<テーマ> 『日本書紀』は、何故作られたのか
<日時> 2024年(令和6年)8月4日(日)午後1~4時
<会場> 埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂
<最初に>
今回最終回となる古代史講演会は、途中コロナ禍による2年間の中断を経て、約5年間、計15回多くの皆さんが参加してくれて開催することができた。大変ありがたかったと「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」の「古代文化を考える会」斉藤亨さんが挨拶された。
今回の『日本書紀』のテーマは、佃收先生が長い間研究を重ねられ、得られた内容である。早速、先生の講演を始めていきたい、と述べられた。
今回もA‐4版20枚の資料が、「古代文化を考える会」の皆さんによって印刷され綴じられて、受付で配布された。
第1部 『日本紀』と『日本書紀』
最初に佃先生から、15回続けられたことに対して、参加者の皆さんと運営の「古代文化を考える会」の皆さんに対して、感謝の言葉が述べられた。
今回の講演内容に入る前に、江戸時代後期の学者の「鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)」が書いた『襲国偽僣考(そのくにぎせんこう)』について述べられた。(第8回講演会参照)この本で、「鶴峯戊申」は「九州年号」と呼ばれている昔の年号を、自分の見解をほとんど付け加えずに、昔からあったそのままに写して、著述している。そのことにより助けられた、と語られた。(「九州年号」については、佃收HP(tsukudaosamu.com)に解説)
「善記」から始まる「九州年号」を注意深く考察していくと、「善記」は日本や朝鮮半島を支配した「倭王武」が建てた年号であることが分かる。また、6世紀中頃から7世紀初めまで北部九州を支配していた「阿毎王権」(俀国)の年号を把握することができる。お手元の『新「日本の古代史」(佃説)』(通史)-以下A本と記す-の182ページに各王権の年号が書かれている。これは、佃氏が考察を重ねて得たものである。
法隆寺は上宮法皇を祀った寺であった。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘には年号「法興(591~622年)」が刻まれている。これは「上宮王権」のはじめの年号である。この「法興(591~622年)」と「阿毎王権」の連続する年号…「端政(589~593)」から「倭京(617~622年」に続く部分が重なっている。このことから、「上宮王権」と「阿毎王権」は別の王権であり、591年に「上宮王権」が年号を建てて新たに樹立されたことがわかる。
「日本の歴史学」は「九州年号」を「偽年号」として退け、考察さえもしようとしない。そのため、九州にいくつかの王権が成立していたことが分からない。
「天武王権」は年号「僧要(635~639年)」を建て、九州宗像地方に成立した。(第11回講演会)それまで北部九州を支配していた「阿毎王権」を吸収し、その上に君臨して成立している。
「天武王権」の二代目の天武天皇は、『日本書紀』では、天智天皇の弟とされている。しかし、天武天皇は天智天皇より3歳年上で、互いの本拠地も異なる。天智天皇は大田皇女、持統天皇など4人の娘を人質として、天武天皇に差し出している。実父母が同じである弟に、兄が4人もの娘を差し出すことがあるだろうか。
佃氏は、長い時間をかけて「九州年号」を解明することから、九州に複数の王権があったことを突きとめることができた。しかし、「日本の歴史学」は、「九州年号」を「偽年号」として見向きもしない。
どうして、史実と異なることを記している『日本書紀』が成立したのか、これが今回のテーマである。佃收講演会の最後の話しとしたい、と述べて今回の内容に入られた。
<第1章 国史の編纂>
『日本書紀』により、681年に天武天皇が国史の編纂を命じたことが確認できる。
(天武)10年(681年)3月、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執りて以て録す。(『日本書紀』)
686年に天武天皇は崩御する。次の高市天皇も696年に崩御した。しかし、国史は未完成である。国史は天武天皇の指示で作られている。『日本書紀』の巻二十八のほとんどが壬申の乱を詳細に記述することにあてられていることなどから、指示された国史の範囲は「壬申の乱(巻二十八)」までであったと考えられる。
その後の714年に元明天皇は国史に「天武天皇の壬申の乱以後(巻二十九)」と「高市天皇紀(巻三十)」を加えた国史編纂を命じている。
(元明)和銅7年(714年)2月、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰せしむ。(『続日本紀』)
また、『続日本紀』により、『日本紀』三十巻と系図一巻が720年に完成したことを確認できる。
(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。(『続日本紀』)
<第2章 『日本紀』=『日本書紀』(説)>
『日本書紀』について、岩波書店『日本書紀』は次のように解説している。
『日本書紀』は一に『日本紀』ともいう。(中略)『本朝月令』所引「高橋氏文」にのせた延暦十一年(729年)三月十八日の太政官府、『日本後紀』延暦十六年(797年)二月、弘仁三年(812年)六月等の記事なども『日本紀』といっている。
これに対し、『日本書紀』とあるのは、『弘仁私記』序、延喜・天慶の『日本紀竟宴和歌』の序文、『朝野群載』にのせた承和三年(836年)の「広隆寺縁起」、『釈日本紀』に引いた「延喜講記」などである。だから、弘仁年中から文人たちが『日本紀』に「書」の字を加えて『日本書紀』と称したのが、ついに題名となったのであろう。(岩波書店『日本書紀』)
「弘仁(810~823)年中から文人たちが『日本紀』に「書」の字を加えて『日本書紀』と称した」ので、『日本紀』を『日本書紀』というようになり、『日本紀』と『日本書紀』は同じだとしている。今日の「歴史学会」でも同じとしている。
<第3章 『日本紀』≠『日本書紀』(佃説)>
まず第一に、系図一巻はどうなったのだろうか。『日本紀』と『日本書紀』が同じだとしても、どうして系図がないのだろう。国が長い時間をかけて作った大事な系図が簡単になくなるものだろうか。
第二に、今まで講演会で話してきたように、『日本書紀』は、天武王権の事績を皇極天皇や天智天皇の事績と書きかえ、「高市天皇」の即位をかくして「高市皇子」としているように、多くの歴史的事件の書きかえをしている。『日本書紀』は書きかえられた文書である。元の文書が『日本紀』ではないだろうか。
第三に、『万葉集』からも確認できる。『万葉集』巻第一、巻第二には、「…日本紀に曰く…」とか「…日本書紀に曰く…」という形の注がある。「日本紀」が9回、「日本書紀」が2回、「紀」が4回、「記」が1回出てくる。仮に、「…日本紀に曰く…」と「…日本書紀に曰く…」が同じ表記として見ても、その後の注における時の表現形式が明らかに異なっている。
『日本書紀』には、年号がほとんど記載されていない。その前の年号が何であり、どのようにその年号が建てられたかは記載されず、突然「大化」「白雉」「朱鳥」の3つの年号だけが出てくるだけである。したがって、『日本書紀』の記事はほとんど、その天皇の何年の何月という形で時を表現している。例えば「(天武)10年(681年)3月、天皇、大極殿に御して…」のように、年号を記さずに時を表している。
『万葉集』34番歌の注では「日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅の秋9月…」と書かれ44番歌の注では「日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春3月丙寅…」と書かれ、高市天皇の年号「朱鳥」によって時を表現する書き方になっている。50、195番歌も同様である。『日本書紀』では、同じ記事が年号を使わない形で書かれている。注の「…日本紀に曰く…」では、『万葉集』の著述者が、『日本書紀』とは異なる『日本紀』を見て書いていると考えられる。
『日本書紀』は神武天皇から持統天皇までの歴史を記し、続いて、文武天皇から桓武天皇までの歴史を『続日本紀』が記している。ともに「正史」とされている。書の題名から言っても、『続日本紀』の前は『日本紀』の方がふさわしいのではないだろうか。
いずれにせよ、前回まで具体的に何回も見てきたように720年に成立した『日本紀』は書きかえられ、『日本書紀』となっている。系図一巻は、失われた。『日本紀』≠『日本書紀』である。
<第4章 『日本紀』の存在時期>
『万葉集』巻一、二の大部分は慶雲(704~707年)・和銅(708~714年)・養老(717~723年)年間に順次成立し、巻一から巻十六は「天平十八年(746年)~天平勝宝五年(753年)」までの間に成立した、といわれている。
このことから、『万葉集』に引用されている『日本紀』は、746年~753年までは存在していたと考えられる。逆に言うと、書きかえられた『日本書紀』の成立は、「746年~753年」以降である。(『新「日本の古代史」(下)』の中の67(2)号に更に詳しい記述があります)
第2部 『日本書紀』の成立
<第1章 『日本書紀』と『続日本紀』>
『日本紀』では「高市天皇」であったが、『日本書紀』では「高市皇子」と書き直され「高市天皇」の即位は消されている。この点で、『日本書紀』と『続日本紀』の記事を比べてみよう。
(持統)11年(697年)8月、天皇、禁中に定策して皇太子に天皇位を譲る。(『日本書紀』)
(文武)即位前紀、高天原広野姫天皇(持統天皇)の11年、立ちて皇太子となる。元年(697年)8月、禅を受けて即位す。(『続日本紀』)
ともに697年8月に持統天皇が文武天皇に譲位したことを記している。ところが、『続日本紀』の記事は、この年を「高天原広野姫天皇(持統天皇)の11年」すなわち持統天皇11年としている。つまり、天武天皇が686年に死去した後に持統天皇が天皇位に就き、11年後の697年に譲位したとしている。
天武天皇死去後に高市天皇が即位し、高市天皇が崩御するのが696年であるから、697年は持統天皇が即位してから2年目である。この年は持統天皇2年となるはずで、『日本紀』にはこのように書かれていたのだろう。しかし、『続日本紀』は持統天皇が686年に天皇位に就いたとしている。これは、『続日本紀』が、書き直された『日本書紀』を見て記述しているからである。
『日本書紀』は『続日本紀』より前に成立していることを確認できる。
<第2章 『続日本紀』の成立過程>
続いて、『続日本紀』の成立過程を見ていこう。
(桓武)延暦16年(797年)2月己巳(13日)、(重ねて菅野朝臣真道、秋篠朝臣安人、中科宿禰巨都雄等に勅して)『続日本紀』を撰ぶ。是に至り而して成る。(『日本後紀』)
『日本後紀』の記事から、『続日本紀』は797年に完成している。したがって、『日本書紀』は797年よりも前に成立している。
『日本後紀』は、『続日本紀』の成立について、さらに次のように記す。
宝字2年(758年)より、延暦10年(791年)に至る。三十四年の二十巻は前年に勤成奏上。・・・(文武天皇元年(697年)~宝字元年(757年)二十巻と前の二十巻と併せて九十五年四十巻。草創より始めて断筆まで七年。・・・(『日本後紀』)
宝字2年(758年)より延暦10年(791年)までに至る三十四年間の二十巻は先に成立している。最初の文武天皇元年(697年)から宝字元年(757年)まで、つまり文武天皇から聖武天皇、孝謙天皇までの二十巻が後に成立しているという。なぜだろうか?
菅原道真が編纂し892年に完成されたとされる『類聚国史』は、文武天皇から聖武天皇までの国史について、「記注不昧(明らか)」で「余烈(古人が残した功業)」があるためだ、と記している。
『日本後紀』の延暦16年(797年)2月13日条では、前朝(光仁天皇)に前紀(『日本紀』)を継いで歴史を編集し、「…而因循旧案。竟无刊正」とある。つまり、改めることもなく、訂正するような箇所はなく終わった、と書いている。『類聚国史』、『日本後紀』ともに光仁天皇(770~780年)時代の歴史編集(『続日本紀』)では、改めたり、訂正するようなところはなかった、としている。
ただし、同じ『日本後紀』の延暦16年(797年)2月13日条で、次の文をつけ加えている。
但初起文武天皇元年歳次丁酉。盡宝字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案三十巻。語多米塩。事亦疎漏。(『日本後紀』)
文武天皇から孝謙天皇までの「六十一」年間は「曹案三十巻」があったが、「語多米塩」(細かく面倒なことが多く)、「事亦疎漏」(手落ちや漏れがある)、と述べている。
光仁天皇(770~780年)の時代の『続日本紀』の編纂では、改めたり、訂正することはなかった。しかし、延暦16年(797年)の「曹案三十巻」では「語多米塩」、「事亦疎漏」であるという。797年に『続日本紀』は完成するが、7年の月日を要したとあった。したがって、「語多米塩」、「事亦疎漏」(細かく面倒なことが多く、手落ちがあった)のは、790年頃のことではないかと考えられる。
このような事情を、どう理解したらよいだろうか。
『日本紀』では、「高市天皇」であった。したがって息子は「長屋親王」である。ところが、『日本書紀』では「高市皇子」であり、息子は「長屋王」となる。光仁天皇(770~780年)の時代の修撰(歴史編集)では「竟无刊正」(誤りを正すことがなくおわる)であった。『日本紀』に書かれているように、「高市天皇」は「高市天皇」に、「長屋親王」は「長屋親王」と書けばよかった。
ところが、この直後に『日本書紀』が成立する。そこでは「高市皇子」であり「長屋王」と変わってしまう。
「曹案三十巻」では「長屋親王」と書かれている。これを「長屋王」に訂正しなければならない。もっと厄介なのは「位階」である。「親王」は「正4位」から始まる。ところが、「王」は「无位(無位)」からである。「長屋親王」の「位階」を「无位」から「昇叙」しなければならない。他者との関係も考慮して昇叙することになる。これは大変な作業である。まさに「語多米塩 事亦疎漏」(細かく面倒なことが多く、手落ちや漏れがある)である。
このため、「長屋親王」が生存していた『続日本紀』の最初の部分(文武天皇~聖武天皇)の『続日本紀』の完成が一番最後になった。
以上の考察から、光仁天皇の時代(770~780年)から790年の間に『日本書紀』が完成された、と考えられる。
第3部 『日本書紀』は「誰が」、「何の目的で」作ったのか
<第1章 『日本書紀』を作ったのは「光仁天皇」>
これまでの考察から、790年には『日本書紀』は完成している。『日本書紀』の述作には優に数年以上は要する。まず述作の前に構想を練る必要がある。「史実」を曲げて書くのであるから、矛盾が生じやすく、構想には多くの時間が必要である。
光仁天皇(770~780年)の時代には『続日本紀』の修撰が行われ、「竟无刊正」(誤りを正すことがなくおわる)であった。光仁天皇の時代までは史実が記録されている。『日本書紀』は光仁天皇の時代には成立していないが、790年には完成している。
すると、『日本書紀』の構想が練られ成立したのは「光仁天皇」の時代である。『日本書紀』を作ったのは、光仁天皇である。(佃説)
<第2章 光仁天皇>
光仁天皇とは
光仁天皇の系図を、下の図48 天智王権の系図から見てみよう。
図の右下に光仁(白壁王)がある。右肩に付けられている半角の数字は、天智天皇から始めたとしての天皇の代を表している。光仁(白壁王)には11が付けられているから、天智天皇から数えて11番目の天皇ということである。天智天皇の孫であり、重要なことは、天武天皇の血が混じっていない純粋な天智天皇系の最初の天皇ということである。それまでの、数字10の称徳天皇までは、すべて天武天皇の血が混じっている。
『続日本紀』を見てみる。
(光仁天皇)即位前紀、天皇、諱は白壁王、近江大津宮御宇天開別天皇(天智天皇)の孫、田原天皇(志紀親王)の第六の皇子なり。母は紀朝臣橡(とち)姫と曰う。贈太政大臣正一位諸人の女なり。(『続日本紀』)
「諱(いみな)は白壁王」とある。「白壁王」は天智天皇の孫であり、志紀親王の第六皇子である。志紀親王は天智天皇の第七皇子である。
光仁天皇(白壁王)の系譜をたどってみよう。白壁王と「諱(いみな)」された理由が分かってくる。
父の志紀親王(『日本書紀』では施基皇子と表記)の母は、「越の道君の娘」であることが『日本書紀』(天智)7年(668年)2月条の記事から確認できる。
天智天皇は667年3月近江遷都をして、翌年668年2月に、「越の道君の娘」を娶っている。天智天皇は671年12月に死去するので、施基皇子(志紀親王)が生まれるのは670年前後と考えられる。
天智天皇が死去した半年後の672年6月に壬申の乱があり、天智王権は亡びる。幼い施基皇子を抱えた母は越に帰ろうとするだろう。しかし、越は天武王権の支配下にあることが、『日本書紀』の記事から確認できる。すると、施基皇子と母は夫の天智天皇の故郷である肥前に行ったのではないだろうか。
(天智)10年(671年)9月、天皇、寝疾不豫。(或る本に云う、8月、天皇疾病。)10月、是月、天皇、使いを遣わし袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及び諸珍財を法興寺の仏に奉る。(『日本書紀』)
天智天皇は死去する2ヶ月前の671年10月に、肥前に使いを遣わして法興寺の仏に珍財を奉納している。肥前の飛鳥には上宮王家に関わりのある人々が居て、法興寺を守り続けている。施基皇子の母はそれを頼りに、施基皇子を育てるために肥前に行ったのだろう。
施基皇子は無事成長し、同じ肥前の基肄郡の紀朝臣諸人の娘橡(とち)姫を娶り、「白壁王」を生んでいる。
『続日本紀』光仁天皇即位前紀に、「童謡(わざうた)」が載っている。
(光仁)即位前紀、嘗て龍潜の時、童謡(わざうた)に曰く、「葛城寺の前在る也 豊浦寺の西在る也 おしとど としとど 桜井に白壁しづく也 好き壁しづく也…」という。
「龍潜」とは、「天子となるべき人が位につかないでいること」をいう。「葛城寺」は肥前国三根郡葛木にあり、その隣が「白壁」である。光仁天皇(白壁王)は幼いころ、肥前国三根郡葛木の隣の白壁で育った。それで、「白壁王」と言われる。
肥前の白壁はかつて仁徳天皇の本拠地であったが、仁徳天皇が難波に移った後、その地を、上宮王権(天智王権)が受け継いで、治めていた。
光仁天皇の即位
称徳天皇が崩御して白壁王が皇太子になるときの様子を『続日本紀』は次のように記している。
(称徳)宝亀元年(770年)8月4日、天皇、西宮の寝殿に崩ず。春秋五十三。左大臣従一位藤原朝臣永手・…・近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等、禁中に定策し、諱を立てて皇太子と為す。(『続日本紀』)
770年8月4日に称徳天皇が五十三歳で崩御する。諸臣は「禁中に定策」するとある。「定策」とは、臣下が次の天皇を誰にするかを議論することである。「禁中(宮中で)」議論をしている。その結果、「諱を立てて皇太子と為す」とある。「諱」はここでは「白壁王」である。「白壁王」を皇太子にしている。
天皇が死去するのに、なぜ皇太子を立てるのだろうか。天皇を立てるべきである。「白壁王」は「嘗て龍潜の時」とあったように、世間からは忘れられた存在であった。そのため「无位(無位)」である。「无位」の人を天皇にすることはできない。そのため、まず「皇太子」にしたのである。そして、2ヵ月後の770年10月に天皇となる。
(光仁)宝亀元年(770年)10月、大極殿に於いて天皇の位に即く。宝亀と改元する。(『続日本紀』)
(桓武)天応元年(781年)12月23日、太上皇崩ず。春秋七十有三。(『続日本紀』)
「太上皇」とは光仁天皇である。73歳で死去している。すると、770年に即位した時は62歳であったことが分かる。当時の平均寿命を越えてから即位している。異常な即位とも言えるだろう。
<第3章 『日本書紀』を作る>
696年に天武天皇の長子である高市天皇が崩御してから、「天智王権」は再び王権を握るためにあらゆる努力をしてきた。天智天皇の娘の持統天皇は、息子の草壁皇子が689年に死去しているので、高市天皇の長子の長屋親王を押しのけて自ら即位し、1年後の697年に孫の軽皇子(文武天皇)に天皇位を引き継ぐ。しかし、文武天皇は707年に25歳の若さで崩御する。
そこで、文武天皇の母である元明天皇を707年即位させる。そして、715年文武天皇の姉の元正天皇が、引き継いで即位する。「不改常典」に基づき、何としても文武天皇の子の首皇子(聖武天皇)に天皇位を引き継ぐためである。
724年ついに聖武天皇が即位をする。728年、聖武天皇と藤原不比等の娘の光明子の間にできた基親王が幼くして死去する。729年、眼の上のたんこぶであった天武王権の長屋親王を誣告により自害させ、光明子を正式に皇后とする。744年聖武天皇の皇子の安積親王が17歳で死去する。もはや、聖武天皇と光明子の子供は、ともに女性である、伊勢斎主となっている井上内親王と阿倍内親王しかいない。
749年聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇となる。その後、一時淳仁天皇を経て、阿倍内親王が再び天皇位に就き、764年に称徳天皇となる。称徳天皇には子供がいない。その称徳天皇が770年に53歳で薨去する。
今まで、何とかして持統天皇の血を引く天皇をつないできた。しかし、天皇は薨去してしまい、子はいない。そこで、光仁天皇に白羽の矢が刺さった。肥前の地で暮らしていて、62歳と平均寿命を越えているが、天智天皇の孫であることに間違いない。しかも、天武天皇の血が入っていない純粋な天智系である。このようにして、光仁天皇は生まれている。
「天智王権」の血を絶やさない努力は、幾世代に渡って続けられてきて、光仁天皇にいたっている。「天智王権(上宮王権)」の権勢が日本の歴史の中で、確固たるものとして認められなければならない。
ここで、簡単に「上宮王権(天智王権)」と「天武王権」の歴史を振り返ってみよう。
635年、天武天皇の父は宗像に「天武王権」を樹立する。
649年、天武天皇の父は、「上宮王権(皇極天皇)」の王権を奪う。
[皇極天皇は上宮法皇の孫であり、中大兄(天智天皇)は皇極天皇の子]
668年、中大兄(天智天皇)は近江で「天智王権」を樹立する。
672年、壬申の乱で、「天智王権」は天武天皇によって滅ぼされる。
『日本紀』は「天武王権)」が作った歴史書である。649年に天武天皇の父によって、「上宮王権(天智王権」は王権を剥奪されている。また、672年の壬申の乱では、「天智王権」は滅ぼされた。『日本紀』には、「天智王権」の敗北の歴史が記されており、「天智王権」の権勢をしるすにはふさわしくない。今は、長屋親王も亡くなり、「天智王権」が復活している。このように考え、光仁天皇などの「天智王権(上宮王権)」の勢力は、『日本紀』を「天智王権」のための歴史書に改ざんすることを決意する。
<第4章 『日本紀』を『日本書紀』に>
「天智王権」の歴史書の構想を練る。まず、「天智王権」は滅びることなく、今に継続しているようにしなければならない。そのためには、「天武王権」は存在しなかったことにする。
「天武王権」の抹消(その1)
649年に「上宮王権」は「天武天皇の父」に王権を奪われる。『日本書紀』では「天武天皇の父」を抹消すればよい。
「天武王権」の抹消(その2)
天武天皇は壬申の乱で「天智王権」を滅ぼした。そこで、天武天皇を「天武王権」の天皇でないことにする。そのため、天智天皇と天武天皇は兄弟だとする。天武天皇は天智天皇の弟とすることにより、「天武王権」は存在しないことになる。
「天武王権」の抹消(その3)
686年に天武天皇は「高市天皇」に譲位した。これに対して、「高市天皇」は即位していないことにする。天武天皇が崩御した後、天智天皇の娘の持統天皇が即位したことにする。
第4部 『日本紀』の改ざん
<第1章 『日本紀』の改ざん(1)>
『万葉集』の注の記事で見たように、『日本紀』の記述では「天武王権」の年号ごとに巻を設けている。「天武王権」の年号は「天武天皇の父」の「僧要」から始まる。また、天武天皇が国史の編纂を命じたときは「巻二十八」の「壬申の乱」までであった。その後、元明天皇が「巻二十九」を「天武天皇のその後」、「巻三十」を「高市天皇」として追加した。そのようにして、720年『日本紀』が成立していた。
これに対して、『日本紀』の「天武王権」の各年号に対して、「天智王権」の天皇を充てて記述すれば、「天智王権」が継続していたことを示せるし、書き変える労力も少なくて済む。
6世紀の末から7世紀初め頃にかけて、北部九州には4つの王権が覇を競っていた。そのうち「阿毎王権」(俀国)は「天武王権」に吸収された。「天武王権」の天皇は、天武天皇の父、天武天皇、高市天皇と続く。「上宮王権」の王統は、上宮法皇、殖栗皇子、舒明天皇、皇極天皇と続いた。「豊王権」は用明天皇、(崇峻天皇)、推古天皇、(多米王)、孝徳天皇の順である。
巻 |
天武王権の天皇 |
『日本紀』の年号 |
|
二十三 |
天武天皇の父 |
僧要 |
|
二十四 |
〃 |
命長 |
|
二十五 |
〃 |
常色 |
|
二十六 |
〃 |
白雉 |
|
二十七 |
白鳳 |
||
二十八 |
〃 |
白鳳 |
|
二十九 |
〃 |
白鳳、朱鳥 |
|
三十 |
朱鳥、大和 |
上の表のように、年号「僧要」に対しては舒明天皇、年号「命長」には皇極天皇と、「上宮王権(天智王権)」の天皇を当てる。649年に皇極天皇は、天武天皇の父に王権を剥奪された。これを隠蔽するために、「上宮王権(天智王権)」と別の王権である「豊王権」を合体させ、649年より前、645年の「乙巳の乱」の時に皇極天皇は「豊王権」の孝徳天皇に譲位したことにする。また、推古天皇や用明天皇の「豊王権」の天皇は「上宮王権(天智王権)」の天皇にして、「上宮皇太子(聖徳太子)」は用明天皇の子とする。
このようにして、「天智王権(上宮王権)」は滅びることなく継続した、とすることができた。
<第2章 『日本紀』の改ざん(2)>
『日本書紀』には次のように書かれている。
(舒明)13年(641年)10月、息長足日広額天皇(舒明天皇)、崩ず。明年(642年)正月、皇后(皇極)、天皇位に即く。元を改める。4年(645年)6月、天萬豊日天皇(孝徳天皇)に位を譲る。天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)を称して皇祖母尊と曰う。天萬豊日天皇(孝徳天皇)、後5年(白雉5年=654年)10月崩ず。
(斉明)元年(655年)正月、皇祖母尊、飛鳥板蓋宮に於いて天皇位に即く。(『日本書紀』)
641年に舒明天皇が崩御すると、皇后である宝皇女が即位して、皇極天皇となった。645年の「乙巳の乱」の後に急きょ、孝徳天皇に譲位する。654年に孝徳天皇が崩御すると655年に「皇極(皇祖母尊)」は「重祚」して斉明天皇になる、と記している。
「豊王権」の孝徳天皇は654年に死去し、その子の有間皇子も658年に殺害され、この年「豊王権」は滅亡した。「天智王権(上宮王権)」が継続しているようにするためには、孝徳天皇の後、誰かに天皇位を継続したことにしなればならない。そのために、「皇極」が再び即位したことにする。これを「重祚」という。「皇極」は「重祚」して「斉明天皇」になったとしている。
649年、皇極天皇は王権を奪われ、天皇ではなく、ただの「皇極」となり、中大兄皇子もただの「中大兄」となった。このことを隠すために、「豊王権」の孝徳天皇に譲位したとする。今度は、孝徳天皇が死去したので、皇極天皇が「重祚」して天皇位に就いたとする。これは、「天智王権(上宮王権)」が継続したとするために考え出されたことである。「斉明天皇」はいない。
『日本書紀』は、斉明天皇は斉明天皇7年(661年)7月に「朝倉宮」で崩御したと記し、天智6年(667年)2月に娘の間人皇女とともに合葬されたと記している。5年以上葬儀が行われなかったという記述は、どう考えても不自然である。
百済救援のために「斉明天皇」と「中大兄」は九州へ行き、661年に「斉明天皇」が「朝倉宮」で死去したと、『日本書紀』は記した。しかし、第11回古代史講演会(テーマ:天武王権)で詳しく述べたように、百済救援をしているのは「天武王権」であり、661年に死去したのは天武天皇の父であった。実際に皇極(斉明)が死去したのは、天智6年(667年)ではないだろうか。
<第3章 『日本書紀』は『日本紀』の改ざんの証明>
舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇と続け、巻二十七の天武天皇を天智天皇に変え、巻三十の高市天皇を持統天皇に変えると、「天智王権(上宮王権)」が続くようにできる。巻二十八の天武天皇は、天智天皇の弟としたからである。
このように改ざんされた『日本書紀』を私たちは正史として受け取っているが、『日本紀』を改ざんした証拠は、『日本書紀』の中に多く残っている。一つだけあげてみよう。
671年12月に第38代天智天皇は崩御する。672年6月「壬申の乱」が始まる。『日本書紀』では天智天皇の弟の「大海人皇子」と天智天皇の子の「大友皇子」の戦いとしている。したがって、『日本書紀』では、「壬申の乱」の時「天皇」は空位であるはずである。
ところが、『日本書紀』巻二十八「壬申の乱」には、「天皇」が37回も出てくる。(「朕」も5回も出てくる)『日本紀』の記述が変更されないまま残っているのである。
桓武天皇は、高野新笠との間に生まれた光仁天皇の長子である。桓武天皇の在位は781年から805年である。『日本書紀』は「(770~780年)~790年」の間に成立しているから、『日本書紀』の完成は桓武天皇になってからと考えられる。桓武天皇は『日本紀』を『日本書紀』に書きかえた理由をよく分かっている。今の「天智王権」の世に、『日本書紀』を普及させるのが、自身の任務である。
『日本書紀』を世に出しても、『日本紀』の「系図一巻」と比較すれば、『日本書紀』の記述が偽りであることは容易に分かる。桓武天皇は、全国に「系図」の焚書を命じている。
『新訂増補 国史大系8 日本書紀私記、他』(吉川弘文館)の「日本書紀私記(甲本)」に次の記事がある。
親王及び安麻呂等、更に此の日本書紀三十巻并帝王系図一巻を撰す。(今図書寮及び民間に在るを見る)・・・
更に帝王系図有り。(天孫の後悉く帝王と為す。而して此の書に云う。或いは新羅・高麗を国王に為すに到る。或いは民間に在るを帝王と為す。ここに因り、延暦年中、下府諸国令焚之、而今猶在民間也)(「日本書紀私記(甲本)」)
「日本書紀三十巻并帝王系図一巻」とあるのは、『日本紀』三十巻と系図一巻のことである。「延暦(782~805年)年中」とあるから、桓武天皇の時代である。桓武天皇は、諸国に命じて『日本紀』の系図一巻を焼かせている。「焚書」である。系図一巻と照らし合わせれば、『日本書紀』の記述が偽りであることがたやすく分かる。もちろん、「本文三十巻」も「焚書」にしているだろう。
『日本紀』三十巻と系図一巻はすでに全国に普及している。『日本紀』の「天武王権」を抹殺して、書きかえた『日本書紀』を普及させるには、『日本紀』及び系図一巻が邪魔である。桓武天皇は、『日本紀』及び系図一巻の焚書命令を下す。桓武天皇が焚書命令をしていることが、書きかえたことの証拠ともなっている。
今の「日本の歴史教育」では、光仁天皇などの「天智王権(上宮王権)」の勢力によって書きかえられた歴史をそのまま史実としている、と佃氏は現状に対して厳しい警告を述べられた。
少しの質問の時間の後、今回が最後ということで、次のことに言及された。
天孫降臨や神武東征は神話ではない。天孫降臨については、『宮下文書』に書かれた通りの吉武高木遺跡が発掘されている。(第3回古代史講演会)
神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳であるが、この古墳の昨年度の再調査により、鏡を神体とする天氏の墓にふさわしく、100枚以上の銅鏡が出てきている。三角縁神獣鏡は神武天皇が作らせた鏡である。(81号論文参照)当然、中国産ではない。
邪馬壹(台)国の位置については、私は解決済みと考えている。「魏志倭人伝」の著者の陳寿の記述を正確に読み込めていないことが問題なのではないか。
私は「九州年号」を研究したから、いくつかの王権があったことがわかった。私が整理できたことは、このA本の中に記述してあるので、是非参考にしてほしい。
最後に、A本の巻末の「おわりに」を参照して、「理論にデータを合わせるのではなく、データに理論を併せるのが科学である」ことを強調された。
「歴史学者」は、「倭王武」は雄略天皇であるとしている。「倭王武」は522年に年号「善記」を建て、その支配は525年まで続いている。また、502年に中国に朝貢している。雄略天皇の在位は、457年から479年だから全く時が合わない。しかし、「歴史学者」は、中国は雄略天皇が死んだのを知らないで、将軍の称号をあたえたのだと言っている。
中国では、たびたび王朝が変わって、502年の「倭」の朝貢の翌年にも王朝が変わる。そこで、「倭王武」は522年に自ら年号「善記」を建てたのである。雄略天皇は「倭王武」とは別の人物である。「歴史学者」は、データを自分の説に合わせて、無理な解釈をしている。
埼玉古墳群から出土した鉄剣の年も、「471年」がそのままになっている。これも検証がされていない。(第7回講演会参照)
多分、20年か30年後には「日本の歴史」も大きく変わっているのではないだろうか。皆さんの考察や研究に、今回の講演会の内容がお役に立つことを願っている、と述べられて講演を閉じられた。今回の講演内容は以上です。
斉藤さんから花束を贈られる佃先生
[HP作成委員会からの補足]
『日本紀』がどのように『日本書紀』に書きかえられたかが、『続日本紀』、『日本後紀』、「天智王権」の天皇などを考察することによって示された講演でした。一回の講演で、『日本紀』から『日本書紀』への改ざんを示すのはなかなか大変なことなので、佃先生は今回のような講演内容に絞られたのだと思います。
『日本書紀』の成立等に関する研究をまとめた本として、森博達氏(京都産大名誉教授)による『日本書紀の謎を解く』(中公新書)、『日本書紀 成立の真実』(中央公論新社)、『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店)があります。 (第54回毎日出版文化賞受賞)
これらの研究は、音韻等の分析によって、『日本書紀』の各巻をα群とβ群に区分し、「倭習」(日本語の発想に基づく漢語・漢文の誤用や奇用)の分布などを調べることによって各巻の分析を深めていきます。『日本書紀』の著者についても推定しており、こんなことまで分かるのか、といった感激を味わうことのできる本です。
佃先生は、この森氏の研究成果に立脚して、「『日本書紀』は『日本紀』の改ざん-森博達氏の「α群」「β群」による検証-」という論文を示されています。『新「日本の古代史」(下)』に収められている68号論文です。
この論文では、巻二十二(推古紀)以降の各巻が、精密な森氏の研究内容を踏まえて、どのように書きかえられたのかが、具体的に示されています。そのことで、『日本書紀』が明らかに書きかえられていることを、多くの巻で確認できます。今回の講演内容とは別の言語学的な視点から、同じテーマを詳しく論じているので、是非参考にしてほしいと思います。これは、佃收HP(tsukudaosamu.com)で見ることができます。
『新「日本の古代史」(下)』では、この論文に続いて、69号「『古事記』成立の謎を解く」という論文も収められています。
『古事記』は、和銅5年(712年)正月、三巻が完成したと「古事記 上巻 序幵」の最後に、著作者の安麻呂が記しています。ところが、正史である『続日本紀』には、『古事記』についての記載は一切ありません。
また、『日本書紀』では第41代持統天皇まで書かれていますが、『古事記』は第33代推古天皇までしか記載されていません。さらに、第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までは、天皇の事績などの記載はなく、御子等の系譜を簡単に示すだけに留まっています。
どうして、『古事記』と『日本書紀』の記載はこうも違うのか、謎です。上の69号論文は、この謎を解き明かしています。この論文では、『日本書紀』にない、『古事記』の重要性についても解説しています。上に掲げたHPで見ることもできますので、是非参考にしていただきたいと考えます。
蛇足にならないことを願って、小文を付け加えさせていただきました。長い間お付合いいただき、ありがとうございました。 (以上、HP作成委員会記)