第15回(最終回)古代史講演会レポート

<テーマ>  日本書紀』は、何故作られたのか

<日時>   2024年(令和6年)8月4日(日)午後1~4時

<会場>   埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

<最初に>

 今回最終回となる古代史講演会は、途中コロナ禍による2年間の中断を経て、約5年間、計15回多くの皆さんが参加してくれて開催することができた。大変ありがたかったと「埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会」の「古代文化を考える会」斉藤亨さんが挨拶された。   

     

 今回の『日本書紀』のテーマは、佃收先生が長い間研究を重ねられ、得られた内容である。早速、先生の講演を始めていきたい、と述べられた。

 今回もA‐4版20枚の資料が、「古代文化を考える会」の皆さんによって印刷され綴じられて、受付で配布された。

                    

第1部 『日本紀』と『日本書紀

 最初に佃先生から、15回続けられたことに対して、参加者の皆さんと運営の「古代文化を考える会」の皆さんに対して、感謝の言葉が述べられた。

 

 今回の講演内容に入る前に、江戸時代後期の学者の「鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)」が書いた『襲国偽僣考(そのくにぎせんこう)』について述べられた。(第8回講演会参照)この本で、「鶴峯戊申」は「九州年号」と呼ばれている昔の年号を、自分の見解をほとんど付け加えずに、昔からあったそのままに写して、著述している。そのことにより助けられた、と語られた。(「九州年号」については、佃收HP(tsukudaosamu.com)に解説

 

 「善記」から始まる「九州年号」を注意深く考察していくと、「善記」は日本や朝鮮半島を支配した「倭王武」が建てた年号であることが分かる。また、6世紀中頃から7世紀初めまで北部九州を支配していた「阿毎王権」(俀国)の年号を把握することができる。お手元の『新「日本の古代史」(佃説)』(通史)-以下A本と記す-の182ページに各王権の年号が書かれている。これは、佃氏が考察を重ねて得たものである。

 

 法隆寺は上宮法皇を祀った寺であった。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘には年号「法興(591~622年)」が刻まれている。これは「上宮王権」のはじめの年号である。この「法興(591~622年)」と「阿毎王権」の連続する年号…「端政(589~593)」から「倭京(617~622年」に続く部分が重なっている。このことから、「上宮王権」と「阿毎王権」は別の王権であり、591年に「上宮王権」が年号を建てて新たに樹立されたことがわかる。

 

 「日本の歴史学」は「九州年号」を「偽年号」として退け、考察さえもしようとしない。そのため、九州にいくつかの王権が成立していたことが分からない。

 

 「天武王権」は年号「僧要(635~639年)」を建て、九州宗像地方に成立した。(第11回講演会)それまで北部九州を支配していた「阿毎王権」を吸収し、その上に君臨して成立している。

 

 「天武王権」の二代目の天武天皇は、『日本書紀』では、天智天皇の弟とされている。しかし、天武天皇天智天皇より3歳年上で、互いの本拠地も異なる。天智天皇は大田皇女、持統天皇など4人の娘を人質として、天武天皇に差し出している。実父母が同じである弟に、兄が4人もの娘を差し出すことがあるだろうか。

 

 佃氏は、長い時間をかけて「九州年号」を解明することから、九州に複数の王権があったことを突きとめることができた。しかし、「日本の歴史学」は、「九州年号」を「偽年号」として見向きもしない。

 

 どうして、史実と異なることを記している『日本書紀』が成立したのか、これが今回のテーマである。佃收講演会の最後の話しとしたい、と述べて今回の内容に入られた。

 

<第1章 国史の編纂>

 『日本書紀』により、681年に天武天皇国史の編纂を命じたことが確認できる。

 

(天武)10年(681年)3月、天皇大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執りて以て録す。(『日本書紀』)

 

 686年に天武天皇崩御する。次の高市天皇も696年に崩御した。しかし、国史は未完成である。国史天武天皇の指示で作られている。『日本書紀』の巻二十八のほとんどが壬申の乱を詳細に記述することにあてられていることなどから、指示された国史の範囲は「壬申の乱(巻二十八)」までであったと考えられる。

 

 その後の714年に元明天皇国史に「天武天皇壬申の乱以後(巻二十九)」と「高市天皇紀(巻三十)」を加えた国史編纂を命じている。

 

元明和銅7年(714年)2月、従六位上朝臣清人正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰せしむ。(『続日本紀』)

 

 また、『続日本紀』により、『日本紀』三十巻と系図一巻が720年に完成したことを確認できる。

 

(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。(『続日本紀』)

 

 <第2章 『日本紀』=『日本書紀』(説)>

 『日本書紀』について、岩波書店日本書紀』は次のように解説している。

 

 『日本書紀』は一に『日本紀』ともいう。(中略)『本朝月令』所引「高橋氏文」にのせた延暦十一年(729年)三月十八日の太政官府、『日本後紀延暦十六年(797年)二月、弘仁三年(812年)六月等の記事なども『日本紀』といっている。

 これに対し、『日本書紀』とあるのは、『弘仁私記』序、延喜・天慶の『日本紀竟宴和歌』の序文、『朝野群載』にのせた承和三年(836年)の「広隆寺縁起」、『釈日本紀』に引いた「延喜講記」などである。だから、弘仁年中から文人たちが『日本紀』に「書」の字を加えて『日本書紀』と称したのが、ついに題名となったのであろう。(岩波書店日本書紀』)

 

 「弘仁(810~823)年中から文人たちが『日本紀』に「書」の字を加えて『日本書紀』と称した」ので、『日本紀』を『日本書紀』というようになり、『日本紀』と『日本書紀』は同じだとしている。今日の「歴史学会」でも同じとしている。

 

 <第3章 『日本紀』≠『日本書紀』(佃説)>

 まず第一に、系図一巻はどうなったのだろうか。『日本紀』と『日本書紀』が同じだとしても、どうして系図がないのだろう。国が長い時間をかけて作った大事な系図が簡単になくなるものだろうか。

 

 第二に、今まで講演会で話してきたように、『日本書紀』は、天武王権の事績を皇極天皇天智天皇の事績と書きかえ、「高市天皇」の即位をかくして「高市皇子」としているように、多くの歴史的事件の書きかえをしている。『日本書紀』は書きかえられた文書である。元の文書が『日本紀』ではないだろうか。

 

 第三に、『万葉集』からも確認できる。『万葉集』巻第一、巻第二には、「…日本紀に曰く…」とか「…日本書紀に曰く…」という形の注がある。「日本紀」が9回、「日本書紀」が2回、「紀」が4回、「記」が1回出てくる。仮に、「…日本紀に曰く…」と「…日本書紀に曰く…」が同じ表記として見ても、その後の注における時の表現形式が明らかに異なっている。

 

 『日本書紀』には、年号がほとんど記載されていない。その前の年号が何であり、どのようにその年号が建てられたかは記載されず、突然「大化」「白雉」「朱鳥」の3つの年号だけが出てくるだけである。したがって、『日本書紀』の記事はほとんど、その天皇の何年の何月という形で時を表現している。例えば「(天武)10年(681年)3月、天皇大極殿に御して…」のように、年号を記さずに時を表している。

 

 『万葉集』34番歌の注では「日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅の秋9月…」と書かれ44番歌の注では「日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春3月丙寅…」と書かれ、高市天皇の年号「朱鳥」によって時を表現する書き方になっている。50、195番歌も同様である。『日本書紀』では、同じ記事が年号を使わない形で書かれている。注の「…日本紀に曰く…」では、『万葉集』の著述者が、『日本書紀』とは異なる『日本紀』を見て書いていると考えられる。

 

 『日本書紀』は神武天皇から持統天皇までの歴史を記し、続いて、文武天皇から桓武天皇までの歴史を『続日本紀』が記している。ともに「正史」とされている。書の題名から言っても、『続日本紀』の前は『日本紀』の方がふさわしいのではないだろうか。

 

 いずれにせよ、前回まで具体的に何回も見てきたように720年に成立した『日本紀』は書きかえられ、『日本書紀』となっている。系図一巻は、失われた。『日本紀』≠『日本書紀』である。

              

 <第4章 『日本紀』の存在時期>

 

 『万葉集』巻一、二の注に『日本紀』からの引用があった。

 『万葉集』巻一、二の大部分は慶雲(704~707年)・和銅(708~714年)・養老(717~723年)年間に順次成立し、巻一から巻十六は「天平十八年(746年)~天平勝宝五年(753年)」までの間に成立した、といわれている。

 このことから、『万葉集』に引用されている『日本紀』は、746年~753年までは存在していたと考えられる。逆に言うと、書きかえられた『日本書紀』の成立は、「746年~753年」以降である。(『新「日本の古代史」(下)』の中の67(2)号に更に詳しい記述があります) 

           会場の埼玉県立歴史と民俗の博物館

第2部 『日本書紀』の成立

 

<第1章 『日本書紀』と『続日本紀』>

 『日本紀』では「高市天皇」であったが、『日本書紀』では「高市皇子」と書き直され「高市天皇」の即位は消されている。この点で、『日本書紀』と『続日本紀』の記事を比べてみよう。

 

(持統)11年(697年)8月、天皇、禁中に定策して皇太子に天皇位を譲る。(『日本書紀』)

 

(文武)即位前紀、高天原広野姫天皇持統天皇)の11年、立ちて皇太子となる。元年(697年)8月、禅を受けて即位す。(『続日本紀』)

 

 ともに697年8月に持統天皇文武天皇に譲位したことを記している。ところが、『続日本紀』の記事は、この年を「高天原広野姫天皇持統天皇)の11年」すなわち持統天皇11年としている。つまり、天武天皇が686年に死去した後に持統天皇天皇位に就き、11年後の697年に譲位したとしている。

 

 天武天皇死去後に高市天皇が即位し、高市天皇崩御するのが696年であるから、697年は持統天皇が即位してから2年目である。この年は持統天皇2年となるはずで、『日本紀』にはこのように書かれていたのだろう。しかし、『続日本紀』は持統天皇が686年に天皇位に就いたとしている。これは、『続日本紀』が、書き直された『日本書紀』を見て記述しているからである。

 

 『日本書紀』は『続日本紀』より前に成立していることを確認できる。

 

<第2章 『続日本紀』の成立過程>

 続いて、『続日本紀』の成立過程を見ていこう。

 

桓武延暦16年(797年)2月己巳(13日)、(重ねて菅野朝臣真道、秋篠朝臣安人、中科宿禰巨都雄等に勅して)『続日本紀』を撰ぶ。是に至り而して成る。(『日本後紀』)

 

日本後紀』の記事から、『続日本紀』は797年に完成している。したがって、『日本書紀』は797年よりも前に成立している。

 

 『日本後紀』は、『続日本紀』の成立について、さらに次のように記す。

宝字2年(758年)より、延暦10年(791年)に至る。三十四年の二十巻は前年に勤成奏上。・・・(文武天皇元年(697年)~宝字元年(757年)二十巻と前の二十巻と併せて九十五年四十巻。草創より始めて断筆まで七年。・・・(『日本後紀』)

 

 宝字2年(758年)より延暦10年(791年)までに至る三十四年間の二十巻は先に成立している。最初の文武天皇元年(697年)から宝字元年(757年)まで、つまり文武天皇から聖武天皇孝謙天皇までの二十巻が後に成立しているという。なぜだろうか?

 

 菅原道真が編纂し892年に完成されたとされる『類聚国史』は、文武天皇から聖武天皇までの国史について、「記注不昧(明らか)」で「余烈(古人が残した功業)」があるためだ、と記している。

 

 『日本後紀』の延暦16年(797年)2月13日条では、前朝(光仁天皇)に前紀(『日本紀』)を継いで歴史を編集し、「…而因循旧案。竟无刊正」とある。つまり、改めることもなく、訂正するような箇所はなく終わった、と書いている。『類聚国史』、『日本後紀』ともに光仁天皇(770~780年)時代の歴史編集(『続日本紀』)では、改めたり、訂正するようなところはなかった、としている。

 

 ただし、同じ『日本後紀』の延暦16年(797年)2月13日条で、次の文をつけ加えている。

但初起文武天皇元年歳次丁酉。盡宝字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案三十巻。語多米塩。事亦疎漏。(『日本後紀』)

 

 文武天皇から孝謙天皇までの「六十一」年間は「曹案三十巻」があったが、「語多米塩」(細かく面倒なことが多く)、「事亦疎漏」(手落ちや漏れがある)、と述べている。

 

 光仁天皇(770~780年)の時代の『続日本紀』の編纂では、改めたり、訂正することはなかった。しかし、延暦16年(797年)の「曹案三十巻」では「語多米塩」、「事亦疎漏」であるという。797年に『続日本紀』は完成するが、7年の月日を要したとあった。したがって、「語多米塩」、「事亦疎漏」(細かく面倒なことが多く、手落ちがあった)のは、790年頃のことではないかと考えられる。

 

 このような事情を、どう理解したらよいだろうか。

 

 『日本紀』では、「高市天皇」であった。したがって息子は「長屋親王」である。ところが、『日本書紀』では「高市皇子」であり、息子は「長屋王」となる。光仁天皇(770~780年)の時代の修撰(歴史編集)では「竟无刊正」(誤りを正すことがなくおわる)であった。『日本紀』に書かれているように、「高市天皇」は「高市天皇」に、「長屋親王」は「長屋親王」と書けばよかった。

 ところが、この直後に『日本書紀』が成立する。そこでは「高市皇子」であり「長屋王」と変わってしまう。

 

 「曹案三十巻」では「長屋親王」と書かれている。これを「長屋王」に訂正しなければならない。もっと厄介なのは「位階」である。「親王」は「正4位」から始まる。ところが、「王」は「无位(無位)」からである。「長屋親王」の「位階」を「无位」から「昇叙」しなければならない。他者との関係も考慮して昇叙することになる。これは大変な作業である。まさに「語多米塩 事亦疎漏」(細かく面倒なことが多く、手落ちや漏れがある)である。

 

 このため、「長屋親王」が生存していた『続日本紀』の最初の部分(文武天皇聖武天皇)の『続日本紀』の完成が一番最後になった。

 

 以上の考察から、光仁天皇の時代(770~780年)から790年の間に『日本書紀』が完成された、と考えられる。

 

第3部 『日本書紀』は「誰が」、「何の目的で」作ったのか 

<第1章 『日本書紀』を作ったのは「光仁天皇」>

 これまでの考察から、790年には『日本書紀』は完成している。『日本書紀』の述作には優に数年以上は要する。まず述作の前に構想を練る必要がある。「史実」を曲げて書くのであるから、矛盾が生じやすく、構想には多くの時間が必要である。

 

 光仁天皇(770~780年)の時代には『続日本紀』の修撰が行われ、「竟无刊正」(誤りを正すことがなくおわる)であった。光仁天皇の時代までは史実が記録されている。『日本書紀』は光仁天皇の時代には成立していないが、790年には完成している。

 

 すると、『日本書紀』の構想が練られ成立したのは「光仁天皇」の時代である。『日本書紀』を作ったのは、光仁天皇である。(佃説)

 

<第2章 光仁天皇

光仁天皇とは

 光仁天皇系図を、下の図48 天智王権の系図から見てみよう。

     

 図の右下に光仁(白壁王)がある。右肩に付けられている半角の数字は、天智天皇から始めたとしての天皇の代を表している。光仁(白壁王)には11が付けられているから、天智天皇から数えて11番目の天皇ということである。天智天皇の孫であり、重要なことは、天武天皇の血が混じっていない純粋な天智天皇系の最初の天皇ということである。それまでの、数字10の称徳天皇までは、すべて天武天皇の血が混じっている。

 

 『続日本紀』を見てみる。

光仁天皇)即位前紀、天皇、諱は白壁王、近江大津宮御宇天開別天皇天智天皇)の孫、田原天皇(志紀親王)の第六の皇子なり。母は紀朝臣橡(とち)姫と曰う。贈太政大臣正一位諸人の女なり。(『続日本紀』)

 

 「諱(いみな)は白壁王」とある。「白壁王」は天智天皇の孫であり、志紀親王の第六皇子である。志紀親王天智天皇の第七皇子である。

 

 光仁天皇(白壁王)の系譜をたどってみよう。白壁王と「諱(いみな)」された理由が分かってくる。

 

 父の志紀親王(『日本書紀』では施基皇子と表記)の母は、「越の道君の娘」であることが『日本書紀』(天智)7年(668年)2月条の記事から確認できる。

天智天皇は667年3月近江遷都をして、翌年668年2月に、「越の道君の娘」を娶っている。天智天皇は671年12月に死去するので、施基皇子(志紀親王)が生まれるのは670年前後と考えられる。

 

 天智天皇が死去した半年後の672年6月に壬申の乱があり、天智王権は亡びる。幼い施基皇子を抱えた母は越に帰ろうとするだろう。しかし、越は天武王権の支配下にあることが、『日本書紀』の記事から確認できる。すると、施基皇子と母は夫の天智天皇の故郷である肥前に行ったのではないだろうか。

 

(天智)10年(671年)9月、天皇、寝疾不豫。(或る本に云う、8月、天皇疾病。)10月、是月、天皇、使いを遣わし袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、及び諸珍財を法興寺の仏に奉る。(『日本書紀』)

 

 天智天皇は死去する2ヶ月前の671年10月に、肥前に使いを遣わして法興寺の仏に珍財を奉納している。肥前の飛鳥には上宮王家に関わりのある人々が居て、法興寺を守り続けている。施基皇子の母はそれを頼りに、施基皇子を育てるために肥前に行ったのだろう。

 

 施基皇子は無事成長し、同じ肥前基肄郡の紀朝臣諸人の娘橡(とち)姫を娶り、「白壁王」を生んでいる。

 

 『続日本紀光仁天皇即位前紀に、「童謡(わざうた)」が載っている。

光仁)即位前紀、嘗て龍潜の時、童謡(わざうた)に曰く、「葛城寺の前在る也 豊浦寺の西在る也 おしとど としとど 桜井に白壁しづく也 好き壁しづく也…」という。

 

 「龍潜」とは、「天子となるべき人が位につかないでいること」をいう。「葛城寺」は肥前国三根郡葛木にあり、その隣が「白壁」である。光仁天皇(白壁王)は幼いころ、肥前国三根郡葛木の隣の白壁で育った。それで、「白壁王」と言われる。

    

        

 

 肥前の白壁はかつて仁徳天皇の本拠地であったが、仁徳天皇が難波に移った後、その地を、上宮王権(天智王権)が受け継いで、治めていた。

 

光仁天皇の即位

 

 称徳天皇崩御して白壁王が皇太子になるときの様子を『続日本紀』は次のように記している。

 

(称徳)宝亀元年(770年)8月4日、天皇、西宮の寝殿に崩ず。春秋五十三。左大臣従一位藤原朝臣永手・…・近衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂等、禁中に定策し、諱を立てて皇太子と為す。(『続日本紀』)

 

 770年8月4日に称徳天皇が五十三歳で崩御する。諸臣は「禁中に定策」するとある。「定策」とは、臣下が次の天皇を誰にするかを議論することである。「禁中(宮中で)」議論をしている。その結果、「諱を立てて皇太子と為す」とある。「諱」はここでは「白壁王」である。「白壁王」を皇太子にしている。

 

 天皇が死去するのに、なぜ皇太子を立てるのだろうか。天皇を立てるべきである。「白壁王」は「嘗て龍潜の時」とあったように、世間からは忘れられた存在であった。そのため「无位(無位)」である。「无位」の人を天皇にすることはできない。そのため、まず「皇太子」にしたのである。そして、2ヵ月後の770年10月に天皇となる。

 

光仁宝亀元年(770年)10月、大極殿に於いて天皇の位に即く。宝亀改元する。(『続日本紀』)

光仁天皇は781年12月に崩御する。

桓武天応元年(781年)12月23日、太上皇崩ず。春秋七十有三。(『続日本紀』)

 

 「太上皇」とは光仁天皇である。73歳で死去している。すると、770年に即位した時は62歳であったことが分かる。当時の平均寿命を越えてから即位している。異常な即位とも言えるだろう。

 

<第3章 『日本書紀』を作る>

 696年に天武天皇の長子である高市天皇崩御してから、「天智王権」は再び王権を握るためにあらゆる努力をしてきた。天智天皇の娘の持統天皇は、息子の草壁皇子が689年に死去しているので、高市天皇の長子の長屋親王を押しのけて自ら即位し、1年後の697年に孫の軽皇子文武天皇)に天皇位を引き継ぐ。しかし、文武天皇は707年に25歳の若さで崩御する。

 

 そこで、文武天皇の母である元明天皇を707年即位させる。そして、715年文武天皇の姉の元正天皇が、引き継いで即位する。「不改常典」に基づき、何としても文武天皇の子の首皇子聖武天皇)に天皇位を引き継ぐためである。

 

 724年ついに聖武天皇が即位をする。728年、聖武天皇藤原不比等の娘の光明子の間にできた基親王が幼くして死去する。729年、眼の上のたんこぶであった天武王権の長屋親王を誣告により自害させ、光明子を正式に皇后とする。744年聖武天皇の皇子の安積親王が17歳で死去する。もはや、聖武天皇光明子の子供は、ともに女性である、伊勢斎主となっている井上内親王阿倍内親王しかいない。

 

 749年聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇となる。その後、一時淳仁天皇を経て、阿倍内親王が再び天皇位に就き、764年に称徳天皇となる。称徳天皇には子供がいない。その称徳天皇が770年に53歳で薨去する。

 

 今まで、何とかして持統天皇の血を引く天皇をつないできた。しかし、天皇薨去してしまい、子はいない。そこで、光仁天皇に白羽の矢が刺さった。肥前の地で暮らしていて、62歳と平均寿命を越えているが、天智天皇の孫であることに間違いない。しかも、天武天皇の血が入っていない純粋な天智系である。このようにして、光仁天皇は生まれている。

 

 「天智王権」の血を絶やさない努力は、幾世代に渡って続けられてきて、光仁天皇にいたっている。「天智王権(上宮王権)」の権勢が日本の歴史の中で、確固たるものとして認められなければならない。

 

 ここで、簡単に「上宮王権(天智王権)」と「天武王権」の歴史を振り返ってみよう。

591年、上宮法皇肥前の飛鳥に「上宮王権」を樹立する。

635年、天武天皇の父は宗像に「天武王権」を樹立する。

649年、天武天皇の父は、「上宮王権(皇極天皇)」の王権を奪う。

  [皇極天皇は上宮法皇の孫であり、中大兄(天智天皇)は皇極天皇の子]

668年、中大兄(天智天皇)は近江で「天智王権」を樹立する。

672年、壬申の乱で、「天智王権」は天武天皇によって滅ぼされる。

 

 『日本紀』は「天武王権)」が作った歴史書である。649年に天武天皇の父によって、「上宮王権(天智王権」は王権を剥奪されている。また、672年の壬申の乱では、「天智王権」は滅ぼされた。『日本紀』には、「天智王権」の敗北の歴史が記されており、「天智王権」の権勢をしるすにはふさわしくない。今は、長屋親王も亡くなり、「天智王権」が復活している。このように考え、光仁天皇などの「天智王権(上宮王権)」の勢力は、『日本紀』を「天智王権」のための歴史書に改ざんすることを決意する。

 

<第4章 『日本紀』を『日本書紀』に>

 「天智王権」の歴史書の構想を練る。まず、「天智王権」は滅びることなく、今に継続しているようにしなければならない。そのためには、「天武王権」は存在しなかったことにする。

日本紀』にかわる歴史書は、『日本書紀』である。

 

「天武王権」の抹消(その1)

 

 649年に「上宮王権」は「天武天皇の父」に王権を奪われる。『日本書紀』では「天武天皇の父」を抹消すればよい。

 

「天武王権」の抹消(その2)

 

 天武天皇壬申の乱で「天智王権」を滅ぼした。そこで、天武天皇を「天武王権」の天皇でないことにする。そのため、天智天皇天武天皇は兄弟だとする。天武天皇天智天皇の弟とすることにより、「天武王権」は存在しないことになる。

 

「天武王権」の抹消(その3)

 

 686年に天武天皇は「高市天皇」に譲位した。これに対して、「高市天皇」は即位していないことにする。天武天皇崩御した後、天智天皇の娘の持統天皇が即位したことにする。

         

 

第4部 『日本紀』の改ざん

<第1章 『日本紀』の改ざん(1)>

 『万葉集』の注の記事で見たように、『日本紀』の記述では「天武王権」の年号ごとに巻を設けている。「天武王権」の年号は「天武天皇の父」の「僧要」から始まる。また、天武天皇国史の編纂を命じたときは「巻二十八」の「壬申の乱」までであった。その後、元明天皇が「巻二十九」を「天武天皇のその後」、「巻三十」を「高市天皇」として追加した。そのようにして、720年『日本紀』が成立していた。

 

 これに対して、『日本紀』の「天武王権」の各年号に対して、「天智王権」の天皇を充てて記述すれば、「天智王権」が継続していたことを示せるし、書き変える労力も少なくて済む。

 

 6世紀の末から7世紀初め頃にかけて、北部九州には4つの王権が覇を競っていた。そのうち「阿毎王権」(俀国)は「天武王権」に吸収された。「天武王権」の天皇は、天武天皇の父、天武天皇高市天皇と続く。「上宮王権」の王統は、上宮法皇殖栗皇子舒明天皇皇極天皇と続いた。「豊王権」は用明天皇、(崇峻天皇)、推古天皇、(多米王)、孝徳天皇の順である。

 巻

天武王権の天皇

日本紀』の年号

日本書紀』の天皇

 二十三

天武天皇の父

僧要

舒明天皇

 二十四

命長

皇極天皇

 二十五

常色

孝徳天皇

 二十六

白雉

斉明天皇

 二十七

天武天皇

白鳳

天智天皇

 二十八

白鳳

天武天皇壬申の乱

 二十九

白鳳、朱鳥

天武天皇

 三十

高市天皇

朱鳥、大和

持統天皇

 

 上の表のように、年号「僧要」に対しては舒明天皇、年号「命長」には皇極天皇と、「上宮王権(天智王権)」の天皇を当てる。649年に皇極天皇は、天武天皇の父に王権を剥奪された。これを隠蔽するために、「上宮王権(天智王権)」と別の王権である「豊王権」を合体させ、649年より前、645年の「乙巳の乱」の時に皇極天皇は「豊王権」の孝徳天皇に譲位したことにする。また、推古天皇用明天皇の「豊王権」の天皇は「上宮王権(天智王権)」の天皇にして、「上宮皇太子(聖徳太子)」は用明天皇の子とする。

 

 このようにして、「天智王権(上宮王権)」は滅びることなく継続した、とすることができた。

<第2章 『日本紀』の改ざん(2)>

 『日本書紀』には次のように書かれている。

(舒明)13年(641年)10月、息長足日広額天皇舒明天皇)、崩ず。明年(642年)正月、皇后(皇極)、天皇位に即く。元を改める。4年(645年)6月、天萬豊日天皇孝徳天皇)に位を譲る。天豊財重日足姫天皇皇極天皇)を称して皇祖母尊と曰う。天萬豊日天皇孝徳天皇)、後5年(白雉5年=654年)10月崩ず。

(斉明)元年(655年)正月、皇祖母尊、飛鳥板蓋宮に於いて天皇位に即く。(『日本書紀』)

 

 641年に舒明天皇崩御すると、皇后である宝皇女が即位して、皇極天皇となった。645年の「乙巳の乱」の後に急きょ、孝徳天皇に譲位する。654年に孝徳天皇崩御すると655年に「皇極(皇祖母尊)」は「重祚」して斉明天皇になる、と記している。

 

 「豊王権」の孝徳天皇は654年に死去し、その子の有間皇子も658年に殺害され、この年「豊王権」は滅亡した。「天智王権(上宮王権)」が継続しているようにするためには、孝徳天皇の後、誰かに天皇位を継続したことにしなればならない。そのために、「皇極」が再び即位したことにする。これを「重祚」という。「皇極」は「重祚」して「斉明天皇」になったとしている。

 

 649年、皇極天皇は王権を奪われ、天皇ではなく、ただの「皇極」となり、中大兄皇子もただの「中大兄」となった。このことを隠すために、「豊王権」の孝徳天皇に譲位したとする。今度は、孝徳天皇が死去したので、皇極天皇が「重祚」して天皇位に就いたとする。これは、「天智王権(上宮王権)」が継続したとするために考え出されたことである。「斉明天皇」はいない。

 

 『日本書紀』は、斉明天皇斉明天皇7年(661年)7月に「朝倉宮」で崩御したと記し、天智6年(667年)2月に娘の間人皇女とともに合葬されたと記している。5年以上葬儀が行われなかったという記述は、どう考えても不自然である。

 

 百済救援のために「斉明天皇」と「中大兄」は九州へ行き、661年に「斉明天皇」が「朝倉宮」で死去したと、『日本書紀』は記した。しかし、第11回古代史講演会(テーマ:天武王権)で詳しく述べたように、百済救援をしているのは「天武王権」であり、661年に死去したのは天武天皇の父であった。実際に皇極(斉明)が死去したのは、天智6年(667年)ではないだろうか。

 

重祚」はなく、「斉明天皇」はいない。

 

<第3章 『日本書紀』は『日本紀』の改ざんの証明>

 舒明天皇皇極天皇孝徳天皇斉明天皇と続け、巻二十七の天武天皇天智天皇に変え、巻三十の高市天皇持統天皇に変えると、「天智王権(上宮王権)」が続くようにできる。巻二十八の天武天皇は、天智天皇の弟としたからである。

 

 このように改ざんされた『日本書紀』を私たちは正史として受け取っているが、『日本紀』を改ざんした証拠は、『日本書紀』の中に多く残っている。一つだけあげてみよう。

 

 671年12月に第38代天智天皇崩御する。672年6月「壬申の乱」が始まる。『日本書紀』では天智天皇の弟の「大海人皇子」と天智天皇の子の「大友皇子」の戦いとしている。したがって、『日本書紀』では、「壬申の乱」の時「天皇」は空位であるはずである。

 

 ところが、『日本書紀』巻二十八「壬申の乱」には、「天皇」が37回も出てくる。(「朕」も5回も出てくる)『日本紀』の記述が変更されないまま残っているのである。

 

 桓武天皇は、高野新笠との間に生まれた光仁天皇の長子である。桓武天皇の在位は781年から805年である。『日本書紀』は「(770~780年)~790年」の間に成立しているから、『日本書紀』の完成は桓武天皇になってからと考えられる。桓武天皇は『日本紀』を『日本書紀』に書きかえた理由をよく分かっている。今の「天智王権」の世に、『日本書紀』を普及させるのが、自身の任務である。

 

 『日本書紀』を世に出しても、『日本紀』の「系図一巻」と比較すれば、『日本書紀』の記述が偽りであることは容易に分かる。桓武天皇は、全国に「系図」の焚書を命じている。

 

 『新訂増補 国史大系8 日本書紀私記、他』(吉川弘文館)の「日本書紀私記(甲本)」に次の記事がある。

 

親王及び安麻呂等、更に此の日本書紀三十巻并帝王系図一巻を撰す。(今図書寮及び民間に在るを見る)・・・

更に帝王系図有り。(天孫の後悉く帝王と為す。而して此の書に云う。或いは新羅・高麗を国王に為すに到る。或いは民間に在るを帝王と為す。ここに因り、延暦年中、下府諸国令焚之、而今猶在民間也)(「日本書紀私記(甲本)」)

 

 「日本書紀三十巻并帝王系図一巻」とあるのは、『日本紀』三十巻と系図一巻のことである。「延暦(782~805年)年中」とあるから、桓武天皇の時代である。桓武天皇は、諸国に命じて『日本紀』の系図一巻を焼かせている。「焚書」である。系図一巻と照らし合わせれば、『日本書紀』の記述が偽りであることがたやすく分かる。もちろん、「本文三十巻」も「焚書」にしているだろう。

 

 『日本紀』三十巻と系図一巻はすでに全国に普及している。『日本紀』の「天武王権」を抹殺して、書きかえた『日本書紀』を普及させるには、『日本紀』及び系図一巻が邪魔である。桓武天皇は、『日本紀』及び系図一巻の焚書命令を下す。桓武天皇焚書命令をしていることが、書きかえたことの証拠ともなっている。

 

 今の「日本の歴史教育」では、光仁天皇などの「天智王権(上宮王権)」の勢力によって書きかえられた歴史をそのまま史実としている、と佃氏は現状に対して厳しい警告を述べられた。

 

 少しの質問の時間の後、今回が最後ということで、次のことに言及された。

 

 天孫降臨や神武東征は神話ではない。天孫降臨については、『宮下文書』に書かれた通りの吉武高木遺跡が発掘されている。(第3回古代史講演会)

 神武天皇の墓は桜井茶臼山古墳であるが、この古墳の昨年度の再調査により、鏡を神体とする天氏の墓にふさわしく、100枚以上の銅鏡が出てきている。三角縁神獣鏡神武天皇が作らせた鏡である。(81号論文参照)当然、中国産ではない。

 

 邪馬壹(台)国の位置については、私は解決済みと考えている。「魏志倭人伝」の著者の陳寿の記述を正確に読み込めていないことが問題なのではないか。

 

 私は「九州年号」を研究したから、いくつかの王権があったことがわかった。私が整理できたことは、このA本の中に記述してあるので、是非参考にしてほしい。

 

 最後に、A本の巻末の「おわりに」を参照して、「理論にデータを合わせるのではなく、データに理論を併せるのが科学である」ことを強調された。

 

 「歴史学者」は、「倭王武」は雄略天皇であるとしている。「倭王武」は522年に年号「善記」を建て、その支配は525年まで続いている。また、502年に中国に朝貢している。雄略天皇の在位は、457年から479年だから全く時が合わない。しかし、「歴史学者」は、中国は雄略天皇が死んだのを知らないで、将軍の称号をあたえたのだと言っている。

 中国では、たびたび王朝が変わって、502年の「倭」の朝貢の翌年にも王朝が変わる。そこで、「倭王武」は522年に自ら年号「善記」を建てたのである。雄略天皇は「倭王武」とは別の人物である。「歴史学者」は、データを自分の説に合わせて、無理な解釈をしている。

 

 埼玉古墳群から出土した鉄剣の年も、「471年」がそのままになっている。これも検証がされていない。(第7回講演会参照)

 

 多分、20年か30年後には「日本の歴史」も大きく変わっているのではないだろうか。皆さんの考察や研究に、今回の講演会の内容がお役に立つことを願っている、と述べられて講演を閉じられた。今回の講演内容は以上です。

       斉藤さんから花束を贈られる佃先生

[HP作成委員会からの補足]

 『日本紀』がどのように『日本書紀』に書きかえられたかが、『続日本紀』、『日本後紀』、「天智王権」の天皇などを考察することによって示された講演でした。一回の講演で、『日本紀』から『日本書紀』への改ざんを示すのはなかなか大変なことなので、佃先生は今回のような講演内容に絞られたのだと思います。

 

 『日本書紀』の成立等に関する研究をまとめた本として、森博達氏(京都産大名誉教授)による『日本書紀の謎を解く』(中公新書)、『日本書紀 成立の真実』(中央公論新社)、『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店)があります。  (第54回毎日出版文化賞受賞)

                                  

 これらの研究は、音韻等の分析によって、『日本書紀』の各巻をα群とβ群に区分し、「倭習」(日本語の発想に基づく漢語・漢文の誤用や奇用)の分布などを調べることによって各巻の分析を深めていきます。『日本書紀』の著者についても推定しており、こんなことまで分かるのか、といった感激を味わうことのできる本です。

 

 佃先生は、この森氏の研究成果に立脚して、「『日本書紀』は『日本紀』の改ざん-森博達氏の「α群」「β群」による検証-」という論文を示されています。『新「日本の古代史」(下)』に収められている68号論文です。

 

 この論文では、巻二十二(推古紀)以降の各巻が、精密な森氏の研究内容を踏まえて、どのように書きかえられたのかが、具体的に示されています。そのことで、『日本書紀』が明らかに書きかえられていることを、多くの巻で確認できます。今回の講演内容とは別の言語学的な視点から、同じテーマを詳しく論じているので、是非参考にしてほしいと思います。これは、佃收HP(tsukudaosamu.com)で見ることができます。

 

 『新「日本の古代史」(下)』では、この論文に続いて、69号「『古事記』成立の謎を解く」という論文も収められています。

 

 『古事記』は、和銅5年(712年)正月、三巻が完成したと「古事記 上巻 序幵」の最後に、著作者の安麻呂が記しています。ところが、正史である『続日本紀』には、『古事記』についての記載は一切ありません。

 また、『日本書紀』では第41代持統天皇まで書かれていますが、『古事記』は第33代推古天皇までしか記載されていません。さらに、第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までは、天皇の事績などの記載はなく、御子等の系譜を簡単に示すだけに留まっています。

 

 どうして、『古事記』と『日本書紀』の記載はこうも違うのか、謎です。上の69号論文は、この謎を解き明かしています。この論文では、『日本書紀』にない、『古事記』の重要性についても解説しています。上に掲げたHPで見ることもできますので、是非参考にしていただきたいと考えます。

 蛇足にならないことを願って、小文を付け加えさせていただきました。長い間お付合いいただき、ありがとうございました。     (以上、HP作成委員会記)

     埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

     日本古代史の復元 -佃收著作集-

第15回(最終回)古代史講演会のご案内

<日時>  2024年(令和6年)8月4日(日)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

       (東武アーバンパークライン東武野田線大宮公園駅下車)

<テーマ> 日本書紀』は何故作られたのか

<概要>

 『続日本紀』は「養老四年(720年)五月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。 紀三十巻、系図一巻。」と記す。720年に成立したのは『日本書紀』と習ったはずである。が、ここには『日本紀』とあり、『日本書紀』とはない。学説ではこの二つは同一であるという。果たしてそうであろうか。

 『日本紀』は『万葉集』の巻一と巻二に引用されている(34番、44番、50番、195番・・・)。『日本書紀』が天皇の即位年による記述となっているのに対し、『日本紀』は「朱鳥」年号を用いて記述している。この二つは同一ではない。『日本書紀』は『日本紀』を書き換えたものであろう。

 『万葉集』巻一、二の成立が746年~753年の間とされ、そこに『日本紀』が引用されていることから、『日本書紀』の成立はそれ以降と考えられる。 また『続日本紀』の成立は、『日本後記』によれば797年である。『続日本紀』は『日本書紀』を見て書いている。『続日本紀』には『日本書紀』の内容が引用されている。そうすると『日本書紀』は797年より前に成立していることになる。


 こうして『日本書紀』が成立するのは746年~797年の間で、詳細に検討していくと、775年~791年ころであるという。この時代と言えば光仁天皇の時代(770年~780年)である。『日本紀』を廃して『日本書紀』を作ることを考えたのは光仁天皇であろうという。光仁天皇天智天皇の孫で、天武天皇の血が入っていない天皇である

 『日本紀』は「天武王権」の歴史書である。「天智王権」の復活がされた後には、『日本紀』は「天智王権」の世には相応しくないと、光仁天皇は考えたのであろう。 「天智王権」は「天武王権」の脅威に晒され、672年には「壬申の乱」で滅ぼされるなど不名誉な歴史をたどってきた。そこで光仁天皇は「天武王権」の歴史を「天智王権」の歴史にすり替えた。「天武天皇の父」を抹殺して「斉明天皇」とし、「天武天皇」は「天智天皇」の弟に、「高市天皇」の即位はないことにして持統が即位したことに歴史を書き換えた。このようにして『日本書紀』は生まれた。『日本書紀』は史実ではない。光仁天皇は『日本紀』を『日本書紀』に書き変え、「天武王権」の業績はすべて「天智王権」の業績とし、「天智王権」の歴史書に「として後世に伝えたのだという。

 

 「新しい視点で見る日本の古代史」と銘打って始めた佃收先生による「古代史復元」の講演は2019年5月に始まり、コロナによる中断を経て、5年以上継続して今回をもちまして終了となります。長い間のお付き合い本当にありがとうございました。皆様が講演をこれからの古代史探索や研究などにお役立ていただけるならば幸いに存じます。

<講師>    佃收先生

<参加費>  500円 、本代(早わかり「日本通史」)1,000円

<問合せ>  斉藤(048-853-6728)

<申込方法> A:下記junosaitamaホームページの申し込みフォーム


       B:ハガキによる場合:会員番号・氏名・住所・電話番

        号・「古代文化を考える会」の講演会参加を明記し、

        「〒338-0811 さいたま市桜区白鍬776-5 斉藤 亨」

        宛 お申し込みください。【締切期日:7月31日】

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

第14回古代史講演会レポート

<テーマ> 天智王権の復活

<日時>  2024年(令和6年)5月12日(日)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂

<最初に>

 「友の会」の斉藤亨さんが今回の講演内容に対する感想を述べられた。

 奈良時代は理解するのが大変難しい時代であると考えているが、まず『万葉集』がこの時代のメッセンジャーとしてあるのではないか。例えば、有名な持統天皇の28番歌「春過ぎて夏来たるらし白たえの衣干したり天の香具山」についても、言葉通りに解釈する以外に、「白たえの衣」は喪服を意味しているという解釈もあるようだ。喪服の色は、今は黒と決まっているが時代によって変わってきたようで、昭和初期まで白い喪服が使われていた地域もある。そのように考えると、歌の意味が変わってくる。

     

 「額田王(ぬかたのおおきみ)」の歌は『万葉集』に11首あるが、「百人一首」には出てこない。一般的には、「額田王」は天智天皇の妻ということになっている。しかし、資料がない為かよくわからないというのが実情である。20番歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」は、「額田王」と「大海人皇子天武天皇)」の鮮やかな恋のやり取りを表現しているとされているが、使われている漢字などから物騒なことを表現しているのではないかという解釈もあるほどで、解釈には検討の余地があるという見解もある。

 

 「額田王」については、今回の佃先生の講演会でも取上げられている。一般的な解釈と異なり、深く掘り下げられて説明がされる。

 「天智天皇」と「天武天皇」は同父母の兄弟であるとするのが「日本の歴史学」の見解であるが、佃説日本史では、異なる王権に属しているとする。この立場から、奈良時代のさまざまな歴史を解釈していく。

 奈良に大仏が建てられ、全国に国分寺が造られ、日本の国が作られていく激動の奈良時代を理解していく際に、是非、今回の講演会の内容を参考にしていただきたい。

 

 次回第15回講演会は、最終回となり、8月4日(日)午後1時~4時にこの会場で予定されている。日本書紀』はなぜ作られたのか、がテーマである。佃説日本史の緻密な研究成果であるので多数参加してほしい、と述べられた。

 

 今回もA‐4版37枚の資料が、友の会の皆さんによって印刷され綴じられて、受付で配布された。資料は5部仕立てで、第1部 持統天皇、第2部 文武天皇、第3部 元明天皇、第4部 元正天皇、第5部 聖武天皇である。第41代から第45代までの五人の天皇について天智王権の復活という観点から、掘り下げられた講演がされた。

 

第1部 持統天皇

<第1章 持統天皇の幼少期>

 第41代天皇持統天皇、幼名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)で、天智天皇の第二女である。天武天皇の五番目の妃で、「壬申の乱」後の天武2年(673年)に皇后になり、天武天皇が686年に死去した後、称制して(即位の式を挙げずに政務を執り)、690年に第41代天皇となり、697年に孫の文武天皇に譲位した、と『日本書紀』は記している。

 

 鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を以下、「持統」と記すことにする。第1部は、「持統」の生まれ、幼少期を掘り下げることから始める。

 

「持統」の誕生等について『本朝皇胤紹運録』(第13回レポート参照)は次のように記している。母は蘇我山田石川丸の女の越智娘であり、孝徳元年(645年)に生まれ、天武三年に皇后になり、朱雀五正一即位。大化3年丁酉(697年)に譲位しており、死去は大宝2年(702年)12月12日、58歳であった。高市郡桧隈安古岡陵に葬られる。

 

 持統天皇(称制前紀)、天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)の3年(657年)に、天渟中原瀛真人天皇天武天皇)に適(みあ)いて、妃となる、と『日本書紀』は記す。

 

 「持統」は、645年つまり「乙巳の変」の年に生まれ、657年に13歳で天武天皇の妃となっている。父は天智天皇、母は上宮王権の重臣蘇我山田石川丸の女であり、上宮王権のいわば血統書つきの血筋と言える。

 

 上宮王権は、法隆寺釈迦三尊像の光背銘に記されている「上宮法皇」が、阿毎王権から独立して591年に九州の肥前に樹立した王権であった。(第10回講演会は「上宮王権と法隆寺」、この回のレポート参照)

  (上宮王権の系図

 

 この時代の上宮王権の動向を整理しておこう。641年に上宮王家に入り婿として入った「舒明天皇」(田村皇子)が崩御する。翌642年に、宝皇女が即位して「皇極天皇」になる。上宮王権の重臣である「蘇我氏」は、「天皇」を無視した横暴を極める。645年「中大兄」は、横暴を極めた「蘇我入鹿」を討つ。「乙巳の変」である。「乙巳の変」は上宮王権内部の政変であって、舞台は肥前である。

 

 「蘇我氏」が討たれたことにより、上宮王権は勢力が減退する。更に、649年上宮王権の重臣である「蘇我山田石川麻呂」(「持統」の祖父)が、天武王権によって討たれ、上宮王権は天武王権の支配下に屈する。上宮王権は年号を制定することができなくなり、王権としては滅びる。

 

 「持統」の姉にあたる「大田皇子」はこの649年に、天武王権に人質としてさし出され、天武天皇の妃になる。

 

 656年「皇極(斉明)」(王権が失われ、もはや「天皇」ではない)は、天武王権の支配から逃れるために「肥前の飛鳥」から「大和の飛鳥」へ移る。

 

(斉明)2年(656年)9月、是歳、飛鳥岡本に更に宮地を定める。…遂に宮室を起す。天皇、乃ち、遷る。号して後飛鳥岡本宮と曰う、と書かれた『日本書紀』の記事がこのことを表している。

 

 「後飛鳥岡本宮」とある。「後の飛鳥」は「大和の飛鳥」で、「前の飛鳥」は「肥前の飛鳥」である。「皇極」は大和に移ると、宮殿の名前を、肥前にあった祖父の「上宮法皇」の宮殿と同じ「岡本宮」としている。「上宮法皇」や上宮王権を最も大切なものと思っているからだろう。天武王権の支配から逃れるため656年大和に移る。

その翌年の657年、「皇極(斉明)」は「中大兄」の娘の「持統」を天武王権への忠誠を誓うため、天武天皇に差し出す。天武天皇は43歳、このとき「持統」は13歳であった。

 

 『日本書紀』は、天智天皇天武天皇は実父母の兄弟として描いている。しかし、天智天皇は上宮王権(天智王権)の天皇天武天皇は天武王権の天皇であって、全く異なる王権の天皇である。天智天皇(中大兄)の四人の娘がすべて天武天皇に差し出されているのは、上に述べたような王権間の対立があったからである。「持統」は、自分を育ててくれた上宮王権を滅ぼした天武王権に差し出される。

 

<第2章 天武王権>

 天武王権については第11回講演会で詳しく述べたが、この間の天武王権の動きも確認しておこう。

 635年に「天武天皇の父」は阿毎王権(『隋書』に書かれた俀国)の上に君臨して、宗像に天武王権を樹立した。

 

 天武天皇は、最初に阿毎王権の重鎮である「鏡王」の娘「額田姫王」と婚姻する。また、「額田姫王」を寵愛し、「額田姫王」が病気になったとき「薬師寺」を建てることを誓願している。(第12回講演会参照)

 

 660年百済は唐・新羅に敗れる。「天武天皇の父」は661年、百済の残留勢力と一緒に、唐・百済と戦う決心をして、「宗像」から「朝倉」に移って「本陣」を構える。天武天皇も「額田姫王」も「持統」も皆「朝倉」に移る。このとき、「持統」は17歳であった。

 

 661年「天武天皇の父」が「朝倉宮(本陣)」で崩御する。(『日本書紀』は斉明天皇崩御したと記している。第12回講演会レポート参照)661年8月に天武天皇が即位して、年号「白鳳」661年~686年)が建てられる。「額田姫王」は皇后になる。

 

 663年、天武天皇は「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗北し、筑紫を唐に割譲して、難波(大阪)へ移る。難波は唐が攻めてきたとき守ることができない。そこで、天武天皇は大阪湾より奥の大和に移ることを決意し、大和に都を構えた「皇極」に大和を明け渡すように要求する。

 

 「皇極(斉明)」は年老いて動けなかったが、667年2月に「皇極(斉明)」が死去したのを契機として、「中大兄」は大和を明け渡して近江へ移る。いわゆる「近江遷都」である。事実は「近江への逃亡」と言える。668年「中大兄」は即位を宣言して「天智天皇」となり、天智王権を樹立する。

 

 671年天智天皇が死去し、その子の大友皇子が即位する。天智王権の年号は、天智天皇-中元(668年~671年12月)、大友天皇-果安(672年1月~672年7月)である。

 

 天智天皇が死去したので、天智王権を滅ぼすチャンスが到来した。周到な準備をして、天武天皇は戦いを仕掛ける。672年6月「壬申の乱」で、大友天皇は討たれて、天智王権は滅びる。「持統」を産み育てた王権が、完全に滅びた。

 

<第3章 「持統」の決意>

 現代の女性と違って、古代の女性は自分が育った一族や家のことが第一行動原理となることが多い。(岸信介元首相の長女で、安倍晋三元首相の母の安倍洋子氏は、太平洋戦争前に生まれた女性で、現代の人と言っていいが、「岸家のため」が行動原理だったのではないかと思われる。古代では、もっと個人よりも家や一族への意識が強かったのではないか)「持統」も、人質として妃となった天武王権より、自分を産み育ててくれた上宮王権、それを引き継いだ天智王権を深く心に刻んでいたのではないか。天智王権を滅ぼした天武天皇を心の底では、恨んでいたかもしれない。

 

 「持統」は何とかして、天智王権を復活させたいと考えた。686年天武天皇が死去し、高市天皇が即位する。(第13回講演会参照)その後、高市天皇は696年7月に崩御する。このままでは、高市天皇の長子の「長屋親王」が即位してしまう。天智王権を復活させるためには、「長屋親王」の即位を阻止しなくてはならない。

 

 前回第13回講演会でも取上げた『懐風藻葛野王伝をもう一度見てみよう。(訳)高市皇子が薨(みまか)る後、皇太后(持統)は王・公・卿・士を禁中に引き入れて、継嗣を立てることを謀る。時に群臣は各々私好を挟み、衆議は紛紜なり。

 

 前回でも述べたように、高市天皇崩御する。長屋親王が次の天皇になることは当然である。しかし「持統」(皇太后)は、「王・公・卿・士を禁中に引き入れて」皆で議論して、次の天皇を決めると言い出した。「衆議は紛紜」となるのは、当然である。

 

 『懐風藻』は続けて、「葛野(かどの)王子」の発言を記す。葛野王は天智王権の大友天皇の第一子である。葛野王の発言の後、高市天皇の弟である弓削皇子が発言しようとした。しかし、葛野王弓削皇子を叱りつけ、発言を抑えてしまった。「持統」は葛野王の発言に満足して特別に昇叙しているという。

 

 「持統」は、高市天皇薨去した後、天武王権の系譜の長屋親王の即位を防いで、自らが即位する。696年7月に高市天皇が死去し、696年8月、持統天皇が即位する。そして、1年後の697年8月に孫の軽皇子(かるのみこ 文武天皇)に譲位する。

 

(持統)11年(697年)8月、天皇、策(はかりごと)を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅る。(『日本書紀』)

 

 高市天皇の在位と年号は、「朱鳥(686年~694年)」と「大和(695年~696年7月)」、持統天皇の年号は「大化(696年8月~697年8月)」である。「持統」は、「長屋親王」を天皇と同格にする約束をして自ら即位し、1年後に孫の文武天皇を即位させる。自ら天智王権を復活させる途を開いていく。

 

<第4章 天武天皇と額田姫王>

 『日本書紀』は672年の「壬申の乱」で勝利した「大海人皇子天武天皇)」が翌673年に即位したと記す。さらに、この年673年に「持統」は皇后になった、と記している。

 

 しかし、第12回講演会での薬師寺の項で詳しく述べたように、672年の「壬申の乱」の時すでに皇后は存在しており、「壬申の乱」の時の皇后は「額田姫王」である。

 

 『万葉集』に「額田王(額田姫王)」の歌が11首ある。その中で巻四の歌。

 

  額田王、近江天皇を思(しの)びて作る歌一首

君待つとわが恋(こ)ひをれば わが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く

                             (巻四 488番)

  鏡王女の作る歌一首

風をだに恋ふるは羨(とも)し 風をだに来(こ)むとし待てば何か嘆かむ

                             (巻四 489番)

 

 「近江天皇」というのは「天智天皇」である。「額田姫王」が「天智天皇」を偲んで詠った歌であるといわれている。しかし、「中大兄」が「天智天皇」になるのは、667年に天武天皇によって飛鳥を追われて、近江に逃げてからである。それまでは、天武天皇支配下にあり、王権を奪われた、ただの「中大兄」である。

 

 一方、「額田姫王」は天武天皇が即位した661年から皇后であり、常に天武天皇と行動を共にしていた。「額田姫王」が上宮王権の「中大兄(天智天皇)」と出会うことは一度もない。

 

 『日本書紀』は異なる王権の二人を、天智天皇が兄で、天武天皇は弟であると書き替えている。そのために、後の人が天智天皇を偲ぶ歌に変えてしまったと思われる。この歌は、「額田姫王」が天武天皇を偲んで詠った歌である。

 

<第5章 「天武王権」の墓>

 686年9月9日、天武天皇崩御する。この後の経緯を、『日本書紀』の記述から見てみよう。

 

(持統)元年(687年)10月、皇太子、公卿・百寮人等併せて諸国司・国造及び百姓男女を率いて、始めて大内陵を築く。

(持統)2年(688年)11月、畢(おわり)て大内陵に葬す。

   この坂を登った尾根上の大内陵(野口王墓古墳)

 

 「皇太子」とあるのは、高市天皇である。高市天皇は687年10月に大内陵を造り、688年11月殯宮で最後の慟哭が行われ、天武天皇は大内陵に埋葬される。

 

 第13回講演会での藤原京の項目で述べたように、この大内陵は天武天皇が造った藤原京(元・藤原京(新益京))の中軸線上にのっていなかった。高市天皇は大内陵が藤原京の中軸線上にのるように新益京を壊して、藤原京を新しく造っている。

 

 大内陵は、檜隈大内陵とも言われ、地名から野口王墓古墳とも言われる。また、『続日本紀』に、天武天皇陵に持統天皇が合葬されたという記述があることから、天武・持統天皇陵とも呼ばれている。

 

江戸時代には、見瀬丸山古墳が天武天皇陵と言われていた。しかし、文暦2年(1235年)に野口王墓古墳を盗掘した際の石室の様子を克明に記した『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』という古文書が、明治13年(1880年)に京都の高山寺から発見されて、この古墳が天武天皇陵であることが確定されている。

 

 『古代を考える 終末期古墳と古代国家』(以下A本と記す)の中で、今尾文昭氏は、野口王墓古墳(天武・持統陵)は八角墳で、しかも飛鳥地方において採用された横口式石槨の嚆矢といえるものである、と述べている。

       (横穴式石槨の分類)

 終末期古墳の中でも7世紀中頃になると、大和では横穴式石室と異なる構造を持つ

「横穴式石槨(横穴式石室)」が出現する。その特徴は、棺を入れる石室に底石があり、側石が底石の上に設置されること、石室幅・高さがその前の通路部(羨道)よりも狭く低いこと、一人を埋葬するための構造で、横から棺を挿入する構造をとることである。また、横穴式石室は追葬を前提とした複数埋葬の形態であり、横穴式石槨は単数埋葬を前提とした個人墓であるという。

 

 高市天皇は最新の技法、持術で、大内陵(野口王墓古墳)を「八角墳」「横穴式石槨」として造っている。 

                       (明日香村のパンフレットより)

 A本の中で今尾文昭氏は、野口王墓古墳は藤原京の中軸線(朱雀大路)をほぼ真南に藤原京の延長した位置にあり、中尾山古墳、高松塚古墳キトラ古墳、鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳も同じ軸線上にあり、周知のように時には「聖ライン」と称されることもある、と述べている。

 

 高松塚古墳は、昭和47年(1972年)3月、石室内の極彩色の男女像や白虎青竜玄武等の像が描かれた壁画が発見されて、考古学・古代史ブームが巻き起こった。壁画が書かれた記念切手も発売され、日本の記念切手史上最高の発行数を記録しているほどであった。         

         

          (高松塚古墳 西壁女子群像再現模造模写)

 キトラ古墳も青龍・白虎・朱雀・玄武の四神、四神の下には獣頭人身の十二支、天井には本格的な中国式星座(現存する世界最古)が壁画として描かれている。キトラ古墳についても記念切手が発売された。

         

             (キトラ古墳記念郵便切手)

 天武天皇のラインである「聖ライン」上に位置する高松塚古墳キトラ古墳は他に例を見ないような見事な壁画が石室内に描かれている。そのことから、日本の歴史上、国家の重要位置にいた天皇級の最重要人物が葬られていることは間違いないように思われる。

 

 しかし、『日本書紀』と『続日本紀』の記述にのみ従おうとする硬直した「日本の歴史学」は被葬者を特定できていない。候補者として挙げている者は、とてもこの古墳の重要性に見合った者ではない。これに対して、佃説日本史は、高松塚古墳高市天皇キトラ古墳は長屋親王が被葬者であると特定し、『古代文化を考える』第80(1)号論文「高松塚古墳キトラ古墳の被葬者」で詳しく論じている。

 

 HP「日本古代史の復元-佃收著作集」https://tsukudaosamu.comのトップページに「論文集」というボタンがあるのでこれをクリックするとこの80(1)論文のpdfファイルを見ることができる。是非、目を通していただきたいと思う。

 

<第6章 「持統」の墓>

 持統天皇崩御と埋葬を『続日本紀』は次のように記している。

 

(文武)大宝2年(702年)12月13日、太上天皇(持統)不豫。22日、太上天皇崩。

(文武)大宝3年(703年)12月17日、従四位上当麻真人智徳、諸王・諸臣を率いて、太上天皇に誄(しのびごと)を奉る。諡(おくりな)を大倭根子天之広野日女尊と曰う。是日、飛鳥岡に於いて火葬す。26日、大内山陵に合わせ葬す。

 

 702年12月22日に太上天皇(持統)は崩御。703年12月17日に飛鳥岡で火葬され、26日に天武天皇陵(大内山陵)に合葬されたという。このことから、野口王墓古墳は天武・持統陵と呼ばれている。

 

 A本の中で今尾文昭氏は、野口王墓古墳について、次のように述べている。

 

 玄室には格座間(こうざま)のある金銅製の棺台、その上に朱塗りの夾紵棺(きょうちょかん)と見られる棺が置かれ、中に人骨、紅色の衣服、石帯、枕、玉類があった。さらには金銅製の桶が横に置かれていたという。これは「703年(大宝3年)」に「飛鳥岡」で火葬され、「大内陵」に合葬された持統の骨臓器とみられる。

 

 野口王墓古墳(天武天皇陵)には玄室に「金銅製の棺台」があり、その上に「夾紵棺(きょうちょかん)」が置かれ、天武天皇の人骨があったという。その横に「金銅製の桶」が置かれていたという。今尾氏は「持統の火葬骨」を入れた「骨臓器」であろうという。

             

          天武陵のイラスト(小学館日本書紀』より)

 しかし、「火葬した人骨」であれば、「骨臓器」に入れるはずである。「火葬人骨」を「桶」には入れないであろう。

「金銅製の桶」には、「持統」の火葬骨ではなく、「額田姫王」の骨が入っていたのではないだろうか。

 

 「額田姫王」が薨去するのは683年である。日本では火葬が始まるのは700年からである。したがって、「額田姫王」は火葬されていない。683年に「皇后(額田姫王)」が薨去したとき、「皇后(額田姫王)」の病気平癒を願って、「薬師寺」を造るくらいだから、天武天皇は立派な墓を造って篤く葬ったと考えられる。

 

 686年9月天武天皇崩御すると高市天皇は「天武天皇陵(大内山陵)」を造り、埋葬する。このとき、高市天皇は「額田姫王」を「天武天皇陵(大内山陵)」に合葬することを考えついたのではないだろうか。子供のときから、父の天武天皇が「額田姫王」を深く寵愛していたことを知っているからである。

 高市天皇は、「額田姫王」の墓から骨を取り出して、「金銅製の桶」に入れて、「天武天皇の夾紵棺」の横に置いたのではないか。

 

 「野口王墓古墳」は「天武天皇陵(大内陵)」である。天武天皇の骨は「金銅製の棺台」の上の「夾紵棺」に納められた。その横には、「額田姫王」の遺骨を入れた「金銅製の桶」が置かれた。

「大内陵」は「天武・持統陵」ではなく、「天武・額田姫王陵」である。

 このことは、次に中尾山古墳を考察すると、いっそう明瞭になる。

 

 さて、もう少し『続日本紀』での天皇の葬儀の記述を見ていこう。

 

(文武)慶雲4年(707年)6月15日、(文武)天皇崩ず。

(文武)慶雲4年(707年)11月12日、…諡(おくりな)を倭根子豊祖父天皇と曰う。即日、飛鳥岡に於いて火葬す。20日、檜隈安古山陵に葬し奉る。

 

 文武天皇は707年6月に崩御し、同年11月12日に火葬されて、20日に「檜隈安古山陵」に埋葬される。

 

 今尾文昭氏は、中尾山古墳について、「飛鳥西南の檜隈の丘陵尾根上に立地しており、…1975年の本格的な調査によって八角形の墳丘をもつことが明らかにされた。五段築成でほぼ平坦な下位二段と傾斜角度50度で築かれた上位三段からなる。…横口式石郭は第三段上面の南辺中央に開口する。…この大きさではまず成人の伸展葬による棺の収納は考えられないから火葬された被葬者の骨臓器を納めることを意図したものといえよう。…『続日本紀』によると、「707年(慶雲4年)」に「飛鳥岡」で火葬され「檜隈安古山陵」に葬られた文武を被葬者とする意見が有力である。」と述べている。

 

 文武天皇が埋葬された「檜隈安古山陵」は中尾山古墳であろうという。

        (尾根の上の中尾山古墳)

 

 第1部の最初に見たように、『本朝後胤紹運録』は持統天皇の墓を次のように記している。

持統天皇

大宝2年12月22日崩。五十八。高市郡桧隈安古岡陵に葬す。

 

 「高市郡桧隈安古岡陵」は「中尾山古墳」である。「持統」は「中尾山古墳」に埋葬されるとある。

 

 また、『本朝後胤紹運録』は文武天皇の埋葬について次のように記している。

第四十二

文武天皇(中略)

白鳳12年癸未降誕。大化3年2月立太子。十五才。同8年1月即位。慶雲4年(707年)6月15日崩。二十五才。持統の同陵安古山陵に葬す。

 

 文武天皇は「持統の同陵安古山陵に葬す」とある。「持統」が埋葬されるのは703年である。文武天皇が埋葬されるのは707年である。文武天皇は「持統」の「安古山陵」に追葬されている。

 

 「高市郡桧隈安古山陵」は「中尾山古墳」である。「中尾山古墳」は「持統」のために造られた墓である。「持統」は、天武天皇の野口王墓古墳を見習って、檜隈の丘陵尾根上に「八角墳」の寿墓「中尾山古墳」を造っている。天武天皇と同じ格式の高い墓を造っている。文武天皇は、この墓に追葬された。そのことを、『本朝後胤紹運録』は明確に述べている。

 

<第7章 「額田姫王」の墓>

 野口王墓古墳に天武天皇と共に埋葬されているのは、「持統」ではなく、「額田姫王」であった。「額田姫王」は683年に薨去し、天武天皇に手厚く葬られた。その後、686年に天武天皇薨去したとき、野口王墓古墳の「天武天皇の夾紵棺」の横に「金銅製の桶」に入れて葬られている。

 

 それでは、野口王墓古墳に入れられる前の「額田姫王」の墓はどこにあったのだろうか。

 

 7世紀中頃、造墓制度の規制が行われた。「大化薄葬令(大化2年(646年))」と云われているが、「白雉(652年)」の薄葬令であり、「天武天皇の父」が出している。

 

 飛鳥の鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳は石槨の内寸が279×154cmで、ほぼ薄葬令の規定に合致する。天皇や皇太子の墓を除いて、横口式石槨の多くは合致しているという。7世紀以降に横口式石槨は飛鳥の南西部に分布している。

         

         (今は4つが吉備姫王墓の中に置かれている猿石)

 野口王墓古墳や高松塚古墳の近くに、「飛鳥の奇妙な石造物」と呼ばれるユニークな石造物があり、観光客の目を引いている。鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳、猿石、亀石、二面石、酒船石などである。

     

           (鬼の俎(まないた)古墳) 

 鬼の俎(まないた)古墳は、小高い急斜面の崖の上に造られている。そこから5mくらい下の斜面の中腹に少し離れて、鬼の雪隠(せっちん)古墳がある。   

        

            (鬼の雪隠(せっちん)古墳)

 現地の雪隠古墳の石の上の説明板に次のように記されている。

「鬼の雪隠は墳丘土を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の石室の一部である。本来は花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してできた状態にある。この周辺は霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が住み、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、俎(まないた)の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説がある。」

 

 鬼の雪隠古墳の下5mほどの所には、畑や田圃が広がっている。(このレポートの筆者がこの遺跡を訪れた時、80代の現地の人が話しかけてくれて、いろいろと話をお聞きすることができた。かなり前になるが、この畑や田圃の耕地を改良するためにブルトーザーで耕地を改良する事業をしたそうだ。その時、この遺跡の石を運んだ跡が畑や田圃にハッキリと残されていたという。そのため、途中で国からの指導があって、この事業は中止されたという。また、その人は、「あそこの山からこの石を運んで来たんだ。」と言って、遠くの山を指差して教えてくれた。)

   雪隠古墳から下方を見る 

 まず、この巨石を平地を運ぶだけでなく、崖の上に持ち上げることは大変な作業である。絶大な権力を持った人でなければできないだろう。

 

 次に、鬼の俎と鬼の雪隠は石室の一部である。地震か何かで鬼の雪隠が崖から滑り落ちたとも考えられるが、その場合、石室の底石である鬼の俎が全く損傷がなく、地面に対して傾いてもいないことはあり得ない。

 

 鬼の俎・雪隠古墳は7世紀後半に飛鳥地方で絶大な権力を持った人が造らせた石室で、その後、誰かによって故意に石室が破壊され、蓋石が崖から落とされたとしか、考えられない。

 

 7世紀後半、飛鳥を支配していたのは天武天皇高市天皇である。

 

 佃氏は、天武天皇が「額田姫王」のために造らせた石室が鬼の俎・雪隠古墳ではないか、と考えた。「額田姫王」は大きな石で造られたこの石室に葬られていた。天武天皇が亡くなって、大内陵が作られたとき、遺骨は大内陵内の「金銅製の桶」に移される。鬼の俎・雪隠古墳の中の遺骨はなく、空っぽの石室が残された。

 

 天武天皇高市天皇崩御した後、「持統」は天皇になる。さらに1年後には、文武天皇に譲位する。もはや、少々手荒なことをしても国民は咎めないだろうと考え、「持統」は空になっている「額田姫王」の墓を破壊し、墓の上部を崖下に落とす。これが鬼の雪隠古墳である。見事な推論である。

          (亀石)

 なお、飛鳥の猿石、亀石などについても佃氏は見事な推論をし、亀石では、「亀」ではなく「金蛙(かえる)」であるとしている。『古代文化を考える』67(1)号論文「都塚古墳と高麗人小身狭屯倉-「亀石」は金蛙-」である。前の論文と同じ様に、HPhttps://tsukudaosamu.comの「論文集」のボタンをクリックして67(1)号論文のpdfファイルを読むことができる。

 

第2部 文武天皇

<第1章 「不改常典」>

 第1部で見てきたように、文武天皇は697年8月に15歳で持統天皇から天皇位を譲位され、707年6月15日、25歳で死去する。    

      

 文武天皇の後は、その母である元明天皇(阿閇皇女、阿陪皇女)が天皇位を継ぐ。

 

 『続日本紀』(元明慶雲4年(707年)7月17日の元明天皇の即位宣命では、文武天皇持統天皇と「並び座して此の天下を治め賜い」として、「持統」が文武天皇と「共治」してきたことを、まず述べている。

 

 続けて、「是は関(かけま)くも威(かしこ)き近江大津宮御宇大倭根子天皇天智天皇)の、天地と共に長く日月と共に遠く不改常典(改めざる常の典)と立て賜い敷き賜える法を受け賜り坐して行い賜う事と衆(もろもろ)受け賜りて、恐(かしこ)み仕え奉りつらくと詔りたまう命を衆は聞きたまえと宣ぶ。」とある。

 

「是(共治)」は「天智天皇が、不改常典(改めざる常の典)として立てた法」を受けて行っていると述べている。これが、「不改常典」(※1)の初出である。

 

 元明天皇の即位宣命の続きを見よう。

 「故、是を以て親王を始め王臣・百官人等の淨明(きよ)き心と以て弥務(つと)めに…輔佐(たす)け奉らむ事に依りてし、此の食国天下の政事は平らけく長く在らむとなも念じ坐す。また天地の共に長く遠い不改常典と立てたまわる食国の法も、傾く事無く、動く事無く、渡り去るとなも念じ行かさくと詔命を衆は聞きたまえと宣す。」

 

 親王・王・臣等の助け(協力)により「不改常典」として立てた食国の法は永久に続くことを念じると述べている。再び、「不改常典」が出てくる。

 

天智天皇が立てたという「不改常典」とはどのようなものであろうか。この元明天皇の即位宣命では、まだ、何を意味しているかよく分からない。

 

 ここで、一般には余り知られていないが、多くの歴史学者が関心を寄せている「不改常典」という術語について、一般的に言われていることを整理しておこう。

 

   (※1)「不改常典(ふかいのじょうてん)」:法の正式名称ではなく、この法に言及した天皇の即位の詔の一説から取られた歴史学の用語である。『日本書紀』には全く記されていない。『続日本紀』以降に、天皇の詔の中で言及され、元明天皇の詔が最初のものである。「不改常典」をめぐる諸学説は、直接的には詔の一節の解釈に過ぎないが、これを足がかりに当時の政治体制とその変化についての異なる理解が開かれるため、おびただしい学説が立てられ、現状の定説はない。

 

次に「不改常典」が出てくる聖武天皇の即位宣命を見てみよう。

 

聖武神亀元年(724年)2月4日、禅を受けて大極殿において即位す。…倭根子天皇元正天皇)の大命のませ詔りたまわく「此の食国天下は藤原宮に天下を知らす所のみまし(あなた)の父(文武天皇)と坐す天皇のみまし(あなた)に賜いし天下の業」と詔す大命を聞いて、恐れ受け賜り、懼れ坐すことを衆は聞きたまえと宣す。(『続日本紀』)

 

文武天皇があなた(聖武天皇)に天皇位を渡すのが天下の業(神意)である」という元正天皇の詔によって、恐れ多くも私(聖武天皇)は即位したことを衆は聞きなさいと宣べた。

 

「…みまし(あなたの)親王文武天皇)の齢の弱(わか)きに荷重きは耐えられじかと、念じまして皇祖母と坐しし畏き我が皇天皇元明天皇)に授け賜い奉りき。此れに依りて、…霊亀元年に、朕に授け賜い譲り賜いて教えて詔し賜いつらく、…「淡海大津宮に御宇しし倭根子天皇天智天皇)の万世に不改常典と立て賜い敷き賜える法の随(まま)に、後遂にわが子(聖武天皇)にさだかに過(あやま)つ事無く授け賜え」と…。」(『続日本紀』)

 

文武天皇はあなた(聖武天皇)は年が若いから荷重に耐えることができないと思って、元明天皇皇位を授けた。これによって、霊亀元年に私(元正天皇)が天皇位を授けていただいき、「天智天皇が万世に不改常典として立てた法の随(まま)に後には遂に我が子(聖武天皇)に間違いなく天皇位を授けよ」と(元明天皇が)教えてくれ、詔されたので、私(元正天皇)は皇位を継いでいる、と…。

 

 この聖武天皇の即位宣命は、聖武天皇か、元明天皇か、元正天皇か誰が言っている言葉なのかが、極めて分かり難い。しかし、元明天皇霊亀元年に天皇位を私(元正天皇)に譲位された。そのとき教えて下さったことは「天智天皇が万世に不改常典として立てた法の随(まま)に後は遂に我が子(聖武天皇)に間違いなく天皇位を授けよ」ということである。このように述べている。

 

「不改常典」とは、「天皇位を文武天皇からその子の聖武天皇へ伝えよ」ということとなる。すなわち、「不改常典」とは「天皇位」を「天智王権で伝え続けろ」ということであり、「天皇位を天武王権には渡すな」ということになる、と佃氏は指摘する。

 

 天皇家万世一系で継続しており、天智天皇天武天皇は兄弟であるとする既存の「日本の歴史学」は、「不改常典」の意味を捉えられない。佃氏はさらに深めていく。

 

 元明天皇聖武天皇の即位宣命には「天智天皇が万世に不改常典として立てた」とある。「不改常典」は天智天皇が立てたとしている。しかし、「中兄大」は大和を天武天皇に明け渡して近江に逃げている。日本列島を支配しているのは天武天皇であり、近江に逃げた「中兄大」が万世まで続くようにと「不改常典」を考えることはあり得ない。

 

 「不改常典」は天智天皇が立てたというのが偽りなら、「不改常典」の発案者は持統天皇だろうか。「持統」は13歳で父天智天皇と別れてから一度も再会したことはない。天智天皇が「不改常典」を「持統」に伝えることはできない。また、「持統」が「不改常典」を考案したのであれば、聖武天皇の即位宣命で「天智天皇が万世に不改常典として立てた」とは言わないだろう。また、「不改常典」の初出は元明天皇であった。そのように考えると、「不改常典」は元明天皇が考案した、ということになるのではないだろうか、と佃氏は述べる。

 

<第2章 「天智王権」の権威付け>

 天智王権の復活を果たそうとする「持統」は、天智王権の権威付けを行う。天智王権の墓の整備と「国忌」の制定である。

 

 文武天皇は699年に越智・山科に二つの陵を造る。第11回講演会(天武王権)で最後に触れた、牽牛子塚(けんごしづか)古墳などである。

 

(文武)3年(699年)10月甲午(13日)、詔す、「天下の罪ある者を赦す。但し悪・窃盗の二盗は赦の限りに在らず」という。越智・山科に二つの山陵を造ろうと欲する為である。(『続日本紀』)

 

 山稜造営のための赦をして、二つの山陵をつくる。「越智の山稜」は皇極(斉明)天皇陵であり、「山科の山陵」は天智天皇陵である。699年に文武天皇が造っていると書いているが、幼い文武天皇が造れるはずがない。「持統」が文武天皇に命じて造らせている。

 

 「皇極(斉明)」や天智天皇は、立派な墓をつくる余裕が無かった。「皇極(斉明)」は667年に死去する。「中大兄」は「皇極(斉明)」を、2年前に死去した「皇極(斉明)」の娘「間人皇女(はしひとのひめみこ)」の墓に追葬して、3月に近江に逃げる。「皇極(斉明)」の墓は造られていない。「中大兄」は近江に逃げてきて、即位し天智天皇になるが、名前だけの天皇である。立派な墓を造る財力も権力も無い。天智天皇の墓は粗末なものだったであろう。

 

 「持統」は復活させた天智王権の権威付けのために天智天皇の墓(山科の山陵-御廟野古墳)とその母「皇極(斉明)」の墓(越智の山稜-牽牛子塚古墳)を造る。天智天皇の墓は死去してから28年後、「皇極(斉明)」の墓は32年後のことであった。

 

 この飛鳥の牽牛子塚古墳が2022年に復元整備され、多くの人を集めているようだ。(第11回講演会レポート参照)

      (牽牛子塚古墳)

 

 天武天皇は、686年の9月9日崩御した。

(持統)元年(687年)9月9日、国忌の斎を京師の諸寺に設ける。(『日本書紀』)

 

 687年の天皇高市天皇だから、高市天皇が一年後の「9月9日」を「国忌」にしている。

 

(文武)大宝2年(702年)12月2日、勅して曰く、「9月9日・12月3日」は先帝の忌日なり。諸司はこの日に当たり宜しく廃務すべし」という。(『続日本紀』)

 

 「9月9日」は天武天皇崩御した日であり、「12月3日」は天智天皇崩御した日である。天智天皇が死去するのは671年だから、実に死後31年後に、天智天皇の命日が「国忌」となる。しかも、崩御した天智天皇の命日の前日に決めている。

 

 「持統」は天智天皇の命日を「国忌」に決めた20日後に死去する。自分が死ぬ間際に、ようやく父天智天皇の名誉回復をすることができた。

 

 「持統」は祖母「皇極(斉明)」と父天智天皇の墓を整備する。さらに、父の命日を「国忌」とした。

 

(文武)慶雲4年(707年)4月、日並知皇子命の薨日を以て始めて国忌に入れる。(『続日本紀』)

 

 「日並知皇子命」は草壁皇子である。天皇でない草壁皇子の薨日を「国忌」にしている。「持統」はすでに死去しているから、文武天皇が考えたのであろう。草壁皇子の名誉回復はさらにエスカレートする。

 

淳仁天平宝字2年(758年)8月9日、勅して「日並知皇子命は未だ天皇を称さず。尊号を追宗するは古今の恒の典なり。今より以後は宜しく岡宮御宇天皇と奉り称すべし」という。(『続日本紀』)

 

 758年、淳仁天皇草壁皇子天皇号を追尊している。「持統」の血統がますます尊重されるようになっていく。『日本書紀』は草壁皇子を「皇太子」と書いている。しかし、皇太子になったのは高市皇子であって、草壁皇子は皇太子になっていない。

 

第3部 元明天皇

 <第1章 元明天皇の即位>

 元明天皇については、まず『日本書紀』の記述を見てみよう。

 

(天智)7年(668年)2月、古人大兄皇子の女倭姫王を立てて皇后と為す。遂に四嬪を納れる。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘という。…次に遠智娘の弟有り。姪娘という。御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿陪皇女(あへのひめみこ)を生む。阿陪皇女は天下を有するに及び藤原京に居す。後に都を乃楽(なら)に移す。(『日本書紀』)

 

 天智天皇蘇我山田石川麻呂大臣の女姪娘を娶り、「御名部皇女と阿陪皇女」を生むとある。この「阿陪皇女(あへのひめみこ)」が後の元明天皇である。「持統」と同じ天武天皇を父とする。母親同士は姉妹の関係にあり、共に上宮王権の重臣である蘇我山田石川麻呂大臣の娘である。「持統」と「阿陪皇女」は同じ天智王権の血筋といえる。

 

 次に、『本朝皇胤紹運録』の記述を見る。

 

元明天皇 諱阿閇(あへ)。文武母。治七年。母蘇我嬪。斉明七年(661年)辛酉降誕。慶雲四年(707年)7月17日即位。四十七歳。和銅3年(710年)庚戎3月都于平城京霊亀元年(715年)9月3日禅位。養老5年(721年)12月4日崩。葬奈保山稜。(『本朝皇胤紹運録』)

 

元明天皇は諱(いみな)を阿閇(あへ)と言い、阿陪皇女(あへのひめみこ)とも言われる。661年に生まれ、腹違いの姉「持統」は645年の生まれだから、年の差は16歳である。707年に、実子の文武天皇が死去して、47歳で即位する。710年に平城京に遷都し、715年に元正天皇に譲位する。721年崩御

 

 文武天皇が死去し、その母親の元明天皇が即位する様子を『続日本紀』から見てみよう。

 

慶雲)4年(707年)6月15日、(文武)天皇崩ず。遺詔す、「挙哀三日、凶服一月」とせよ。

元明)即位前記4年(707年)6月、豊祖父天皇(文武天皇)崩ず。24日、天皇、東楼に御して詔して八省の卿及び五衛督率等を召し、告げるに遺詔に依り万機を摂る状を以てす。

元明)4年(707年)7月15日、(元明)天皇大極殿に於いて即位す。(『続日本紀』)

 

 「遺詔に依り万機を摂る」とある。「万機を摂る」とは、天皇位に即くことである。元明天皇は、文武天皇の「遺詔」によって天皇位に即くと告げている。しかし、文武天皇紀の6月15日の記事では、「遺詔」は「挙哀三日、凶服一月」だけである。

 

 元明天皇の夫の草壁皇子は、天皇になっていない。したがって、元明天皇(阿閇皇女)は皇后になっていない、単なる皇女である。その阿閇皇女が強引に即位している。天武王権の「長屋親王」を即位させないために「文武天皇の遺詔」を持ち出しているのではないだろうか。

 

 『続日本紀』の元明天皇の即位記事には謎が多い。

 まず第一は、日付が前後していることである。(慶雲)4年(707年)の7月17日、7月5日、7月6日の記事で、7月17日の即位記事が先に書かれ、時間が逆になっている。書き替えた記事を挿入する際に、挿入箇所を間違えた可能性がある。

 

 第二に、即位をめぐる問題である。

元明)即位前記、慶雲3年(706年)11月、豊祖父天皇文武天皇)、不豫(病気)。始めて位を譲るの志有り。(元明天皇、謙譲(へりくだ)り、固辞して受けず。(『続日本紀』)

 

 文武天皇は病気になる。始めて譲位する気になったという。ところが元明天皇はへりくだり、固辞して受けなかったという。

 

 元明天皇の即位宣命の中で次のように述べている。

 

去年(慶雲3年(706年))11月に威(かしこ)きかも、我が王、朕の子天皇文武天皇)の詔りつらく(「元明」に)「朕、御心労(つかれ)ていますが故に、暇間(いとま)を得て、御病を治さむと欲す。此の天の日嗣(ひつぎ=天皇位)の位は、大命に坐せて大いに坐し坐して(自分の詔にしたがって)治め賜う可し」と、譲り賜う命を受け賜り坐して(「元明」が)「朕は耐えることができない」と辞してもうして受け坐さず間に、「遍(あまね)く多く日重なり譲り賜えば」(文武天皇は何度も幾日も譲位を申し出て)…今年6月15日に「詔命は受け賜る」と白(もう)しながら…宣ぶ。(『続日本紀』)

 

 慶雲3年(706年)11月に、文武天皇は病気になり、治療に専念したいという。そこで、母である元明天皇に譲位しようとする。元明天皇は固辞して受けなかったとある。しかし遂に、慶雲4年(707年)6月15日(文武天皇の死去)に天皇位を受け入れた。

 

この間、7ヶ月である。この間に「文武天皇の病気平癒」を祈願する記事は『続日本紀』に一つもない。それどころか、この間に少し数えただけでも十ほどの重要な政務を行っていることを『続日本紀』で確認できる。

 

 文武天皇が病気になり、「文武天皇の遺詔」により元明天皇が即位したというのは、本当だったのだろうか。以上述べたように、元明天皇の即位の理由には謎が多い。

 

<第2章 天武王権の反発>

 即位の理由には問題があったが、(慶雲)4年(707年)7月17日に元明天皇が即位したことは事実だろう。この4日後に、「授刀舎人寮」を設置している。

慶雲)4年(707年)7月21日、始めて「授刀舎人寮」を置く。(『続日本紀』)

 

 「授刀舎人寮」とは、当時皇位継承の予定者となっていた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)と地位を擁護する目的をになったものと考えられる。即位してから4日後に、「授刀舎人寮」を設置し、首皇子(後の聖武天皇)を擁護しようとしている。首皇子の命を狙うものが居るからであろう。

 

 元明天皇の即位に反対があったことは、即位宣命の中の大赦や恩賜を述べるところに出てくる。

「山沢に亡命して、軍器を挟蔵して、百日首(自首)せぬは、復(また)、罪、初めのようにせよ。」(『続日本紀』)

 

 元明天皇の即位に反対する天武王権側は、兵器を持って山沢に亡命しているという。元明天皇(天智王権)と戦うためだろう。この者たちの罪は許さないという。

 

 元明天皇は翌年(708年)「和銅」年号に改元する。この年の元明天皇の歌が『万葉集』にある。

 

   和銅元年戊申(708年)

   (元明天皇の御歌

ますらをの 鞆(とも)の音すなり もののふの大臣(おおまえつきみ)楯(たて)立つらしも            

                        『万葉集』巻一 76番

 「鞆(とも)とは、弓を引いて矢を放つとき弦(つる)が腕に当たる。それを防ぐ皮製の防具である。「楯(たて)」は敵の弓矢や槍・剣・刀による攻撃から身を守る防具である。「鞆(とも)の音すなりとは」大臣の命令で、兵士達が楯を並べ終わり、敵が攻めてくるのを想定して、空弓を引き、弦が鞆に当たり音を立てている。

 

 元明天皇は即位宣命で、「山沢に亡命して、軍器を挟蔵して百日首せぬ者を罪にせよ」、と命じ、数日後に「授刀舎人寮」を設置し、翌年この歌を作っている。

 

 元明天皇の強引な即位に、天武王権の側から反発があり、一触即発の状態であった、と言えるのではないだろうか。

 

元明天皇は710年平城京に遷都し、翌年の711年『古事記』を献上させる詔を出している。これについても考えてみよう。

 

 『古事記』は和銅5年(712年)正月28日に成立したと、その序文に書いてある。序文には、天武天皇の指示で編纂が始まり、和銅4年(711年)9月18日に元明天皇が太朝臣安萬呂に「稗田阿禮が暗誦している旧辞を撰録して献上せよ」という詔を出し、上中下の三巻に記録して安萬呂が献上した、と書かれている。

 

 この『古事記』が成立する前、元明天皇の「禁書」が存在する。

元明和銅年元年(708年)正月、…山沢亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(じしゅ)さぬは復(また)罪、初めの如くせよ。(『続日本紀』)

 

 天武天皇による指示で編纂されているから、『原・古事記』は700年頃には出来上がっていたと思われる。また、天武王権の正史である。元明天皇は、これを天武王権ではなく、天智王権が継続したように書き替える。そのため、『原・古事記』は禁書にして、書き替えた現『古事記』を献上させた。これが、現在の『古事記』であると考えられる。

 

 『古事記』が作られたことは、「正史」である『続日本紀』に全く記載がない。また、『古事記』は第33代推古天皇までしか記載がなく、さらに第24代仁賢天皇以降は、事績の記事がなくて天皇の系譜のみ記されている。(『日本紀』の成立は、『続日本紀』に書かれている。また、『日本書紀』は第41代持統天皇まで記載されている。)

 

 現『古事記』は、『原・古事記』の天武王権の部分を削除されて作られている。そのため、推古天皇紀までしか書かれていない。元明天皇が、天智王権のために、私的に作ったものである。

(この辺の詳しい事情は、次回講演会で話す事になる。)

 

<第3章 元正天皇への譲位>

 霊亀元年(715年)9月2日、元明天皇は娘の氷高内親王(ひたかのひめみこ)への譲位を決意する。

 

天皇、位を氷高内親王に禅る。詔して曰く「…因りてこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥府(天の授けるよいしるし)に叶い、夙に徳印(よい評判)を彰(あらわ)せり。…今、皇帝の位を内親王に伝える。公卿・百寮、悉く祇(つつし)み奉(まつ)りて、朕が意に称(かな)うべし」とのたもう。(『続日本紀』)

 

 「首(おびと)皇子」(後の聖武天皇)は、このとき15歳である。この神器を皇太子(「首皇子」)に譲らむとすれども、「首皇子」は「年歯幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり」という。

 

 一方、氷高内親王は、天の授けるよいしるしをもち、評判もよく、生まれながら寛大で、もの静かであり、自分の意にかなっているとして、子である氷高内親王元正天皇)に譲位する。

 

 元明天皇はこのとき、すでに55歳である。天武王権の即位を許さないため、47歳で自分が天皇位に就き、平城京遷都を成し遂げ、『古事記』も献上させた。譲位して6年後の721年に61歳で死去する。持統天皇に引き続き、天智王権復活のための役割を十分に果たしたと言えるのではないか。

 

第4部 元正天皇

<第1章 元正天皇の即位>

 元正天皇について、『本朝皇胤紹運録』は、諱は飯高、文武天皇の姉、和銅8年(715年)禪位を受けて、三十五歳で即日即位する、と記す。680年に生まれている。また、養老8年(724年)に聖武天皇に禪位し、天平20年(748年)に68歳で死去すると記す。

 

 元明天皇の項で述べたように、「この神器を皇太子(首皇子)に譲らむ」とすれども、(首皇子は)年歯幼く稚(わか)くして未だ深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり」ということで、氷高内親王元正天皇)に譲位された。皇后でもない氷高内親王が即位している。天武王権の「長屋親王」は、またもや即位のチャンスを逸した。

 

 そして、元正天皇は724年に首皇子聖武天皇)に譲位する。

(元正)神亀元年(724年)2月4日、天皇、皇太子に禅位す。…禅を受けて大極殿に於いて即位する。(『続日本紀』)

 

 ここでも「禅位」という手を使って、天皇位を天智王権の側に確保している。首皇子が「皇太子」というのは捏造である。「長屋親王」が居るのに、「皇太子」を立てることはできない。

 

 「長屋親王」は天皇と同等の待遇を受けている。しかし、遂に即位することはできなかった。天智王権が「不改常典」を考え出して「長屋親王」の即位を阻止している。「不改常典」は、「長屋親王」の即位を阻止する口実として考案されたのである。

 

<第2章 『日本紀』の成立>

(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅と奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。(『続日本紀』)

 

 720年5月に「紀三十巻、系図一巻」が完成したとある。「紀三十巻」は『日本紀三十巻』だろう。

 

 「日本の歴史学」では、『日本紀』=『日本書紀』として、『続日本紀』のこの記事は、『日本書紀』のことが書かれていると解釈している。本当にそうだろうか。そうだとすると、「系図一巻」はどこに行ってしまったのだろうか。

 『万葉集』の巻一、二に引用されているのは『日本紀』である。『日本紀』の続編が『続日本紀』である。『日本紀』は書き替えられて『日本書紀』になっている。『原・古事記』が現『古事記』に書き替えられたように、天智王権によって書き替えられている。このことについては、次回の講演会で詳しく説明する予定である。

 

第5部 聖武天皇

<第1章 聖武天皇の即位>

 聖武天皇について『本朝皇胤紹運録』は次のように記している。

 

諱は首(おびと)、母は夫人藤原宮子で不比等公の女。大宝元年(701年)降誕。養老8年(724年)受禅。同日即位。二十四歳。天平勝宝元年(749年)7月2日遜位。五十六歳。葬佐保山稜。東大寺西北角。(『本朝皇胤紹運録』)

 

 「首(おびと)皇子」は文武天皇の子であり、後の聖武天皇である。『続日本紀』は「首皇子」は「皇太子」になったと記している。

 

聖武)、即位前紀、天璽国押開豊桜彦天皇聖武天皇)は天之真宗豊祖父天皇文武天皇)の皇子なり。母を藤原夫人と曰う。贈太政大臣不比等の女なり。和銅7年6月、立ちて皇太子となる。時に年十四。(『続日本紀』)

 

 「和銅7年6月、立ちて皇太子となる」とある。「首皇子」は和銅7年6月に「皇太子」になっているという。

 ところが、『続日本紀』の和銅7年6月条を見ても、「皇太子」になったという記事はない。あるのは、「元服」の記事である。

 

元明和銅7年(714年)6月25日、皇太子、元服を加える。(『続日本紀』)

 

 「元服」よりも「立太子」の方が重要である。なぜ、『続日本紀』は「元服」の記事を載せているのに、「立太子」の記事を載せていないのだろうか。

 

 この時期、まだ「長屋親王」は生存している。(729年に「長屋王の変」で死去)「長屋親王」が居るのに、「首皇子」を「皇太子」にはできない。「軽皇子」を「皇太子」としたのと同じく、『続日本紀』の捏造であると考えられる。

 

 神亀元年(724年)、聖武天皇は即位する。

 その後、729年2月に「長屋王の変」で、「長屋親王」を誣告させて自害させ(第13回講演会参照)、ついに天武王権を滅亡させる。

 

聖武神亀6年(729年)8月5日、…我が皇太上天皇(元明天皇)の大前に恐(かし)こくも進退、はらばい廻り、…うつくしくも皇(すめら)の朕が政(まつりごと)の致せる物に在らめや。此は太上天皇(元正天皇)の厚き広き徳を蒙りて、高き尊き行いに依りて、…と宣(の)る。…御世の年号を改め賜い換え賜う。是を以て神亀6年を改めて天平元年と為し、天下に大赦す。(『続日本紀』)

 

 「長屋王の変」の半年後の729年8月に、天智王権の推進者であり、自分(聖武天皇)を天皇位に即けるために努力してくれた元明天皇元正天皇を称えて、改元をする。

 聖武天皇の新たな年号「天平」は、天武王権を滅亡させ、天智王権を復活させて「天下が太平(泰平)になる」という意味であろう。

 

 この年、藤原不比等橘三千代の子である光明子が、正式に聖武天皇の皇后である光明皇后となる。天武王権が滅亡し、天智王権が完全に復活した。天智王権と藤原氏との新たな時代が始まっていく。

 

 筆者の力不足のため、今回のレポートは非常に長くなってしまいました。ここまで読んでいただいた方に感謝申し上げます。

 

 次回の第15回講演会は最終回となり、「日本書紀』はなぜ作られたか」というテーマで、2024年8月4日(日)午後1時~4時 埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。            (以上、HP作成委員会記)

 

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

 

第13回古代史講演会レポート

<テーマ> 高市天皇と長屋親王

<日時>  2024年(令和6年)3月10日(日)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂 

     

 今回も埼玉県立歴史と民俗の博物館 友の会の皆さんによって受付がされている。

<最初に>

 博物館「友の会」の斉藤亨さんが講演の概要を述べられた。

 『日本書紀』には、天武天皇の後は皇后である持統天皇皇位を継がれたと記されている。現在の「日本の歴史学」も『日本書紀』の記載通りとしている。これに対して、佃説日本史では、天武天皇の後は長男の高市皇子皇位を継ぎ、高市天皇が実現している、と述べる。

 その高市皇子の長男の長屋王は、729年「長屋王の変」で死亡する。「国家を傾けようとした」との罪(密告)で、自害に追い込まれるが、この罪は平安時代には無実と見なされているようである。

 

 昭和61年から平成元年にかけての平城京跡の大規模発掘調査で、「長屋親王」と記された木簡が発掘された。木簡の写真のコピーが今回の講演会の資料の一番初めにとじられている。

 「親王」という名称は天皇の子か兄弟にしか使われない。長屋王ではなく、「長屋親王」とすると、長屋王の父である高市皇子天皇であったということになる。この木簡の発掘は、「日本の歴史学」に大きな波紋を投げかけた。

 今回の講演では、どうして高市皇子天皇となったと考えられるのか、長屋王は「親王」であったのかどうか、などについて詳しくお話しいただきます。

 

 なお、次回は5月12日(日)にこの会場で「天智王権の復活」というテーマで行われ、次々回は8月4日(日)に、日本書紀』はどのように作られたのか、という内容で予定されていることが伝えられた。

 今回もA‐4版27枚の資料が配布された。最初の鮮やかな「長屋親王」の木簡の写真は、昨年のあるセミナーについての日経新聞の広告写真からとられたものであることを、斉藤さんはお話しされた。

             (木簡の写真)

第1部 高市天皇

<第1章 天武天皇崩御と「朱鳥」>

 天武天皇は686年9月に崩御し、崩御の「二か月前」の7月に「朱鳥(あかみとり)」年号に改元している、と『日本書紀』に書かれている。

 

天武朱鳥元年(686年)正月、大極殿に御して宴を諸王卿に賜う。

天武朱鳥元年(686年)7月20日、元を改めて朱鳥元年という。(朱鳥、此を阿詞美苔利(あかみとり)という。)仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮という。

天武朱鳥元年(686年)9月、天皇の病は遂に差(いえ)ず。正宮に崩ず。

 

 改元崩御の前なので、この改元天武天皇の病気平癒のためと言われてきた。

 

 7月20日に元を改めて「朱鳥」とするとある。その前の年号があるはずだが、前の年号については『日本書紀』に何も書かれていない。また、天武朱鳥元年(686年)正月は改元前だが、すでに「朱鳥」年号が使われている。これはどうしたことだろうか。

 

そこで、他の文献『万葉集』、『二中歴』(※1)で「朱鳥」年号がどのように使われているか調べてみよう。

 『万葉集』には、「…日本紀に云う…」や「…日本書紀に曰く…」などの形で『日本紀』や『日本書紀』からの引用がある。万葉集巻一、二だけに『日本紀』からの引用があり、そこに「朱鳥」年号が出てくる。

 

万葉集』巻一34番「…日本紀に云う、朱鳥4年庚寅秋9月、…」

万葉集』巻一44番「…日本紀に曰く、朱鳥6年壬辰春3月、…」

万葉集』巻一50番「…日本紀に曰く、朱鳥7年癸未秋8月…8年甲午」

万葉集』巻二195番「…日本紀に云う、朱鳥5年辛卯秋9月、…」

 『万葉集』には『日本紀』からの引用の形で、「朱鳥4年」、「朱鳥5年」、「朱鳥6年」、「朱鳥7年」、「朱鳥8年」が出ている。

 

 『二中歴』を見ると、「朱雀 二年 甲申」、「朱鳥 九年 丙戌」と記されている。「朱雀」年号は「甲申(684年)~685年」までの2年間、「朱鳥」年号は「丙戌(686年)~694年」までの9年間続くという意味である。

 

 天武天皇は686年9月に死去している。「朱鳥」年号は、『万葉集』で見れば、686年から少なくとも8年は続き、『二中歴』では9年間続く。二つの文献とも、天武天皇が死去してから9年程度続いていることを示している。天皇が死去し、次の天皇が即位しても年号が変わらないことはない。このことから、「朱鳥」年号は天武天皇の年号ではないと考えられる。

 

  (※1)『二中歴』:鎌倉時代のいわば百科事典。13巻で作者未詳。平安時代の『掌中歴』と『懐中歴』を再編成し、人名、物名などを81項目に渡って整理したものである。

 

<第2章 「朱鳥」年号の天皇

 「朱鳥」年号は天武天皇の年号ではなかった。するとどの天皇の年号だろうか。持統天皇の年号だろうか、調べてみよう。

 

(持統)称制前紀、朱鳥元年(686年)9月、天武天皇崩ず。皇后、臨朝称制す。(「称制」とは、即位の式を挙げずに政務を摂ること)

(統統)4年(690年)、皇后、天皇位に即く。(『日本書紀』)

 天武天皇崩御した後、「持統」が称制し、その後690年に即位し、天皇位についたと、『日本書紀』は記す。

 

 天皇は即位すると、改元する。ところが、「朱鳥」年号は686年から始まり、「持統」の即位の年をはるかに越して、694年頃まで続いている。「朱鳥」年号は持統天皇の年号でもない。

 

 「朱鳥」年号が天武天皇の年号ではなく、持統天皇の年号でもないとするなら、誰の年号と考えたらいいのだろうか。天武天皇持統天皇の間に誰か別の天皇が居たのだろうか。

 

 天武天皇の長子の高市皇子の「薨去」の様子を、『懐風藻』(※2)は次のように記している。その葛野王伝訳を見てみよう。

 

 高市皇子が薨(みまか)る後、太后持統天皇)は王・公・卿・士を禁中に入れて、継嗣を立てることを謀る。時に群臣は各々私好を挟み、衆議は紛紜なり。(『懐風藻葛野王伝訳)

 

日本書紀』には、持統天皇は690年に即位し、高市皇子は696年7月に薨る、とある。その後、持統11年(697年)8月、持統天皇は皇太子(文武天皇)に譲位したという記事で、『日本書紀』が閉じられている。

 

 『日本書紀』の記載の通りであれば、高市皇子が死去した696年に持統天皇天皇であるはずで、「皇太后」と呼ばれることはない。

 

 『懐風藻』の記述をもう少し追ってみよう。高市皇子が死去したので、「継嗣を立てることを謀る」とある。次の天皇を誰にするかを議論していて、「衆議は紛紜なり」とあるから、議論は紛糾している。

 

 高市皇子天皇位についているとすると、この『懐風藻』の記述は、何の問題もなく受け入れることができる。天武天皇の次に長子の高市天皇が即位するから、天武天皇の皇后の「持統」は「皇太后」だし、高市天皇薨去した後に誰が「継嗣」となるか、「王・公・卿・士を禁中に入れて…謀る」ことが紛糾するだろう。

 

 天武天皇が686年に死去した後、高市天皇が即位したとすると、686年から696年7月までが在位期間である。すると、「朱鳥」年号(686年~694年)はまさに、高市天皇の年号であり、それから2年間続く年号も高市天皇の年号であることになる。

 

 「朱鳥」年号は天武天皇の年号ではなく、持統天皇の年号でもなく、高市天皇の年号であった。そうすると、天武天皇の死後、称制して690年に持統天皇が即位したという『日本書紀』の記述は、史実ではないということになる。

 

 天武天皇は686年7月に高市皇子に譲位し、高市天皇の年号「朱鳥」に改元し、2ヵ月後に崩御している。天武天皇の長子であり、壬申の乱で大活躍した高市皇子天皇位を引き継ぐことは、最も考えやすいことである。

 

 それに対して、『日本書紀』は、高市天皇の即位を隠し、持統天皇の称制や即位を作りあげ、更に「朱鳥」の前の年号も隠していると言える。「日本の歴史学」はこの曲げられた歴史を史実としているのではないだろうか。

 

   (※2) 『懐風藻』(かいふうそう):奈良時代漢詩集1巻。淡海三船の撰とも言うが未詳とされている。天平勝宝3年(751年)成立。近江朝以後、約80間、64人の漢詩120編を年代順に集めた日本最古の漢詩集である。最初の五人にのみ伝記がつけられている。ここで取りあげたのは、五番目に記された正四位上式部卿葛野王の伝記の部分である。藤原不比等の詩が五首、長屋王の詩が三首載せられている。

        

<第3章 藤原京の造営>

 天武天皇藤原京を造営したことは、『万葉集』の壬申の乱後の歌から確認することができる。

万葉集』巻十九 壬申の乱の平定しぬる以後の歌二首

 

皇(おおきみ)は 神にし座(ませ)ば 赤駒の 腹ばう田井を 京師(みやこ)と

なしつ                            (4260番)

大王(おおきみ)は 神にし座(ませ)ば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)

となしつ                           (4261番)

 

 天武天皇は神だから湿地帯を都(京師、皇都)にしたと称えている。藤原京は、飛鳥川の川下にあり、湿地帯である。また、藤原京の発掘調査で、天武天皇の時代の木簡が発掘されており、天武天皇藤原京を造営した証拠ともなっている。

 

 『日本書紀』の藤原京の造営から遷都までの記述を見てみよう。

(持統)4年(690年)正月、皇后、天皇位に即く。

(持統)4年(690年)10月、高市皇子、藤原の宮地を観る。公卿・百寮が従う。

(持統)6年(692年)5月、浄広肆難波王等を遣わして藤原の宮地を鎮め祭る。

(持統)6年(692年)6月、天皇、藤原の宮地を観る。

(持統)7年(693年)8月、藤原の宮地に幸す。

(持統)8年(694年)正月、藤原宮に幸す。

(持統)8年(694年)12月、藤原宮地に遷り居す。

 

 持統天皇が690年天皇位に就き、692年6月に「藤原の宮地を観」、694年正月、「藤原宮に幸」し、694年12月、藤原宮に遷都した、と記す。持統天皇が、藤原京を造り、遷都しているというのが、『日本書紀』の記述である。

 

 ところが、前章で見たように、686年から696年は高市天皇が在位していた。すると、この『日本書紀』に書かれていることはすべて、高市天皇の事績であることが分かる。692年6月に「藤原の宮地を観」、694年正月「藤原宮に幸」し、694年12月、藤原宮に遷都したのは、すべて高市天皇である。

 

 このことは、『万葉集』中、最長にして最大といわれる柿本人麻呂による高市皇子の殯宮挽歌からも確認することができる。

 

 高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首

・・・

瑞穂(みずほ)の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わご大王の天の下 申し給えば 萬代(よろずよ)に 然しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄える時に わご大王 皇子の御門を 神宮に・・・

城上の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わご大王の 萬代と 思ぼしめして 作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放(さ)け見つつ 玉襷(たまたすき) かけて偲ばむ 恐(かしこ)かれども                       『万葉集』巻二「199番」

 

 柿本人麻呂高市皇子を「わご大王」と3回も詠っている。題詞では「高市皇子尊」であり、高市皇子となっているが、歌の中では「大王」であり、「大王」は天皇であって、「高市天皇」といえる。

 

 「わご大王の 萬代と 思ぼしめして 作らしし 香具山の宮」とは、高市天皇が万代まで続くようにお造りになった香具山の宮という意味であり、香具山の宮は藤原京のことである。

 

 歌の題詞には、後世の人が『日本書紀』に合わせて、「高市天皇」を「高市皇子尊」としているのだと思われるが、柿本人麻呂の歌から、高市天皇藤原京を造っていることを確認できる。

 

 柿本人麻呂の歌をもう少し見てみよう。『万葉集』巻一「36番」に柿本人麻呂天皇の吉野行幸随行した時の歌がある。

 

 やすみしし わご大君の 聞(こし)し食(め)す 天の下に 国はしも 多(さわ)にあれど 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺には 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(きほ)ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず 水激(たぎ)つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも

 

 反歌

山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも   『万葉集』巻一「39番」

(山や川の神までも相寄ってお仕えする、その神であるがままに天皇は激流の中に船出なさることよ。)

 

 右、日本紀に曰く、3年己丑の正月、天皇吉野の宮に幸す。8月吉野の宮に幸す。4年庚寅2月、吉野の宮に幸す。5月吉野の宮に幸す。5年辛卯正月、吉野の宮に幸す。4月吉野の宮に幸すといへれば、未だ詳らかに何月の従駕に作る歌なるかを知れずといへり。

 

 従来は持統天皇の吉野行幸柿本人麻呂随行した時の歌であると言われていた。「3年己丑」は689年、「4年庚寅」は690年、「5年辛卯」は691年であり、高市天皇の時代である。これは明らかに、高市天皇の吉野行幸柿本人麻呂随行した時の歌である。

 

 「3年己丑」、「4年庚寅」、「5年辛卯」という表現は、『日本書紀』の記述に合わせて「持統元年=687年(天武天皇が死去した翌年)」として、持統天皇になってからの年を表わして「3年」、「4年」、「5年」としている。しかし、持統天皇天武天皇の後直ぐに天皇にならずに、称制したとしているのでこの年数は、『日本書紀』の記述とも異なったものとなってしまっている。

 

 前に確認したように、天武天皇藤原京を造っている。高市天皇藤原京を造っている。それでは、どうして高市天皇が再度藤原京を造っているのだろうか。この章の最後に考察してみよう。

      

            大内陵(天武陵 野口王墓古墳)


日本書紀』(持統)元年(687年)10月、皇太子、公卿・百寮人等併せて諸国司・国造及び百姓男女を率いて。始めて大内陵を築く。

日本書紀』(持統)2年(688年)11月、畢畢(おわり)て大内陵に葬す。

 

 天武天皇の後皇位を引き継いでいるのは、高市天皇である。上の『日本書紀』の「皇太子」は高市天皇である。高市天皇は、687年10月、父の天武天皇を埋葬するために、「大内陵」を築く。そして、688年11月に殯宮で最後の慟哭が行われて、天武天皇は大内陵に埋葬される。死去したのは、686年9月だから、天武天皇の殯(もがり)は2年間も行われていた。如何に偉大な天皇であったかが分かる。

 

 図1 藤原京と大内陵 を見てみよう。天武天皇の大内陵(図1では、天武・持統陵と記載)は藤原京の朝堂院の正面からの中軸線上に見事にのっている。このようなことは偶然ではあり得ない。

        

         (図をクリックすると拡大されます)

 687年10月に「始めて大内陵を築く」とある。その後、690年10月「高市皇子、藤原の宮地を観る」とあった。大内陵が造られた後に藤原京は計画され、造成されている。藤原京の中心線上に大内陵が来るように藤原京は新しく造られたのである。

 

 高市天皇が大内陵を造った時、大内陵は天武天皇が造った藤原京の中軸線上に乗っていなかった。高市天皇は、それを知って考えた。天武天皇は天下を統一すると、「律令」を制定し、「国史」を編纂し、「戸籍」を作り、唐に見習った律令国家を建設した。この偉大な天武天皇を万代まで国民が崇め奉るようにしなければならない。そのために、藤原京の朝堂院の正面からの中軸線上に大内陵が来るように、新たに藤原京を造り直した。もちろん、天武天皇の造った藤原京を破壊するのには抵抗があっただろう。しかし、天武天皇を未来永劫に称えるため、新たに藤原京を造り直した。

 

 前回の第12回講演会で、薬師寺の薬師三尊像が何回も安置される場所を変遷したことを見てきた。その時、藤原京が2回造られていることを確認した。天武天皇によって造られた藤原京高市天皇によって造られた藤原京である。どうして、2回も藤原京が造られたかの解明は、佃説日本の古代史によって初めて解明されている。

           [ここで、10分間の休憩に入った。]

          

<第4章 「持統天皇」と「高市天皇」の「年号」>

 第8回講演会で「倭王武」について考察したとき、江戸後期の学者鶴峯戊申の書いた『襲国偽僣考』と15世紀の朝鮮国の重要な史書『海東諸国紀』に記された年号を参考にした。今回も、年号の考察のためこれらの本を見てみよう。(第8回講演会レポートにこの本の説明があります)

 

 『襲国偽僣考』には、持統天皇9年乙未(695年)が大和元年であり、持統帝の時大和であると書かれている。『海東諸国紀』には、持統天皇元年丁亥(687年)であり、持統天皇9年乙未(695年)に大和に改元、(大和)3年丁酉(697年)8月文武に禅位とある。ともに、「大和」年号が695年に始まるとしている。

 

 今まで見てきたように、「朱鳥」年号は686年から694年であり、高市天皇の年号であった。「大和」年号は695年から始まるから、「大和」は「朱鳥」に続いて高市天皇の年号であることになる。高市天皇崩御したのは696年であるので、「大和」年号は695年から696年と考えられる。

 

 整理すれば、高市天皇の年号は「朱鳥」(686年~694年)と「大和」(695年~696年)である。694年12月に高市天皇藤原京に遷都している。これを記念して695年正月に「朱鳥」から「大和」に改元しているのではないだろうか。

 

 『本朝後胤紹運録』(※3)は、大化3年丁酉(697年)に持統天皇は(文武天皇)に譲位したと記している。『日本書紀』にも、(持統)11年(697年)8月天皇、策(はかりごと)を禁中に定めて、皇太子に天皇位を禅(ゆず)る、とある。『海東諸国紀』にも、(大和)3年丁酉(697年)8月、文武に禅位、とある。

 

 697年8月に、持統天皇文武天皇に譲位していることは確かなことだろう。

 

 『本朝後胤紹運録』は、譲位した丁酉(697年) を大化3年とし、『海東諸国紀』では、大和3年としている。年号「大化」と「大和」は重なっている。『本朝後胤紹運録』が大化3年としているのは、『日本書紀』が「高市天皇」を認めないので「大和」はあり得ない事になり、『日本書紀』の影響を受けているからと考えられる。

 

 『本朝後胤紹運録』は持統天皇の事績を表すのに年号「大化」を使っている。「大化」はもちろん高市天皇の年号ではなく、持統天皇の年号である。すると、「大化」年号は、高市天皇が死去した696年8月から文武天皇に譲位した697年8月の間ということになる。

 

 以上、年号を整理すれば

「朱鳥」(686年~694年)    高市天皇

「大和」(695年~696年7月)    高市天皇

「大化」(696年8月~697年8月)   持統天皇

 

 天武天皇が死去し高市天皇が即位して「朱鳥」となり、高市天皇のとき藤原京に遷都して「大和」となる。そして、高市天皇が死去し持統天皇が即位して「大化」となった。持統天皇の在位は696年8月~697年8月の1年だけである。

 

 「日本の歴史学」では「天武・持統朝」というが、「天武・高市朝」である。

 

   (※3)『本朝後胤紹運録』(ほんちょうこういんじょううんろく):神代以来の皇室系図である。初め洞院満季が勅命を受けて、応永23年(1416年)ころ編纂したもので、称光天皇ころまでを収録するものであったが、次第に書き継がれた。神代の国常立尊以来歴代の皇胤の系譜を掲げ、簡単な伝記を付している。現在最も信頼しうる皇室系図とされる。

 

第2部 長屋親王

<第1章 「長屋王」の記録(『続日本紀』)>

 「長屋王」については、『万葉集』に短歌五首、『懐風藻』に漢詩三首が載せられている。『続日本紀』で、「長屋王」は高市皇子の子であり、天武天皇の孫であるとしている。天武王権のプリンスであり、図2 長屋王家の系図で見るように、天智王権の血も継いでいる。

     

               (図2 長屋王家の系図

 初期の律令国家での有名な政治家「長屋王」について、『続日本紀』の記録をたどってみよう。

     

 文武天皇のとき(703年)、天武天皇を父方の血縁集団とする人々などの子で、21歳以上の者に官位が与えられるようになる。長屋王は(文武)慶雲元年(704年)正月、正四位上を授かっている。したがって、長屋王はこのとき21歳であったと言われている。

 

 その後の経緯を『続日本紀』から、主なものだけ書き出してみる。

(元明)和銅2年(709年)11月、従三位長屋王を以て宮内卿と為す。

(元明)和銅3年(710年)3月、始めて平城に遷都す。4月、従三位長屋王を以式部卿と為す。

(元正)養老2年(718年)3月、正三位長屋王・安倍朝臣宿奈麻呂を並びに大納言と為す。

(元正)養老5年(721年)正月、正三位長屋王に従二位を授く。…大納言従二位長屋王を以て右大臣と為す。

(聖武)神亀元年(724年)2月、一品舎人親王に封五百戸を益す。二品新田部親王に一品を授く。…また右大臣正二位長屋王を以て左大臣と為す。

 

 無位から正四位上に叙位され、その後も急速に昇位して左大臣正二位という最高の地位まで昇っている。異例の早さである。

 

 ところが、この5年後の729年、長屋王は「国家を傾けようとしている」という密告を受け、自害に追い込まれる。「長屋王の変」である。

 

 (聖武天平元年(729年)2月10日、左京の人従七位漆部(ぬりべ)造君足、無位中臣宮処連東人等が「左大臣正二位長屋王、私に左道を学び、国家を傾けんと欲す。」と密告する。その夜、使いを遣わして固く三関を守り、式部卿従三位藤原朝臣宇合らを遣わして六衛兵を将いて長屋王宅を囲む。

 

 11日、一品舎人親王新田部親王中納言正三位藤原朝臣武智麻呂らを遣わして長屋王の宅に就(つ)いてその罪を窮問(きゅうもん)す。

 

 12日、王を自ら尽(し)なしむ。その二品吉備内親王従四位下膳夫王(かしわでのおう)、無位桑田王・葛木王・鉤取(かぎとり)王等、同じく亦自ら経(くびくく)る。

 

 13日、使いを遣わして長屋王・吉備内親王の屍を生駒山に葬る。よりて勅して曰く、「吉備内親王は罪無し。宜しく例に准じて送り葬るべし。唯、鼓吹は停めよ。その家令・帳内等は並びに放免従えよ。長屋王は犯に依り誅(つみ)に伏す。罪人に準ずると雖もその葬は醜くすることなかれ。」という。

 

 『続日本紀』の記事から主なものを記してみた。729年2月10日に密告があり、11日には「窮問」を受けて、12日に自害を命じられている。あまりにも早い処分である。正妻である「吉備内親王」、子供の「従四位下膳夫王(かしわでのおう)、無位桑田王・葛木王・鉤取(かぎとり)王」も自害する。しかし、「吉備内親王」には罪はないという。また、「その家令・帳内等は並びに放免」とあるように、家臣らは翌日には放免されている。

 

 17日、外従五位市下毛野朝臣宿奈麻呂等七人は長屋王と通うに座して並びに流される処となる。自余の九十人は悉く原免(ゆるし)に従う。

 18日、…勅を宣して曰く、「長屋王の昆弟・姉妹・子孫、及び妾等の縁座に合う者は男女を問わず咸(ことごと)く皆赦除(ゆる)せ。」という。

 

 流罪にあったのは「外従五位市下毛野朝臣宿奈麻呂等七人」だけで、他の「九十人」は放免である。また、自害した吉備内親王と子供たちを除いて、長屋王の兄弟・姉妹・子孫・妾等の縁座に合うものはすべて放免されている。

 

 不思議なことに、ほとんどが無罪として放免されており、大した罪ではないと思われるにもかかわらず、密告者は異例の昇進をしている。

 

 21日、又、告人漆部(ぬりべ)造君足、中臣宮処連東人に並びに従五位下を授け、封三十戸、田十町を賜う。(『続日本紀』)

 

 従七位の「漆部(ぬりべ)造君足」はいきなり「外従五位下」に、また無位であった「中臣宮処連東人」も「外従五位下」を授けられ、「封三十戸、田十町を賜」る。「外位制」は、庶民や蝦夷・隼人等を対象にする制度であり、「外従五位」は令制においては到達困難な上限の位とされている。このような最高位が、密告者にいきなり与えられている。

 

 この事件の後日談が『続日本紀天平10年(738年)7月10日の記事にある。長屋王を密告した「中臣宮処連東人」と長屋王に仕えていた「大伴宿禰子虫」が囲碁を打っていた。話が長屋王のことに及ぶと「大伴宿禰子虫」は怒り罵り、「中臣宮処連東人」を斫(き)り殺したという。「中臣宮処連東人」は長屋王を誣告(無実の人をおとしいれようとして告訴)した人である、と述べている。

 

 これらのことから、「長屋王の変」は陰謀であったと考えられる。また、長屋王宅を囲む前に「固く三関を守り」とある。三関は「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不破の関」「越前の愛発の関」であり、長屋王の支持者が全国にいることを示している。

 

 『日本霊異記』は弘仁14年(823年)に書かれた日本最古の説話集である。これに729年2月8日の大法会のことが載っている。

 

 聖武天皇は、天平元年(729年)2月8日、左京の元興寺において大法会を備(もう)けて三寶を供養した。太政大臣正二位長屋親王に勅して衆僧に供する司に任じた。

 

 729年2月8日は「長屋王の変」の2日前である。「長屋親王」に、衆僧に飯を供する仕事をさせている。続いて、『日本霊異記』は次のように記す。

 

 一人の沙彌の僧侶が勝手に食物を盛るところに来て、鉢を棒げ、飯を受けた。(長屋)親王はこれを見て、象牙の笏で沙彌の頭を打つ。頭は傷つき血が流れる。沙彌は頭をなで血をふき、恨んで泣いてたちまち見えなくなった。…その時法会に集まっていた僧や俗人たちはひそひそとささやいて、「悪いこと、よくないことだ」といった。

 

 『日本霊異記』は「長屋王」のことを「長屋親王」と書いていることに注意したい。正二位左大臣の「長屋親王」に対して、聖武天皇は「僧侶に飯を盛る司」に任命した。「長屋親王」は怒って「象牙の笏で沙彌の頭を打った」という。若い聖武天皇に対して年配でもある「長屋親王」は我慢できなかったのではないか。

 

 「長屋親王」が怒って無謀な行動をするように仕掛けたのである。「長屋親王」に「よくない悪人」というイメージをもたせるために、「僧侶に飯を盛る司」に任じたのである。この二日後に、聖武天皇は二名に「誣告」させて、「長屋親王」を自害させている。

 「長屋王の変」は聖武天皇の陰謀と考えられる。

         

          (長屋王邸の発掘調査写真『歴史誕生1』より)

<第2章 「長屋親王」>

 1986年から平城京長屋王邸跡の発掘調査が行われて3万5千点以上の大量の木簡が出土した。これを「長屋王家木簡」と呼んでいる。『日本霊異記』では、「長屋王」ではなく、「長屋親王」と書かれていたが、「長屋王家木簡」の中から、次のように「長屋親王」と書かれた木簡(最初の木簡の写真)が出てきた。

 

 長屋親王宮鮑大贄十編                      「長屋王家木簡」

 

 大宝令の内容を知ることができる『令義解』(りょうのぎげ)に、「天皇の兄弟・皇子を皆親王と為す。女帝の子も亦同じ。以外は並びに諸王と為す。」と書かれている。天皇の兄弟・皇子は「親王」であり、それ以外は「王」と呼ばれる。

 

 文書は書き直したり、うつし間違える可能性がある。しかし、木簡は、この時代に確かにこのように書かれていたことを示している。長屋王が「長屋親王」であるとすれば、長屋王天皇の子供か、兄弟ということであり、兄弟に天皇になった者はいないから、父が天皇ということになる。したがって、父の高市皇子天皇であったことを示す。第1部で、年号その他のことから、「高市天皇」が実現されていたのではないかということを見てきた。この木簡は、その物的な証拠が新たに発見されたことを意味する。

 

 この木簡の出土により、学会は驚き、戸惑った。これについて、さまざまな人たちが言及している。

 

 これは長屋親王の宮に献上品として鮑(あわび)を届けたことを示す荷札です。この中の三つの言葉がわれわれを驚かせました。「親王」「宮」「大贄」です。

 長屋王天武天皇の孫で普通の貴族なのですが、天皇皇位継承権を持つのは天皇の兄弟・子供たちで、令の決まりでは、それらに与えられる称号が「親王」なのです。ところが長屋王は孫ですからたんなる「王」のはずです。その常識からはずれて、ここでは「長屋親王」となっている。

 「宮」というのも天皇の住む屋敷のことで、長屋王の場合は「宅」であるはずなのにそうではない。

 また、「大贄」というのは神または天皇に捧げるものです。ふつうの「王」である長屋王に捧げる鮑を「大贄」と称するはずはないのです。これらは、歴史を書きかえるほどの意味をもつわけです。(『歴史誕生 1』田辺征夫氏)

 

 しかし「日本の歴史学会」は、「長屋親王」という木簡が出土しても「長屋親王」を認めていない。『木簡が語る古代史』(上)の中で、鬼頭清明氏は次のように述べている。

 

 「…長屋王親王と呼んではいけないというのが法律の建前です。ところが、親王と書いてあるので、これは法律違反です。…長屋王の屋敷では長屋王親王扱いしていたことが内々行われていたのではないか。」長屋王の屋敷内だけで内々に「長屋親王」と呼んでいたのではないか、と述べる。

 

 同じ本の中で、東野治之氏は次のように述べる。

「…木簡には「親王」と書かれています。これを文字通り受け取って、長屋王は当時親王の扱いをされていたのだと言う人も最初のころにはいたわけです。そうではないにしても、親王と同等の権勢を持っていたのだという受け取り方もできますね。…」

 「…「親王」や「皇子」は天皇の兄弟、あるいは子供というはっきり限定された意味があるわけですね。そういう漢語が日本に入ってきた場合に、日本の方でどう対応したのか。日本の在来の言葉では、天皇の子供とか天皇の兄弟だけをあらわす言葉はなく、「みこ」という言葉しかないわけです。ですから、それらの漢語を大和言葉を読む場合には「みこ」としか読めない。そういう読み方を対応させたのです。いったん、そういう読み方が成立してしまいますと、どの文字を使ってもいいということのなってしまいます。」

 「長屋王の場合も「みこ」と呼ばれている以上、法律とは区別されていても、天皇の子供である「みこ」とどれだけはっきり一般の意識で区別されていたろうかということがあるだろうと思うのです。ほとんど一緒のように考えられている可能性が強い。まして父親の血筋というものが非常に高いですから…。長屋王の父はただの天武天皇の子ではなくて、太政大臣にまでなった高市皇子です。その息子であるということからいいますと、天皇の息子と変わらないような受け取り方をされていて、「みこ」という名称で、何ら違和感がないという状況だったのではないかと思います。」

 

 『続日本紀神亀元年(724年)3月に、次の記事がある。その少し前の2月4日、聖武天皇は母の藤原宮子を「大夫人」と称しなさいという勅を出している。それに対して、長屋王が異議を唱えた。令の規定に照らしてみると、天皇の母であれば「皇太夫人」というのが本当だとし、律令の規定通りにすると勅命に背くことになるので、どうしたらよいですか、と述べたという。天皇は、勅を回収させて別の勅を下した。

 

 当時は律令国家を新たにつくっていく時期であり、「令」の規定は厳格に守られている。まして、長屋王は上の記事のように「令」を厳しく守っている。「王」と「親王」の違いは「大夫人」と「皇太夫人」の呼び名の違いよりもずっと厳格に区別されるはずである。皇位継承問題が発生するからである。長屋王の敷地内だけであっても「王」を「親王」と言わせないであろう。重大な法律違反になるからである。

 

その意味でも、鬼頭氏や東野氏のように考えることはできないのではないか。

 

 一方、長屋王が「親王」であることは、遺跡からもいえる。

 

      

 平城京条坊制をとっており、北から南へ一条から九条まである。東西は中央を通る朱雀大路を中心にして左右にそれぞれ一坊から四坊まである。左京はさらに三坊分だけ張り出している。

 

 長屋王邸は平城京のすぐ東南にあり、その位置は左京三条二坊一・二・七・八坪であるという。「条」や「坊」の境にはそれぞれ大路があり、条坊大路で囲まれた区画を「坊」という。「坊」は十六等分され、その一つを「坪」といい、「坪」には一から十六までの番号がつけられる。

 

 長屋王邸は番号一・二・七・八の4「坪」からなり、4分の一「坊」に当たり、一辺が約250mの正方形の広い邸宅である。

 

 屋敷の広さは身分によって決められるが、平城京の場合は規定が残っていない。しかし、その前の藤原京の規定は『日本書紀』にある。これによると、右大臣には4町、従四位以上には2町が与えられる。この場合の「町」は「坪」と同じである。

 

 平城京への遷都は和銅3年(710年)であり、このときの長屋王は『続日本紀』によると従三位である。従三位に与えられる宅地は2町(坪)である。ところが、4坪、つまり2倍の広さが与えられている。平城京の場合は「律令の時代」であり、藤原京の時よりも法律は厳格に定められている。これはどうしたことだろうか?

 

 長屋王が右大臣や左大臣になってから敷地は広くなったと考える人がいるかもしれない。しかし、発掘調査により、長屋王の敷地内には敷地を「坪」に分けるような道は造られていないという。平城京を設計する時から長屋王には4町(4分の一坊)の広さが与えられている。

 

 右大臣になれるのは「親王二品」、「正二位、従二位」である。屋敷の広さからみて、やはり、長屋王平城京遷都の時すでに「一品~二品」の「長屋親王」なのではないか。

 

 律令には「家令職員令」という項目があり、貴族家においてさまざまな家務(けむ)を遂行する官人が配置されている。一品~4品の親王内親王および一位から三位の貴族家に置かれる。

 

 『長屋王の謎』の中で、森田悌氏は木簡から分かる官人の組合せから長屋王邸は親王内親王の一品・二品であるということが分かるという。また、他の官人の組合せから長屋王邸には二品と三品・四品の二組みが居ることがわかるという。森田氏はこの邸宅は長屋王の邸宅ではなく、氷高内親王を本主とする「氷高内親王邸」であり、その姉妹である吉備内親王は同居しており、夫である長屋王は通ってきており、長屋王の邸宅は佐保にある佐保邸であると述べている。

 

 しかし、木簡には確かに「長屋親王」と書かれている。他にも「長屋王子宮」や「長屋皇」などと書かれた木簡も出土しており、二品は長屋親王であり、「長屋王邸」は「長屋親王」の「宮」であると考えることが妥当ではないか。

 

 さらに、舎人(とねり)には親王内親王に仕える「帳内」と、王や貴族に仕える「資人」がいるという。「長屋王家木簡」には「帳内」は出土しているが、「資人」は1点も出土していないという。長屋王邸の主はすべて「親王」か「内親王」である。やはり、「長屋親王」と考えられる。

 

 「長屋親王」であり、その父高市皇子は、第1部で見たと同じように「高市天皇」である。

 

<第3章 「長屋親王」は「天皇」と同格>

 今まで、「長屋王家木簡」について考察してきた。その前に『日本霊異記』に明確に「長屋親王」と書かれていることを見た。このことはその他の文献でも確認することができる。

 

 和銅5年(712年)長屋王は歴代の天皇の冥福を祈って、大般若波羅密多経六百巻の写経をさせている。その写経の跋文(ばつぶん)の中では、長屋王のことを「長屋殿下」と書いてある。『歴史誕生1』の中で、志田淳一氏は、令の中に「庶民が三皇(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子にたいして、それぞれ上啓するときには殿下と称したという規定がある」と指摘している。「長屋殿下」と書かれているのは、長屋王が「皇太子」であることを示し、やはり「長屋親王」といえる。

 

 「長屋王家木簡」の中にはいろいろなものがあるが、興味を引くものに次の氷室に関するものがある。

 

都祁氷室二処深各一丈(廻各六丈) 取置氷(一室三寸、一室二寸半) 令被草千束(一室各五百束) 苅二十人(一人各五十束)

(裏)和銅五年二月一日火三田次               「長屋王家木簡」

 

 長屋王奈良県山辺郡都祁に氷室を二つも持っている。令制下では宮内省被官の主水司が氷室を管理しているという。『木簡が語る古代史』(上)の中で、鬼頭清明氏は氷室について次のように述べている。

 

 氷室は天皇が管理するもので、普通の貴族は使えなかったのです。…律令という奈良時代の法律の規定でも、やはり氷室は天皇家が管理することになっています。特に飲んだり食べたりするということまでは書いてありません。むしろ、法律に書いてあるのは、お葬式のときのことですね。…夏であれば必ず腐りますので、遺体を守るために氷を使う。そのために、天皇天皇の名前でその氷を下賜する。

 

 律令には氷室は天皇が管理するとあり、普通の貴族は氷室を持つことができないという。氷は遺体が腐るのを防ぐために天皇から下楊されるものであるという。

 

 氷室を持つのは天皇のみである。その氷室を「長屋親王」は二つも持っている。やはり、「長屋親王」は「天皇」と同格であるといえる。

 

 この後、講演会の参加者の方から「なぜ、聖武天皇は長屋親王を殺したのか。」という質問がされた。

 

 講演の中で触れたように、長屋王の指摘により聖武天皇は自らの勅を取り消している。聖武天皇にとって、長屋親王は邪魔で仕方がない存在だったと思われる。また、長屋親王は自分が天皇になるはずだと思っていたと考えられる。このようなことから、「長屋王の変」が生まれたのではないか、と佃先生は述べられた。

 

 次回第14回講演会は「天智王権の復活」というテーマで、2024年5月12日(日)午後1時~4時 埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                          (以上、HP作成委員会記) 

    埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

    日本古代史の復元 -佃收著作集-

第14回古代史講演会のご案内

<日時>  2024年(令和6年)5月12日(日)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

     (東武アーバンパークライン東武野田線) 大宮公園駅下車)

<テーマ> 「天智王権」の復活

<概要>

 前回の講演会では「朱鳥」などの年号問題、『懐風藻』の記述、「藤原京」の造り直し、更に『万葉集』の検証などから「高市皇子天皇」であったこと、「長屋王」も長屋王邸遺跡、長屋王家木簡という物的証拠や文献『日本霊異紀』から「親王」であったこと、更に729年に起きた政変「長屋王の変」は「辛巳事件」などをきっかけとする「聖武天皇」の陰謀によるものであったことなどをお話し頂いた。

 今回はもう一方の「持統天皇から聖武天皇」についてお話し頂く。持統は天武天皇に敵意を抱き、父天智天皇の方に思いを寄せており、天智天皇の名誉回復は「天智王権」の復活にあった。696年に高市天皇崩御すると、皇太后であった持統は長屋親王に対して天皇と同格にすることを条件に強引に即位する。そして翌年には孫の「軽皇子文武天皇)」に譲位し、自分は「太上天皇」として文武天皇に「天智天皇」の名誉回復を指示している。持統は「天皇位」を「天武王権」から「天智王権」に移すために即位したのである。

 持統天皇は即位して改元する時に「皇極天皇」の「大化」年号を建てているが、佃説は「天智王権」が皇極天皇から続いていることを示したかったのであろうという。また「天智王権」が永劫に続くために考案された法「不改常典」は元明天皇の即位の宣命に始まるが、その発案者ともいわれ、長屋親王の即位を阻止する。「天武王権」は持統天皇の策略の前に屈した。

 『日本書紀』は673年2月に天武天皇が即位すると持統が皇后になると記す。しかし天武が即位するのは661年で、皇后は683年の薨去まで「鏡王の娘額田姫王」である。また「薬師寺」は「持統皇后」の病気平癒のために680年に創建されたもの言われるが、皇后は「額田姫王」で、「薬師寺」は「額田姫王」のために建立されたものという。更に定説では「野口王墓古墳(大内陵)」は天武・持統天皇の合葬陵と言われているが、佃説では天武天皇と合葬されているのは皇后「額田姫王」とする。

 大変興味深い説である。なお『日本書紀』は「巻三十 高市天皇紀」を「巻三十 持統天皇紀」とし歴史を歪めている。
 持統天皇に続く文武、元明元正天皇についてはどんなお話となるのだろうか。二人の女帝のうち特に元明天皇の治世に関心が向く。聖武天皇には遷都を繰り返すなどの謎の行動がみられるが、長屋王の祟りを恐れた不安な心の表れと取れなくもないがどうであろうか。

<講師> 佃收先生

<参加費> 500円 、本代(早わかり「日本通史」)1,000円

<申込>  A:下記junosaitamaホームページの申し込みフォーム
      B:ハガキによる場合:会員番号・氏名・住所・電話番号・ 

      「古代文化を考える会」の講演会参加を明記し、

      「〒338-0811 さいたま市桜区白鍬776-5 斉藤 亨」宛

       お申し込みください。【締切期日:5月5日】

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

第13回古代史講演会のご案内

<日時>  2024年(令和6年)3月10日(日) 午後1時~4時

<場所>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

     (東武アーバンパークライン東武野田線) 大宮公園駅下車)

<テーマ> 高市天皇と長屋親王

<概要>

 天武天皇の長男は、壬申の乱で大活躍したが、『日本書紀』では「高市皇子」と呼んでいて、天皇位に就いていないと述べている。天皇の兄弟や皇子は「親王」と呼ばれるが、『続日本紀』は『日本書紀』の記述に合わせて、「高市皇子」の長男を「長屋親王」ではなく、「長屋王」としている。『日本書紀』は「高市皇子」の死を「(持統)十年(696年)七月、後皇子尊薨る。」と記す。

 

 ところが『懐風藻』には「高市皇子薨る後、皇太后(持統)は王・公・卿・士を禁中に引き入れて、継嗣を立てることを謀る。」と書かれている。「高市皇子」が死去したので次の天皇を立てることを議論している。太政大臣・皇子が死んだときは「日嗣を立てる」とは言わないであろう。「高市皇子」は「天皇」だったのではないだろうか。

 

 また『万葉集』では、この「高市皇子」に対して、御名部皇女(妃)が「巻一77番」で「大君」、「巻二199番」で人麻呂が「大王」、と詠っている。「高市皇子」が「天皇」であった証拠ではないか。

 

 昭和61年から平成元年にかけて、奈良市二条大路南のデパート建設予定地(平城宮の東南角に隣接)の発掘調査が行われ、出土した3万5千点以上の木簡の中に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字が入った木簡が発見された。明確に「長屋親王」と記されており、「長屋王」の父「高市皇子」が「天皇」であった物的証拠である。

 

その「長屋王」は729年2月に誣告を受けて自害する。(「長屋王の変」)

 

 聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原不比等の子の藤原四兄弟長屋王家(長屋王及び吉備内親王所生の諸王)を抹殺した政変で、一般的には藤原氏による、皇親の大官である長屋王の排斥事件とされている。

 

 しかし優れた血筋と力を持つ長屋王家を自身の皇位と子孫の皇位継承への脅威と見做す聖武天皇が引き起こした事件とする見方がある。「変」では天皇の警護に当たる六衛府が動員されている。また最近では長屋親王の排除より、吉備内親王と息子の膳夫王を滅ぼすことに主眼があったともいわれている。

 

 この事件の発端は、『続日本紀』の記述によると従七位下漆部君足中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学び国家を傾けんと欲す」と密告したことであった。事件後の738年、「語、長屋王に及べば墳して罵り」と、長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人大伴子虫が斬殺するという事件が起こった。しかし、子虫が厳罰を受けた形跡はない。『続日本紀』も「東人は長屋王のことを誣告せし人なり」と記している。

 日本の基礎を作り、絶大な権力を持っていた「天武王権」の滅亡に至る経緯を、今回と次回でお話しいただく予定である。

<講師> 佃收先生

<参加費> 500円 、本代(早わかり「日本通史」)1,000円

<申込>  A:下記junosaitamaホームページの申し込みフォーム
      B:ハガキによる場合:会員番号・氏名・住所・電話番号・ 

      「古代文化を考える会」の講演会参加を明記し、

      「〒338-0811 さいたま市桜区白鍬776-5 斉藤 亨」宛

       お申し込みください。【締切期日:3月3日】

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

第12回古代史講演会レポート

<テーマ> 天武王権とその業績

<日時>  2023年(令和5年)11月18日(土)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

<最初に>

 「友の会」の斉藤亨さんが、今回の講演の概要を述べられた。天武王権が日本の新しい制度を始めたこと、天武天皇が多くの大寺院を移築し、藤原京の造成をしたことなどである。

 斉藤さんは九州各地を歩かれ、多々良川沿いや鳥栖市周辺で、今では瓦と礎石しか残っていない廃寺を多く見つけられたことを話された。また、現存する国内最古の戸籍と言われる「川邊里」戸籍(筑前国嶋郡)についても話をされた。

 

 次回は、3月10日(日)午後1時からこの会場で予定され、テーマは「高市天皇と長屋親王であることが伝えられた。今回も、21ページの資料が受付で配布された。

 

 講演の冒頭、佃先生は「天武天皇は大変なことをやっている。そのことはその都度話してきたが、今回はその業績を整理してまとめて話してみたい。」と述べられ、

第1部 天武王権と各制度、第2部 「日本国」、第3部 天武王権と仏教、第4部 藤原京、と4部にわたる講演を開始された。

 

第1部 天武王権と各制度

<第1章 遣隋使・遣唐使

 日本列島から中国王朝への朝貢は、502年「倭王武」による「梁」への朝貢以降、途絶えていた。約百年後の600年(隋開皇20年)、俀国(たいこく)が隋に朝貢したことが、『隋書』俀国伝に書かれている。

 

 第9回古代史講演会レポートでも詳しく見たとおり、この『隋書』俀国伝は、日本の歴史学では、『隋書』倭国と呼ばれていて、大部分の本が「俀(たい)」の字を「倭(わ)」の字に直して出版している。(岩波文庫魏志倭人伝 他三篇』など)原文の表題に「俀国」と書かれ、原文の本文中に8回もでてくる「俀」の字をすべて「倭」の字に直している。『日本書紀』には、俀国(阿毎王権)は全く出てこないから、『日本書紀』の記述に合うように、日本の歴史学は資料の字を書き替えてしまっている。

 

 前に見たように、『隋書』俀国伝の記述を見てみよう。「俀国は百済新羅の東南水陸三千里の大海中にあり、…俀王の姓は阿毎(あま)、字は多利思比弧(たりしひこ)、阿輩雞彌と号す。…王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利となす。」

 

 俀王である「多利思比弧(たりしひこ)」は女帝の推古天皇聖徳太子ではなく、第9回講演会で詳しく述べたように、阿毎王権三代目の十五世物部大人連公である。

 

 607年にも阿毎王権は隋に朝貢する。『隋書』俀国伝に「大業3年(607年)、その王多利思比弧は使いを遣わし朝貢す。使者の曰く、「聞く海西の菩薩のような天子が重ねて仏法を興すと。故、遣わし朝拝して、兼ねて沙門数十人が来たり仏法を学びたい」という。その国書に曰く、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云々」と云う。帝は之を覧て悦ばず。鴻臚卿(そのときの外相)に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼有り。復た以て聞くことなかれ」という。」とある。

 

 「日出る処の天子」からの国書に対して、「日没する処の天子」である隋の煬帝が烈火のごとく怒ったという有名な文書である。「日出る処の天子」は聖徳太子ではなく、阿毎王権の多利思比弧である。阿毎王権は、仏教を学ぶために沙門数十人を隋に派遣している。

 

 遣隋使・遣唐使や冠位制度について考えるとき、『隋書』俀国伝は貴重な資料であり、同時に言うまでもなく『日本書紀』は最重要な資料である。古代について記された数少ない貴重な資料をどのように生かしていくかが重要である。『日本書紀』の記述だけが正しいとして、それに合致しない『隋書』俀国伝の表記を勝手に変更することは許されないだろう。両方の貴重な情報を生かす複合的な歴史的視点が必要になる。その点で、佃説「日本の古代史」は、これから見るように、『隋書』俀国伝と『日本書紀』の情報をともに生かした一つの規範と言えるのではないだろうか。

 

 翌年608年、隋の皇帝は文林郎裴清を俀国に遣わす、と『隋書』俀国伝は記している。

 

 裴世清が帰国するとき、学生四人、学問僧四人を隋に派遣したと、『日本書紀』は述べる。学生は、倭漢直福因、奈羅因訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧は、漢人日文南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済である。「漢人」と書かれているから中国からの渡来人であろう。

 

 やがて、中国大陸では618年に隋から唐の時代となる。『日本書紀』舒明4年(632年)8月、唐が高表仁を派遣し、これにしたがって僧旻(日文)などが帰国した、と記されている。同じく、『日本書紀』舒明12年(640年)10月、大唐の学問僧請安、学生高向漢人玄理、が帰国した、と記されている。

 

 日本では、635年、阿毎王権から天武王権に支配権が移る。阿毎王権が派遣した遣隋使・遣唐使である学問僧請安、学生高向漢人玄理は、天武王権に帰国していることを確認できる。

 

<第2章 諸制度の始まり>

 『隋書』俀国伝は600年に俀国が朝貢したという記事のすぐ後に、俀国(阿毎王権)の冠位制度を次のように記している。「内官に十二等有り。一を大徳という。次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員に定数無し。」俀国(阿毎王権)には、徳・仁・義・禮・智・信の大小十二階があることがわかる。

 

 『日本書紀』では、冠位制度が推古紀に出てくる。推古11年(603年)12月、始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智併せて十二階。

 

 「推古11年(603年)に始めて冠位を行う」とあり、十二階の冠位は、下位の順番が少し変わるだけで俀国の冠位とほとんど同じである。隋に朝貢し、日本を支配していたのは俀国だから、『日本書紀』推古紀は、俀国(阿毎王権)の冠位制度のことを書いていることがわかる。このことから日本の冠位制度は、603年に俀国(阿毎王権)が初めて制定している、と考えられる。

 

 西暦635年以降、天武王権が日本を支配している。『日本書紀』は、天武王権を創始した「天武天皇の父」を歴史上に登場させない。したがって、その業績は孝徳天皇の業績として記述している。そのように読み解いていくと、『日本書紀』の記述から、遣隋使・遣唐使を重用して天武王権が国の制度を整えていく様を見ていくことができる。

 

 『日本書紀』孝徳即位前記(645年)、沙門旻(みん)法師高向史玄理を以て国博士と為す。僧旻は阿毎王権に帰国し、高向玄理は天武王権に帰国している。ともに、天武天皇の父によって、645年に国博士に任命されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化元年(645年)8月、故、沙門狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙を以て十師と為す。別に恵妙法師を以て百済寺の寺主と為す。「沙門狛大法師」は高句麗からの僧だろう。恵妙法師は「百済寺の寺主」だから、上宮王権の僧だろう。このように多くの僧を重用している。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、是月、博士高向玄理と釈僧旻に詔して八省・百官を置かしむ。

 

新しい制度を学んできた博士高向玄理と釈僧旻を起用し、中国の制度を見習って、国博士、八省・百官などの国の制度を整えている。

 

<第3章 「天武王権」の冠位制度>

 天武王権は635年に支配権を持ち、649年に九州を統一した。661年天武天皇の父が死去した後、天武天皇が即位する。天武天皇は663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、国を防衛しながら、国を整備していく。この流れの中で、天武王権は官位制度を制定していく。その様子を『日本書紀』から読み解いていこう。

 

その場合、前に見たように、「天武天皇の父」の業績は、舒明紀、皇極紀、孝徳紀の事績として、壬申の乱までの天武天皇の業績は天智紀などの事績として記されていることに注意する必要がある。

 

 『日本書紀』(舒明)9年(637年)、蝦夷征伐のために、大仁上毛野君形名を派遣する。「大仁上毛野君形名」には、「大仁」という阿毎王権の冠位が付いている。

 

 『日本書紀』(皇極)元年(642年)8月、百済から人質として来ている達率長福に「小徳」の位を授ける。

 

 「大仁」も「小徳」も阿毎王権の冠位である。最初、天武天皇の父は阿毎王権の冠位をそのまま引き継いでいる。天武王権は、同じ「倭人(天子)」系列の阿毎王権を支配下に置いて、王権を樹立したからだと考えられる。

 

 次の冠位制度についての『日本書紀』の記述を見よう。(孝徳)大化3年(647年)、是歳、七色の一三階の冠を制す。一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。…四曰、錦冠。大小二階有り。…五曰、青冠。大小二階有り。…六曰、黒冠。大小二階有り。…七曰、建武

 

 「七色の一三階」は「織冠」から始まり、阿毎王権の「大小十二階」(徳・仁・…)の冠位と全くなる。「七色の一三階」は天武王権が制定した最初の「官位」制度である。天武天皇の父は、独自の冠位制度を作っている。

 

 635年阿毎王権が天武王権に支配された後、九州には天武王権と上宮王権が並立していた。前回の講演会で述べたように、649年3月、上宮王権の重臣である蘇我倉山田石川麻呂を天武天皇の父が討って、上宮王権は天武王権の支配下に入り、天武王権は九州を統一する。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、冠の一九階を制す。一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。七曰、大花上。八曰、大花下。九曰、小花上。十曰、小花下。十一曰、大山上。十二曰、大山下。十三曰、小山上。十四曰、小山下。十五曰、大乙上。十六曰、大乙下。十七曰、小乙上。十八曰、小乙下。十九曰、立身。

 

 647年の「七色の一三階」では、「一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。」となっていた。649年の「冠位一九階」では、「一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。」と、初めの六階が全く同じである。同じ王権が制定し、冠位を増やしていることが分かる。

 

 従来は、「七色の一三階」も「冠位一九階」も『日本書紀』孝徳紀に書かれているので、ともに孝徳天皇が制定したと言われていた。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等を新羅に遣わす。是歳、新羅王、沙(タク)部沙飡金多遂を遣わし、質とす。従者三十七人。

 

 「冠位一九階」の「小花下」、「大山上」の位がついた使者が、新羅に派遣され、新羅王は人質と従者37名を出し、朝貢したと書かれている。

 

 649年当時、新羅朝貢し、九州を支配していたのは天武王権であって、孝徳天皇ではない。「小花下」、「大山上」の冠位を使っていたのは天武王権であるから、天武天皇の父が「七色の一三階」や「冠位一九階」を制定していることがわかる。

 

 翌月の649年3月、天武天皇の父は上宮王権を討ち、王権を剥奪する。王権を剥奪された上宮王権の皇極は、656年に肥前から大和に移り、飛鳥京を造った。

 

 飛鳥京跡から、天武王権の官位が書かれた木簡が出土している。上宮王権が天武王権の支配下となった証拠である。天武天皇の父は、上宮王権を討つ計画を立てていたが、上宮王権の人々は「臣下」になる。それを見込んで、官位の数を増やしていたと考えられる。

 

 661年7月天武天皇の父は崩御する。直ちに天武天皇が即位して、「白鳳」年号を建てる。百済を滅亡から救うため、唐・新羅連合軍と戦っていた天武天皇は、663年の白村江の戦いで連合軍に敗れ、百済から大量の人々が日本に逃げて来る。

 

 この翌年664年、「冠位二十六階」が制定される。

 『日本書紀』(天智)3年(664年)2月、天皇、大皇弟に命じて冠位の階名を増し換えること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ぶ。其の冠は二十六階有り。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建。是を二十六階と為す。前の花を改めて錦という。錦より乙に至るまでに十階を加える。又前の初位一階を加え換えて大建・小建、二階と為す。

 

 天智天皇は上宮王権に属し、天武天皇は天武王権に属していて、全く王権が異なる。しかし、『日本書紀』は天武天皇天智天皇を同父母の兄弟として記述しているため、天智天皇が、弟の大海人皇子天武天皇)に命じて制定したと書いている。

 

 「冠位一九階」と「冠位二十六階」での冠位名を比べてみれば明らかに分かるように、「冠位二十六階」は「冠位一九階」を下敷きに作成している。ともに同じ王権によって作られている。「冠位二十六階」を制定したのは、天武天皇である。

 

 天武天皇は、663年の白村江の戦いの後、百済から逃れてきた人々を大量に受け入れている。その人々に冠位を与えるため、冠位を増やしているのである。

 

 『日本書紀』の記述により、古代日本では4回、冠位制度が定められたことが分かった。

 

 603年の「冠位十二階」、647年の「七色の十三階」、649年の「冠位一九階」、664年の「冠位二十六階」である。しかし、大和朝廷が一元的に支配していたとする『日本書紀』の記述では、なぜその時期にそのような冠位が定められたかが分からない。『日本書紀』の記述を単になぞるのではなく、深く記述の意味を読み解く佃説日本の古代史によって、このように解明することができた。

 

<第4章 氏姓制度

 各時代、各王権は、それぞれの「称号(姓)」を持っていた。「和気」=「別」(わけ)は渡来人の称号で、中国の称号である。

 

 中国から渡来した「多羅氏(たらし)」は「貴国」を建国した。(仲哀天皇神功皇后)「貴国」の称号は「宿祢(すくね)」であった。

 

 「倭の五王」は「倭国」を建設し、称号「連(むらじ)」を制定した。

 

 大陸から阿智臣が日本に渡来した時、「使主(おみ)」の称号が与えられた。後に、「使主」は「臣(おみ)」となる。

 

 672年、壬申の乱天武天皇は日本列島を統一した。その後、684年、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定する。

 

 『日本書紀天武天皇13年(684年)9月、詔して曰く、「更に諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、以て天下の属性を混ぜる。一に曰う、真人。二に曰う、朝臣。三に曰う、宿禰。四に曰う、忌寸。五に曰う、道師。六に曰う、臣。七に曰う、連。八に曰う、稲置。」という。

 それまで、各王権が使っていた「称号(姓)」を統一している。

 

   [ここで、25分間の休憩がとられた。この時間を利用して、佃先生が持って

   おられる薬師寺金堂の見事な薬師三尊像の写真を、休憩時間を使って参加者

   に見てもらった。明治の岡倉天心は、この仏像を初めて見たとき、驚嘆し、

   深く感動したと伝えられている像である。]

        (薬師寺金堂 薬師三尊像

                          町田甲一著「薬師寺」より)

 

第2部 「日本国」

<第1章 律令国家>

 天武天皇は父の事績を受け継ぎ、661年に即位した後、国名、律令制国史、戸籍の整備をする。

 

 朝鮮半島の歴史書である『三国史記』は「新羅本紀文武王10年(670年)12月、倭国は更に日本を号す。自ら言う、日の出る所に近いので以て名とする。」と書いている。

 

 670年に倭国が「日本」と号すようになったとある。670年は、天武天皇が支配している時代である。「倭国」は「倭人(卑弥氏)」が自らつけた国名であり、「倭の五王」の時代、日本列島は「倭国」と言われていた。

 

 これに対して、天武天皇は「倭人(天氏)」であり、「倭人(卑弥氏)」の国名ではない名前を求め、律令国家としての国を内外に示すため新たな国名「日本」を定めた。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)2月、天皇・皇后共に大極殿に居して、親王・諸王及び諸臣を喚(め)して詔して曰く、「朕、今より更に律令を定め、法式を改めむと欲す。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然るに頓(にわか)に是のみを務(つとめ)に就(な)さば、公事を闕(か)くこと有らむ。人を分けて行うべし」という。

 

 天武天皇は681年、「律令」の編纂を命じる。

 『日本書紀持統天皇3年(689年)6月、諸司に令一部二十二巻を班(わか)賜う。

689年6月に「令」が完成する。「令一部二十二巻」が配布され、施行されるが、「律」の完成記事はない。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)3月、天皇大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下安曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首・に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執りて以て録す。

 

 天武天皇律令国家にふさわしいように「国史」の作成を命ずる。その結果、和銅5年(712年)に『古事記』が完成する。720年に『日本紀』が完成する。

 

 『続日本紀』(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。

 

 完成したのは、『日本紀』であって、『日本書紀』ではない。

(詳しい説明は、次回以降)

 

 天武天皇は日本で初めて全国の戸籍をつくる。

 

 『日本書紀』(天智)9年(670年)2月、戸籍を造る。盗賊と浮浪を断(た)つ。

 670年につくられた戸籍は「庚午年籍」と云われている。『日本書紀』は、天智天皇がつくったとしているが、天武天皇がつくっている。

 

 667年2月斉明天皇が死去すると、667年3月、中大兄は近江に移って天智天皇として即位した。そして、670年12月天智天皇は死去する。天智天皇に、全国の戸籍をつくる余裕はない。

 

 670年2月、天武天皇は全国の戸籍をつくっている。それを背景として、国名を「日本」に改めたと考えられる。国名、律令国史、戸籍と国家としての骨格を天武天皇が作っている。

 

第3部 天武王権と仏教

<第1章 「天武天皇の父」と僧旻(みん)>

 僧旻(みん)は、608年に隋に派遣され、25年間隋と唐で勉強し、632年に唐から帰国している。天武天皇の父は、僧旻を国博士、十師に任命し、八省・百官を設けている。『日本書紀』の記述から、如何に僧旻を敬愛していたかがわかる。前にも指摘したように、天武天皇の父の事績は、孝徳天皇の事績として『日本書紀』には記述されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)5月、是月、天皇、旻法師の房に幸して其の疾を問う。(或る本に、五年七月に云う、僧旻法師阿曇寺に於いて病に臥す。是に於いて天皇、幸して之を問う。よりて手を執りて曰く、「若(も)し、法師今日亡(し)なば、朕従いて明日亡なむ」という。)

 

 年月は「或る本」の「常色5年(651年)7月」が正しいが(古代史の復元⑧参照)、天武天皇の父は、「もし旻法師が今日亡くなれば、自分は従って明日亡なむ」、とまで言っている。旻法師は653年6月に死去する。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)6月、天皇、旻法師の命が終わると聞いて使いを遣わし弔う。并て多くの贈物を送る。皇祖母尊及び皇太子等、皆使いを遣わし旻法師の喪を弔う。遂に法師のために畫工狛堅部子麻呂・鮒魚戸直等に命じて多くの仏菩薩像を造る。川原寺に安置す。(或本に云う、山田寺に在る)

 

 「川原寺」は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。天武天皇の父は、旻法師のために多くの仏菩薩像を造り、自分が創建した寺に安置している。天武王権は、深く仏教に帰依している。

<第2章 天武天皇と寺院の創建・移築>

 

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。しかし、日本歴史学の通説は、そのように述べていない。それぞれの大寺の様子を詳しく見ていこう。

 

(1)大宰府観世音寺

 観世音寺は、福岡県の大宰府にあり、その宝蔵には所狭しと多数の仏像が置かれている。『続日本紀』には、和銅2年(709年)に元明天皇が「筑紫の観世音寺天智天皇が後岡本宮御宇天皇斉明天皇)のために創建した寺である」と詔(みことのり)した、と書かれている。

 

 この時代の歴史を今まで見てきたように、斉明天皇天智天皇が筑紫を支配したことは一度もない。したがって、この『続日本紀』の記述は正しい情報を伝えていない。それでは誰が創建したのだろうか。

 

 『二中暦』(※)に観世音寺の記載がある。この「年代暦」には、天武王権の年号が、僧要、命長、常色、白雉、白鳳、朱雀、朱鳥と順に列記され、「白鳳 二十三年 辛酉 対馬銀採 、観世音寺東院造」と書かれている。「白鳳」年号は、「辛酉(661年)」から23年続くという意味である。「白鳳」年号は天武天皇の年号であった。白鳳年間に、対馬から銀が採れたと書かれ、その後に観世音寺の東院が造られたと記載している。

 

 天武天皇3年(674年)3月、対馬国司守が「銀がこの国で初めて出ました。これを献上いたします。」と申し上げ、これによって、対馬国司守に小錦下位が授けられたことが、『日本書紀』に書かれている。『二中暦』の上の記載は、『日本書紀』に書かれている対馬で銀が初めて採れたことを伝え、天武王権の年号を正確に表しているなど、信用することができる。

 

 674年は壬申の乱の2年後であり、天武天皇の時代である。天武天皇の時代674年に、対馬で銀が採れている。『二中暦』の記載により、その後に、「観世音寺東院」が造られたとしてよい。観世音寺を造ったのは、天武天皇である。天智天皇は671年にすでに死去しており、674年以降に観世音寺を建てることはできない。

 

 現在の観世音寺は、「西院」であり、その東に創建の「観世音寺東院」があった。観世音寺は、天武天皇天武天皇の父のために創建した寺である。

観世音寺については、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な記述がある。)

 

※ 『二中暦』は鎌倉時代初期に成立したとされる、いわば百科事典である。13巻で作者未詳。平安時代の『掌中暦』と『懐中暦』を再編集したもので、人名・物名などを列挙している。

 

 (2)川原寺

     (川原寺跡)

  前方の川原寺跡弘福寺の建物の後方(北側)にも広大な敷地が広がっている

 

 天武天皇壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。まず重要なのは、川原寺である。川原寺は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。亡くなった旻(みん)法師のために多くの仏菩薩像を造って、安置した寺であった。壬申の乱の翌年673年、天武天皇は川原寺を天武天皇の宮(浄御原宮)の隣に移築した。(図1参照)

        (図1)

 通常の寺は南門が一番大きいが、川原寺では東門が一番大きくなっている。図1から分かるように、浄御原宮(天武天皇の宮)に接する門であるからである。壬申の乱に勝利した天皇は、敗北した天智王権に川原寺中金堂の礎石を大津から運ばせて、天武天皇の戦勝記念としている。

 

 『日本書紀天武天皇2年(673年)3月、是月、書生をあつめて始めて一切経を川原寺において写す。

 

 川原寺を移築すると、書生に一切経の写経をさせている。

(川原寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

(3)飛鳥寺

 飛鳥寺は、609年に筑紫に創建された「元興寺」を672年~677年の間に、天武天皇が大和に移築したものである。「元興寺」は阿毎王権が創建した寺であり、第9回古代史講演会レポートでも確認した見たように、隋の「裴世清」が来て、釈迦丈六の仏像を見ている。635年、阿毎王権は天武王権の臣下となる。同系列の王権であり、天武天皇は浄御原宮の近くに移築している。(図1参照)

 

 『日本書紀天武天皇6年(677年)月8月、天武天皇飛鳥寺一切経を読ましむ、と書かれている。天武天皇は熱心な仏教の信奉者である。

飛鳥寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に100ページほどの詳細な論考がある。)

(4)百済大寺

 639年に上宮王権の舒明天皇が「肥前神埼郡宮所」に創建した「百済大寺」は、641年焼失し、642年から皇極(斉明)天皇が再建する。

 

 壬申の乱の後の673年に天武天皇は再建された百済大寺を肥前から「大和の高市」に移築する。それが「高市大寺」である。

 この寺が677年からは「大官大寺」となり、これが奈良県桜井市の「吉備池廃寺」である。

 

 百済大寺は、天武王権と対立していた上宮王権が創建した寺であるから、浄御原宮から一番遠い所に移築されている。(図1参照)

百済大寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

 川原寺・飛鳥寺大官大寺は飛鳥の三大寺と云われている。すべて天武天皇が九州から大和に移築している。天武天皇は熱心な仏教徒であり、大和に大寺があるのは、天武天皇の業績ともいえる。       

                   (薬師寺東塔)

(5)薬師寺

   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲    佐佐木信綱

 

 この短歌でも有名な薬師寺は、天武天皇が「持統皇后」の病気平癒のために創建したとされている。私たちは、「天武天皇持統天皇に対する心持」と奈良路に流れるゆったりとした時をこの歌からも味わってきた。

 

 『日本書紀天武天皇9年(680年)月11月、皇后、体不豫。即ち皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す。仍りて一百僧を度(とくど)せしむ。是により安平を得る。是日、罪を赦す。

 

 「皇后、体不豫」のため、「薬師寺を興す」とある。

 

 『日本書紀』は、壬申の乱の翌年673年に天武天皇が即位して、「持統」は皇后になったと記している。したがって、680年の「皇后、体不豫」は「持統皇后」であるということになる。これが従来の解釈である。この解釈にしたがって、私たちは今まで、佐佐木信綱の歌も解釈してきた。

 

 ところが、その前の壬申の乱の最中に、『日本書紀天武元年(672年)6月24日、「…乃ち、皇后は輿に載り、之に従う。…」「皇后がお疲れになったので、しばらく輿を留めて休息なさった。…」と、「皇后」がすでに出てきている。

 

 今まで述べてきたように、天武天皇は661年に即位している。そして、壬申の乱の672年では、皇后は天武天皇と一緒に戦っている。『日本書紀』は673年に「持統」は皇后になったと記しているが、壬申の乱のときの皇后は、本当に「持統」なのだろうか?さらに、「持統」は、壬申の乱以前から皇后であったのだろうか?

 

 『日本書紀天武天皇2年2月の記述に従って、天武天皇の「妃」を婚姻の順番に列記してみよう。

① 初め鏡王の女額田姫王を娶り、十市皇女を生む

② 胸形君徳善の女尼子娘を納れて高市皇子命を生む

③ 宍人臣大麻呂の女カジ媛娘は二男二女を生む

④ 大田皇女を納れて妃と為す。大来皇女(大伯皇女)と大津皇子を生む

⑤ 正紀(持統)を立てて皇后と為す。皇后、草壁皇子尊を生む

⑥ 大江皇女、長皇子と弓削皇子を生む

⑦ 新田部皇女、舎人皇子を生む

⑧ 藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生む

⑨ 氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生む

⑩ 蘇我赤兄大臣の女大ヌノ娘、一男二女を生む

 「持統」は、657年に13歳の時、天智王権から大田皇女に続いて2番目の人質として天武天皇に差し出されている。全体では5番目の「妃」である。佃氏は、詳細な検討をして(『新「日本古代史」(下)』所収57号論文)壬申の乱のときの皇后は、①の「鏡王の女額田姫王」であり、「持統」ではないと結論している。

 

 『日本書紀』天武12年(683年)秋7月4日、天皇鏡姫王の家に幸(いでま)して病を訊(と)う。5日に鏡姫王薨る。是夏、始めて僧尼を請いて宮中に安居す。因りて浄行者三十人を簡(えら)出家せしむ。

 

 「鏡王の女額田姫王」は683年に「薨」去する。「薨」の字が使われている。661年天武天皇の即位とともに皇后となり、683年まで皇后であった。「皇后」は「持統」ではなく、「額田姫王」である。薬師寺は「額田姫王」の病気平癒のために天武天皇が造った寺である。

 

 『吉山旧記』は、「大善寺玉垂宮」の勾当職であった吉山家の由来と歴代の活躍が記されている記録で、平成14年に吉山昌希氏から久留米市に寄贈され、久留米市文化財収蔵館に保管されている。佃氏は信頼できる資料であると評価している。(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 この『吉山旧記』には、次のように書かれている。「天智天皇8年(669年)第二十一代 吉山久運安泰和尚高良御廟に参る。その後、入唐という。…(671年に帰朝) 同5年(676年)夜明(地名)へ唐渡薬師尊像を安置し傍らに一寺を建立す。寺を薬師寺と号す。」

 

 『日本書紀』の記述に合わせて「669年」を天智天皇としているが、「669年」に「吉山久運(安泰和尚)」は唐へ行き、「671年」に帰国し、「676年」「大善寺玉垂宮」に「薬師寺」を建立して、唐から渡って来た「薬師尊像」を安置していることが記録されている。

 

 薬師寺は676年に筑後の高良神社に創建された。今の久留米市にある大善寺玉垂宮である。筑後の「薬師寺」の創建である。中国から買い求めた薬師三尊像を安置するために建てられた。

 

 『吉山旧記』には、「一寺」を造るにも「天武天皇にお伺いした」とある。また、高良神社は天武天皇が創建した寺である。天武天皇は、筑後の高良神社に創建された「薬師寺」のことを知っていた。

 

 「額田姫王」が病気になったとき、「皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す」として、682年に、「薬師寺」を筑後から大和の「飛鳥岡本」に移転している。

 

 「飛鳥岡本」に移転後の「薬師寺」の経緯については、第4部第2章 薬師寺の変遷 に続きます。

(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」で、詳しく論じられている。佃收HPの「論文集」のページで見ることができる。)

 

第4部 藤原京

<第1章 天武王権と藤原京

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利した後、九州の大寺を大和に移築していることはすでに見てきた。新都「藤原京」の造営も開始している。このことは、『日本書紀』や『万葉集』、藤原京跡から出土した木簡からも確認できる。

 

 「天武11年(682年)秋3月、小柴三野王及び内官大夫等に命じて。新城に遣わし其の地形を見しむ。よりて都つくらむとす」と、『日本書紀』に書かれている。

 

 天武天皇藤原京造営について、奈良文化財研究所の山本崇氏は次のように述べている。「『日本書紀』が語る都の造営過程は、藤原京から出土した木簡により裏付けられました。藤原京の中心ともいえる大極殿の真下には、幅6m、確認されているだけで570mにもおよぶ大規模な溝が掘られていました。この溝は、都の造営に必要な物資運搬のために掘られた人口の運河であると考えられます。この溝から「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡のほか、天武14年(685年)に制定された「進大肆」という位を記した削屑が出土しました。木簡の年代は、…都の造営時期とみごとに一致しており、木簡は、都の造営にかかわるものと見られます。」(2018年9月1日朝日新聞「be」)

 

 『万葉集』(巻十九)の「壬申の乱の平定以後の歌二首」とある天武天皇を詠った歌を見てみよう。

 

 皇(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 赤駒の 腹ばゆ田井を 京師(みやこ)となしつ       

                           『万葉集』4260番

 

 大王(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)となしつ       

                             『万葉集』4261番

 

 天武天皇は「神」であるから湿地帯を都(京師、皇都)にしたと称えている。都は藤原京であり、「壬申の乱の平定以後」であるから天武天皇が造っていることを『万葉集』からも確認できる。

 

<第2章 薬師寺の変遷>

 大橋一章氏(元早大文学部長)は『薬師寺』(保育社、昭和61年)の中で次のように述べている。「藤原京右京八条三坊の南西隅、つまり薬師寺の南西隅の発掘調査で、条坊の大路遺跡より下層で薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかったが、この溝は藤原京の条坊地割の施行の時点にはすでに埋められ、整備されていたことが明らかになった。」

 

 現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかった」という。薬師寺は、「藤原京」の下層に造られていた。「藤原京」の下層には「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡が出土していることは前に見てきた。これは何を意味するのだろうか?

 

 680年11月「額田姫王」は病に臥す。天武天皇は「薬師寺を興すこと」を誓願した。誓願通り、682年天武天皇筑後から「飛鳥岡本」へ「薬師寺」を移築する。683年7月「額田姫王」は薨去する。またこの頃、「藤原京」の造営を開始し、天武天皇は「薬師寺」をさらに「藤原京」に移築している、と考えられる。

 

 さらに「高市天皇」は、天武天皇がつくった「藤原京」の上に新しい「藤原京」を造った。そのため、現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦が出土」したのではないだろうか。

 

 「高市天皇」は新しい「藤原京」に、688年までに「薬師寺」を移築する。これが、現在「本薬師寺」と呼ばれているところであり、金堂跡と思われる巨大な礎石群が残されている。

 

 710年、都は平城京に遷る。730年以降に、聖武天皇平城京に「薬師寺」を建てる。これを「平城京薬師寺」(現在の薬師寺)と呼ぼう。そのとき、新しい薬師三尊像を、唐から渡ってきた薬師三尊像をまねて国産として作らせ、金堂の本尊とした。

 

 建てられた当時「平城京薬師寺」には、国産の薬師三尊像が据えられていた。一方、「本薬師寺」には、中国から渡って来た薬師三尊像が据えられていた。

 

 ところが、平安時代の「薬師寺縁起」(長和四年)には、平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、本薬師寺から運んだもの(移座)である、と書かれている。平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、つくられた当初の国産の薬師三尊像ではなく、「本薬師寺」に置かれていた中国から渡って来た薬師三尊像に替わっている、と書かれている。

 

  一方、最初に平城京薬師寺金堂にあった国産の薬師如来像はどうなったのだろうか。平城京薬師寺講堂はたびたび火災に遭った後、嘉永5年(1852年)に再建された。その際、安政3年(1856年)に、それまで西院堂にあった国産の薬師三尊像が、講堂に安置されることになる。最初、平城京薬師寺金堂に置かれていた、国産の薬師三尊像は、このときから講堂に置かれるようになり、現在に至っている。(もっと詳しい経緯については、『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 現在の薬師寺平城京薬師寺)を訪れると、金堂と講堂に、同じ様に大きい黒色の銅像である薬師三尊像が二体ある。どうして、同じ様なブロンズ像が二体あるのだろうかと、疑問に思う人は多いのではないだろうか。この謎は佃氏によって見事に解かれたのではないか。

       薬師寺金堂の薬師三尊像)

 【手前から日光菩薩薬師如来月光菩薩 単独の薬師如来写真は第1部の最後に】

 

 大橋一章氏は『薬師寺』の中で金堂の薬師三尊像について次のように語っている。「この薬師如来は、そのみごとな造形、比類のない美しさという点で、わが国彫刻史上の絶品であるが、古来この仏像に対する賞賛のことばもまた限りないものがある。…上半身にまとった法衣の自然な表現はまことに絶妙で、…命ある人間のぬくもりや触感までも感じさせるような表現は、まことに真に迫っている。」

 

 金堂の薬師三尊像は中国で作られ、最初久留米市大善寺玉垂宮に安置された。天武天皇により、「額田姫王」の病気平癒を願って大和の「飛鳥岡本」にうつされ、その後、天武天皇が造営していた藤原京にうつされる。次に、高市天皇がつくる藤原京の「本薬師寺」にうつされ、最後に、平城京にある現在の薬師寺に安置される。渡来した後、五回の変遷を経て、私たちの目の前に鎮座されている。

 

 一方、大橋一章氏は講堂の薬師三尊像について、「頬から鼻・唇のあたりの肉付けはやや平面的で、微妙な肉付けがなされておらず、そのため古風な印象が強い。また、耳も形式的につくられ、丸みのない単調な表現となっている。…単調さはまぬがれず、金堂本尊の写実的なつくりとは較ぶべくもない。」と述べられている。次の写真は講堂の薬師三尊像である。前に第1部の最後のところで見た金堂の薬師三尊像と見比べてみてほしい。

         (薬師寺講堂の薬師三尊像)

 「本薬師寺」の薬師三尊像が移座されて、平城京薬師寺金堂に安置されるようになった理由は、ここにもあるのではないだろうか。

 

 講演の最後に、佃先生は、「今回も日本古代史の定説と大分違う説なので、最初混乱するかもしれないけれど、じっくり考えて自分の見解を築いていってほしい。」と述べられた。

 

 次回第13回講演会は「高市天皇と長屋親王というテーマで、3月10日(日)午後1時~4時 埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                        (以上、HP作成委員会記)

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama