第9回古代史講演会レポート

<テーマ> 阿毎王権(俀(たい)国)

<日時>  2023年(令和5年)3月4日(日)午後1時~4時

<会場>  さいたま市宇宙劇場5階集会室

<最初に>

 「友の会」の斉藤さんから今回の講演のテーマの「俀(たい)国」の説明があった。『隋書』俀国伝では、表題のほか文中にもある8個の「俀(たい)」の字がすべて「倭」に直されて『隋書』倭国伝として出版されている。(※参照)そのため、この国名をほんどの人が知らないと話された。

 また、次回は「上宮王権と法隆寺」というテーマで、高名な建築家からも指摘されている法隆寺の移築説についても詳しく話していただく予定であると、伝えられた。

 次回の第10回講演会は6月4日(日)午後1時から開催される予定であり、会場は今回と同じ「さいたま市宇宙劇場」である。また、9月に予定されている次々回の講演会の会場ともなる見込みであることが話された。

 

    ※ たとえば、『新訂 魏志倭人伝後漢書倭伝・宋書倭人伝・隋書倭人伝』(岩波文庫では、訳注『隋書』巻八一東夷伝倭国(『隋書』倭国伝)の項で、その注(1)「『隋書』は倭を俀につくる。以下すべて倭に訂正した。附録、原文参照。」と注釈をして、「俀」の字をすべて「倭」に直した、と述べている。巻末の附録に原文が載せられており、『隋書』倭国伝を見ると確かにすべて「倭」ではなく、「俀」の字が使われており、「倭国」ではなく、「俀国」であることが確認できる。本文に8回も出てくるような文字は、明らかな誤植ではないと思われるから、別の字に直すべきではないと考えられる。その意味で、私たちは『隋書』倭国伝ではなく、『隋書』俀国伝と記す。

 

 会場が開錠されるのが開演直前なため、「友の会」のメンバーにより手際よく会場が設営され、定刻を少しだけ遅れて講演会は開始された。なお、今回は「友の会」事務局から、講演内容がより理解しやすくなるよう、それぞれの王権の系譜などの参考資料が配布された。

<前回までの復習>

 

 今回は『新「日本の古代史」(佃説)』(略して『通史』)を使って講演を進めるということで、『通史』に沿って、前回までの講演内容を振り返った。

 

 ニニギノミコトは筑紫の日向に天孫降臨し、兄である「天火明命アメノホアカリノミコト」は、北九州に天孫降臨する。それと共に、「天火明命」の従者であり、護衛する役割の「天つ物部」も、北九州に降臨している。

 

 4世紀、多羅氏である仲哀天皇や神宮皇后などによって「貴国」が建設される。この後の4世紀末、中国遼河上流の倭城から倭人(卑弥氏)が九州に逃げて来て、5世紀初め、「貴国」の王を追い出す。「倭の五王」による「倭王権」(「倭国」)の樹立である。百年を越える「倭の五王」の支配の後、辛亥の年(531年)、物部麁鹿火は「倭国」の王を討ち、筑紫の多々良川の水利権を奪い、桂川王塚古墳のある福岡県桂川町に「物部麁鹿火王権」を樹立する。物部麁鹿火は「天つ物部」を祖先としている。

 

 前回詳しく考察したように、538年、百済聖明王から「物部麁鹿火王権」に仏教が伝えられている。「物部麁鹿火王権」の二代目のときであり、このときの年号は「僧聴」であった。ここまでが、前回までの復習である。

 この時代、3つの年号が共存する。「倭王権」の年号、「物部麁鹿火王権」の年号、そして新たな年号が552年から始まる。

       

   <阿毎王権(俀(たい)国)>

 

 『日本書紀』欽明紀に次の記述がある。欽明13年(552年)百済聖明王は釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献じた。これに対して、天皇歓喜し、踊り跳ね、未だかつてこのような微妙之法は聞いたことがない、と述べた。

 前回の講演会で見たように、仏教はすでに538年物部麁鹿火王権の二代目の天皇に伝わっている。天皇がこのように歓喜することはないはずである。どうして天皇は、初めてのように歓喜したのか。この謎を解く糸口が九州年号にある。

 

 物部麁鹿火王権の年号である殷到(531~535年)―僧聴(536~540年)-明要(541~552年)と重なり、「倭王権」の年号ではない「貴楽(552~569年)」という年号がある。しかも、この年号は貴楽-金光-賢棲-…-節中と627年まで続いている。物部麁鹿火王権に替わる新たな王権が生まれている。

 

 また、『隋書』俀国伝によれば、「開皇20年(600年)、倭王あり、姓は阿毎(あま)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥と号す。使を遣して闕(隋都長安)に詣る。」とある。西暦600年には、「倭王権」も「物部麁鹿火王権」も消滅している。すると、「貴楽」から始まる年号をもつ新たな王権が、600年に隋に朝貢している。

 

 佃説の日本史では、この王権を『隋書』俀国伝に記された王の姓から「阿毎(あま)王権」と呼んでいる。「俀(たい)国」と呼ぶと、ほとんどの場合「倭国」と直されてしまうので、「倭の五王」による「倭王権」と区別がつかなくなるからである。

 

 552年に、このような微妙之法は聞いたことがないと述べ、歓喜し、踊り跳ねた天皇は、552年から始まる新たな王権の天皇であると考えられる。

 

 新たな王権の本拠地を、『日本書紀』や『隋書』俀国伝の記事から知ることができる。『日本書紀』欽明紀に(欽明)22年(561年)百済新羅の使者を「難波の大郡」でもてなしているという記事がある。そのとき、新羅の使者は、百済の下に序列されたことに怒って、還ってしまったと書かれている。561年は新王権の時代であり、「難波」は福岡県東区の多々良川の北の領域である。

 

 次は『日本書紀』推古紀の記事である。(推古)16年(608年)4月、小野妹子が大唐(隋)から帰ってくる。この時、小野妹子と一緒に大唐(隋)の使人裴世清・下客十二人は「筑紫に至る」。裴世清等のために、「新館を難波の高麗館の上に造る」。6月、難波津に泊まる。8月、唐(隋)の客京に入る。この日飾り騎七十五匹を遣わし唐客を海石榴市(つばきいち)の術(ちまた)に迎える。

 「難波」には高いところから順に「高麗(高句麗)」、「百済」、「新羅」の館が造られている。その上に、「隋館」を造るという。「難波津」は多々良川の河口である。通説は、大阪の難波としているが、大阪の難波には4つの館を縦に並べて造る丘は無い。多々良川を遡って、三郡山地を越えたところに「福岡県嘉穂郡穂波町椿」がある。「海石榴(つばき)市」は、この「椿」と考えられる。裴世清等は多々良川を遡り、「三郡山地」を越えて、「福岡県嘉穂郡穂波町椿」に来ている。また、「福岡県嘉穂郡穂波町」を流れる川は遠賀川であり、その下流鞍手郡がある。

 

 『隋書』俀国伝には、「阿蘇山が有り、其の石、故なくして火を起す。」と記されている。多々良川の上流から阿蘇山の噴煙が見えるのは、「三郡山地」である。隋の裴世清等は多々良川を遡り、「三郡山地」を越えて、「福岡県嘉穂郡穂波町椿」に来ていることが、ここからも確認できる。近畿地方には「阿蘇山(火山)」はない。遠賀川に沿って下ると物部氏の本拠地である福岡県鞍手郡がある。

 

 『先代旧事本紀』(以下『旧事本紀』と略記)は物部氏の歴史書と言われている。これには、物部氏の系譜が記されている。佃氏は『物部氏蘇我氏と上宮王権』(「古代史の復元シリーズ⑥」「第5章 阿毎王権と物部氏」の中で、『旧事本紀』を詳しく検討して、間違いが多いとされている『旧事本紀』の物部氏系図の復元をしている。復元された系図は、今回事務局から配布された資料の中に記されている。

 

 鞍手郡を中心に北部九州に根を張る物部氏は「天火明命」と一緒に天孫降臨した「天つ物部」の子孫と考えられる。その系図を見ると、「十二世」、「十三世」…などの首長がいる。倭王権を倒して天皇位についた物部麁鹿火は、この系図では地位が低く、十二世物部木蓮子連の甥となっていて、次の十三世物部尾輿連とは別系統に属している。さらに、十四世以降は、十三世物部尾輿連の子孫が首長となっている。このようなことを詳しく検討した結果、佃氏は、新しい王権-阿毎(あま)王権-を樹立したのは、十三世物部尾輿であるとする。

 

 552年、物部尾輿物部麁鹿火王権から年号を発する王権を奪い、新たな王権-阿毎王権(俀国)-を樹立し、年号「貴楽」を建てる。

 物部麁鹿火は、物部氏の中では序列が低いにもかかわらず、「倭国」の王を討ったことにより、支配者になり、「物部麁鹿火王権」を樹立した。この支配は、やがて物部氏の本流によって取って代わられる。

 

 阿毎王権(俀国)の初代は十三世物部尾輿連であり、二代目は十四世大市御狩連公、三代目は十五世物部大人連公であることが、九州年号や『旧事本紀』の考察から分かる。

<中国隋への朝貢

 

 502年の倭王武朝貢以来、中国への朝貢は行われていなかった。前に見たように『隋書』俀国伝では、「開皇20年(600年)」、阿毎王権は中国への朝貢を再開する。「俀(たい)王あり、姓は阿毎(あま)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥と号す。使を遣して闕(隋都長安)に詣る。」…「王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり、太子を名づけて利歌弥多弗利となす。」と書かれている。

 

 このときの俀王は、阿毎王権の三代目の十五世物部大人連公であり、『隋書』俀国伝から字は多利思比孤(たりしひこ)であることが分かる。日本古代史の通説では、この俀王は推古天皇であるか、聖徳太子であるとしている。妻や後宮のことを考えたら、女帝の推古天皇でないことは明らかである。また、聖徳太子は、天皇になっておらず、このような後宮も持っていない。

 

 『隋書』俀国伝によれば、607年阿毎王権は再度朝貢する。「その王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す。」…「その国書にいわく、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々』と。」…「帝、これを覧て悦ばず、…『蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ』と。」俀国の国書に対して、隋の煬帝が烈火のごとく怒ったという有名な文である。『記紀』が記すこの時代の天皇推古天皇であるため、通説では、この多利思比孤は聖徳太子だとしている。しかし、上に見たように「日出ずる処の天子」である「多利思比孤」は聖徳太子ではなく、十五世物部大人連公である。

朝鮮半島との関わり>

 

 6世紀前半、百済高句麗新羅に攻められて日本の王権に救援を要請してくる。552年5月までは、物部麁鹿火王権に救援を要請している。これ以降、552年物部麁鹿火王権は阿毎王権に王権を奪われる。『日本書紀』欽明紀にあるように、(欽明)14年(553年)正月12日、百済は上部徳科野次酒・杵率禮塞敦等を遣わし軍兵を乞う。百済は阿毎王権に救いの兵を求めている。554年百済聖明王」は新羅との戦いで戦死する。555年百済王子「餘昌」は弟の「恵」を阿毎王権に派遣して、聖明王の戦死を伝え、援助を求めた。558年、百済王子「餘昌」は「威徳王」となる。「聖明王」も「威徳王」も共に阿毎王権を頼りにしており、借りがあると言える。

 

 577年に百済の「王興寺」が完成する。すると「威徳王」は阿毎王権へ「寺工」等を派遣して、最新の技術で「元興寺」を造らせようとする。『日本書紀』敏達紀に、「(敏達)6年(577年)11月、百済王は還使大別王に付けて経論若干巻、并て、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工・六人を献じる。遂に難波の大別王の寺に安置する」、とある。「難波の大別王の寺に安置する」と書かれている。「難波」は多々良川の下流にある。阿毎王権の本拠地は鞍手郡であり、多々良川の上流にある。「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工・六人」は「難波」に来ている。588年には百済からさらに「寺工2人、瓦博士4人」が派遣される。588年から本格的に筑前の「元興寺」の建設が始まる。

 

 609年に「元興寺」は完成する。『元興寺伽藍縁起』は、次のように伝えている。605年4月8日、銅二万三千斤、金七百五十九両を以て尺(釈)迦丈六の像(銅・繍二躯)并びに挟侍を敬い造る。高麗の大興王はまさに大倭に睦み、三宝を尊重して遙かに以て随い喜ぶ。黄金三百二十両を助成す。…608年、大隋国の使い主鴻艫寺掌客裴世清…等、来たり之を奉(あお)ぐ。翌609年4月8日に仏像が安置され、完成となる。

 

 「元興寺」はおそらく難波の方だと考えられるが、筑前のどこかに建てられた。この地で、608年に隋の裴世清は「釈迦丈六の像(銅・繍二躯)并びに挟侍」を仰ぎ見ている。「元興寺」は筑前の阿毎王権に創建される。現在の大和の「飛鳥寺はこの「元興寺」を移築したものであり、現在の大和の「飛鳥寺の大仏を608年に隋の裴世清筑前の地で見ている。

 

 ここで、蘇我氏について、手短に整理する。『日本書紀』応神3年の記事から、石川宿穪は「貴国」の将軍であることが分かる。また、『新撰姓氏録』「左京皇別上」の子孫の記述から、蘇我石川宿穪の四世孫が蘇我稲目であり、その子が蘇我馬子で、その子が蘇我入鹿であるという系譜が分かる。『日本書紀』欽明紀の記事から、552年に「阿毎王権」が誕生した後、555年「吉備」に、556年「瀬戸内沿岸」や「倭国高市郡」、「紀国」に蘇我稲目が「阿毎王権」の「屯倉」を設置していることが分かる。

 

 蘇我氏は「貴国」の将軍であったが、「貴国」滅亡後、「倭国」の支配下に入り、「倭国」滅亡後に「物部麁鹿火王権」の支配下に入った。その後、「阿毎王権」の支配下に入り、蘇我稲目は「阿毎王権」の大臣となる。蘇我氏は大和に居たのではなく、北部九州に居た。

<「日羅(にちら)」の事件>

 

 「阿毎王権」の最後の項で、「日羅(にちら)」の事件に触れる。「日羅」は肥後の国(熊本県)の南の端の水俣の直ぐ北、「芦北」の出身であり、百済の第二位の高官になっていた。阿毎王権は「日羅」を呼び寄せ、難波の百済館に招き、「百済の国政」について日羅に尋ねようとする。「日羅」は「阿斗(飯塚市)」に滞在する。帰国する時は「阿斗の桑市」から「難波館」に来て、「小郡市」に向かっている。日羅は故郷の「芦北」に寄るつもりだったのだろう。

 

 百済高句麗新羅に攻められ、筑紫(日本列島)へ移りたいという望みを持っていることなどを「日羅」は話す。「日羅」の回答を聞いた百済の従者は極秘情報を守るため「日羅」を殺害する。「日羅」は「小郡の西の畔の丘の前」に埋葬された、と『日本書紀』に書かれている。従来は、「小郡」を大阪としていた。しかし、「小郡」は九州の「小郡市」である。さらに、百済の従者は帰国する際、「五島列島」を通って帰ろうとする。「日羅」の故郷の「芦北」に寄ってから帰国するために、有明海に船を係留していたのだろう。大和から百済に帰るときは、「五島列島」は通らない。このときの天皇(「阿毎王権」)は、大和に居るのではなく、北部九州に居ることを明確に示す事件でもある。

    

  <豊王権、用明天皇推古天皇

 

 前に考察したように、西暦600年、607年に中国隋に朝貢した俀国(阿毎王権)の王は多利思比孤(たりしひこ)であり、推古天皇ではなかった。しかし、『記紀』は西暦592年から628年まで推古天皇が日本の天皇であった、と記している。それでは、一体推古天皇とは何者だったのだろうか。

 

 『日本書紀』欽明紀に、欽明天皇蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)を妃とし迎え入れ、蘇我稲目の娘の堅塩媛は用明天皇、磐隈皇女、あとり皇子、推古天皇を生んだと書かれている。用明天皇推古天皇は兄妹であると書かれている。

 

 推古天皇の父とされる欽明天皇については次の記事がある。『日本書紀』欽明紀(即位前紀)、「冬12月…大伴金村大連・物部尾輿大連を大連とし、及蘇我稲目宿禰大臣を大臣とすること、並に故の如し。」『日本書紀』欽明紀、元年7月「都を倭国磯城郡磯城島(しきのこうりのしきしま)に遷す。仍(よ)りて号(なず)けて磯城島金刺磯城島宮とす。」

 

 欽明天皇の都は「大和の磯城郡磯城島」であり、欽明天皇は大和に居を構える天皇である。しかし、その重臣であるとされる大伴金村大連、蘇我稲目宿禰は「阿毎王権」の重臣であり、物部尾輿大連に至っては、「阿毎王権」の初代の天皇であり、すべて北部九州の人である。

 蘇我稲目宿禰たちが欽明天皇重臣であるはずがなく、したがって、堅塩媛(きたしひめ)は欽明天皇の妃ではなく、推古天皇欽明天皇の皇女ではない。ここから、佃説日本史の読み解きが始まる。

 

 用明天皇は北部九州の人であり、それを大和の天皇にするため、『記紀』は欽明天皇用明天皇の父に書き換えている。阿毎王権の年号は「貴楽(552~569年)」から「節中(623~627年)」まで続いている。それとは異なる年号「和重(586~587年)」があり、阿毎王権の年号「勝照(585~588年)」と並存している。これが、用明天皇の年号と考えられる。『物部氏蘇我氏と上宮王権』(「古代史の復元」シリーズ⑥)に詳しく述べられているが、用明天皇は585年に王権を樹立し、「池辺の双宮」(現在の鳥栖市萱方町)を宮殿とし、586年に年号「和重」を建てる。

 

 『日本書紀』に「穴穂部皇子(あなほべのみこ)の乱」といわれる事件がある。(用明)元年(586年)5月、穴穂部皇子は、炊屋姫皇后(後の推古天皇)を姦さむとして殯宮殯に入る。三輪君逆、兵を集めて防ぐ。…穴穂部皇子、陰に天下に王たらむことを謀りて、口に詐(いつわり)て逆君を殺さむとす。(或る本に云う、穴穂部皇子、自ら行きて射殺すという。)穴穂部皇子は、逆君を殺すと偽って用明天皇を射殺している、と考えられる。「天下に王たらむ」として用明天皇を殺している。反逆である。

 

 『日本書紀』は用明天皇が587年4月9日に崩じたと記し、『古事記』は崩干支を記して、587年4月15日崩、と述べる。両書とも587年4月では一致しており、用明天皇は587年4月に崩じたとしてよい。

 そうすると、用明天皇が殺された「穴穂部皇子の乱」は586年5月と記されているが、587年4月であったのではないか、と佃氏は述べる。その2ヵ月後の587年6月「穴穂部皇子」は蘇我馬子に殺される。

 『扶桑略記』によれば、穴穂部皇子用明天皇の兄弟である。穴穂部皇子は兄の用明天皇を殺して王位に就こうとした。そのため蘇我馬子に誅殺された、というのが真相なのではないだろうか。

 

 新たな年号「和重(586~587年)」を建てて「阿毎王権」から独立した用明天皇の王権のその後の系譜を調べてみよう。佃氏は天皇の正式名称に着目する。用明天皇の正式名称は「橘豊日天皇」である。孝徳天皇の正式名称は「天萬豊日天皇」であり、二人にだけ「豊日」がついている。他に「豊」の字がついている天皇や皇子を見てみる。二人の他に推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)、厩戸皇子(豊耳聰聖徳)、皇極天皇(天豊財重日足姫天皇)、斉明天皇(天豊財重日足姫天皇)、そして用明天皇の長子の田米王は豊浦皇子とも呼ばれていた。

 

 「豊」がつくので、用明天皇が樹立した王権を「豊王権」を名づける。次の「上宮王権」のところで詳しく論じるが、厩戸皇子(豊耳聰聖徳)、皇極天皇(天豊財重日足姫天皇)、斉明天皇(天豊財重日足姫天皇)は、「上宮王権」の皇子や天皇であるから、他の王権の人々である。すると、用明天皇推古天皇、田米王(用明天皇の長子)、孝徳天皇が「豊王権」の人々ということになる。

 

 推古天皇の兄の用明天皇は、585年9月に「阿毎王権」から独立して「豊王権」を樹立し、年号「和重」を建てる。しかし、587年に兄弟に殺害され、「王権」は中断されたままになっている。次回講演会で述べるように、591年に「上宮法皇」は「肥前の飛鳥」に「上宮王権」を樹立する。推古天皇はこれを見て、兄が樹立した「豊王権」を急きょ再興することを決意し、「豊浦宮」で即位する。用明天皇の長子である田米王を豊浦に引き取って養育している。そのため、田米王は豊浦皇子とも呼ばれた。推古天皇の年号は九州年号「始哭」であると考えられる。

 

 年代から考えて、田米王の子が孝徳天皇(天萬豊日天皇)であろう。『日本書紀』は、孝徳天皇皇極天皇(宝皇女)の同母弟としている。しかし、「王権」の系譜が異なり、これはあり得ない。

 

 この後、645年「上宮王権」内部で「乙巳の変」が起き、12月に孝徳天皇大阪難波に移る。『日本書紀』孝徳紀に「(孝徳)大化元年(645年)12月、天皇、都を難波長柄豊崎に遷す。」とある。大阪市東区法円坂にある「難波長柄豊崎(宮殿)」が完成するのが651年である。654年に孝徳天皇崩御し、「大阪磯長陵(しながりょう)」に埋葬される。「豊王権」の陵墓である。用明天皇は「石寸の掖上」に、推古天皇は「大野の岡の上」に埋葬されていたが、後に、用明天皇はこの「科長(しなが)の中陵」に、推古天皇は「科長(しなが)の大陵」に改葬された、と『古事記』は記している。

<磯長谷古墳群>

 現在、磯長谷古墳群の多くの古墳の被葬者が比定されている。しかし、考えられない比定がされている。図の8番の叡福寺北古墳を聖徳太子の墓としているが、聖徳太子は「上宮王権」の皇子であり、「豊王権」の陵墓に埋葬されるはずはない。

 19番の古墳を孝徳天皇墓としているが、「豊王権」の墓はすべて「方墳」であり、「円墳」の19番古墳が孝徳天皇の墓であるはずはない。8番の叡福寺北古墳は聖徳太子の墓ではなく、孝徳天皇の墓である。また、11番用明陵古墳と16番推古陵古墳は、逆の比定になっている。

 天皇家万世一系とする現在の日本古代史では、王権の系譜を考えられないので、このような誤まった比定が生まれてしまう、と佃氏は述べる。

 

 今回は「物部麁鹿火王権」に続く「阿毎王権」、「豊王権」についての講演で、既存の日本史では、余り語られていない内容です。分かりにくいところは物部氏蘇我氏と上宮王権』(「古代史の復元」シリーズ⑥)に詳しい記述がありますので、参考にしていただきたいと思います。

 

 次回の第10回講演会は、6月4日(日)午後1時~4時、会場は今回と同じ「さいたま市宇宙劇場5階」で行われます。テーマは「上宮王権と法隆寺」で、興味深い法隆寺についてのことが話される予定です。ご期待ください。

                          (以上、HP作成委員会記)

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama