ)」を制定した。

 

 大陸から阿智臣が日本に渡来した時、「使主(おみ)」の称号が与えられた。後に、「使主」は「臣(おみ)」となる。

 

 672年、壬申の乱天武天皇は日本列島を統一した。その後、684年、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定する。

 

 『日本書紀天武天皇13年(684年)9月、詔して曰く、「更に諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、以て天下の属性を混ぜる。一に曰う、真人。二に曰う、朝臣。三に曰う、宿禰。四に曰う、忌寸。五に曰う、道師。六に曰う、臣。七に曰う、連。八に曰う、稲置。」という。

 それまで、各王権が使っていた「称号(姓)」を統一している。

 

   [ここで、25分間の休憩がとられた。この時間を利用して、佃先生が持って

   おられる薬師寺金堂の見事な薬師三尊像の写真を、休憩時間を使って参加者

   に見てもらった。明治の岡倉天心は、この仏像を初めて見たとき、驚嘆し、

   深く感動したと伝えられている像である。]

        (薬師寺金堂 薬師三尊像

                          町田甲一著「薬師寺」より)

 

第2部 「日本国」

<第1章 律令国家>

 天武天皇は父の事績を受け継ぎ、661年に即位した後、国名、律令制国史、戸籍の整備をする。

 

 朝鮮半島の歴史書である『三国史記』は「新羅本紀文武王10年(670年)12月、倭国は更に日本を号す。自ら言う、日の出る所に近いので以て名とする。」と書いている。

 

 670年に倭国が「日本」と号すようになったとある。670年は、天武天皇が支配している時代である。「倭国」は「倭人(卑弥氏)」が自らつけた国名であり、「倭の五王」の時代、日本列島は「倭国」と言われていた。

 

 これに対して、天武天皇は「倭人(天氏)」であり、「倭人(卑弥氏)」の国名ではない名前を求め、律令国家としての国を内外に示すため新たな国名「日本」を定めた。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)2月、天皇・皇后共に大極殿に居して、親王・諸王及び諸臣を喚(め)して詔して曰く、「朕、今より更に律令を定め、法式を改めむと欲す。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然るに頓(にわか)に是のみを務(つとめ)に就(な)さば、公事を闕(か)くこと有らむ。人を分けて行うべし」という。

 

 天武天皇は681年、「律令」の編纂を命じる。

 『日本書紀持統天皇3年(689年)6月、諸司に令一部二十二巻を班(わか)賜う。

689年6月に「令」が完成する。「令一部二十二巻」が配布され、施行されるが、「律」の完成記事はない。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)3月、天皇大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下安曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首・に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執りて以て録す。

 

 天武天皇律令国家にふさわしいように「国史」の作成を命ずる。その結果、和銅5年(712年)に『古事記』が完成する。720年に『日本紀』が完成する。

 

 『続日本紀』(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。

 

 完成したのは、『日本紀』であって、『日本書紀』ではない。

(詳しい説明は、次回以降)

 

 天武天皇は日本で初めて全国の戸籍をつくる。

 

 『日本書紀』(天智)9年(670年)2月、戸籍を造る。盗賊と浮浪を断(た)つ。

 670年につくられた戸籍は「庚午年籍」と云われている。『日本書紀』は、天智天皇がつくったとしているが、天武天皇がつくっている。

 

 667年2月斉明天皇が死去すると、667年3月、中大兄は近江に移って天智天皇として即位した。そして、670年12月天智天皇は死去する。天智天皇に、全国の戸籍をつくる余裕はない。

 

 670年2月、天武天皇は全国の戸籍をつくっている。それを背景として、国名を「日本」に改めたと考えられる。国名、律令国史、戸籍と国家としての骨格を天武天皇が作っている。

 

第3部 天武王権と仏教

<第1章 「天武天皇の父」と僧旻(みん)>

 僧旻(みん)は、608年に隋に派遣され、25年間隋と唐で勉強し、632年に唐から帰国している。天武天皇の父は、僧旻を国博士、十師に任命し、八省・百官を設けている。『日本書紀』の記述から、如何に僧旻を敬愛していたかがわかる。前にも指摘したように、天武天皇の父の事績は、孝徳天皇の事績として『日本書紀』には記述されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)5月、是月、天皇、旻法師の房に幸して其の疾を問う。(或る本に、五年七月に云う、僧旻法師阿曇寺に於いて病に臥す。是に於いて天皇、幸して之を問う。よりて手を執りて曰く、「若(も)し、法師今日亡(し)なば、朕従いて明日亡なむ」という。)

 

 年月は「或る本」の「常色5年(651年)7月」が正しいが(古代史の復元⑧参照)、天武天皇の父は、「もし旻法師が今日亡くなれば、自分は従って明日亡なむ」、とまで言っている。旻法師は653年6月に死去する。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)6月、天皇、旻法師の命が終わると聞いて使いを遣わし弔う。并て多くの贈物を送る。皇祖母尊及び皇太子等、皆使いを遣わし旻法師の喪を弔う。遂に法師のために畫工狛堅部子麻呂・鮒魚戸直等に命じて多くの仏菩薩像を造る。川原寺に安置す。(或本に云う、山田寺に在る)

 

 「川原寺」は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。天武天皇の父は、旻法師のために多くの仏菩薩像を造り、自分が創建した寺に安置している。天武王権は、深く仏教に帰依している。

<第2章 天武天皇と寺院の創建・移築>

 

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。しかし、日本歴史学の通説は、そのように述べていない。それぞれの大寺の様子を詳しく見ていこう。

 

(1)大宰府観世音寺

 観世音寺は、福岡県の大宰府にあり、その宝蔵には所狭しと多数の仏像が置かれている。『続日本紀』には、和銅2年(709年)に元明天皇が「筑紫の観世音寺天智天皇が後岡本宮御宇天皇斉明天皇)のために創建した寺である」と詔(みことのり)した、と書かれている。

 

 この時代の歴史を今まで見てきたように、斉明天皇天智天皇が筑紫を支配したことは一度もない。したがって、この『続日本紀』の記述は正しい情報を伝えていない。それでは誰が創建したのだろうか。

 

 『二中暦』(※)に観世音寺の記載がある。この「年代暦」には、天武王権の年号が、僧要、命長、常色、白雉、白鳳、朱雀、朱鳥と順に列記され、「白鳳 二十三年 辛酉 対馬銀採 、観世音寺東院造」と書かれている。「白鳳」年号は、「辛酉(661年)」から23年続くという意味である。「白鳳」年号は天武天皇の年号であった。白鳳年間に、対馬から銀が採れたと書かれ、その後に観世音寺の東院が造られたと記載している。

 

 天武天皇3年(674年)3月、対馬国司守が「銀がこの国で初めて出ました。これを献上いたします。」と申し上げ、これによって、対馬国司守に小錦下位が授けられたことが、『日本書紀』に書かれている。『二中暦』の上の記載は、『日本書紀』に書かれている対馬で銀が初めて採れたことを伝え、天武王権の年号を正確に表しているなど、信用することができる。

 

 674年は壬申の乱の2年後であり、天武天皇の時代である。天武天皇の時代674年に、対馬で銀が採れている。『二中暦』の記載により、その後に、「観世音寺東院」が造られたとしてよい。観世音寺を造ったのは、天武天皇である。天智天皇は671年にすでに死去しており、674年以降に観世音寺を建てることはできない。

 

 現在の観世音寺は、「西院」であり、その東に創建の「観世音寺東院」があった。観世音寺は、天武天皇天武天皇の父のために創建した寺である。

観世音寺については、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な記述がある。)

 

※ 『二中暦』は鎌倉時代初期に成立したとされる、いわば百科事典である。13巻で作者未詳。平安時代の『掌中暦』と『懐中暦』を再編集したもので、人名・物名などを列挙している。

 

 (2)川原寺

 天武天皇壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。まず重要なのは、川原寺である。川原寺は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。亡くなった旻(みん)法師のために多くの仏菩薩像を造って、安置した寺であった。壬申の乱の翌年673年、天武天皇は川原寺を天武天皇の宮(浄御原宮)の隣に移築した。(図1参照)

        (図1)

 通常の寺は南門が一番大きいが、川原寺では東門が一番大きくなっている。図1から分かるように、浄御原宮(天武天皇の宮)に接する門であるからである。壬申の乱に勝利した天皇は、敗北した天智王権に川原寺中金堂の礎石を大津から運ばせて、天武天皇の戦勝記念としている。

 

 『日本書紀天武天皇2年(673年)3月、是月、書生をあつめて始めて一切経を川原寺において写す。

 

 川原寺を移築すると、書生に一切経の写経をさせている。

(川原寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

(3)飛鳥寺

 飛鳥寺は、609年に筑紫に創建された「元興寺」を672年~677年の間に、天武天皇が大和に移築したものである。「元興寺」は阿毎王権が創建した寺であり、第9回古代史講演会レポートでも確認した見たように、隋の「裴世清」が来て、釈迦丈六の仏像を見ている。635年、阿毎王権は天武王権の臣下となる。同系列の王権であり、天武天皇は浄御原宮の近くに移築している。(図1参照)

 

 『日本書紀天武天皇6年(677年)月8月、天武天皇飛鳥寺一切経を読ましむ、と書かれている。天武天皇は熱心な仏教の信奉者である。

飛鳥寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に100ページほどの詳細な論考がある。)

(4)百済大寺

 639年に上宮王権の舒明天皇が「肥前神埼郡宮所」に創建した「百済大寺」は、641年焼失し、642年から皇極(斉明)天皇が再建する。

 

 壬申の乱の後の673年に天武天皇は再建された百済大寺を肥前から「大和の高市」に移築する。それが「高市大寺」である。

 この寺が677年からは「大官大寺」となり、これが奈良県桜井市の「吉備池廃寺」である。

 

 百済大寺は、天武王権と対立していた上宮王権が創建した寺であるから、浄御原宮から一番遠い所に移築されている。(図1参照)

百済大寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

 川原寺・飛鳥寺大官大寺は飛鳥の三大寺と云われている。すべて天武天皇が九州から大和に移築している。天武天皇は熱心な仏教徒であり、大和に大寺があるのは、天武天皇の業績ともいえる。       

                   (薬師寺東塔)

(5)薬師寺

   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲    佐佐木信綱

 

 この短歌でも有名な薬師寺は、天武天皇が「持統皇后」の病気平癒のために創建したとされている。私たちは、「天武天皇持統天皇に対する心持」と奈良路に流れるゆったりとした時をこの歌からも味わってきた。

 

 『日本書紀天武天皇9年(680年)月11月、皇后、体不豫。即ち皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す。仍りて一百僧を度(とくど)せしむ。是により安平を得る。是日、罪を赦す。

 

 「皇后、体不豫」のため、「薬師寺を興す」とある。

 

 『日本書紀』は、壬申の乱の翌年673年に天武天皇が即位して、「持統」は皇后になったと記している。したがって、680年の「皇后、体不豫」は「持統皇后」であるということになる。これが従来の解釈である。この解釈にしたがって、私たちは今まで、佐佐木信綱の歌も解釈してきた。

 

 ところが、その前の壬申の乱の最中に、『日本書紀天武元年(672年)6月24日、「…乃ち、皇后は輿に載り、之に従う。…」「皇后がお疲れになったので、しばらく輿を留めて休息なさった。…」と、「皇后」がすでに出てきている。

 

 今まで述べてきたように、天武天皇は661年に即位している。そして、壬申の乱の672年では、皇后は天武天皇と一緒に戦っている。『日本書紀』は673年に「持統」は皇后になったと記しているが、壬申の乱のときの皇后は、本当に「持統」なのだろうか?さらに、「持統」は、壬申の乱以前から皇后であったのだろうか?

 

 『日本書紀天武天皇2年2月の記述に従って、天武天皇の「妃」を婚姻の順番に列記してみよう。

① 初め鏡王の女額田姫王を娶り、十市皇女を生む

② 胸形君徳善の女尼子娘を納れて高市皇子命を生む

③ 宍人臣大麻呂の女カジ媛娘は二男二女を生む

④ 大田皇女を納れて妃と為す。大来皇女(大伯皇女)と大津皇子を生む

⑤ 正紀(持統)を立てて皇后と為す。皇后、草壁皇子尊を生む

⑥ 大江皇女、長皇子と弓削皇子を生む

⑦ 新田部皇女、舎人皇子を生む

⑧ 藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生む

⑨ 氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生む

⑩ 蘇我赤兄大臣の女大ヌノ娘、一男二女を生む

 「持統」は、657年に13歳の時、天智王権から大田皇女に続いて2番目の人質として天武天皇に差し出されている。全体では5番目の「妃」である。佃氏は、詳細な検討をして(『新「日本古代史」(下)』所収57号論文)壬申の乱のときの皇后は、①の「鏡王の女額田姫王」であり、「持統」ではないと結論している。

 

 『日本書紀』天武12年(683年)秋7月4日、天皇鏡姫王の家に幸(いでま)して病を訊(と)う。5日に鏡姫王薨る。是夏、始めて僧尼を請いて宮中に安居す。因りて浄行者三十人を簡(えら)出家せしむ。

 

 「鏡王の女額田姫王」は683年に「薨」去する。「薨」の字が使われている。661年天武天皇の即位とともに皇后となり、683年まで皇后であった。「皇后」は「持統」ではなく、「額田姫王」である。薬師寺は「額田姫王」の病気平癒のために天武天皇が造った寺である。

 

 『吉山旧記』は、「大善寺玉垂宮」の勾当職であった吉山家の由来と歴代の活躍が記されている記録で、平成14年に吉山昌希氏から久留米市に寄贈され、久留米市文化財収蔵館に保管されている。佃氏は信頼できる資料であると評価している。(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 この『吉山旧記』には、次のように書かれている。「天智天皇8年(669年)第二十一代 吉山久運安泰和尚高良御廟に参る。その後、入唐という。…(671年に帰朝) 同5年(676年)夜明(地名)へ唐渡薬師尊像を安置し傍らに一寺を建立す。寺を薬師寺と号す。」

 

 『日本書紀』の記述に合わせて「669年」を天智天皇としているが、「669年」に「吉山久運(安泰和尚)」は唐へ行き、「671年」に帰国し、「676年」「大善寺玉垂宮」に「薬師寺」を建立して、唐から渡って来た「薬師尊像」を安置していることが記録されている。

 

 薬師寺は676年に筑後の高良神社に創建された。今の久留米市にある大善寺玉垂宮である。筑後の「薬師寺」の創建である。中国から買い求めた薬師三尊像を安置するために建てられた。

 

 『吉山旧記』には、「一寺」を造るにも「天武天皇にお伺いした」とある。また、高良神社は天武天皇が創建した寺である。天武天皇は、筑後の高良神社に創建された「薬師寺」のことを知っていた。

 

 「額田姫王」が病気になったとき、「皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す」として、682年に、「薬師寺」を筑後から大和の「飛鳥岡本」に移転している。

 

 「飛鳥岡本」に移転後の「薬師寺」の経緯については、第4部第2章 薬師寺の変遷 に続きます。

(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」で、詳しく論じられている。佃收HPの「論文集」のページで見ることができる。)

 

第4部 藤原京

<第1章 天武王権と藤原京

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利した後、九州の大寺を大和に移築していることはすでに見てきた。新都「藤原京」の造営も開始している。このことは、『日本書紀』や『万葉集』、藤原京跡から出土した木簡からも確認できる。

 

 「天武11年(682年)秋3月、小柴三野王及び内官大夫等に命じて。新城に遣わし其の地形を見しむ。よりて都つくらむとす」と、『日本書紀』に書かれている。

 

 天武天皇藤原京造営について、奈良文化財研究所の山本崇氏は次のように述べている。「『日本書紀』が語る都の造営過程は、藤原京から出土した木簡により裏付けられました。藤原京の中心ともいえる大極殿の真下には、幅6m、確認されているだけで570mにもおよぶ大規模な溝が掘られていました。この溝は、都の造営に必要な物資運搬のために掘られた人口の運河であると考えられます。この溝から「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡のほか、天武14年(685年)に制定された「進大肆」という位を記した削屑が出土しました。木簡の年代は、…都の造営時期とみごとに一致しており、木簡は、都の造営にかかわるものと見られます。」(2018年9月1日朝日新聞「be」)

 

 『万葉集』(巻十九)の「壬申の乱の平定以後の歌二首」とある天武天皇を詠った歌を見てみよう。

 

 皇(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 赤駒の 腹ばゆ田井を 京師(みやこ)となしつ         (『万葉集』4260番)

 

 大王(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)となしつ          (『万葉集』4261番)

 

 天武天皇は「神」であるから湿地帯を都(京師、皇都)にしたと称えている。都は藤原京であり、「壬申の乱の平定以後」であるから天武天皇が造っていることを『万葉集』からも確認できる。

 

<第2章 薬師寺の変遷>

 大橋一章氏(元早大文学部長)は『薬師寺』(保育社、昭和61年)の中で次のように述べている。「藤原京右京八条三坊の南西隅、つまり薬師寺の南西隅の発掘調査で、条坊の大路遺跡より下層で薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかったが、この溝は藤原京の条坊地割の施行の時点にはすでに埋められ、整備されていたことが明らかになった。」

 

 現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかった」という。薬師寺は、「藤原京」の下層に造られていた。「藤原京」の下層には「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡が出土していることは前に見てきた。これは何を意味するのだろうか?

 

 680年11月「額田姫王」は病に臥す。天武天皇は「薬師寺を興すこと」を誓願した。誓願通り、682年天武天皇筑後から「飛鳥岡本」へ「薬師寺」を移築する。683年7月「額田姫王」は薨去する。またこの頃、「藤原京」の造営を開始し、天武天皇は「薬師寺」をさらに「藤原京」に移築している、と考えられる。

 

 さらに「高市天皇」は、天武天皇がつくった「藤原京」の上に新しい「藤原京」を造った。そのため、現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦が出土」したのではないだろうか。

 

 「高市天皇」は新しい「藤原京」に、688年までに「薬師寺」を移築する。これが、現在「本薬師寺」と呼ばれているところであり、金堂跡と思われる巨大な礎石群が残されている。

 

 710年、都は平城京に遷る。730年以降に、聖武天皇平城京に「薬師寺」を建てる。これを「平城京薬師寺」(現在の薬師寺)と呼ぼう。そのとき、新しい薬師三尊像を、唐から渡ってきた薬師三尊像をまねて国産として作らせ、金堂の本尊とした。

 

 建てられた当時「平城京薬師寺」には、国産の薬師三尊像が据えられていた。一方、「本薬師寺」には、中国から渡って来た薬師三尊像が据えられていた。

 

 ところが、平安時代の「薬師寺縁起」(長和四年)には、平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、本薬師寺から運んだもの(移座)である、と書かれている。平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、つくられた当初の国産の薬師三尊像ではなく、「本薬師寺」に置かれていた中国から渡って来た薬師三尊像に替わっている、と書かれている。

 

  一方、最初に平城京薬師寺金堂にあった国産の薬師如来像はどうなったのだろうか。平城京薬師寺講堂はたびたび火災に遭った後、嘉永5年(1852年)に再建された。その際、安政3年(1856年)に、それまで西院堂にあった国産の薬師三尊像が、講堂に安置されることになる。最初、平城京薬師寺金堂に置かれていた、国産の薬師三尊像は、このときから講堂に置かれるようになり、現在に至っている。(もっと詳しい経緯については、『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 現在の薬師寺平城京薬師寺)を訪れると、金堂と講堂に、同じ様に大きい黒色の銅像である薬師三尊像が二体ある。どうして、同じ様なブロンズ像が二体あるのだろうかと、疑問に思う人は多いのではないだろうか。この謎は佃氏によって見事に解かれたのではないか。

       薬師寺金堂の薬師三尊像)

 【手前から日光菩薩薬師如来月光菩薩 単独の薬師如来写真は第1部の最後に】

 

 大橋一章氏は『薬師寺』の中で金堂の薬師三尊像について次のように語っている。「この薬師如来は、そのみごとな造形、比類のない美しさという点で、わが国彫刻史上の絶品であるが、古来この仏像に対する賞賛のことばもまた限りないものがある。…上半身にまとった法衣の自然な表現はまことに絶妙で、…命ある人間のぬくもりや触感までも感じさせるような表現は、まことに真に迫っている。」

 

 金堂の薬師三尊像は中国で作られ、最初久留米市大善寺玉垂宮に安置された。天武天皇により、「額田姫王」の病気平癒を願って大和の「飛鳥岡本」にうつされ、その後、天武天皇が造営していた藤原京にうつされる。次に、高市天皇がつくる藤原京の「本薬師寺」にうつされ、最後に、平城京にある現在の薬師寺に安置される。渡来した後、五回の変遷を経て、私たちの目の前に鎮座されている。

 

 一方、大橋一章氏は講堂の薬師三尊像について、「頬から鼻・唇のあたりの肉付けはやや平面的で、微妙な肉付けがなされておらず、そのため古風な印象が強い。また、耳も形式的につくられ、丸みのない単調な表現となっている。…単調さはまぬがれず、金堂本尊の写実的なつくりとは較ぶべくもない。」と述べられている。次の写真は講堂の薬師三尊像である。前に第1部の最後のところで見た金堂の薬師三尊像と見比べてみてほしい。

         (薬師寺講堂の薬師三尊像)

 「本薬師寺」の薬師三尊像が移座されて、平城京薬師寺金堂に安置されるようになった理由は、ここにもあるのではないだろうか。

 

 講演の最後に、佃先生は、「今回も日本古代史の定説と大分違う説なので、最初混乱するかもしれないけれど、じっくり考えて自分の見解を築いていってほしい。」と述べられた。

 

 次回第13回講演会は「高市天皇と長屋親王というテーマで、3月10日(日)午後1時~4時 埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                        (以上、HP作成委員会記)

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

第12回古代史講演会のご案内

<日時>  2023年(令和5年)11月18日(土)午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

       東武アーバンパークライン大宮公園駅下車)

<テーマ> 天武王権とその業績

<概要>  

 前回の講演会で、次回のテーマは「高市天皇と長屋親王」の予定であるとお伝えしました。しかし、その前に「天武王権とその業績」のテーマで「天武王権」について詳しく話していただくことにします。

 

 「壬申の乱」は天武王権が日本列島を統一するために天智王権を伐った覇権争いの戦いで、635年に「天武天皇の父」が樹立した天武王権は約40年後に天下統一を果たした。この「壬申の乱」の結果、中央豪族の官僚化や地方支配体制が進展し、中央集権国家が成立した。天皇という称号、律令という法体系が成立するなど日本国家の基礎作りが進んだ画期的時代であった。この時代の業績の一部を記せば以下の通りである。

 

○国書の編纂-『古事記』、『日本紀』-

○「八色の姓」(天皇を中心とする姓の新秩序)の制定、飛鳥浄御原令の編纂、戸籍の作成

○防衛施設の築造、唐の都を参考にした新しい都「藤原京」の建設、唐の「開元通宝」を手本とした最初の貨幣「富本銭」の鋳造、神道及び仏教の保護

 

 『古事記』は「壬申の乱」で手にした皇位継承の正当性を主張しようとするものである。また、720年に成立しているのは『日本書紀』ではなく、『日本紀』である。『日本紀』は天武天皇が企画した天武王権の歴史書であった。『日本書紀』には「高市天皇紀」はなく、天武天皇の次は天智天皇の娘の「持統紀」にすり替わっている。『日本書紀』は高市天皇高市皇子にし、「天武天皇の父」を斉明天皇にすり替え、天武天皇天智天皇の弟にして、「天武王権」の業績を「天智王権」の業績にすり替えた。

 

 『日本書紀』の成立は775年~791年頃のことであるという。『日本紀』を廃して、『日本書紀』を作ることを考えたのは光仁天皇であろう。

 「日本の歴史」は『日本書紀』によって大きく曲げられている。

 佃先生はその著作で「天武王権」の記述に多くのページを割いている。どんな話が聞けるか興味深い。

<講師>  佃收先生

<参加費> 500円

※ 参加方法については、下の「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会」のHPを参照ください。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

第11回古代史講演会レポート

<テーマ>  天武王権

<日時>   2023年9月3日(日)午後1時~4時

<会場>   さいたま市宇宙劇場5階   

<最初に> 

「友の会」の斉藤さんから、今回の講演は日本の国の基礎をつくった天武天皇の父(天武王権)についての話であることが説明された。『日本書紀』はこの天武天皇の父を消して記述し、天武天皇の後に天皇になった高市天皇天皇ではなく、皇子にしていることが述べられた。

 次に、次回以降の講演会の予定などについて話された。次回は11月18日(土)午後1時~4時に開かれ、テーマは「天武王権とその業績」である。会場はリニューアルされた埼玉県立歴史と民俗の博物館にもどる。

 

 今回も、13ページの資料と3枚綴りの地図が配られ、この資料と『新「日本の古代史」(佃説)』(略称:『通史』)をもとに講演がされた。また、会場は「友の会」の皆さんによって、手際よく設営され、講演会が開始された。

             

 最初に佃先生から、これから『日本書紀』による歴史改ざんの話に入っていくので、皆さん各自がよく考えながら聞いてほしい、という要望がされた。配布された地図を指され、吉野ヶ里遺跡の東に位置している「みやき町東尾」から地図上で下の方が、「肥前の飛鳥」と考えられると説明された。

<第1章 天武王権の樹立>

 『通史』に書かれた阿毎王権の年号に注目する。阿毎王権の年号は16世物部耳連公の「節中」(623~627年)で終わっている。ところが、物部氏の歴史書と言われている『先代旧事本紀』(以下『旧事本紀』と略記)から分かるように物部氏には16世の後に、17世、18世がいる。

 

 『日本書紀』(天武)13年(686年)9月の記事に、「諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作り」と書かれ、「一に曰う、真人。二に曰う、朝臣。三に曰う、宿禰。四に曰う、忌寸。五に曰う、道師。六に曰う、臣。七に曰う、連。八に曰う、稲置。」とあるように、天武天皇は「八色の姓」を制定している。

 

 『旧事本紀』には、17世物部連公麻呂は、「天武天皇の御世に天下の萬姓を八色に改定した日に連公を改めて物部朝臣の姓を賜る」とある。また、15世孫物部大人連公の孫の物部雄君連公は天武天皇から「氏上内紫冠位を賜る」と記載され、ともに天武天皇の臣下となっていることを示している。

 

 物部氏の阿毎王権は、天武天皇の王権の支配下に置かれ、年号も「節中」(623~627年)で終わっている。

 

 この時代、北部九州には三つの王権が並存していた。「阿毎王権」、「上宮王権」、「豊王権」である。江戸時代後期の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)による『襲国偽僭考』や、李氏朝鮮碩学が15世紀に撰録した『海東諸国紀』(岩波文庫)によると、この三つの王権によらない年号が635年から連続して続いている。「僧要」(635~639年)「命長」(640~646年)「常色」(647~651年)「白雉」(652~660年)「白鳳」(661~683年)「朱雀」(684~685年)「朱鳥」(686~694年)「大和」(695年~)である。

 

 大宰府天満宮の奥の宝満山の麓にある竈門(かまど)神社の由緒には、「天武天皇白鳳2に神殿が創建された」とある。「白鳳」は天武天皇の年号であることがわかる。天武天皇は686年に死去しているから、「白鳳」、「朱雀」は天武天皇の年号である。上に並べた連続した年号は、天武天皇に続く王権の年号である。この王権を「天武王権」と名づける。

 

「僧要」の始まる635年から「白鳳」の始まる661年まで26年間、それから天武天皇が死去する686年までが25年間である。合計51年の長い間、天武天皇が新たな王権の「天武王権」を創始し、継続したとは考えられない。そうすると、初代である「天武天皇の父」がいて、「阿毎王権」を支配下に置いて「天武王権」を創建し、年号「僧要」を建て、天武天皇に引き継いだのではないだろうか。

 

天武王権の本拠地

 

 『旧事本紀』によると、ニニギノミコトの父である天火明命天孫降臨するとき、「天つ物部氏等25部人」が従者として天降り仕えた。この「天つ物部氏等25部人」は北九州に住み着き、福岡県鞍手郡を本拠地とした。物部氏は、「物部麁鹿火王権」から王権を奪い、552年に「阿毎王権」を鞍手郡に樹立した。この「阿毎王権」の中心人物達は、前に見たように物部氏17世、18世からは「天武王権」の臣下となる。したがって、鞍手郡などの北部九州は「天武王権」の支配領域となった。

 

 天武天皇が創建した神社を見てみよう。福岡県太宰府市の「竈門神社」、久留米市の「高良神社」、宗像市赤間の「七社神社」がある。すべて、北部九州の神社である。

 

 次に、天武天皇の初期の妃を見る。『日本書紀』(天武)2年(673年)2月、天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶り、十市皇女を生む。次に胸形君徳善の女尼子娘を納(いれ)て、高市皇子を生む。

 

 最初に、「鏡王」の女「額田姫王」を娶り、「十市皇女」を生む」とある。筑前鞍手郡に「十市」郷がある。「鏡王」は鞍手郡に居るのではないか。「胸形君徳善の女尼子娘を納(いれ)て、高市皇子を生む」とある。「胸形君徳善」は福岡県宗像の豪族(王)であろう。宗像君の娘と婚姻して、「高市皇子」を生んでいる。また、天武天皇宗像大社を大和の神武天皇陵に勧請している。天武天皇は、宗像で生まれ、育って、青年時代には宗像や鞍手郡に住んでいた。

 

 以上のことなどから、「天武王権」は北部九州を支配しており、本拠地は筑前の宗像である。宗像は天孫降臨の地であり、天武天皇天火明命の子孫と考えられる。物部氏の「阿毎王権」はかつての従者の子孫である。「天武王権」は、「阿毎王権」の上に君臨して、635年に天武天皇の父によって樹立され、661年ころに、天武天皇に引き継がれた王権である。(日本の冠位制度は、「阿毎王権」によって603年に初めて作られた。「天武王権」の冠位制度はそれを踏襲した形で、3回作られている。そのことからも、「天武王権」が、「阿毎王権」を支配下に置いて、その上に君臨してできた事がわかる。詳しくは『新「日本の古代史」(下)』の二 天武王権と天智王権 に述べられている。)

            

 

<第2章 『日本書紀』の百済救援>

 660年7月13日、百済は唐と新羅の連合軍に敗れる。百済王や太子隆をはじめ50人以上が唐に連行される。残存勢力が百済国の再興のために、日本に救援を要請する。663年8月、「白村江の戦い」で、百済と日本の連合軍は大敗を喫し、663年9月百済国は完全に消滅した。

 

 『日本書紀』によると、655年~661年は斉明天皇の世であり、斉明天皇は661年7月に「朝倉宮」で崩じた、とある。「称制」(即位の式を挙げずに政務を取る)として、661年8月~671年まで天智天皇が政務を執った、とされている。百済の救援は、斉明天皇天智天皇によって行われたと『日本書紀』は記述し、この時代に大海人皇子天武天皇)はほとんど登場していない。

 

 『旧唐書』「百済国伝」には、663年8月「白村江の戦い」で、日本軍は四戦四敗し、4百艘の船が焼かれて完敗した、とある。日本の軍船は、筑紫などの九州北部から出航したのだろう。第1章で見たように、この時代に北部九州を支配していたのは天武天皇である。『日本書紀』の記述と全く食い違っている。本当に斉明天皇天智天皇百済支援をしたのだろうか、という疑問が生じる。

 以下、この点から『日本書紀』の記述を見てみよう。

 

 斉明天皇は、660年12月大和から難波に来て諸軍備を備え、翌661年正月に筑紫に向かう。この軍船には、どういう訳か臨月の「大田皇女」が乗っているという。「大田皇女」は、皇極(斉明)が天武王権に人質として差し出して、天武天皇の妃となって、宗像に住んでいる。わざわざ、斉明天皇とともに、難波から筑紫に向かうはずがない。この船は途中、伊豫の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮に泊まり、3月、還りて「娜大津」(博多)に至り、磐瀬行宮に居す。天皇は此れを改め「長津」という、と書かれている。その後、斉明天皇は661年4月「朝倉宮」に遷り、661年7月「朝倉宮」で死去する。

 

 661年8月、「中大兄」は称制すると、「長津宮」(博多)に遷り、水軍を百済に派遣し、「兵仗・五穀」を送ったと書かれている。

 

 661年9月、皇太子(中大兄)、長津宮に御す。織冠を以て百済の王子豊璋に授ける、とある。「織冠」は649年に天武天皇の父が制定した「冠位十九階」であり、天智王権の中大兄が授けるものではない。さらに、百済の王子豊璋は天武王権に来ており、中大兄とは関係していない。

 

 また、(天智)2年(663年)3月、前将軍、中将軍、後将軍らを遣わし、2萬7千人を率いて新羅を打たしむ、とある。ところが、この将軍達を詳しく調べてみると、すべて天武王権の将軍たちである。(『新「日本の古代史」(下)』の二 天武王権と天智王権参照)

 

 『日本書紀』は、天武王権による百済支援を、すべて斉明天皇や中大兄(天智天皇)の事績として書き替えていることがわかる。

 

 斉明天皇の661年7月の崩御はどうだろうか。

 

 『日本書紀』(天智)6年(667年)2月、斉明天皇は娘の間人皇女と合葬された、と書かれている。間人皇女は665年2月に死去しており、667年2月に斉明天皇と合葬されたとある。

 ところが、『日本書紀』(斉明)4年(658年)5月、斉明天皇の孫の「建王」が八歳で死去したとき、斉明天皇は必ず「朕の陵に合葬せよ」と述べている。しかし、孫の「建王」と合葬されていない。

 もし、斉明天皇が661年7月「朝倉宮」で死去したのなら、5年半もの長い間殯(もがり)が行われていることになる。百済救援の最中にあり得ないことである。間人皇女も2年間も殯が行なわれていることになる。斉明天皇は、661年7月「朝倉宮」で死去したのではないのではないか。孫の「建王」と合葬することもしていない。斉明天皇は667年2月に死去し、その墓を造ることなく、直ちに2年前に死去した娘の間人皇女の墓に追葬されたのではないだろうか。

 

 斉明天皇は、661年7月「朝倉宮」で死去していない。すると、この記事は何を示しているのだろう。「朝倉宮」は唐・新羅と戦うために北部九州に造られた宮である。この時代、北部九州は天武王権が支配し、唐・新羅と戦っているのは天武王権である。661年「朝倉宮」で死去しているのは、天武王権の最重要人物のはずである。天武天皇の年号は、「白鳳」(661年~)には始まっている。と言うことは、661年7月「朝倉宮」で死去したのは、天武天皇の父ということになる。『日本書紀』は、天武天皇の父の死去を斉明天皇の死去に書き替えている。

 

 百済を援助して、唐・新羅連合軍と戦ったのは斉明天皇や中大兄(天智天皇)ではなく、天武王権である。斉明や中大兄は、そもそも、筑紫には来ていない。次回の講演会で詳しく述べるが、『日本書紀』は、「天武王権」の事績を「天智王権」の事績に書き替えている。

           


 <第3章 天武王権と百済

天武天皇の父」による北部九州の統一

 

 645年6月、「乙巳(いつし)の変」(前は「大化の改新」と呼ばれた)で中大兄(天智天皇)は、蘇我入鹿を討つ。このとき、中大兄は蘇我倉山田石川麻呂に相談し、協力を得て実行している。蘇我倉山田石川麻呂は上宮王権の最重要臣である。ところが、蘇我倉山田石川麻呂は649年3月に死去する。

 

 『日本書紀孝徳天皇大化5年(649年)3月、蘇我臣日向は蘇我倉山田石川麻呂を皇太子に謗って、「皇太子が海岸で遊んでいるのを見て、殺そうとした」と言う。皇太子(中大兄)はこれを信じて、孝徳天皇蘇我倉山田石川麻呂を攻め、蘇我大臣は妻子とともに自ら首をくくって死去した、とある。翌日の夕べ、蘇我臣日向らは寺を軍勢で囲み、物部二田造塩を召して大臣の首を斬らせ、二田塩は大刀を抜いてその死体を刺し、大声で叫び、斬刑を執行した、とある。

 

 孝徳天皇は「豊王権」であり、中大兄は「天智王権」であるから従来の解釈は成り立たない。さらに、「物部二田」は筑前鞍手郡にあり、大臣の首を切った「物部二田造塩」は「阿毎王権」の豪族だから、天武王権の臣下である。上宮王権の重臣である蘇我倉山田石川麻呂が、天武王権によって討たれている。蘇我倉山田石川麻呂の本拠地は、肥前国基肄郡山田郷と思われる。

 

 この事件は、天武天皇の父が、上宮王権の最重要臣である蘇我倉山田石川麻呂を討って、肥前基肄郡まで領土を拡大した事件と考えられる。最重要臣が討たれ、上宮王権は王権を剥奪され、皇極天皇は「皇極」に、中大兄皇子は「中大兄」になる。「上宮王権」が消滅して、「天武王権」だけが残り、「天武王権」が北部九州を統一したことを表わしている事件である。

 

 白村江の戦いの敗北と筑紫都督府

 

 660年7月、百済新羅・唐連合軍に敗北する。『旧唐書百済国伝に「是に至り乃ち其地を以て分けて熊津、馬韓、東明等五都督府を置き、各州縣を統べるに其の酋渠を立てて都督、刺史及び縣令と為す。右衛郎将王文に命じて熊津都督府と為し、兵を総べて以て是を鎮める。」と書かれている。

百済の地は、熊津、馬韓、東明等の五つに分割されて、「都督府」が置かれる。「都督府」は唐が占領地を武力で支配するために設置した統治機関である。

 

 先に述べたように、663年8月、「白村江の戦い」で百済・日本軍は大敗する。以後の『日本書紀』の記述を見よう。

 

 664年5月、百済鎮将劉仁願は朝散大夫郭務悰等を派遣し、12月郭務悰等は帰国する。

665年9月唐から劉徳高等が派遣され、総勢254人である。12月劉徳高等は帰国する。

この年665年、小錦守君大石等を大唐に遣わす。(等と謂うは小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌彌・吉士針間を謂う。)

 (天智)6年(667年)11月、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等を遣わして、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る、と書かれている。

 

 次に、『旧唐書』劉仁軌伝の記述を見る。

663年白村江の戦で百済・日本軍を破った唐の劉仁軌は、665年10月~12月に「新羅及び百済耽羅、倭の四国の酋長」を領(ひき)いて泰山(神に天子の支配を報告する山)へ行き、666年正月の「封禅の儀」に参列している。敗戦国が「封禅の儀」に参列していることを、唐の「高宗は甚だ悦ぶ」とある。

 

 「坂合部」=「境部」だから、坂合部連石積境部連石積は同じ人物と見られる。小錦守君大石と坂合部連石積等は、665年唐に行き、667年に熊津都督府司馬法聰等によって百済から、筑紫都督府に送られて来たことが、『日本書紀』の記述から確認できる。

 

 一方の『旧唐書』劉仁軌伝の記述では、百済・日本軍を破った唐の将軍劉仁軌は、665年「新羅及び百済耽羅、倭の四国の酋長」を領(ひき)いて泰山へ行き、666年正月の「封禅の儀」に敗戦国を参列させているという。

 

 以上のことから、次のことが分かる。唐の将軍劉仁軌は、小錦守君大石と坂合部連石積等を「領(ひき)いて泰山へ行き」、「封禅の儀」に敗戦国を参列させ、唐の劉仁願は、「熊津都督府司馬法聰等を遣わして、境部連石積等を「筑紫都督府」に送り」届けている。

 

 従来は、この小錦守君大石と坂合部連石積等の唐行きを、何と「遣唐使」としていた。「遣唐使」が、唐側に「領(ひき)い」られて、「泰山へ行き」、唐側に「送り届け」られることがあるだろうか。明らかに、敗戦国が「封禅の儀」に参列させられているのではないか。諸国に日本の敗戦を知らしめている。

 

 さらに、送り届けられた先は「筑紫都督府」である。先に見たように、百済は五つに分割されて、「都督府」が置かれた。「都督府」は唐が占領地を武力で支配するために設置した統治機関であった。「筑紫都督府」は筑紫を支配統治する唐の機関である。筑紫は唐の占領地になっている。今までの流れを整理しておこう。

  663年9月      白村江の戦で破れ、百済完全消滅

  664年10月       筑紫の割譲が決まる

  665年9月~11月   筑紫都督府の設置

  665年10月~12月   守君大石・坂合部連石積等が唐の泰山へ行く

  666年正月       敗戦国として「封禅の儀」に参列

  667年11月       唐は「境部連石積」を筑紫都督府に送り届ける

 

 対馬壱岐も筑紫もすべて唐の占領下になっている。天武天皇は、筑紫から難波(大阪)に遷る。これが、白村江の戦いの後の「日本の歴史」である。「日本の歴史学」では、「筑紫都督府」を日本が設置した「筑紫大宰府」だとしている。日本国民は、筑紫が占領されたことを知らない。現在の「日本の歴史」は大きく狂っている、と言える。

    ※ 岩波書店の『日本書紀』は、この「筑紫都督府」は「筑紫大宰府をさす。 

             原資料にあった修飾がそのまま残ったもの。」としている。小学館の『日本

     書紀』も「筑紫大宰府だとし、唐の官制に倣った文飾か、白村江の戦の後に

     大宰府を一時都督府と改称したか、未詳。唐が九州を占拠してこの官を置い

     たとする説もあるが、採らない」としている。

             (ここで15分の休憩に入った)

            

 

<第4章 天武王権による全国統一>

 筑紫を唐に割譲し、難波に遷った天武天皇百済から逃げて来る人々を受け入れる。『日本書紀』は天武天皇の事績を天智天皇の事績に書き替えているが、この様子を『日本書紀』の記事から、見てみよう。

 

 (天智)3年(664年)3月、百済王善光王等を以て難波に居(おら)しむ。

 (天智)4年(665年)2月、百済の百姓男女四百餘人を以て近江国神前郡に居(おら)しむ。

 (天智)5年(666年)是冬、百済の百姓男女二千餘人を以て東国に居(おら)しむ。

 (天智)8年(669年)、是歳 佐平余自信や佐平鬼室集斯等、男女七百代餘人を以て近江国蒲生郡に遷し居(お)く。663年に日本に亡命してきた「佐平余自信や佐平鬼室集斯等、男女七百代餘人」は、近江の蒲生郡に移している。

 

 このような中、天武天皇には幸運にも、667年11月13日「筑紫都督府」が廃止される。その前年666年11月、唐は高句麗を攻撃する。667年2月から本格的な攻撃が始まる。唐は筑紫や対馬壱岐に配備している兵を高句麗との戦いに向けて、日本から撤退する。

 

 唐に筑紫を割譲した天武天皇は、難波(大阪)に移る。唐の大軍を防ぐために、天武天皇は、さらに内陸部の大和に入りたい。しかし、大和には上宮王権が後飛鳥宮を築いている。649年に上宮王権は天武天皇の父の支配下に入り、冠位が与えられ、王権を剥奪され、年号も停止された。656年、斉明天皇(宝皇女)は天武天皇の父の支配から逃れるため、肥前の飛鳥から大和の飛鳥に来ている。天武天皇は、上宮王権に大和の飛鳥を明け渡すように要求する。

 

 前に述べたように、斉明天皇は667年2月に死去し、直ちに娘の間人皇女の墓に追葬されている。『日本書紀』(天智)6年(667年)、「3月の辛酉の朔にして己卯(19日)に近江に遷都した。」とある。斉明天皇が死去した翌月に、近江に遷都している。「この時、天下の人民は遷都を願わず、遠まわしに諌める者が多く、童謡(わざうた)も多かった。日ごと夜ごと火災が頻発した。」と書かれている。

 

 中大兄は斉明が生存中は動くことができず、斉明が死去すると直ちに妹の間人皇女の墓に追葬して、大和を天武天皇に明け渡し、近江に移る。これが、「近江遷都」である。大和を明け渡すので、斉明天皇の墓を造ることはできなかった。

 

 『日本書紀』(天智)6年(667年)8月、皇太子、倭の京に幸す、とある。「皇太子」は天武天皇である。この年667年8月、天武天皇は大和に入る。

 

 「筑紫都督府」の廃止後、唐の兵がいなくなり、以後の唐の侵略に備えて、天武天皇は防衛施設を築造する。

  667年11月13日   筑紫都督府の廃止

  667年11月14日~末 対馬の金田城を築く(唐が築いた城を改修)

  668年7月        筑紫率の任命(筑紫大宰府の開府)

  669年         水城の築造

  670年         大野城・基肄城の築造

 

 佃先生は、地図③で、この防衛施設の位置を確認した。

 太宰府天満宮の直ぐ北西に、数キロに渡って、高い堤防が築かれている。「水城」である。堤防の下には外敵の侵入を防ぐための堀が掘られている。川も無く、全くの平地に、突如高さが5mに及ぶような土手の堤防が出現する。地元の人は、前からあるから何とも思わないようだが、初めて見るものには、異様な風景である。唐の脅威が如何に凄ましかったか、を示している。

 

 唐と戦っていた高句麗は668年11月に滅びる。筑紫都督府を廃止した唐は、再び日本に迫って来る。『日本書紀』(天智)10年(671年)11月の記事には、対馬国司は唐が2千人、船47隻を派遣して来たことを筑紫大宰府に伝えている。このときには筑紫大宰府は存在している。唐側がこのまま筑紫に行くと、防人と戦争になることを恐れて、筑紫大宰府に報告している。朝鮮の『三国史記』によれば、唐は日本を征服するために来た、とあるが、「筑紫都督府」が再び設置されることは無かった。筑紫の唐への再割譲は無かった。天武天皇が防衛網を整備していたからである。

 

 「天智王権」は、667年2月斉明天皇が死去すると、同年3月近江に遷都し、天智天皇が即位した。柿本人麿は万葉集第29番歌で、天智天皇はどうして飛鳥を棄てて、辺ぴな大津に移られたのか、と詠っている。670年12月、天智天皇は死去する。

 

壬申の乱

 

 672年6月、天武天皇は兵を挙げる。「壬申の乱」の始まりである。まず、「美濃国」へ挙兵を命じている。また「不破の道を塞げ」と命じている。皆、天武天皇が土地を与えている人々である。「壬申の乱」の天武天皇側のルートは、「東国」から迂回して「近江の蒲生や神崎」を通り、「瀬田」から大友皇子大津宮を攻めている。天武天皇百済からの亡命者を住まわせた地域を通って、大友皇子の軍と戦っている。このことからも、百済からの難民を天武天皇が受け入れていることを確認できる。

 

 「壬申の乱」は、天武天皇が、日本列島統一のために「天智王権」を伐った事件である。『日本書紀』は天智天皇天武天皇は、同父母の兄弟であるとしている。今までの経緯から分かるように、二人は全く違う王権の天皇である。同父母の弟(天武天皇)に、実の娘を四人も差し出す兄(天智天皇)はいない。「壬申の乱」により、日本列島には「天武王権」による統一国家が誕生した。

 

 斉明(皇極)天皇は667年2月に死去し、直ちに娘の間人皇女の墓に追葬され、斉明天皇の墓は造られていない。672年、「壬申の乱」で天智王権は滅びる。

 

 この後、『続日本紀』(文武)3年(699年)に記事に、文武天皇越智・山科の二つの山陵を作ろうと欲する、とある。

 

 天智王権が滅びてから20年以上経った699年、持統天皇に援助されている文武天皇が新たに天智王権の斉明(皇極)天皇陵と天智天皇陵を造っている。「越智の山陵」は、斉明(皇極)天皇陵であり、「山科の山陵」は天智天皇陵である。「越智の山陵」は奈良県明日香村にある「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」である。巨石をくり抜き、二つの墓室を作っている。斉明(皇極)天皇と娘の間人皇女が新しい墓に埋葬されたのだろう。

 昨年、「牽牛子塚古墳」は築造当初の姿に復元整備を完了したと、最近の新聞が報じている。

        

         (2022年(昨年)、復元整備がされた「牽牛子塚古墳」)

 

 最後に、天武天皇の父の墓について述べておこう。『日本書紀』は、斉明天皇が661年4月「朝倉宮」に遷り、661年7月「朝倉宮」で崩じた、と記している。しかし、661年7月に「朝倉宮」で崩じたのは、斉明天皇ではなく、天武王権を創始した天武天皇の父であった。唐・新羅との戦いに向けて661年4月「朝倉宮」に遷ったのも天武天皇の父である。

   

 『溝楼』第8号(1999年11月)の「宮地岳城址の発見について」の中で、中嶋聡、向井一雄氏は「今回発見された古代山城遺跡-宮地岳城-は、…城址からは大野城、基肄城が間近に見え、お互いに連携させた防衛構想がうかがえる。」と述べている。

  

 宮地岳に古代山城が発見された。唐の軍は博多湾有明海から攻めて来るであろう。どちらの方向から攻めてきても、唐の大軍に対して指揮ができる位置にある。(図46)天武天皇の父は661年4月に「宮地岳城址」に本陣を構えた。これが「朝倉宮」である。さらに「大野城」「基肄城」を築き、唐の大軍を迎え撃つ防衛線をつくる。しかし、その3ヶ月後の661年7月崩御する。

     

 福岡県福津市に特質すべき古墳がある。宮地嶽神社の中にある「宮地嶽古墳」である。年代は、7世紀中ごろから後半にかけてのあたりと推定されている。死去した天武天皇の父の年代とよく合っており、地域も宗像である。

      (宮地嶽古墳)

 この古墳の説明版には「…とりわけ地下の正倉院といわれるこの古墳は奈良県南飛鳥の石舞台古墳に匹敵する程長大で、一つの石が高さ幅とも約5m、奥行き数mに及ぶ巨石八つで左右を囲み、その全長約23mという九州で最大の石室であります。…中でも金銅製透彫冠は精巧な冠残欠純金の歩揺がついた跡が残っている我国第一級の国宝であり、金銅製頭椎大刀は全長2mにも及ぶ全国最大級の大刀で類まれなるこれ等の優れた品は飛鳥時代美術工芸興隆の先駆として注目されており、当時この一帯を治めた埋葬者の絶大な威勢を示して余りあります。」とある。

 

 「宮地嶽古墳」は宮地岳と同じ名前である。また、玄界灘を見下ろす丘の上にあり、唐・新羅の軍船が博多湾に入ってくるのを最初に見つけることができる位置にある。天武天皇は、この位置に「宮地嶽古墳」を造り、父の墓とした。古墳の石室も副葬品も超一流の最高級品ばかりで、天武王権の創始者の墓に相応しい。

   (玄界灘まで伸びる参道)

 宮地嶽古墳は、宮地嶽神社の本殿の裏手100mほどの所にある円墳である。宮地嶽神社では、年2回(2,10月下旬)「光の道」と呼ばれる境内石段から玄界灘まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日が沈む。このことが、タレント嵐が主演するテレビで放映され、全国的にも知られるようになった。宗像地方で、宗像神社と並んで参拝者が多い神社である。拝殿に掛けられている大注連縄(しめなわ)は、直径2.5m、長さ13.5m、重さ5トンで日本最大と言われ、多くの人の目を引いている。

     

 

 今回も内容が豊富であったが、講演は4時の25分前に終了した。このあと、熱心な参加者の方から質問が出された。「筑紫都督府」は、どのような根拠で、唐の統治機関と言えるのか、などの質問であった。参加者の中で、少し話し合いがされた。これについては、このレポートを読んでいただきたいと思います。

 

 尚、今回の講演内容については『新「日本の古代史」(下)』(佃收著)の中の二「天武天皇天智天皇」(一)「天武王権」と「日本の歴史」(1)(66(1)号)、(三)「白村江の敗戦」後の唐・新羅と日本(58号)に詳しい記述があります。HPで読むこともできますので、是非参考にしていただきたいと思います。

 

 次回第12回古代史講演会は「天武王権とその業績」というテーマで、11月18日(土)午後1時~ もとの埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                          (以上、HP作成委員会記)

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

第11回古代史講演会のご案内

<日時>  2023年(令和5年)9月3日(日)午後1時~4時

       開場:12時45分

<場所>  さいたま市宇宙劇場 5階集会室

     (さいたま市大宮区錦町682-2 JACK大宮ビル内)

       JR大宮駅西口から徒歩3分

<テーマ> 天武王権

<概要>  

 天武天皇の父、天武天皇、それに高市皇子の即位についてお話しいただきます。

 「天武天皇の父」は歴史から抹殺されていますが、「天武王権」の基盤を確立するとともに「日本の律令国家」の基礎を築いた重要な人物であるという説です。

 「天武天皇の父」に当たる人物が「阿毎王権」から「王権」を奪い、635年筑前「宗像」に「王権」を樹立する。天武王権が「阿毎王権」の上に君臨して「王権」を樹立できたのは、天武の父が「宗像」に降臨した「天氏」の子孫で、「阿毎王権」(物部氏)の君主筋に当たっていたからではないかと考えます。後に百済の要請に応えて唐と戦うことを決意すると、「宮地岳城跡」に遷り、本陣を構えた。これが『日本書紀』に書かれている「朝倉宮」と思われます。

 649年には「天武天皇の父」は「上宮王権(皇極天皇)」の王権を剥奪し、支配下に置く。「斉明」はその支配から逃れるため656年「大和の飛鳥」へ移る。

 661年7月「天武天皇の父」が崩御すると天武が即位する。663年9月の「白村江の戦い」で敗北したのは天武天皇で、斉明や中大兄ではない。この敗北で天武天皇は唐に筑紫を割譲して難波に移る。唐は665年に筑紫都督府を設置するが、その後高句麗との戦いに苦戦して兵を引きあげ、667年筑紫都督府を廃止して筑紫から去る。

  一方、中大兄は668年に「天智王権」を樹立する。671年12月に天智天皇が死去すると大友皇子が即位する。 『日本書紀』は天武天皇天智天皇の弟にしているが、「王権」が異なり、兄弟ではない。672年の「壬申の乱」は「天武王権」と「天智王権」の戦いで、天武天皇が「天智王権」を伐った事件である。

 686年9月天武天皇崩御する。『日本書紀』では「高市天皇」を抹殺し、「持統天皇」が即位したことになっているが、天武天皇は同年7月天皇位を高市皇子に譲位している。「朱鳥」[686年7月~694年12月]、「大和」[695年1月~696年7月]の年号は高市皇子の即位を語っている。『万葉集』(巻二挽歌199番)では柿本人麻呂高市皇子を「わご大王」と詠っている。また、「長屋王家木簡」や「懐風藻」の日嗣の審議から、「高市皇子」は「高市天皇」であると考えられる。

 720年『日本紀』が完成するが、729年長屋親王の変で天武王権の血筋が絶えると、その後登場する天武天皇の血が入らない光仁天皇により『日本紀』は改変され、天智系の歴史書としての『日本書紀』が編集される。それが「日本の歴史」となっているのではないか、とする。

<講師>  佃收先生

<参加費> 700円

※ 参加方法については、下の「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会」のHPを参照ください。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

第10回古代史講演会レポート

<テーマ>  上宮王権と法隆寺

<日時>   2023年6月4日(日)午後1時~4時

<会場>   さいたま市宇宙劇場5階   

<最初に> 

 「友の会」の斉藤さんから今回の講演についての説明があった。表題の上宮王権は、591年に阿毎王権から独立し、肥前に本拠地をもつ王権である。現在の歴史学ではほとんど知られていないが上宮法皇を始祖とし、その皇太子が聖徳太子である。聖徳太子の姪が皇極天皇で、その子が天智天皇であるという系譜が話された。

 

 一方、もう一つのテーマである法隆寺については、『日本書紀』に670年に完全焼失したと書かれている。だが、法隆寺の建築様式は古い様式であることなどによって、670年よりも前に建てられていると指摘され、法隆寺再建、非再建の論争が巻き起こった。現在の歴史学の通説では、新しく再建されたとしている。

 ところが、五重塔の心柱のヒノキは594年に伐採されたものであり、金堂の中央の天蓋も606年に伐採されたものであることが精確に分かっていて、整合性がつかない状態におかれている。

 

 佃説日本史では、法隆寺聖徳太子を祀る寺ではなく、上宮法皇を祀る寺であり、670年~710年の間に肥前から移築されたと考えている。建築家で古代史研究家の米田良三さんも、法隆寺の九州からの移築説を唱えている。

 

 通説とは異なるが、しっかりとした論拠を示しておられるので、是非、皆さんの歴史を深める一助にしていただきたい、と斉藤さんは話された。

 

 次回は9月3日(日)にこの会場(さいたま市宇宙劇場5階)「天武王権」というテーマで予定していること、11月か12月に次々回を、さらに3月に最終回を予定していることが伝えられた。

 

 今回の講演内容は、大きく区分すると、(A)上宮王権(B)上宮王権の樹立(C)法隆寺の移築の3つに分けることができる。(A)上宮王権については、『新「日本の古代史」(佃説)』(略して『通史』)の第4章 上宮王権(佃説)を使って、話された。(B)上宮王権の樹立(C)法隆寺の移築については、今回配布された23ページの資料を使って講演された。

 

(A)上宮王権

法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘>

               法隆寺金堂と五重塔

 現在の法隆寺金堂の中に入ると、内陣には、下の図のように仏像が安置されている。

  

 

 法隆寺金堂は釈迦(如来)三尊像を本尊とし、向かって右に薬師如来像、左に阿弥陀如来像を従えている。三つの仏像には光背があり、光背裏面には、それぞれ銘が刻まれている。最初に本尊の釈迦三尊像の光背銘について確認する。

漢文で書かれた内容を箇条書きにしてみる。

① 法興元31年(621年)12月、鬼前太后崩ず。 ② 明年(622年)正月、上宮法皇枕病してよからず。 ③ 干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。 ④ 王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る。この願いの力を蒙り、病を転じ、寿を延ばし、世間に安住されんことを。 ⑤ 2月21日、王后、即世す。翌日(2月22日)、法皇、登遐す。 ⑥ 癸未年(623年)3月中、願いの如く釈迦尊像ならびに侠侍及び荘厳の具を造りおわる。 ⑦ 使司馬鞍作止利仏師造る。

 

 622年2月22日に上宮法皇崩御し、623年3月に法隆寺は上宮法皇を祀る寺として完成する。後に触れるように、聖徳太子は621年2月5日に死去している。法隆寺聖徳太子を祀る寺ではない。

 

 ④ に、王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る、とある。(C)法隆寺の移築のところで詳しく述べるが、上宮法皇の「尺寸の王身」として造られたのは、法隆寺夢殿に安置されている救世観音像である。救世観音像についての記録として、『法隆寺縁起資材帳』の中に「上宮王等身観世音菩薩木造壹躯 金薄押 天平宝字5年(761年)10月1日」という記載がある。光背から台座まで金箔が貼られていた救世観音像は、上宮法皇の「等身」の像である、と記載されている。

 

 光背銘の冒頭「法興元丗一年(31年)歳次辛巳12月」で始まる「法興」は年号であり、「辛巳」は621年である。法興31年が621年であるから、「法興元年」は591年である。『伊豫国風土記逸文』にも「法興6年歳次丙辰(596年)」に法王大王が、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙したと書かれており、「法興」が年号であり、「法興元年」が591年であることを裏付けている。

 

 上宮法皇が建てた年号「法興(591~622年)」は、阿毎王権の建てた連続した年号「貴楽552~569年」-…-「端政(589~593年)」-「告貴(594~600年)」-「願転(601~604年)」-「光元(605~610年)」-…と重なっている。「法興」は阿毎王権に属さない年号である。上宮法皇は、阿毎王権とは別の王権を樹立し、年号「法興」を建てていることが分かる。

 

 次に、年号「法興」を建てた年の『日本書紀』崇峻4年(591年)8月と11月の記事に注目する。8月、天皇は群臣に任那復興を持ち出して、11月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍として、二萬餘の軍を筑紫に出している。続いて、(推古)3年(595年)7月、将軍等、筑紫より至る、とある。

 

 任那は562年に滅亡しているから、30年後の復興はあり得ない。「二萬餘の軍を筑紫に出す」理由付けのために「任那復興」と書かれたものである。紀男麻呂宿禰以下の4人の大将軍はほとんどが肥前の人であり、肥前から派遣されている。後に触れるが、物部守屋討伐(587年)の後、阿毎王権と上宮法皇の勢力は対立が深まる。上宮法皇の王権の樹立を阻止しようとする阿毎王権と上宮法皇の戦いのため、上宮法皇肥前の大将軍たちを率いて、筑紫に二萬餘の軍を出す。だが、戦いはなかった。そのことにより、新たな王権が樹立される。その結果、(推古)3年(595年)7月、将軍等は筑紫から(肥前に)帰ってくる。また、「法興6年歳次丙辰(596年)」には、上宮法皇は、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙して、温泉で骨休みをしている。二萬餘の軍の大将軍はほとんど肥前の人であり、上宮法皇の本拠地は肥前であることがわかる。

 

 <上宮王家>

 上宮法皇が創始した王権の人々にはどんな人々が居たのだろうか。『日本書紀』には、用明天皇が穴穂部間人皇子を皇后として、厩戸皇子を第一子とし、第二子を来目皇子、第三子を殖栗皇子、第四子を茨田皇子とし、第一子の厩戸皇子は初め上宮に居て、後に斑鳩に移る、と書かれている。

 

 厩戸皇子は595年に渡来した高麗の僧「慧慈(えじ)」を師として仏法を学び、「慧慈(えじ)」はその後、高麗に帰っている。

 『日本書紀』(推古)29年(621年)2月5日、半夜に厩戸皇子斑鳩宮に薨る、とある。「高麗の「慧慈」は上宮皇太子薨ると聞いて大いに悲しむ。」と書かれ、「慧慈」は「其れ一人生きるとも何の益あらむ。我、来年の2月5日を以て必ず死なむ。」と述べ、「是に「慧慈」、期日(2月5日)に死す。」と書かれ、「其れ独り上宮太子のみ聖に非ず。慧慈も亦聖なり。」と締めくくっている。

 

 この記事に、厩戸皇子は「上宮皇太子」であると書かれているように、厩戸皇子は上宮法皇の皇太子であり、621年2月5日に死去している。外国の高僧が命日に合わせて死去しているのであるから、年や日を間違えるはずがない。一方、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘が記すように、上宮法皇は622年2月22日に崩御している。『日本書紀』は上宮法皇を歴史上から抹殺して記録しているから、厩戸皇子用明天皇の子にしている。

 

 田村皇子(舒明天皇)は宝皇女(皇極天皇)の夫である。『大安寺伽藍縁起并流紀資材帳』(以下『大安寺縁起』と略)に田村皇子が上宮皇子(厩戸皇子)を見舞うときの次の記述がある。上宮皇子が言う。「愛わしきかな。善かな。汝、姪男。自ら来たり吾が病を問うや。…」天皇、臨崩の日に、田村皇子を召して遺詔す。「朕、病篤し。今、汝、極位に登れ。宝位を授け上宮皇子と朕の羆擬寺を譲る。仍りて天皇位に即く。」

 上宮皇子(上宮皇太子)は田村皇子を「汝、姪男」と言っている。宝皇女(皇極天皇)は上宮皇子の姪であることが分かる。また、田村皇子を召して遺詔している天皇は、宝皇女(皇極天皇)の父である。久米皇子は603年に死去しているから、殖栗皇子茨田皇子である。ここでは、三男の殖栗皇子としておこう。

 

 上宮法皇が樹立した王権を「上宮王権」と呼ぶことにする。591年に上宮法皇は「上宮王権」を樹立する。上宮王権の系図は下の図のようである。

       

<上宮王権の本拠地と舒明天皇

 605年、上宮皇太子は上宮王権の本拠地から斑鳩に移る。(推古)14年(606年)7月、天皇、皇太子に請い、勝鬘教(しょうまんきょう)を講(と)かしむ。…是歳、皇太子、亦法華経岡本宮において講(と)く。天皇、大いに喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)る。因りて、斑鳩寺に納める。(『日本書紀』)

 

 「皇太子」は上宮皇太子(厩戸皇子)であり、天皇は上宮法皇である。「岡本宮」は上宮法皇の宮であり、上宮皇太子(厩戸皇子)は上宮王家の本拠地に戻り、法華経を講(と)いている。岡本宮は「肥前の飛鳥」にある。

 

 『日本書紀』(舒明)2年(630年)10月、天皇、飛鳥岡の傍らに遷る。これを岡本宮と謂う。「岡本宮」は上宮法皇の宮である。田村皇子(舒明天皇)は即位すると、上宮法皇の宮殿に移っている。岡本宮は「飛鳥岡」の傍らにあるという。岡本宮は「肥前の飛鳥」(三養基郡みやき町西尾・東尾)にある。

 

 (舒明)11年(639年)7月、詔して曰く「今年、大宮及び大寺を造作す」という。即ち百済川の側を以て宮處(みやどころ)と為す。(舒明)12年(640年)10月、百済宮に徒(うつ)る。(『日本書紀』)

 天皇位11年歳次己亥春2月、百済川の側の子部社を切排し、院寺家、九重塔を建て、三百戸を封じ入れ賜う。号して百済大寺という。(『大安時縁起』)

 舒明天皇は629年に上宮王家の天皇として即位し、翌630年に上宮王権の宮殿である岡本宮に住む。ところが、639年には肥前の宮處(みやどころ)に新しく百済大宮、百済大寺を建てて移り住む。

 

 (舒明)13年(641年)10月、天皇百済宮に崩ず。宮の北に殯(もがり)す。これを百済の大殯という。この時、東宮開別皇子(中大兄),年十六にして誄(しのびごと)す。(『日本書紀』)舒明天皇にはすべて「百済」が付いている。舒明天皇は「百済人」であろう。

 

 さて、翌642年に舒明天皇の葬儀が行われる。百済に使者として行っていた阿曇連比羅夫は百済の弔使をつれて筑紫まで来る。阿曇連比羅夫は筑紫国より駅場に乗って来たと言い、「臣、葬に仕えむと望み、故に独り来たれり」と述べる。(『日本書紀』)比羅夫は葬儀に仕えたいので、百済の弔使を筑紫に残して、駅馬に乗り一人で来たという。舒明天皇の葬儀は、筑紫から馬で行けるところで行われている。大和ではなく、九州で行われている。舒明天皇が「大宮」や「大寺」を造ったところを「宮處(みやどころ)」といった。肥前国神埼郡に「宮処(美也止古呂)」がある。神埼郡の位置は「筑紫の国より駅馬に乗り、先に独り来たれり」の記述と良く合っている。神埼郡の西南を城原川が流れており、その下流佐賀市諸富町がある。諸富町大堂の「村中角遺跡」から「宮殿」とヘラ書きされた土器が出土しており、かつてアサヒグラフに写真が掲載された。上宮王権の本拠地は「肥前の飛鳥」である。

 

日本書紀』皇極即位前紀、元年の春正月に丁巳に朔にして辛未に、皇后、即天皇位す。舒明天皇の後、642年に皇極天皇が即位したと『日本書紀』は記している。

 

(B)上宮王権の樹立

 

 阿毎王権と対立、独立して上宮王権は樹立される。(A)上宮王権でも述べたが、この詳しい経緯を今回配布された資料を使って、説明していく。

物部守屋

 まず、物部守屋に注目する。物部守屋は、585年から突如登場する。

 

584年蘇我馬子は石川の宅に仏像をつくり、仏像を安置して修行する。その後、疫病が流行する。585年に物部守屋が登場して次のような発言をする。

 

(敏達)14年(585年)3月、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と奏して曰く。「何故、臣が言を用いることを肯定しないのか。考天皇より陛下に及ぶまで疾病流行し、国民は絶えるべし。豈に専ら蘇我臣の仏法を輿こし行うに由るにあらずや」という。詔して曰く「灼然(いやちこ)なり。仏法を断て」という。物部弓削守屋大連は自ら寺に詣り胡坐(あぐら)に踞座し、其の塔を斫り倒し、火を縦(つ)けて燔(や)く。併せて仏像と仏殿を燔(や)く。すでにして焼くところの餘りの仏像を取りて難波の江に棄てしむ。(『日本書紀』)

 

 物部守屋は「天皇(十五世物部大人連公)」に対して、「何故、臣の言(意見)を用いないのか」と詰め寄って、無礼な口を利いている。何故だろうか。阿毎王権の系図を見ると物部守屋は二代目の「十四世大市御狩連公」の弟であり、三代目の「十五世物部大人連公」は物部守屋の甥である。二代目の「十四世大市御狩連公」が死去し、三代目の甥が即位するのが「勝照(585~588年)」である。この時から、急に物部守屋は登場する。兄の存命中は、発言することができなかったのだろう。

 

 「勝照(585~588年)」から物部守屋は阿毎王権の「ナンバー2」、いや天皇の叔父であるから実質上「ナンバー1」と言ってもよい。天皇に横柄な口を利いている。

 

 その物部守屋が、討たれる。

日本書紀』(崇峻)即位前紀(587年)7月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼすことを謀(はか)る。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子難波皇子春日皇子蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅・倶に軍旗を率いて、進み大連を討つ。…蘇我(馬子)大臣、亦本願に依り飛鳥の地に法興寺を起こす。

 

 この記事は、仏教の受容をめぐって対立する蘇我馬子物部守屋を討った事件としてよく知られているが、疑問な点がある。

 

 第一に、蘇我馬子は「物部守屋討伐」の首謀者とされているが、一番目の部隊長は泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、二番目の部隊長は竹田皇子(推古天皇の子)、三番目の部隊長は厩戸皇子(上宮法皇の皇太子)であり、やっと六番目の部隊長が蘇我馬子である。六番目の部隊長が首謀者であり得るだろうか。

 

 第二に、蘇我馬子が「法興寺を起こす」とあることである。645年「乙巳の変」(「大化の改新」と呼ばれていた)で中大兄は蘇我入鹿を討ち「法興寺に入り、城として備える」と『日本書紀』に書かれている。さらに、「凡て諸皇太子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、悉く皆随い侍る」とある。蘇我入鹿を伐つと、中大兄は「法興寺」に入り、城として蘇我氏の反撃に備えている。「法興寺」は蘇我氏の寺ではなく、上宮王権の寺であり、中大兄の曽祖父である上宮法皇が創建している。蘇我馬子が「法興寺を起こす」ことはあり得ない。『日本書紀』は上宮法皇を抹殺しているので、上宮法皇の事績は、蘇我馬子の事績として書き換えられているのである。

 「物部守屋討伐」の首謀者は蘇我馬子ではなく、上宮法皇である。「法興寺」も上宮法皇の創建である。

蘇我氏崇峻天皇

 それでは、蘇我氏はどういう存在だったか、整理しておこう。(欽明)16年(555年)7月、蘇我大臣稲目宿禰穂積磐弓臣等を遣わし、吉備の五郡に白猪屯倉を置かしむ。(欽明)17年(556年)7月、蘇我大臣稲目宿禰等を備前の児嶋軍に遣わし、屯倉を置く。10月、蘇我大臣稲目宿禰等を倭国高市郡に遣わし、韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を置く。紀国に海部屯倉を置く。(『日本書紀』)

 蘇我稲目は阿毎王権の重臣として、各地に屯倉をつくっている。

 

(敏達)3年(574年)10月、蘇我馬子大臣を吉備国に遣わして、白猪屯倉と田部とを増益さしむ。(『日本書紀』)阿毎王権は、蘇我稲目の子の蘇我馬子を稲目の設置した吉備の白猪屯倉に派遣している。蘇我馬子も阿毎王権の重臣である。

 

 574年の蘇我馬子は、阿毎王権の重臣である。ところが、587年には、上宮法皇の部隊長として、阿毎王権の「ナンバー2」である物部守屋の討伐に加わっている。馬子は、阿毎王権から上宮王権に寝返っている。

 上宮法皇は「貴国」の天皇の子孫である。このように、「貴国」が再興され、上宮王権が樹立されるとなると、蘇我氏などかつての「貴国」の配下の子孫達が参集したと考えられる。

 

 587年、阿毎王権の中心にいる物部守屋を討って、上宮法皇は阿毎王権からの独立をはかる。『日本書紀』崇峻4年(591年)上宮法皇は、二萬餘の軍を筑紫に出した。鞍手郡を本拠地とする阿毎王権が、上宮王権の独立を阻止するため、討伐の軍隊を筑紫に派遣することに対抗するためである。ところが、阿毎王権は、討伐隊を派遣しなかった。実質「ナンバー1」の物部守屋が伐たれたからであろう。この年、上宮法皇は新年号「法興」を建て、新たな王権を樹立した。その4年後、(推古)3年(595年)7月、(肥前の)将軍等は筑紫から帰ってくる。また、5年後の「法興6年歳次丙辰(596年)」には、上宮法皇は、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙して、骨休みをする。

 

 前に述べたように、『日本書紀』は上宮法皇を抹殺しているので、上宮法皇の事績を蘇我馬子の事績として書き換えていた。上宮法皇が年号を立て、王権を確立していた時代を『日本書紀』は崇峻天皇推古天皇の在位の時代としている。この崇峻天皇について、確認しておこう。

 

 (崇峻)5年(592年)11月、(蘇我馬子)、東漢直駒を使わし天皇を弑す。…駅使(はいま)を筑紫の将軍の所に遣わして曰く、「内乱に依り外事を怠るなかれ」という。(『日本書紀』)

 

 蘇我馬子崇峻天皇を殺害する。このとき、駅使を(二萬餘の軍を出している)筑紫の将軍の所に遣わして、内乱だから、外事を怠るな、と伝えている。587年物部守屋討伐の時、崇峻天皇は一番目の部隊長、蘇我馬子は六番目の部隊長で、どちらも上宮法皇の臣下であった。したがって、蘇我馬子崇峻天皇を殺害したのは、上宮王権内の内乱ということになる。『古代史の復元⑥』で詳しく論じているが、上宮王権内部での「土地争い」によって、崇峻天皇蘇我馬子に殺害された。崇峻天皇天皇ではなく、上宮王権内の重臣である。上宮法皇を抹殺し、天皇を「万世一系」にするために、崇峻天皇天皇に仕立てられている。

 

 上宮法皇は591年、年号「法興」を建て、上宮王権を樹立した。「法興」とは、「仏法を起こす」という意味である。同じ文字が「法興寺」にも使われている。『日本書紀』から「法興寺」創建の記事を拾ってみよう。

 

(1)(崇峻)3年(590年)10月、山に入り寺の材を取る。 (2)(崇峻)5年(592年)10月、是の月、大法興寺の仏堂と歩廊を起こす。 (3)(推古)元年(593年)正月、仏の舎利を以て法興寺の刹柱の礎のなかに置く。 (4)(推古)3年(595年)5月、高麗の慧慈帰化す。即ち皇太子の師とする。是歳、百済の僧慧聡来る。此の両僧は仏法をひろめて、並びに三宝の棟梁と為る。 (5)推古)4年(596年)11月、法興寺、造りおわる。即ち(蘇我馬子)大臣の男善徳臣を以て寺司に拝す。是の日、慧慈、慧聡の二人の僧、始めて法興寺に住む。

 

 「法興寺」は、590年に建築資材を取りに行く事から始め、596年11月に完成する。

 

 587年に阿毎王権の実質「ナンバー1」の物部守屋を討ち、591年筑紫への二萬餘の軍を派兵し、年号「法興」を制定し、596年法興寺を完成し、上宮王権が確立された。

 

(C)法隆寺の移築

 法隆寺五重塔、金堂等の西院伽藍は世界最古の木造建築物であり、多くの見事な仏像を有しているが、その由来が謎に包まれている点でも、他の追随を許さない特筆すべき寺院である。謎の背後に、古代史の真の姿をうかがい知ることができる。

 

 今回の講演で、佃氏はこれらの謎の多くを解明されている。今まで、法隆寺聖徳太子を祀る寺として考えられてきた。この観点からでは、謎は解明されず、謎の前に立ち止まっている以外ない。上宮法皇による上宮王権の樹立、法隆寺は上宮法皇を祀る寺であるという観点から、見事に謎は解明される。それを順次見ていこう。

 

法隆寺再建の問題点>

 『日本書紀』(天智)9年(670年)4月、夜半の後に法隆寺に火災。一屋も餘る無し。670年に法隆寺は全焼する、と『日本書紀』に書かれている。ところが、法隆寺を建築様式から見ると、古い建築様式(飛鳥様式)であるため、670年よりも前に建てられていると考えられる。このことなどから、明治以来、法隆寺の「再建、非再建論争」は激論が重ねられてきた。

 

 昭和14年(1939年)「若草伽藍(斑鳩寺)」の発掘調査が行われ、法隆寺の敷地内にあって法隆寺とは別の「斑鳩寺」が全焼したことが分かり、『日本書紀』の記事はこのことを述べているとされた。法隆寺は「670年の斑鳩寺の火災の後」に「新しく再建した」ということで決着している。

 

 ところが、木材の年輪の幅を計測することによって、樹木を伐採した年代を精確に決めることができる「年輪年代法」があり、これによると、五重塔の心柱は594年に伐採されたヒノキで、五重塔の4層の木材は624年、631年、663年に伐採され、金堂の中央の天蓋の木材は606年に伐採されたものであることが判明している。

 

 623年に完成され、金堂の中央に位置する釈迦三尊像を見ても火災に遭った痕跡は全く無く、金堂や五重塔の木材は670年よりずっと早い時期に伐採されており、「670年の後に新しく再建」されたとは考えられない。

法隆寺の謎>

 金堂の中央の天蓋の木材は606年に伐採されている。天蓋は仏像が完成して、仏像の大きさに合わせて造られる。606年には、法隆寺の仏像は造られているだろう。

 

 中田祝夫編『薬師寺金石文考四種』(勉誠社文庫)の「薬師寺擦銘」に次の記述がある。「(訳)是より先、推古天皇15年(607年)に法隆寺金堂薬師仏像を造立する所有り。」

 606年に天蓋の木材が伐採され、翌年の607年に天蓋も造られ、薬師如来像が完成している。この記述からも、法隆寺の完成は607年としてよい。591年に上宮法皇は王権を樹立し、596年には「法興寺」を造り、16年後の607年に法隆寺を完成させている。上宮王権の本拠地は肥前の飛鳥にあったから、この法隆寺肥前に建てられている。

 

 (A)上宮王権のところで見たように、現在の法隆寺金堂には、中央に釈迦三尊像が置かれ、向かって右に薬師如来像が置かれ、左に阿弥陀如来像が置かれている。1990年、奈良国立博物館が金堂内の釈迦三尊像薬師如来座像の空洞内部を初めて本格調査した。その結果、薬師如来像は7世紀の中ごろから後半のかけての作であることを確認した、と発表した。薬師如来の光背銘の内容から考えても、薬師如来が造られたのはそれ以上後だと考えられるが、いずれにせよ、現在の法隆寺金堂に安置されている薬師如来像は、もっと後に造られたものであり、7世紀初頭の607年に完成された薬師如来像ではない。

 

 607年に肥前に建てられた法隆寺の本尊である薬師如来像は、現在の法隆寺にはない。(少し先回りして述べると、この薬師如来像がどこにあるかは、後半の法輪寺との関係から明らかになる。)

 607年に建てられた法隆寺を元「法隆寺」と呼び、斑鳩にある現「法隆寺」と区別する。

 

 一方、現「法隆寺」金堂で、釈迦三尊像の左側に安置されている阿弥陀如来像の光背銘を見てみると、もとの像は承徳年間(1097~1099年)の盗難に遭い、現在の像は寛喜3年(1231年)に再興したものであると書かれている。現在の阿弥陀如来像とその天蓋は鎌倉時代に造られている。現「法隆寺」金堂の釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像の並びは、鎌倉時代に作られたことが分かった。

<現「法隆寺」金堂の内陣>・・・鎌倉時代にできた

 

     天蓋        天蓋       天蓋

   阿弥陀如来像     釈迦三尊像    薬師如来

   (鎌倉時代作)    (623年)      (7世紀末以降)

(台座は救世観音像のもの)

 

 鎌倉時代から金堂には、釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像が安置されている。ところが、左側の阿弥陀如来像の台座の中央には直径約70cmの円形に漆の塗り残しがあるという。そして、その大きさに、ちょうど法隆寺東院夢殿の救世観音像の円形の台座が合致しているという。  

          (円形の台座の救世観音像)

 救世観音像は、秘仏として東院の夢殿に隠されていた。救世観音像についての記録として、『法隆寺縁起資材帳』の中に「上宮王等身観世音菩薩木造壹躯 金薄押 天平宝字5年(761年)10月1日」という記載がある。現在は部分的にはがれている所もあるが、光背から台座まで金箔が貼られていた救世観音像は、「上宮王等身」の記述から上宮法皇の「尺寸の王身」として造られたことが分かる。

 また、釈迦三尊像の光背銘が述べているように、金堂には釈迦三尊像と救世観音像が置かれており、『法隆寺縁起資材帳』の記載から、天平宝字5年(761年)以降まで二つの像が安置されていた、と考えられる。

 

 救世観音像は現在、法隆寺の東院夢殿に安置されている。古来秘仏として秘されてきた。「開けば雷が落ちる」と固く拒否する寺僧の反対を押し切って、明治17年、日本美術の発掘に貢献したフェノロサ岡倉天心などによって白布を解かれ、その姿が初めて現れた。この事件は、日本仏教美術史の上でも衝撃的なものであったようだ。釈迦三尊像の光背銘に「④ 王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る。この願いの力を蒙り、病を転じ、寿を延ばし、世間に安住されんことを。」と書かれている長身の「釈像尺寸の王身」像である。

 

 病気平癒を願って救世観音像が造られ、622年に上宮法皇が死去し、釈迦三尊像が造られて623年には釈迦三尊像とともに救世観音像が安置されていた。

  ところが、鎌倉時代阿弥陀如来像が造られ、救済観音像が置かれていた台座に置かれている。こうして、現「法隆寺」に釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像が安置されている。

 

 どうして、救世観音像は隠されたのだろうか?

 

 鎌倉時代になると、仏教が盛んになり、「聖徳太子信仰」はますます盛んになり、「法隆寺聖徳太子の寺である」ということになる。「上宮王等身観世音菩薩木像」と書かれているように、救世観音像は長身の上宮法皇の等身大の像で、背の高さが180cmもある。これを聖徳太子の像とするには無理があるのではないか。そこで、阿弥陀如来像を造り、救世観音像と置き換え、救世観音像は秘仏として法隆寺東院に隠されたのではないだろうか。

 

 上宮法皇が逝去した翌年(623年)の法隆寺金堂の内陣は、天蓋は中央と西側の二つしかなく、次の様だと考えられる。

法隆寺金堂(623年)の内陣>

 

      天蓋        天蓋      

    救世観音像      釈迦三尊像    玉虫厨子

 

 救世観音像は622年に上宮法皇の病気平癒を願って「等身大に」造られ、釈迦三尊像法皇の成仏を願って623年に造られた。法隆寺聖徳太子ではなく、上宮法皇を祀った寺である。

 

法隆寺法輪寺の関係>

 法隆寺の近く、北1Kmほどのところに法輪寺がある。斑鳩町三井にあるため、三井寺とも呼ばれる。『上宮聖徳太子伝補闕紀』に次の記事がある。「(670年に)斑鳩寺は火災に遭った後、衆人は再建する土地が見つからないので…先に三井寺を造った。」『日本書紀』に書かれた670年の火災は、法隆寺ではなく斑鳩寺であった。

 

 『法隆寺雑記帳』の中で石田茂作氏は、法隆寺からは4種類の「忍冬唐草文軒平瓦」が出土しており、670年に法輪寺を創建した時に「忍冬唐草文軒平瓦」が最初に造られ、それを真似て、法隆寺の「忍冬唐草文軒平瓦」が造られている、としている。

 

 また、石田氏は法隆寺の伽藍配置についても言及している。法輪寺は、「東に金堂、西に塔」の「法隆寺式伽藍配置」である。それまでの寺院は、塔が前、金堂が後ろにある「1棟1金堂」の「四天王寺式伽藍配置」であった。

 まず先に、「法隆寺式伽藍配置」に法輪寺を造り、それを一倍半の大きさにして、法隆寺を造っている。

 

 「法隆寺式伽藍配置」の起源を調べると、中国唐代貞観年間(627~649年)までさかのぼるという。「法隆寺式伽藍配置」が日本にもたらされるのは、貞観年間(627~649年)以降である。

 607年ごろ、肥前に元「法隆寺」が創建された。670年に斑鳩寺が焼失したとき、法隆寺肥前の飛鳥にある。670年に斑鳩寺が焼失した後、法輪寺が造られ、それを基にして、法隆寺肥前から斑鳩に移築された。新たな「法隆寺式伽藍配置」であり、再建ではなく、移築である。

 

法隆寺の移築>

 『法隆寺 薬師寺 東大寺 論争の歩み』の中で、大橋一章氏は、昭和9年から始まった法隆寺昭和大修理によって得られた法隆寺建築に関する知見について述べている。「五重塔では壁を解体した結果、側柱(がわばしら)は壁の取り付いていた面にも戸口部材の咬んでいた面にも、相当な風蝕をうけていた。」五重塔は「新築」ではないことを示し、運ばれてきた後も長年放置されていたと考えられる。

 

 また、『法隆寺雑記帳』の中で石田茂作氏は次のように述べている。「五重塔の四壁は白く塗られているところが解体のために、初重(1層)の壁の一部を崩して壁の構造を調べてみたところ、表面の白壁の下に今一重白壁がある。その表面をはがすと壁画が現れたという。」五重塔はやはり移築されたものだ。

 

 石田茂作氏はさらに述べる。「戦後始まった五重塔の解体の解体修理で、東北隅の四天柱の礎石に、直径25cmくらい、深さ10cmあまりの丸い鉢形の穴が掘込まれ、その中から火葬された人骨が発見された。」続けて、「『続日本紀』によると、わが国で火葬の初めは「文武天皇4年(700年)3月」死去した法相宗元興寺の僧道照の遺骨であるとされている。」五重塔の礎石に火葬された人骨が埋葬されていた。したがって、五重塔を建立したのは、700年以降であると言える。

 

 『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、648年に皇極天皇から法隆寺に食封「参百戸」が与えられるが、679年に天武天皇によって法隆寺の食封は停止される。次に、693年に、「仁王会」が開かれており、「飛鳥宮御宇天皇」(高市天皇)から仏具等を納め賜っている。さらに、五重塔の塑像や中門の金剛力士像も和銅4年(711年)に造られた、と書かれている。

 

 これらのことから、679年に食封が停止されて、680年~693年の間に法隆寺肥前から斑鳩に運ばれたこと、693年の「仁王会」は斑鳩に移築された法隆寺で行われたこと、五重塔は700年以降まで長い間建立されずに放置されていたこと、711年に五重塔の塑像や金剛力士像が造られたこと、などが分かる。

 

 『七大寺年表』や『伊呂波宇類抄』の記述からも、法隆寺和銅年間(708年~714年)に移築が完了していることが確認できる。

 

<元「法隆寺」の仏像のその後>

 昭和47年(1972年)に行われた法輪寺の三重塔再建にともなう塔の発掘調査について、『法隆寺 薬師寺 東大寺 論争の歩み』の中で、大橋一章氏は次のように述べている。「基壇の周辺からは法隆寺の西院出土の瓦とよく似た複弁蓮華文の軒丸瓦と忍冬唐草文(パルメット)の軒平瓦が出土し、また基盤の版築土中からはこれより古い型式の単弁蓮華文軒丸瓦と重弧文軒平瓦が検出された。…さらに基壇当方の地山面に掘立柱の穴の一部が確認された。…それは瓦葺の掘立柱建物かもしれない。…掘立柱の建物であれば、本格的な寺院建築ではあるまいが、法輪寺の創建当初にはこのような小規模な建物で代用していたかもしれない。」

 

 670年の直後ころに三井寺法輪寺)は創建されるが、それより前に「瓦葺の掘立柱建物」があったようだ。さらに、大橋氏は述べる。「現在収蔵庫に安置されている木彫りの薬師如来坐像や伝虚空蔵菩薩像は丁度そのころの製作と考えられる。如来像の薬師像のほうが当初の本尊であったかもしれない。」

 

 三井寺法輪寺)には、創建前にこの地に「瓦葺の掘立柱」の寺院が存在していて、薬師如来坐像が当初の本尊であったかもしれない。現在は「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」が安置されているという。

 

 さて、607年ころ上宮法皇肥前に、元「法隆寺」を創建し、薬師如来像が造られていた。現「法隆寺」にある薬師如来像は、これとは別のものであった。三井寺法輪寺)は、瓦や伽藍配置を同じくし、その1.5倍がちょうど法隆寺となるように、法隆寺に先がけて造られた法隆寺ゆかりの寺院である。この法輪寺の当初の本尊が、止利仏師の造ったとされる薬師如来坐像である。

 

 この薬師如来坐像こそ、元「法隆寺」の薬師如来像ではないだろうか。一緒に安置されている伝虚空蔵菩薩像も、同じく飛鳥時代の作で、止利仏師が造ったものとされている。

 

そうすると、元「法隆寺」には、「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」および「玉虫の厨子」が安置されていた、と考えられる。622年、上宮法皇が病に臥したため、王后、王子等は病気平癒を願って上宮法皇の等身大の救世観音像を造る。法皇は遂に崩御する。623年、法皇の徳を称え、成仏を願って釈迦三尊像が造られ、救世観音像と釈迦三尊像を金堂に安置する。そこで、今まで置かれていた「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」は他の地に移されることになる。

 

 623年であるから、上宮皇太子(聖徳太子)は既に621年に死去しており、上宮王権では、「山背大兄王」の時代である。「山背大兄王」は斑鳩寺の北方の「三井」に慌てて「瓦葺の掘立柱寺院」を建て、そこに元「法隆寺」に置かれていた「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」を安置したのだろう。このようにして、三井寺法輪寺)の前身の「瓦葺の掘立柱寺院」ができた、と考えられる。

 

 670年、斑鳩寺が全焼する。斑鳩寺を再建する土地が見つからないので、「瓦葺の掘立柱寺院」を壊して、三井寺(法輪寺)を創建する。仏像は「瓦葺の掘立柱寺院」に安置されていたものをそのまま安置する。「法隆寺式伽藍配置」で、法隆寺に先がけて、その2/3の大きさになるように建てられた。

 

 現在、「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」は法輪寺の講堂(収蔵庫)に、講堂の本尊とされる大きな4mの十一面観音菩薩立像(平安時代造)の両側に安置されており、薬師如来坐像法輪寺の本尊とされている。 

 

法輪寺講堂(収蔵庫)

(左 本尊の薬師如来坐像)(中央  十一面観音)( 右 伝虚空蔵菩薩像)       

 法輪寺の現在のHPを見ると「創建から江戸時代中期まで、当寺に関する資料は乏しいため、奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、…平安時代の仏像を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。」と書かれているだけで、法隆寺との深い関係は示されていない。まして、法輪寺の本尊である「薬師如来坐像」が元「法隆寺」の本尊であったかも知れないことなど、微塵も感じさせない内容である。

 

 これに対して、美術史や歴史の研究で有名な田中英道氏は『国民の芸術』の8章の中の「最初の天才、止利仏師」の項目で、止利仏師の釈迦三尊像や救世観音像に続いて、法輪寺薬師如来像と虚空蔵菩薩像を取り上げ、「この両作品とも寺伝どおり、止利仏師の作と考えてよいだろう」、と所見を述べられている。法輪寺法隆寺の歴史的な関係には触れていないが、美術史の観点からの確かな指摘であり、さすがの記述だと思われた。

 

 佃先生の見事な謎解きによって、法隆寺の謎が解き明かされた。

 

        (法隆寺 百済観音像)

 また、美術史の大家である田中英道氏が「世界の中でも屈指の彫刻のひとつと考えられる」とされる「百済観音像」(法隆寺)は、明らかに飛鳥時代までに造られた仏像であると考えられるが、江戸時代元禄期に初めて「虚空蔵菩薩」として知られるまで、これも倉庫の中に埋もれていたようだ。その後も、明治初年まで「虚空蔵菩薩」の名で呼ばれていた。ようやく平成10年に「百済観音堂」が建立されて、そこに安置され、今では多くの観光客を集めている。やはり、法隆寺は九州から移築されたが故に、このようなことが多く起こったのだろうか、という想いが頭をよぎった。

 

 次回第11回古代史講演会「天武王権」というテーマで、9月3日(日)午後1時~ さいたま市宇宙劇場で開かれる予定です。     (以上、HP作成委員会記)

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

第10回古代史講演会のご案内

<日時>  2023年(令和5年)6月4日(日)午後1時~4時

       開場:12時45分

<場所>  さいたま市宇宙劇場 5階集会室

     (さいたま市大宮区錦町682-2 JACK大宮ビル内)

       JR大宮駅西口から徒歩3分

<テーマ> 上宮王権と法隆寺

<概要>  

 552年から北部九州は「阿毎王権(『隋書』の俀国)」の時代となり、西日本を支配する。 ところが6世紀の末になると北部九州では、「用明天皇の豊王権」や「上宮法王の上宮王権」が阿毎王権から独立、更に635年には天武天皇の父が阿毎王権から王権を奪って筑前宗像に「天武王権」を樹立するなど「王権」が乱立するという。今回は591年に肥前の飛鳥に建てられたという「上宮王権」と上宮法王を祀る寺であるという「法隆寺」についてお話しいただきます。


 「上宮王権」の王統は上宮法王-殖栗皇子舒明天皇皇極天皇と続くが、649年皇極天皇天武天皇の父によって王権を剥奪される。それを隠すため『日本書記』の天皇の系譜は書き換えられているのではという。即ち「豊王権」を「上宮王権」と合体させ、「上宮法王」を抹消して「用明天皇推古天皇」を「上宮王権」の天皇に仕立てる。こうして聖徳太子用明天皇の子になる。「天智王権」は継承しているとするために「天武王権」を抹消し、天武天皇天智天皇の弟にする。日本の歴史は複雑に書き変えられているという。


 法隆寺に関しては、金堂の釈迦三尊像の光背に、「願の如く釈迦尊像幷びに侠侍及び荘厳の具を造り竟る」とある。釈迦三尊像は上宮法王が崩御した後に法王の成仏を願って作られている。「法隆寺」は聖徳太子ではなく、「上宮法王」を祀る寺であるという。
 法隆寺は670年の斑鳩火災の後に再建されたということになっている。しかし、年輪年代法により、五重塔の心柱は594年に、金堂の中央の天蓋の木材は609年に伐採されていることが判明している。釈迦三尊像も火災にあった痕跡はない。法隆寺は新しく再建されたものではないという。 この時代の輪郭を掴むことは容易ではない。多くの「説」に触れ歴史を学ぶ一助としたい。

<講師>  佃收先生

<参加費> 700円

※ 参加方法については、下の「埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会」のHPを参照ください。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama