第7回古代史講演会レポート

テーマ:倭の五王」と日本、半島の征服

日時: 令和4年(2022年)9月25日(日)午後1時~4時

  <最初に>

 友の会の斉藤さんから今回の講演の概要の紹介があり、次回の第8回(11/27(日))のテーマ「磐井の乱とその後」の連絡があった。

 

 「倭の五王」については、中国南朝の宋(420~479年)の国書である『宋書』などに明確に記載されている。名前が漢字一字で表されている「倭国」の五人の王である、讃、珍、済、興、武が410年代頃から百年ほどにわたり日本や朝鮮半島などを支配していたこと、珍は讃の弟で、兄興と弟武は済の子であることも記されている。

 

 『宋書倭国伝の中で、478年に最後の倭王武朝貢して上表した文書(「上表文」)が長く記されている。その現代語訳を一部記そう。「封国(倭国)は偏遠で、藩を外になしている。昔から祖禰(父祖)がみずから甲冑をきて、山川を跋渉し、ほっとするひまさえなかった。東は毛人(蝦夷アイヌ)を征すること五十五国、西は衆夷(熊襲・隼人)を服すること六十六国、渡って海北を平らげること九十五国。王道はむつまじく平安であって、土をひらき畿をはるかにした。代々、中国に朝宗し、歳をたがえあやまることはなかった。臣(倭王武)は下愚ではあるが、かたじけなくも先緒をつぎ、統べるところを駆り率い、天極に帰崇し、…」(岩波文庫

 この「上表文」は、「卑弥呼」が書かれている魏志倭人伝ほどは知られていないが、「倭王」が五代に渡って力を尽くし、日本及び朝鮮半島を支配するようになったことが力強く述べられている。

 

 一方、日本の文献では、712年に提出されたとされている『古事記』、720年に完成されたとされる『日本書紀』が最も古いが、いずれにも倭王讃、珍、済、興、武の記載はない。

 「日本の歴史学」では、『記紀』に記された天皇が「倭の五王」に該当するとして、倭王讃応神天皇仁徳天皇などの説があり、倭王珍、済、興についても諸説がある。しかし、倭王武雄略天皇だけは間違いがないとして、これが現在、「日本の歴史学」の定説になっている。

 

 今回は、45ページに渡る説明資料、16ページの基礎資料が配布された。基礎資料は、『宋書倭国伝、松野連系図国会図書館マイクロフィルムに入っている資料を佃先生が20年前に見つけ、そのコピーを入手されたもの)、『古事記』に記された天皇の崩年干支の表、各地の古墳の編年表、石製表飾品や石棺の分布表など、佃説を裏付けるものになっている。

       (受付の沢山の資料)

 

【第1章 「倭の五王」の「倭国」の成立】

  <「貴国」の衰退と「倭讃・珍」の渡来>

 前回述べたように、364年「貴国」が筑前肥前を支配領域として樹立された。「貴国」はその後、朝鮮半島にも支配を拡大していく。高句麗の「好太王碑」に「辛卯年(391年)倭が海を渡り、百済新羅を臣民にした。」と書かれている。また、404年「倭は、不軌にも、帯方界に侵入し」407年、好太王は「歩騎五万を遣わし」、(倭と)「合戦し、斬殺蕩尽した。穫るところの鎧鉀(かぶとよろい)一万余領であった。」と記されている。「日本の歴史学」では、ヤマト朝廷が高句麗好太王と戦い、壊滅的な打撃を受けたとしている。「好太王碑」に記されている「倭」はヤマト朝廷ではなく、「貴国」であることをまず確認する必要がある。(後で見るように、瀬戸内海が啓海されるのは、5世紀後半(倭王興の時代以降)であり、この時代に近畿から朝鮮半島での大戦を戦うことはできない。)

 

 一方、中国の代表的な史書である『資治通鑑』によれば、卑弥氏の拠点の「倭城」がある「北平郡」で390年に大きな戦乱が起きている。

 この戦乱を避けるため、「倭讃・珍」の兄弟は、中国の大凌河上流の「倭城」から五島列島を通り、有明海に入り、「矢部川」を遡り、「福岡県八女郡広川町」に渡来し、この地域を拠点とする。

 

 「倭讃・珍」は、407年に壊滅的な打撃を受けた「貴国」を攻めて、410年頃、筑前肥前から「貴国」を追い出し、この地域を領土とする。「貴国」最後の天皇である仁徳天皇は難波(大阪)へ逃げる。「倭讃」は、412年頃広川町に「倭国」を建設し、直後の413年「晋」に朝貢する。(『晋書』安帝紀、『梁書』倭伝)「倭讃・珍」は卑弥氏であり、卑弥氏は卑弥呼のように、「倭国」を名乗り、「倭王」となる。


【第2章    「倭の五王」の在位】

  <「倭の五王」の在位>

  歴史を解明するには、時間と空間を解明することから始めるべきであり、最初に「倭の五王」の在位を確定することから始める。

(1)「倭王讃」の在位

 上に述べたことに加えて、「倭王讃」は421年、425年と宋に朝貢し、朝貢の後に讃が死んで弟の珍が立つとある。これらのことから、「倭王讃」の在位は「412年~426年」頃としてよい。

(2)「倭王珍」の在位

 「倭王珍」は430年、438年に朝貢している。443年には「倭王済」が朝貢しているが、「倭王」は即位すると直ちに朝貢していることから考えて、「倭王珍」の在位は「427年~442年」と考えられる。

(3)「倭王済」の在位

 「倭王済」は443年、451年、460年に朝貢している。『宋書倭国伝(462年)に「済死す。世子興、使を遣わして貢献す。…」とある。このことから、「倭王済」の在位は「443年~461年」であろうとする。

(4)「倭王興」の在位

 「倭王興」は462年、477年に朝貢している。478年には、上表文で有名な「倭王武」の朝貢がある。このことから、「倭王興」の在位は「462年~477年」であろう。

(5)「倭王武」の在位

 「倭王武」は478年に宋に朝貢し、502年に梁に朝貢している。「倭王武」の在位は「478年~502年以降」とすることができる。

 以上をまとめて、讃(412年~426年)、珍(427年~442年)、済(443年~461年)、興(462年~477年)、武(478年~502年以降)と整理する。

  <雄略天皇倭王武

 『日本書紀』では雄略天皇の在位は457年~479年である。『古事記』では崩年干支の「己巳」が記され、489年に死去したとされている。どちらを取るにせよ、倭王武の在位は502年以降も続いており、『記紀』に書かれた雄略天皇は、倭王武ではない。

 

 『日本書紀』雄略紀は457年~479年であり、倭王興の在位(462年~477年)とほぼ一致している。また、『宋書帝紀に462年3月「倭国王の世子、興をもって安東将軍と為す。」という記事がある。翌月の4月に呉(宋王朝)から使者が来る。倭王興にそのことを伝えるためである。一方、『日本書紀』雄略6年(462年)には「夏四月、呉国、使いを遣わして貢献する。」という記事がある。見事に、『宋書』と『日本書紀』の記事が整合している。

 このことなどから、『日本書紀』雄略紀は、倭王興の記録であると考えることができる。

 『日本書紀』雄略紀に、雄略8年(464年)身狭村主青(みさのすぐりあお)などが呉国に使いとして派遣された記事がある。次に、雄略10年(466年)身狭村主青などは、呉の献じた二つのガチョウをもって筑紫に到り、このガチョウは水間君の犬に噛まれて死ぬことが書かれている。身狭村主青などは、呉から帰国し「筑後の三潴(水間)」に上陸している。「筑後の三潴(水間)」から東に行くと「八女市」があり、「倭の五王」の本拠地がある。身狭村主青は「大和」に行くのではなく、「筑後」に帰ってきている。『日本書紀』雄略紀が倭王興の事績の記録であることを裏付けている。

 ここから、倭王讃、珍、済、興、武について順に見ていく。

 

【第3章 倭王讃

  <阿知使主(あちおみ)と『記紀』の年代>

 『日本書紀』応神20年9月、「倭漢の祖阿知使主(あちおみ)が其の子都加使主、並びに己のともがら十七縣を率いて来帰(く)る。」と書かれている。紀元前660年から始まるとされる『日本書紀』の年代では応神20年は西暦289年にあたる。この年の特定について、次に少し考察してみよう。

 

 『日本書紀』では神武天皇は127歳、崇神天皇は120歳、応神天皇は110歳まで生きたとされ(『古事記』でも優に百歳を越えている)、百歳を越える天皇は12人もいる。『日本書紀』の年代を史実と見る人はいないだろう。それでは、『記紀』に書かれた歴史的事件の年をどのように特定できるのか、という問題が生じる。佃説古代史では、『古事記』に記された特定の天皇の崩年干支に注目する。歴史学者の中でも、この崩年干支を基礎に自説を展開する人、崩年干支は余り信用しないほうがいいという立場の人がいる。応神天皇以降が信頼できるという人、雄略天皇以降が信頼できるという人と、学者によって見解はまちまちである。

 

 第10代崇神天皇の頃には、まだ日本列島に中国の干支に関する思想・知識が入っていないと思われるが、この第10代崇神天皇から第33代推古天皇までの中の15人の天皇に対してのみ、『古事記』に崩年干支が記されている。この崩年干支の記述を信頼するかどうかを一般的に論ずるのではなく、崩年干支が示す年を他の事件の年と比べて考察したり、中国や朝鮮半島史書に書かれた事件や年と比べて、崩年干支の年が信頼できるかどうか、検討していくのが佃説古代史である。(例えば、「古代史の復元」シリーズ④p214~)もちろん、同じ干支は60年ごとに現れるから、60年前後することの検討も必要になる。このような検討を加えた結果、推古天皇の崩年は信頼できない年になっており(75号「二つの「大化」年号」に詳述)、その結果をまとめたものが今回配布された「古事記の崩年干支」の表である。

 

 佃氏は『古事記』に崩年干支があるお陰で、日本古代史の実年代(定点)を知ることができる、と述べる。更に、『日本書紀』では特に応神紀と仁徳紀の時系列が混乱しているとして、考察を加え(「古代史の復元」シリーズ④)、応神20年は412年ころとする。

 

 ここで阿知使主の渡来に戻ろう。阿知使主が子の都加使主、並びに己のともがら十七縣を率いて来ているのは応神20年だったから、412年頃になる。このころは、倭王讃が「貴国」を追い出して、「倭国」を樹立した時期である。倭王讃が、中国から朝鮮半島へ逃げてきた人々を迎えている。

 

 『新撰姓氏録逸文に「阿智王(=阿知使主)が誉田(応神)天皇の御世、本国の乱を避け、母並びに妻子、同母の弟迂興徳、七姓の漢人等を率いて帰化する。」とある。続いて、「天皇、…、阿智王を号して使主と為す、仍りて大和国桧隈郡郷を賜り、之に居す。」また、「大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、落(村落)を挙げて随い来る。」とあり、「高向村主、…、飛鳥村主、…、牟佐村主、…、鞍作村主、…石村主…など(30の村主は)、是其の後なり。」と書かれている。

 大和に「桧隈郡」はなく、「桧隈」は佐賀県鳥栖市原古賀町の「日の隈(檜隈)」である。(79号参照)阿智王は肥前に来ている。肥前に30の村が誕生し、「飛鳥村」は「肥前の飛鳥村」であり、前に雄略紀のところで見た「身狭村主青」は「牟佐村主」の子孫であろう。

 

 応神37年に阿知使主は呉(宋王朝)へ派遣される。応神41年2月「天皇、明宮に崩ず。是月、阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等を乞う有り。故、兄媛を以って胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫国に在る御使君の祖なり。すでにして其の三婦女を率いて以て津国に至り、武庫に及ぶ。而して天皇、之に崩じ、及ばず。」と『日本書紀』にある。先に触れたように、応神紀では百済の直支王が死去したという記事の14年後の記事に直支王がその妹を朝廷に遣わしたという記事があるなど、時系列がまったく混乱している。このようなことを勘案すると、応神37年は422年であり、応神41年は426年となる。(「古代史の復元」シリーズ④参照)

 

 422年に中国の状況に詳しい阿知使主は呉王朝に派遣され、426年に帰国する。この時代は倭王讃の時代であり、倭王讃の命令によって派遣されている。帰国については、「呉より筑紫に至る」「津国に至り、武庫に及ぶ」とある。「津国」は島原半島であり、「武庫」は佐賀市諸富町諸富津である。有明海に入り、筑後川の「諸富津」に上陸している。倭王讃の本拠地である八女郡広川町に向かっている。「而して天皇、之に崩じ、及ばず。」とあるように、帰国報告をする直前に倭王讃は死去する。

  <称号「連」と倭王讃の墓>

 この後、物部氏の歴史を記している『先代旧事本紀』を考察して、「宿禰」の称号が「貴国」の称号であったように、「連」は倭王讃が制定した「倭国」の称号であることを述べる。

           石人山古墳頂上の石人

 

 「石人山古墳」は八女郡広川町にある全長130mの前方後円墳であり、5世紀前半の古墳である。頂上に「石人」が立てられていたことから、このように名づけられた。「倭王讃」は426年頃死去している。石人山古墳は倭王讃の墓であろう。「石人」は優れた石工技術で作られている。日本列島にはこのような石工技術は存在せず、倭王讃・珍が石工技術をもたらした。「石人・石馬」は肥後や豊後まで広がっており、「倭王権」が中部九州を支配していることを示している。

 

 倭王讃は、「倭城」から渡来した卑弥氏であり、八女郡広川町を本拠地とし、中部九州を支配して「倭国」を建設する。宋に朝貢して倭国の王として冊封を受け、阿知使主(あちおみ)などの渡来人を肥前に受け入れている。石人山古墳がその墓である。

 

【第4章 倭王珍

  <倭王珍朝貢と倭隋>

 426年に倭王讃が死去して、427年に弟の倭王珍が即位し、直ちに宋へ朝貢する。「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に除せんことを求む。詔して並びに聴(ゆる)す。」(『宋書』)

 

 珍は自らの官爵以外に、「倭隋」等十三人の将軍に対しての将軍号を求めている。筆頭の「倭隋」は「倭」という王族の姓を持っている。「倭王」と同族であり、佃氏は「讃・珍」と従兄弟ではないかとする。「平西」将軍とは、「西を平定する」将軍の意味であろう。

          復元された江田船山古墳の原型

 

 「江田船山古墳」は熊本県玉名郡和水町大字江田にある前方後円墳で、全長62m、盾形の周掘をめぐらし、円筒埴輪を樹立している。この古墳では追葬が2回行われていて、3人が埋葬されている。何れの埋葬でも副葬品に王冠があり、王の墓になっている。その時期は、初葬(古層)が5世紀後半、追葬(1回目)5世紀末~6世紀初頭、追葬(2回目)が6世紀後半となる。倭隋は倭王讃にも倭王珍にも仕えている。讃は426年に死去し、珍は442年に死去している。このことから倭隋が死去するのは「440年~450年」頃であろう。墓が作られるのは、5世紀後半になる。倭隋は「江田王」となって、江田船山古墳に初葬者として埋葬されている。

 

 石人山古墳の石棺は「妻入横口式家型石棺」である。石人山古墳の石材は熊本県菊池川下流域から運ばれてきている。菊池川下流域には、江田船山古墳がある。江田船山古墳の石棺も「妻入横口式家型石棺」である。「横口式家型石棺」は「倭王権」の石棺であり、有明海沿岸に多く分布している。倭隋は倭王讃の石棺を江田で造り、八女古墳群まで運んでいる。倭王讃の石棺の蓋には素晴らしい直弧文が彫ってある。

 

  <倭王珍による「西日本」の征服>

 菊池川下流域産石棺の分布を調べると、5世紀中葉に四国に運ばれていることが分かる。愛媛県蓮華寺石棺、香川県観音寺円山古墳の石棺などである。「倭王珍(427年~442年)」の時代に、西日本の征服が始まる。「平西将軍」の倭隋が実行し、「四国ルート」を支配した武将は、死去するとき、故郷の菊池川下流域から石棺を運んでいると考えられる。

                         古市古墳群


 古市古墳群大阪府藤井寺市から羽曳野市古市にかけて築かれた123基の古墳からなっている。4世紀末に津堂城山古墳が造られ、5世紀前半から中頃にかけて仲津山古墳、古室山古墳、誉田山古墳(現応神陵)、古市墓山古墳、市野山古墳がほぼこの順に造られたとされている。(古市古墳群HP)

 4世紀後半に、津堂城山古墳の主が「古市」地方を支配して、「古市王権」を樹立し、4世紀末に津堂城山古墳が造られる。その後、仲津山古墳、古室山古墳、誉田山古墳(現応神陵)、墓山古墳が造られていく。(71号「王権と古墳」参照)

 

 次に造られるのは、市野山古墳(5世紀中葉から後葉)である。この古墳には陪塚があり、陪塚から菊池川下流域産石棺である「北肥後Ⅰ型舟形石棺」が出土している。

 

 「江田王」は江田船山古墳を墓とした。「江田王の二代目」も倭王珍のもとで「平西将軍」を引き継ぎ、「四国ルート」を開拓し、大阪まで征服している。市野山古墳は、「倭国」の将軍である「江田王の二代目」の墓と考えられる。

 市野山古墳は、その前に造られた墓山古墳と同じ設計で造られている。「江田王の二代目」は「古市王権」を征伐した後、墓山古墳を造った工人に自分の墓を造らせているのであろう。

           [ ここで、10分間の休憩に入る ]

   倭王珍の墓>

 更に興味深いのは、大阪市茨木市にある5世紀中葉の太田茶臼山古墳(伝継体天皇陵)である。この古墳は、市野山古墳とまったく同形・同大である。外側には盾形の素晴らしい周濠がめぐっており、市野山古墳より上位の人物の墓と考えられる。倭王珍の在位は427年~442年であったので、その墓は5世紀中葉に造られる。この古墳の被葬者は倭王珍であり、「江田王の二代目」が墓山古墳の工人に造らせている。    

         盾形周濠が巡る太田茶臼山古墳

 

 倭王珍は「四国ルート」を開拓し、大阪府茨木市藤井寺市まで征服し、西日本を支配した偉大な王であり、太田茶臼山古墳がその墓であると言える。また、市野山古墳は「江田王の二代目」の墓である。

 

【第5章 倭王済

  <倭王済朝鮮半島

宋書』(425年)によれば、倭王珍は「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求」めた。しかし、宋からは「詔して安東将軍倭国王に除す」とだけ認められた。同時に、「珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に除せんことを求」め、これに対しては「詔して並びに聴(ゆる)す。」と認めた。

 

 一方、倭王済は443年に即位し、直ちに宋に朝貢する

宋書』(443年)「倭国済、使を遣わして奉献する。復た以て安東将軍倭国王と為す。」

宋書』(451年)「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東大将軍は故の如く、并びに上(たてまつ)る所の二十三人を軍郡に除す。」

 

 倭王済の最初の朝貢では、倭王珍の時と同様に認められなかったが、451年の朝貢では「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が宋から初めて認められている。

 宋に認められなかったが、倭王珍も「自ら使持節・都督、倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍・倭国王と称し、表して除正せられんことを求」めているのであり、すでに朝鮮半島に進出している。

 

 倭王讃・珍は390年頃、倭城から筑後の広川町に渡来している。この頃は「貴国」の全盛期であり、朝鮮半島に進出しているのは「貴国」である。その後、「貴国」は407年の戦いで高句麗好太王との戦いで壊滅的な敗北を喫した。倭王讃・珍は「貴国」を攻め、「貴国」の最後の天皇である仁徳天皇を追い出し、「貴国」の支配している土地は「倭国」の領土とする。(好太王は412年に死去している。)

 倭王珍は、「四国ルート」を開拓して、「西日本」の支配を拡大している。しかし、朝鮮半島での軍事的支配を拡大していく余裕はなく、「貴国」から支配を受け継ぐ以上のことはできていないと思われる。このような事情のため、宋は倭王珍による朝鮮半島の支配を認めなかった、と考えられる。

 

 『日本書紀』雄略8年(464年)「新羅王、人を任那王のもとに使わし曰く、「高麗王、我が国を征伐す。…伏して救いを日本府の行軍元帥等に請う」という。新羅王が「任那日本府」に救いを求めている。464年より前に「任那日本府」は設置されている。451年の朝貢で、倭王済新羅任那に対する支配が宋から認められていることからも、倭王済が「任那日本府」を設置していると考えられる。

 

 『日本書紀』欽明五年(544年)「三月、百済、…を遣わして上表して曰く、早く任那を建てるために日本府と任那とを召す。…久しくても来ず。…それ任那は安羅を以って兄と為し、唯その意に従う。安羅人は日本府をもって天と為し、唯その意に従う。」

この記事から、「任那日本府」は「安羅国」にあり、任那諸国(10国)を支配していることが分かる。

 倭王済が「任那日本府」を設置し、朝鮮半島を軍事的に支配している。このことを認めたため、宋王朝倭王済を「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に除している。

 なお、この中に百済が入っていないのは、百済は416年に「鎮東将軍」を、420年には倭王済より上位の「鎮東大将軍」の将軍号を宋から与えられているためである。

  <近畿地方の征服>

 5世紀代の近畿地方の有力古墳は河内地方に集中している。5世紀後半から河内地方では九州の菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺が入るようになり、5世紀末から6世紀初頭に阿蘇ピンク石製の舟形石棺が持ち込まれ、この段階では、もう菊池川産の石棺は入っていない。阿蘇ピンク石製舟形石棺は熊本県宇土市付近で造られた石棺である。配布された資料表3の「九州外阿蘇石製石棺の変遷」の表を見ると、阿蘇ピンク石製石棺は5世紀後半頃から始まり、最初に480年頃「備前」で埋納されている。

 

 『日本書紀』雄略7年(463年)に次の記事がある。吉備下道前津屋は少女を以って天皇の人とし、大女を以って己の人とし、相闘わし、もし、少女が勝つと殺したという。また、小鶏を以って天皇の鶏とし、毛を抜き羽を切り、大雄鶏を以って己の鶏とし、闘わせて、小鶏が勝てば刀を抜いて殺したという。これを聞いた天皇は、物部の兵士三十人を派遣して、前津屋および族七十人を誅殺したという。この記事は、「吉備」が支配されたことを表している。

 

 倭王興の在位は462年~477年である。興は即位すると直ちに「吉備」を征服する。480年頃「備前」に埋葬された阿蘇ピンク石製石棺は、「吉備」や「備前」の中国地方を征服して、そこに駐留した武将の墓と考えられる。

 

 倭王済の在位は443年~461年であり、後に第7章倭王武のところで詳しく述べるが、子である倭王武の在位は478年~525年である。武は461年以前に生れているから、64歳以上の長寿ということになる。このことから、倭王武は済が死去する直前に生れているのであろう。

 

 さて、江田船山古墳は筆頭将軍の倭隋の墓であった。倭隋は「平西将軍」として西日本を征服していた。江田船山古墳の「追葬1」に鉄刀が発見され、嶺に銀象嵌で有名な銘文が刻まれている。最初この銘文には読み取れない文字があったが、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文が昭和53年に解読され、それと照し合せた結果、この鉄刀の銘文が解読された。

 

 「治天下獲加多鹵(ワカタケル)大王世、奉事典曹人名无利弖(ムリテ)」で始まる銘文である。「治天下」である獲加多鹵(ワカタケル)大王」に「无利弖(ムリテ)」という名の「典曹人」が仕え、四尺延刀八十錬などを作る。この刀を服する者は長寿、子孫は三恩を得、其の統ぶる所を失わない、と書かれている。「典曹人」は「文官」である。最初の被葬者の倭隋は「武官」であったが、「追葬1」の被葬者の「无利弖(ムリテ)」は「文官」である。「追葬1」の年代は5世紀末~6世紀初頭である。「无利弖(ムリテ)」は埋葬される15年~20年前頃に活躍しているだろうから、活躍の時期は5世紀後半頃で、丁度「ピンク石製石棺」が出現する時期といえる。

 

 江田船山古墳の「追葬1」では、「獲加多鹵(ワカタケル)大王」に「无利弖(ムリテ)」が「典曹人」として仕えたとあった。第6章 倭王興で、埼玉古墳群の稲荷山古墳から発掘された鉄剣の銘文について詳しく論ずるが、この銘文は、被葬者が「杖刀人」として「獲加多鹵(ワカタケル)大王」に仕えたとある。「獲加多鹵(ワカタケル)大王」は、九州から関東までを支配している。このことから、「獲加多鹵(ワカタケル)大王」は倭王武と考えられる。兄の倭王興が即位したときはまだ赤ん坊か幼年であり、即位してからも少年時代の呼び名「ワカタケル(若武)」で呼ばれたのではないか、と佃氏は述べる。

 

 倭王済は征服活動のため近畿地方に来ている。幼い武(ワカタケル)を育てることができない。そこで、同族であり最も信頼のできる「倭隋」の子孫に養育を任せたいと考えた。そのために、「倭隋」の子孫を「武官」から「文官」にして、本拠地に招いた。それが「无利弖(ムリテ)」である。

 そのために「倭王権」の武官は「江田王」から「宇土王」に交代する。「宇土王」配下の武将は故郷の石棺であるピンク石製石棺を求める。これが、5世紀末から6世紀初頭に、菊池川付近で造られた阿蘇石製舟形石棺に代わって、ピンク石製の舟形石棺が持ち込まれるようになった理由と考えられる。

 

  <倭王済の墓>

 畿内における大型の前方後円墳は「河内」の「岡ミサンザイ古墳」を最後に築かれなくなる。「岡ミサンザイ古墳」は「古市古墳群」にあり、墳丘長242mで、円筒埴輪、形象埴輪があり、幅の広い盾形周濠がめぐっている。この古墳のHPでは5世紀末~6世紀初とされているが、Wikipediaでは5世紀後半となっている。

        盾形周濠が巡る岡ミサンザイ古墳

 

 古市古墳群は「江田王二代目」が征服し、市野山古墳は「江田王二代目」の墓であった。「岡ミサンザイ古墳」は市野山古墳の後に造られている。しかも、市野山古墳と同じ型の前方後円墳である「倭王権」の墓である。市野山古墳の墳丘長は230mであるから、これより大きく、「倭王権」の「王墓」と考えられる。「岡ミサンザイ古墳」は宮内庁から仲哀天皇の陵とされているが、「倭王済」の墓とするのが妥当である。

 

 倭王済は、朝鮮半島での支配を拡大し、「任那日本府」を設置している。宋王朝から初めて「使持節都督、倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」に除された。その墓は、河内の「岡ミサンザイ古墳」である。

         

【第6章 倭王興

  <倭王興の征服>

 前章で触れたように、興は即位すると直ちに「吉備」を征服する。中国地方を征服すると、「四国ルート」に代わり港が大きい「中国地方ルート」を確保でき、大軍を派遣することが可能となる。倭王済は「宇土王」に近畿地方の征服を命じている。倭王興は父の意思を継いで近畿地方の征伐を進める。

 

 『日本書紀』雄略17年(473年)3月に次のような記事がある。天皇は土師連に、朝夕の食事を盛る清浄な器を作る者を進上するよう仰せられ、「土師連の祖である吾筍(あけ)は摂津国の来狭狭村、山背国の内村・附見村、伊勢国の藤形村、及び丹波・但馬・因幡の私の民部を進(たてまつ)る。」前に述べたように、雄略紀は、倭王興の事績を述べたものである。この記事から分かるように、倭王興は473年以前に、摂津、山背、丹波、但馬、因幡などの日本海沿岸地方を征服している。

 

 河内(近畿地方)では、5世紀末になると、菊池川流域の舟形石棺に代わって阿蘇ピンク石製舟形石棺が入ってきた。九州外阿蘇石製石棺の分布(高木恭二1993)を見ると、宇土半島産石棺の項目に、金谷ミロク谷石棺(桜井市)、兜塚石棺(桜井市)、野神石棺(奈良市)などがある。5世紀末の「宇土王」の武将の墓だと思われる。倭王興は、中国地方を開拓すると、日本海沿岸地方、近畿地方まで征服している。

 

 次に群馬県(上毛野)にある多くの古墳群を見て、A~Eの5つの古墳群に分類する。A:高崎市浅間山古墳を中心にした古墳群(5世紀初)B:太田市の太田天神山古墳を中心にした古墳群(5世紀前半)C:高崎市の不動山古墳を中心にした古墳群(5世紀後半)D:高崎市保渡田地方の二子山古墳を中心にした古墳群(5世紀末)E:前橋市の前二子古墳を中心にした古墳群(6世紀)である。

 Cグループの岩鼻二子山古墳、不動山古墳は「舟形石棺」である。この石棺は形状は少し異なるが「北肥後Ⅰ型」である。故郷の石棺で埋葬されたいと願うが、玉名から運ぶのは大変なので、関東の石工に作らせたと思われる。Cグループは「熊本県玉名」から派遣されて、高崎市に来て、Aグループ、Bグループ(古市王権)を征服していったと考えられる。5世紀後半、「倭王権」は高崎市まで侵攻している。

 Dグループの二子山古墳などから「舟形石棺」が出土している。「倭王権」の「江田王」が造る石棺であり、やはり「玉名」から来ている。この古墳が誕生すると、群馬県の他の地域での古墳の築造が終わる。Dグループは本格的な討伐隊であろう。

 Eグループの古墳は「Ⅲ型前方後円墳」であり(76号)、「倭王権」の古墳である。このグループの進出により群馬県内の古墳は「横穴式石室」となる。このグループは、Dグループも吸収して、群馬県全域を支配する。

 

 「舟形石棺」から「江田王」の子孫が関東地方を征伐していることが分かる。倭王興は、関東地方に来ている。倭王興は「中国地方ルート」を開拓し、日本海沿岸地域、近畿地方、東日本を征服した偉大な「大王」である。

 

  <継体天皇と今城塚古墳>

 今城塚古墳は古墳時代後期(6世紀前半)の淀川流域では最大級の前方後円墳で、総長350mあり、墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されている。この古墳は継体天皇の墓であると言われている。『古事記』に継体天皇の崩年干支と年齢が記されている。これによれば、484年に生まれ、527年に43歳で死去している。年代的にも合致しており、今城塚古墳は継体天皇の墓と考えられる。

ところが、この古墳から「阿蘇ピンク石製石棺」の破片が出土している。そうすると、この古墳は「宇土」出身の「王」の墓ということになる。こうなる事情を考察してみよう。

 

 『日本書紀継体天皇即位前紀に次の記述がある。継体天皇の父は振姫が美人であることを聞いて、近江国高嶋郡三尾の別業(別邸)から使いを遣わして三国の坂中井に聘(むか)えて妃と為す。遂に(継体)天皇を生む。「継体天皇の父」は別邸で天皇を生んでいて、「継体天皇の父」の出自は明らかにされていない。

 今城塚古墳からは、「宇土のピンク石片」と「二上山白石片」「竜山石片」が採取されており、「宇土のピンク石製石棺」が最初に納められたという。「継体天皇の父」は「宇土」の出自ではないだろうか。「宇土」から「近江」へ派遣されて、死去するとき「宇土」から石棺を取り寄せているのではないか。

 

 一世代23年~25年として、継体天皇の崩年から見てみると、「継体天皇の父」は502年~504年くらいに死去していることになる。50歳で死去したとすると、生れは450年頃になる。460年頃に倭王済は「宇土王」に近畿地方の征伐を命じている。「継体天皇の父」は10歳くらいである。そうしてみると、「宇土王」は「継体天皇の祖父」と考えられる。

 「継体天皇の祖父」が「宇土王」ではないだろうか。30歳くらいで「宇土王」に任命されている。480年頃死去して、「継体天皇の父」に後を引き継いでいる。その後、「継体天皇の父」は活躍して、500年頃死去して、今城塚古墳が造られる。故郷の宇土から「阿蘇ピンク石製石棺」が運ばれた。したがって、継体天皇は父の今城塚古墳に追葬されたことになる。

  <倭王興の墓>

 埼玉古墳群には、丸墓山古墳、稲荷山古墳、二子山古墳など多くの古墳がある。「5世紀末から6世紀末の100年間にわたって、狭い地域に大型古墳群が周濠を接するような近さで、一貫した計画性を以って次々と築造されたのは何故か。大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない二重周濠が、巡らされているのは何故か。中堤(ちゅうてい)に造り出しを持つ古墳が多いのは何故か。」とHPに記されている。

   

     稲荷山古墳


 その中で、金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳は全長120m、5世紀末の築造で、前方後円墳の後円部の頂上から2つの埋葬施設が発見された。一つは粘土槨で、もう一つは船の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けその底に棺を置いた礫槨(れきかく)である。礫槨からこの金錯銘鉄剣と多くの遺物が出土しており、馬具や武具の出土から、被葬者は武人であったことが分かる。

 

 この鉄剣には金象嵌の銘文が剣の表と裏に刻まれている。「辛亥年七月中、記す。乎獲居(オワケ)の臣。上祖、名は意冨比垝(オオヒコ)其の児、多加利足(タカリノスクネ)…、世世、為(なり)杖刀人の首と、奉事し、来至今(きたりいまにいたり)、獲加多支鹵(ワカタケル)大王…作(つくらしめ)此(の)百錬(の)利刀(を)記(す)吾(が)奉事(の)根原(を)也」と読まれている。

 

 祖先の「意冨比垝(オオヒコ)」から始まって、8代目に当たる「乎獲居(オワケ)の臣」が、代々「杖刀人の首として、奉事し」、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の治天下を」助けた。「此(の)百錬(の)利刀(を)」を作って、「吾(が)奉事(の)根原(を)記す、というものである。

              金錯銘鉄剣

 「意冨比垝(オオヒコ))=「大彦」である。「大彦」は「倭城」の「卑弥氏」で、285年頃、崇神天皇を遼西から日本に連れてきた人物で、崇神天皇のもと越の国で四道将軍となっている。「大彦」の子孫では倭城に留まった人も居た。「倭讃・珍」は390年頃、倭城から筑後の八女郡広川町に来て、「倭国」を樹立する。関東地方は「倭王権」が征服している。したがって、「乎獲居(オワケ)の臣」は「倭王讃・珍」とともに「倭城」から逃げてきた人物の子孫と考えられる。

 

 鉄剣が出土した稲荷山古墳の礫槨は古墳の頂上に造られており、「追葬墓」である。2016年にレーザー探査が行われた。後円部の中軸線上の深さ2.5mのところに長さ4m、幅3m、厚さ最大1mの石棺がある。巨大な石棺が埋められており、王の墓と思われ、稲荷山古墳の主の石棺である。この古墳の築造が5世紀末、倭王興の在位が462年~477年であることを考えると、稲荷山古墳は倭王興の墓であろう。金錯銘鉄剣が出土した礫槨は追葬であり、鉄剣に刻まれた「辛亥年」は531年である

 

 この「辛亥年」を「歴史学」「考古学」では、60年前の471年としている。鉄剣には、「乎獲居(オワケ)の臣」は、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が天下を治めるのを助けた、と刻まれている。「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」=「倭王武」が即位するのは478年であり、471年にはまだ即位していない。大王は天下を治めているのであるから、「辛亥年」は531年である。

  <倭王興百済

 475年に百済高句麗に滅ぼされる。『日本書紀』雄略二十一年(477年)三月、「天皇百済が高麗の為に破られると聞いて、久麻那利(くまなり)を以て汶州王に賜いて其の国を救い興す。」

 

 倭王興はその年の477年に「埼玉」で死去して稲荷山古墳に埋葬される。倭王興は「汶州王」に朝鮮半島の土地を与えて百済を再興する。倭王興は関東にいるから、報告を聞いて、指示を出していたのだろう。興は本拠地(八女市)にいる「弟のワカタケル」と何度も連絡を取り合うことになる。それが、百済再興に「2年」かかった理由ではないか、と佃氏は述べる。

 

 倭王興は、瀬戸内海の「中国地方ルート」を開発し、関東まで支配を拡大し、稲荷山古墳に埋葬される。また、朝鮮半島の土地を与えて、高句麗に征服された百済を再興する。

 今回はここまでで、この続きの第7章 倭王武は、次回(第8回)に講演される。

                             (HP作成委員会記)

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama

   日本古代史の復元 -佃收著作集-