第10回古代史講演会レポート

<テーマ>  上宮王権と法隆寺

<日時>   2023年6月4日(日)午後1時~4時

<会場>   さいたま市宇宙劇場5階   

<最初に> 

 「友の会」の斉藤さんから今回の講演についての説明があった。表題の上宮王権は、591年に阿毎王権から独立し、肥前に本拠地をもつ王権である。現在の歴史学ではほとんど知られていないが上宮法皇を始祖とし、その皇太子が聖徳太子である。聖徳太子の姪が皇極天皇で、その子が天智天皇であるという系譜が話された。

 

 一方、もう一つのテーマである法隆寺については、『日本書紀』に670年に完全焼失したと書かれている。だが、法隆寺の建築様式は古い様式であることなどによって、670年よりも前に建てられていると指摘され、法隆寺再建、非再建の論争が巻き起こった。現在の歴史学の通説では、新しく再建されたとしている。

 ところが、五重塔の心柱のヒノキは594年に伐採されたものであり、金堂の中央の天蓋も606年に伐採されたものであることが精確に分かっていて、整合性がつかない状態におかれている。

 

 佃説日本史では、法隆寺聖徳太子を祀る寺ではなく、上宮法皇を祀る寺であり、670年~710年の間に肥前から移築されたと考えている。建築家で古代史研究家の米田良三さんも、法隆寺の九州からの移築説を唱えている。

 

 通説とは異なるが、しっかりとした論拠を示しておられるので、是非、皆さんの歴史を深める一助にしていただきたい、と斉藤さんは話された。

 

 次回は9月3日(日)にこの会場(さいたま市宇宙劇場5階)「天武王権」というテーマで予定していること、11月か12月に次々回を、さらに3月に最終回を予定していることが伝えられた。

 

 今回の講演内容は、大きく区分すると、(A)上宮王権(B)上宮王権の樹立(C)法隆寺の移築の3つに分けることができる。(A)上宮王権については、『新「日本の古代史」(佃説)』(略して『通史』)の第4章 上宮王権(佃説)を使って、話された。(B)上宮王権の樹立(C)法隆寺の移築については、今回配布された23ページの資料を使って講演された。

 

(A)上宮王権

法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘>

               法隆寺金堂と五重塔

 現在の法隆寺金堂の中に入ると、内陣には、下の図のように仏像が安置されている。

  

 

 法隆寺金堂は釈迦(如来)三尊像を本尊とし、向かって右に薬師如来像、左に阿弥陀如来像を従えている。三つの仏像には光背があり、光背裏面には、それぞれ銘が刻まれている。最初に本尊の釈迦三尊像の光背銘について確認する。

漢文で書かれた内容を箇条書きにしてみる。

① 法興元31年(621年)12月、鬼前太后崩ず。 ② 明年(622年)正月、上宮法皇枕病してよからず。 ③ 干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。 ④ 王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る。この願いの力を蒙り、病を転じ、寿を延ばし、世間に安住されんことを。 ⑤ 2月21日、王后、即世す。翌日(2月22日)、法皇、登遐す。 ⑥ 癸未年(623年)3月中、願いの如く釈迦尊像ならびに侠侍及び荘厳の具を造りおわる。 ⑦ 使司馬鞍作止利仏師造る。

 

 622年2月22日に上宮法皇崩御し、623年3月に法隆寺は上宮法皇を祀る寺として完成する。後に触れるように、聖徳太子は621年2月5日に死去している。法隆寺聖徳太子を祀る寺ではない。

 

 ④ に、王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る、とある。(C)法隆寺の移築のところで詳しく述べるが、上宮法皇の「尺寸の王身」として造られたのは、法隆寺夢殿に安置されている救世観音像である。救世観音像についての記録として、『法隆寺縁起資材帳』の中に「上宮王等身観世音菩薩木造壹躯 金薄押 天平宝字5年(761年)10月1日」という記載がある。光背から台座まで金箔が貼られていた救世観音像は、上宮法皇の「等身」の像である、と記載されている。

 

 光背銘の冒頭「法興元丗一年(31年)歳次辛巳12月」で始まる「法興」は年号であり、「辛巳」は621年である。法興31年が621年であるから、「法興元年」は591年である。『伊豫国風土記逸文』にも「法興6年歳次丙辰(596年)」に法王大王が、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙したと書かれており、「法興」が年号であり、「法興元年」が591年であることを裏付けている。

 

 上宮法皇が建てた年号「法興(591~622年)」は、阿毎王権の建てた連続した年号「貴楽552~569年」-…-「端政(589~593年)」-「告貴(594~600年)」-「願転(601~604年)」-「光元(605~610年)」-…と重なっている。「法興」は阿毎王権に属さない年号である。上宮法皇は、阿毎王権とは別の王権を樹立し、年号「法興」を建てていることが分かる。

 

 次に、年号「法興」を建てた年の『日本書紀』崇峻4年(591年)8月と11月の記事に注目する。8月、天皇は群臣に任那復興を持ち出して、11月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍として、二萬餘の軍を筑紫に出している。続いて、(推古)3年(595年)7月、将軍等、筑紫より至る、とある。

 

 任那は562年に滅亡しているから、30年後の復興はあり得ない。「二萬餘の軍を筑紫に出す」理由付けのために「任那復興」と書かれたものである。紀男麻呂宿禰以下の4人の大将軍はほとんどが肥前の人であり、肥前から派遣されている。後に触れるが、物部守屋討伐(587年)の後、阿毎王権と上宮法皇の勢力は対立が深まる。上宮法皇の王権の樹立を阻止しようとする阿毎王権と上宮法皇の戦いのため、上宮法皇肥前の大将軍たちを率いて、筑紫に二萬餘の軍を出す。だが、戦いはなかった。そのことにより、新たな王権が樹立される。その結果、(推古)3年(595年)7月、将軍等は筑紫から(肥前に)帰ってくる。また、「法興6年歳次丙辰(596年)」には、上宮法皇は、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙して、温泉で骨休みをしている。二萬餘の軍の大将軍はほとんど肥前の人であり、上宮法皇の本拠地は肥前であることがわかる。

 

 <上宮王家>

 上宮法皇が創始した王権の人々にはどんな人々が居たのだろうか。『日本書紀』には、用明天皇が穴穂部間人皇子を皇后として、厩戸皇子を第一子とし、第二子を来目皇子、第三子を殖栗皇子、第四子を茨田皇子とし、第一子の厩戸皇子は初め上宮に居て、後に斑鳩に移る、と書かれている。

 

 厩戸皇子は595年に渡来した高麗の僧「慧慈(えじ)」を師として仏法を学び、「慧慈(えじ)」はその後、高麗に帰っている。

 『日本書紀』(推古)29年(621年)2月5日、半夜に厩戸皇子斑鳩宮に薨る、とある。「高麗の「慧慈」は上宮皇太子薨ると聞いて大いに悲しむ。」と書かれ、「慧慈」は「其れ一人生きるとも何の益あらむ。我、来年の2月5日を以て必ず死なむ。」と述べ、「是に「慧慈」、期日(2月5日)に死す。」と書かれ、「其れ独り上宮太子のみ聖に非ず。慧慈も亦聖なり。」と締めくくっている。

 

 この記事に、厩戸皇子は「上宮皇太子」であると書かれているように、厩戸皇子は上宮法皇の皇太子であり、621年2月5日に死去している。外国の高僧が命日に合わせて死去しているのであるから、年や日を間違えるはずがない。一方、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘が記すように、上宮法皇は622年2月22日に崩御している。『日本書紀』は上宮法皇を歴史上から抹殺して記録しているから、厩戸皇子用明天皇の子にしている。

 

 田村皇子(舒明天皇)は宝皇女(皇極天皇)の夫である。『大安寺伽藍縁起并流紀資材帳』(以下『大安寺縁起』と略)に田村皇子が上宮皇子(厩戸皇子)を見舞うときの次の記述がある。上宮皇子が言う。「愛わしきかな。善かな。汝、姪男。自ら来たり吾が病を問うや。…」天皇、臨崩の日に、田村皇子を召して遺詔す。「朕、病篤し。今、汝、極位に登れ。宝位を授け上宮皇子と朕の羆擬寺を譲る。仍りて天皇位に即く。」

 上宮皇子(上宮皇太子)は田村皇子を「汝、姪男」と言っている。宝皇女(皇極天皇)は上宮皇子の姪であることが分かる。また、田村皇子を召して遺詔している天皇は、宝皇女(皇極天皇)の父である。久米皇子は603年に死去しているから、殖栗皇子茨田皇子である。ここでは、三男の殖栗皇子としておこう。

 

 上宮法皇が樹立した王権を「上宮王権」と呼ぶことにする。591年に上宮法皇は「上宮王権」を樹立する。上宮王権の系図は下の図のようである。

       

<上宮王権の本拠地と舒明天皇

 605年、上宮皇太子は上宮王権の本拠地から斑鳩に移る。(推古)14年(606年)7月、天皇、皇太子に請い、勝鬘教(しょうまんきょう)を講(と)かしむ。…是歳、皇太子、亦法華経岡本宮において講(と)く。天皇、大いに喜び、播磨国の水田百町を皇太子に施(おく)る。因りて、斑鳩寺に納める。(『日本書紀』)

 

 「皇太子」は上宮皇太子(厩戸皇子)であり、天皇は上宮法皇である。「岡本宮」は上宮法皇の宮であり、上宮皇太子(厩戸皇子)は上宮王家の本拠地に戻り、法華経を講(と)いている。岡本宮は「肥前の飛鳥」にある。

 

 『日本書紀』(舒明)2年(630年)10月、天皇、飛鳥岡の傍らに遷る。これを岡本宮と謂う。「岡本宮」は上宮法皇の宮である。田村皇子(舒明天皇)は即位すると、上宮法皇の宮殿に移っている。岡本宮は「飛鳥岡」の傍らにあるという。岡本宮は「肥前の飛鳥」(三養基郡みやき町西尾・東尾)にある。

 

 (舒明)11年(639年)7月、詔して曰く「今年、大宮及び大寺を造作す」という。即ち百済川の側を以て宮處(みやどころ)と為す。(舒明)12年(640年)10月、百済宮に徒(うつ)る。(『日本書紀』)

 天皇位11年歳次己亥春2月、百済川の側の子部社を切排し、院寺家、九重塔を建て、三百戸を封じ入れ賜う。号して百済大寺という。(『大安時縁起』)

 舒明天皇は629年に上宮王家の天皇として即位し、翌630年に上宮王権の宮殿である岡本宮に住む。ところが、639年には肥前の宮處(みやどころ)に新しく百済大宮、百済大寺を建てて移り住む。

 

 (舒明)13年(641年)10月、天皇百済宮に崩ず。宮の北に殯(もがり)す。これを百済の大殯という。この時、東宮開別皇子(中大兄),年十六にして誄(しのびごと)す。(『日本書紀』)舒明天皇にはすべて「百済」が付いている。舒明天皇は「百済人」であろう。

 

 さて、翌642年に舒明天皇の葬儀が行われる。百済に使者として行っていた阿曇連比羅夫は百済の弔使をつれて筑紫まで来る。阿曇連比羅夫は筑紫国より駅場に乗って来たと言い、「臣、葬に仕えむと望み、故に独り来たれり」と述べる。(『日本書紀』)比羅夫は葬儀に仕えたいので、百済の弔使を筑紫に残して、駅馬に乗り一人で来たという。舒明天皇の葬儀は、筑紫から馬で行けるところで行われている。大和ではなく、九州で行われている。舒明天皇が「大宮」や「大寺」を造ったところを「宮處(みやどころ)」といった。肥前国神埼郡に「宮処(美也止古呂)」がある。神埼郡の位置は「筑紫の国より駅馬に乗り、先に独り来たれり」の記述と良く合っている。神埼郡の西南を城原川が流れており、その下流佐賀市諸富町がある。諸富町大堂の「村中角遺跡」から「宮殿」とヘラ書きされた土器が出土しており、かつてアサヒグラフに写真が掲載された。上宮王権の本拠地は「肥前の飛鳥」である。

 

日本書紀』皇極即位前紀、元年の春正月に丁巳に朔にして辛未に、皇后、即天皇位す。舒明天皇の後、642年に皇極天皇が即位したと『日本書紀』は記している。

 

(B)上宮王権の樹立

 

 阿毎王権と対立、独立して上宮王権は樹立される。(A)上宮王権でも述べたが、この詳しい経緯を今回配布された資料を使って、説明していく。

物部守屋

 まず、物部守屋に注目する。物部守屋は、585年から突如登場する。

 

584年蘇我馬子は石川の宅に仏像をつくり、仏像を安置して修行する。その後、疫病が流行する。585年に物部守屋が登場して次のような発言をする。

 

(敏達)14年(585年)3月、物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫と奏して曰く。「何故、臣が言を用いることを肯定しないのか。考天皇より陛下に及ぶまで疾病流行し、国民は絶えるべし。豈に専ら蘇我臣の仏法を輿こし行うに由るにあらずや」という。詔して曰く「灼然(いやちこ)なり。仏法を断て」という。物部弓削守屋大連は自ら寺に詣り胡坐(あぐら)に踞座し、其の塔を斫り倒し、火を縦(つ)けて燔(や)く。併せて仏像と仏殿を燔(や)く。すでにして焼くところの餘りの仏像を取りて難波の江に棄てしむ。(『日本書紀』)

 

 物部守屋は「天皇(十五世物部大人連公)」に対して、「何故、臣の言(意見)を用いないのか」と詰め寄って、無礼な口を利いている。何故だろうか。阿毎王権の系図を見ると物部守屋は二代目の「十四世大市御狩連公」の弟であり、三代目の「十五世物部大人連公」は物部守屋の甥である。二代目の「十四世大市御狩連公」が死去し、三代目の甥が即位するのが「勝照(585~588年)」である。この時から、急に物部守屋は登場する。兄の存命中は、発言することができなかったのだろう。

 

 「勝照(585~588年)」から物部守屋は阿毎王権の「ナンバー2」、いや天皇の叔父であるから実質上「ナンバー1」と言ってもよい。天皇に横柄な口を利いている。

 

 その物部守屋が、討たれる。

日本書紀』(崇峻)即位前紀(587年)7月、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼすことを謀(はか)る。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子難波皇子春日皇子蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅・倶に軍旗を率いて、進み大連を討つ。…蘇我(馬子)大臣、亦本願に依り飛鳥の地に法興寺を起こす。

 

 この記事は、仏教の受容をめぐって対立する蘇我馬子物部守屋を討った事件としてよく知られているが、疑問な点がある。

 

 第一に、蘇我馬子は「物部守屋討伐」の首謀者とされているが、一番目の部隊長は泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、二番目の部隊長は竹田皇子(推古天皇の子)、三番目の部隊長は厩戸皇子(上宮法皇の皇太子)であり、やっと六番目の部隊長が蘇我馬子である。六番目の部隊長が首謀者であり得るだろうか。

 

 第二に、蘇我馬子が「法興寺を起こす」とあることである。645年「乙巳の変」(「大化の改新」と呼ばれていた)で中大兄は蘇我入鹿を討ち「法興寺に入り、城として備える」と『日本書紀』に書かれている。さらに、「凡て諸皇太子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造、悉く皆随い侍る」とある。蘇我入鹿を伐つと、中大兄は「法興寺」に入り、城として蘇我氏の反撃に備えている。「法興寺」は蘇我氏の寺ではなく、上宮王権の寺であり、中大兄の曽祖父である上宮法皇が創建している。蘇我馬子が「法興寺を起こす」ことはあり得ない。『日本書紀』は上宮法皇を抹殺しているので、上宮法皇の事績は、蘇我馬子の事績として書き換えられているのである。

 「物部守屋討伐」の首謀者は蘇我馬子ではなく、上宮法皇である。「法興寺」も上宮法皇の創建である。

蘇我氏崇峻天皇

 それでは、蘇我氏はどういう存在だったか、整理しておこう。(欽明)16年(555年)7月、蘇我大臣稲目宿禰穂積磐弓臣等を遣わし、吉備の五郡に白猪屯倉を置かしむ。(欽明)17年(556年)7月、蘇我大臣稲目宿禰等を備前の児嶋軍に遣わし、屯倉を置く。10月、蘇我大臣稲目宿禰等を倭国高市郡に遣わし、韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉を置く。紀国に海部屯倉を置く。(『日本書紀』)

 蘇我稲目は阿毎王権の重臣として、各地に屯倉をつくっている。

 

(敏達)3年(574年)10月、蘇我馬子大臣を吉備国に遣わして、白猪屯倉と田部とを増益さしむ。(『日本書紀』)阿毎王権は、蘇我稲目の子の蘇我馬子を稲目の設置した吉備の白猪屯倉に派遣している。蘇我馬子も阿毎王権の重臣である。

 

 574年の蘇我馬子は、阿毎王権の重臣である。ところが、587年には、上宮法皇の部隊長として、阿毎王権の「ナンバー2」である物部守屋の討伐に加わっている。馬子は、阿毎王権から上宮王権に寝返っている。

 上宮法皇は「貴国」の天皇の子孫である。このように、「貴国」が再興され、上宮王権が樹立されるとなると、蘇我氏などかつての「貴国」の配下の子孫達が参集したと考えられる。

 

 587年、阿毎王権の中心にいる物部守屋を討って、上宮法皇は阿毎王権からの独立をはかる。『日本書紀』崇峻4年(591年)上宮法皇は、二萬餘の軍を筑紫に出した。鞍手郡を本拠地とする阿毎王権が、上宮王権の独立を阻止するため、討伐の軍隊を筑紫に派遣することに対抗するためである。ところが、阿毎王権は、討伐隊を派遣しなかった。実質「ナンバー1」の物部守屋が伐たれたからであろう。この年、上宮法皇は新年号「法興」を建て、新たな王権を樹立した。その4年後、(推古)3年(595年)7月、(肥前の)将軍等は筑紫から帰ってくる。また、5年後の「法興6年歳次丙辰(596年)」には、上宮法皇は、法師や葛城臣と夷与村(道後温泉)を逍遙して、骨休みをする。

 

 前に述べたように、『日本書紀』は上宮法皇を抹殺しているので、上宮法皇の事績を蘇我馬子の事績として書き換えていた。上宮法皇が年号を立て、王権を確立していた時代を『日本書紀』は崇峻天皇推古天皇の在位の時代としている。この崇峻天皇について、確認しておこう。

 

 (崇峻)5年(592年)11月、(蘇我馬子)、東漢直駒を使わし天皇を弑す。…駅使(はいま)を筑紫の将軍の所に遣わして曰く、「内乱に依り外事を怠るなかれ」という。(『日本書紀』)

 

 蘇我馬子崇峻天皇を殺害する。このとき、駅使を(二萬餘の軍を出している)筑紫の将軍の所に遣わして、内乱だから、外事を怠るな、と伝えている。587年物部守屋討伐の時、崇峻天皇は一番目の部隊長、蘇我馬子は六番目の部隊長で、どちらも上宮法皇の臣下であった。したがって、蘇我馬子崇峻天皇を殺害したのは、上宮王権内の内乱ということになる。『古代史の復元⑥』で詳しく論じているが、上宮王権内部での「土地争い」によって、崇峻天皇蘇我馬子に殺害された。崇峻天皇天皇ではなく、上宮王権内の重臣である。上宮法皇を抹殺し、天皇を「万世一系」にするために、崇峻天皇天皇に仕立てられている。

 

 上宮法皇は591年、年号「法興」を建て、上宮王権を樹立した。「法興」とは、「仏法を起こす」という意味である。同じ文字が「法興寺」にも使われている。『日本書紀』から「法興寺」創建の記事を拾ってみよう。

 

(1)(崇峻)3年(590年)10月、山に入り寺の材を取る。 (2)(崇峻)5年(592年)10月、是の月、大法興寺の仏堂と歩廊を起こす。 (3)(推古)元年(593年)正月、仏の舎利を以て法興寺の刹柱の礎のなかに置く。 (4)(推古)3年(595年)5月、高麗の慧慈帰化す。即ち皇太子の師とする。是歳、百済の僧慧聡来る。此の両僧は仏法をひろめて、並びに三宝の棟梁と為る。 (5)推古)4年(596年)11月、法興寺、造りおわる。即ち(蘇我馬子)大臣の男善徳臣を以て寺司に拝す。是の日、慧慈、慧聡の二人の僧、始めて法興寺に住む。

 

 「法興寺」は、590年に建築資材を取りに行く事から始め、596年11月に完成する。

 

 587年に阿毎王権の実質「ナンバー1」の物部守屋を討ち、591年筑紫への二萬餘の軍を派兵し、年号「法興」を制定し、596年法興寺を完成し、上宮王権が確立された。

 

(C)法隆寺の移築

 法隆寺五重塔、金堂等の西院伽藍は世界最古の木造建築物であり、多くの見事な仏像を有しているが、その由来が謎に包まれている点でも、他の追随を許さない特筆すべき寺院である。謎の背後に、古代史の真の姿をうかがい知ることができる。

 

 今回の講演で、佃氏はこれらの謎の多くを解明されている。今まで、法隆寺聖徳太子を祀る寺として考えられてきた。この観点からでは、謎は解明されず、謎の前に立ち止まっている以外ない。上宮法皇による上宮王権の樹立、法隆寺は上宮法皇を祀る寺であるという観点から、見事に謎は解明される。それを順次見ていこう。

 

法隆寺再建の問題点>

 『日本書紀』(天智)9年(670年)4月、夜半の後に法隆寺に火災。一屋も餘る無し。670年に法隆寺は全焼する、と『日本書紀』に書かれている。ところが、法隆寺を建築様式から見ると、古い建築様式(飛鳥様式)であるため、670年よりも前に建てられていると考えられる。このことなどから、明治以来、法隆寺の「再建、非再建論争」は激論が重ねられてきた。

 

 昭和14年(1939年)「若草伽藍(斑鳩寺)」の発掘調査が行われ、法隆寺の敷地内にあって法隆寺とは別の「斑鳩寺」が全焼したことが分かり、『日本書紀』の記事はこのことを述べているとされた。法隆寺は「670年の斑鳩寺の火災の後」に「新しく再建した」ということで決着している。

 

 ところが、木材の年輪の幅を計測することによって、樹木を伐採した年代を精確に決めることができる「年輪年代法」があり、これによると、五重塔の心柱は594年に伐採されたヒノキで、五重塔の4層の木材は624年、631年、663年に伐採され、金堂の中央の天蓋の木材は606年に伐採されたものであることが判明している。

 

 623年に完成され、金堂の中央に位置する釈迦三尊像を見ても火災に遭った痕跡は全く無く、金堂や五重塔の木材は670年よりずっと早い時期に伐採されており、「670年の後に新しく再建」されたとは考えられない。

法隆寺の謎>

 金堂の中央の天蓋の木材は606年に伐採されている。天蓋は仏像が完成して、仏像の大きさに合わせて造られる。606年には、法隆寺の仏像は造られているだろう。

 

 中田祝夫編『薬師寺金石文考四種』(勉誠社文庫)の「薬師寺擦銘」に次の記述がある。「(訳)是より先、推古天皇15年(607年)に法隆寺金堂薬師仏像を造立する所有り。」

 606年に天蓋の木材が伐採され、翌年の607年に天蓋も造られ、薬師如来像が完成している。この記述からも、法隆寺の完成は607年としてよい。591年に上宮法皇は王権を樹立し、596年には「法興寺」を造り、16年後の607年に法隆寺を完成させている。上宮王権の本拠地は肥前の飛鳥にあったから、この法隆寺肥前に建てられている。

 

 (A)上宮王権のところで見たように、現在の法隆寺金堂には、中央に釈迦三尊像が置かれ、向かって右に薬師如来像が置かれ、左に阿弥陀如来像が置かれている。1990年、奈良国立博物館が金堂内の釈迦三尊像薬師如来座像の空洞内部を初めて本格調査した。その結果、薬師如来像は7世紀の中ごろから後半のかけての作であることを確認した、と発表した。薬師如来の光背銘の内容から考えても、薬師如来が造られたのはそれ以上後だと考えられるが、いずれにせよ、現在の法隆寺金堂に安置されている薬師如来像は、もっと後に造られたものであり、7世紀初頭の607年に完成された薬師如来像ではない。

 

 607年に肥前に建てられた法隆寺の本尊である薬師如来像は、現在の法隆寺にはない。(少し先回りして述べると、この薬師如来像がどこにあるかは、後半の法輪寺との関係から明らかになる。)

 607年に建てられた法隆寺を元「法隆寺」と呼び、斑鳩にある現「法隆寺」と区別する。

 

 一方、現「法隆寺」金堂で、釈迦三尊像の左側に安置されている阿弥陀如来像の光背銘を見てみると、もとの像は承徳年間(1097~1099年)の盗難に遭い、現在の像は寛喜3年(1231年)に再興したものであると書かれている。現在の阿弥陀如来像とその天蓋は鎌倉時代に造られている。現「法隆寺」金堂の釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像の並びは、鎌倉時代に作られたことが分かった。

<現「法隆寺」金堂の内陣>・・・鎌倉時代にできた

 

     天蓋        天蓋       天蓋

   阿弥陀如来像     釈迦三尊像    薬師如来

   (鎌倉時代作)    (623年)      (7世紀末以降)

(台座は救世観音像のもの)

 

 鎌倉時代から金堂には、釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像が安置されている。ところが、左側の阿弥陀如来像の台座の中央には直径約70cmの円形に漆の塗り残しがあるという。そして、その大きさに、ちょうど法隆寺東院夢殿の救世観音像の円形の台座が合致しているという。  

          (円形の台座の救世観音像)

 救世観音像は、秘仏として東院の夢殿に隠されていた。救世観音像についての記録として、『法隆寺縁起資材帳』の中に「上宮王等身観世音菩薩木造壹躯 金薄押 天平宝字5年(761年)10月1日」という記載がある。現在は部分的にはがれている所もあるが、光背から台座まで金箔が貼られていた救世観音像は、「上宮王等身」の記述から上宮法皇の「尺寸の王身」として造られたことが分かる。

 また、釈迦三尊像の光背銘が述べているように、金堂には釈迦三尊像と救世観音像が置かれており、『法隆寺縁起資材帳』の記載から、天平宝字5年(761年)以降まで二つの像が安置されていた、と考えられる。

 

 救世観音像は現在、法隆寺の東院夢殿に安置されている。古来秘仏として秘されてきた。「開けば雷が落ちる」と固く拒否する寺僧の反対を押し切って、明治17年、日本美術の発掘に貢献したフェノロサ岡倉天心などによって白布を解かれ、その姿が初めて現れた。この事件は、日本仏教美術史の上でも衝撃的なものであったようだ。釈迦三尊像の光背銘に「④ 王后、王子等及び諸臣は…共に相発願し、仰いで三宝に依り、当に釈像尺寸の王身を造る。この願いの力を蒙り、病を転じ、寿を延ばし、世間に安住されんことを。」と書かれている長身の「釈像尺寸の王身」像である。

 

 病気平癒を願って救世観音像が造られ、622年に上宮法皇が死去し、釈迦三尊像が造られて623年には釈迦三尊像とともに救世観音像が安置されていた。

  ところが、鎌倉時代阿弥陀如来像が造られ、救済観音像が置かれていた台座に置かれている。こうして、現「法隆寺」に釈迦三尊像薬師如来像、阿弥陀如来像が安置されている。

 

 どうして、救世観音像は隠されたのだろうか?

 

 鎌倉時代になると、仏教が盛んになり、「聖徳太子信仰」はますます盛んになり、「法隆寺聖徳太子の寺である」ということになる。「上宮王等身観世音菩薩木像」と書かれているように、救世観音像は長身の上宮法皇の等身大の像で、背の高さが180cmもある。これを聖徳太子の像とするには無理があるのではないか。そこで、阿弥陀如来像を造り、救世観音像と置き換え、救世観音像は秘仏として法隆寺東院に隠されたのではないだろうか。

 

 上宮法皇が逝去した翌年(623年)の法隆寺金堂の内陣は、天蓋は中央と西側の二つしかなく、次の様だと考えられる。

法隆寺金堂(623年)の内陣>

 

      天蓋        天蓋      

    救世観音像      釈迦三尊像    玉虫厨子

 

 救世観音像は622年に上宮法皇の病気平癒を願って「等身大に」造られ、釈迦三尊像法皇の成仏を願って623年に造られた。法隆寺聖徳太子ではなく、上宮法皇を祀った寺である。

 

法隆寺法輪寺の関係>

 法隆寺の近く、北1Kmほどのところに法輪寺がある。斑鳩町三井にあるため、三井寺とも呼ばれる。『上宮聖徳太子伝補闕紀』に次の記事がある。「(670年に)斑鳩寺は火災に遭った後、衆人は再建する土地が見つからないので…先に三井寺を造った。」『日本書紀』に書かれた670年の火災は、法隆寺ではなく斑鳩寺であった。

 

 『法隆寺雑記帳』の中で石田茂作氏は、法隆寺からは4種類の「忍冬唐草文軒平瓦」が出土しており、670年に法輪寺を創建した時に「忍冬唐草文軒平瓦」が最初に造られ、それを真似て、法隆寺の「忍冬唐草文軒平瓦」が造られている、としている。

 

 また、石田氏は法隆寺の伽藍配置についても言及している。法輪寺は、「東に金堂、西に塔」の「法隆寺式伽藍配置」である。それまでの寺院は、塔が前、金堂が後ろにある「1棟1金堂」の「四天王寺式伽藍配置」であった。

 まず先に、「法隆寺式伽藍配置」に法輪寺を造り、それを一倍半の大きさにして、法隆寺を造っている。

 

 「法隆寺式伽藍配置」の起源を調べると、中国唐代貞観年間(627~649年)までさかのぼるという。「法隆寺式伽藍配置」が日本にもたらされるのは、貞観年間(627~649年)以降である。

 607年ごろ、肥前に元「法隆寺」が創建された。670年に斑鳩寺が焼失したとき、法隆寺肥前の飛鳥にある。670年に斑鳩寺が焼失した後、法輪寺が造られ、それを基にして、法隆寺肥前から斑鳩に移築された。新たな「法隆寺式伽藍配置」であり、再建ではなく、移築である。

 

法隆寺の移築>

 『法隆寺 薬師寺 東大寺 論争の歩み』の中で、大橋一章氏は、昭和9年から始まった法隆寺昭和大修理によって得られた法隆寺建築に関する知見について述べている。「五重塔では壁を解体した結果、側柱(がわばしら)は壁の取り付いていた面にも戸口部材の咬んでいた面にも、相当な風蝕をうけていた。」五重塔は「新築」ではないことを示し、運ばれてきた後も長年放置されていたと考えられる。

 

 また、『法隆寺雑記帳』の中で石田茂作氏は次のように述べている。「五重塔の四壁は白く塗られているところが解体のために、初重(1層)の壁の一部を崩して壁の構造を調べてみたところ、表面の白壁の下に今一重白壁がある。その表面をはがすと壁画が現れたという。」五重塔はやはり移築されたものだ。

 

 石田茂作氏はさらに述べる。「戦後始まった五重塔の解体の解体修理で、東北隅の四天柱の礎石に、直径25cmくらい、深さ10cmあまりの丸い鉢形の穴が掘込まれ、その中から火葬された人骨が発見された。」続けて、「『続日本紀』によると、わが国で火葬の初めは「文武天皇4年(700年)3月」死去した法相宗元興寺の僧道照の遺骨であるとされている。」五重塔の礎石に火葬された人骨が埋葬されていた。したがって、五重塔を建立したのは、700年以降であると言える。

 

 『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、648年に皇極天皇から法隆寺に食封「参百戸」が与えられるが、679年に天武天皇によって法隆寺の食封は停止される。次に、693年に、「仁王会」が開かれており、「飛鳥宮御宇天皇」(高市天皇)から仏具等を納め賜っている。さらに、五重塔の塑像や中門の金剛力士像も和銅4年(711年)に造られた、と書かれている。

 

 これらのことから、679年に食封が停止されて、680年~693年の間に法隆寺肥前から斑鳩に運ばれたこと、693年の「仁王会」は斑鳩に移築された法隆寺で行われたこと、五重塔は700年以降まで長い間建立されずに放置されていたこと、711年に五重塔の塑像や金剛力士像が造られたこと、などが分かる。

 

 『七大寺年表』や『伊呂波宇類抄』の記述からも、法隆寺和銅年間(708年~714年)に移築が完了していることが確認できる。

 

<元「法隆寺」の仏像のその後>

 昭和47年(1972年)に行われた法輪寺の三重塔再建にともなう塔の発掘調査について、『法隆寺 薬師寺 東大寺 論争の歩み』の中で、大橋一章氏は次のように述べている。「基壇の周辺からは法隆寺の西院出土の瓦とよく似た複弁蓮華文の軒丸瓦と忍冬唐草文(パルメット)の軒平瓦が出土し、また基盤の版築土中からはこれより古い型式の単弁蓮華文軒丸瓦と重弧文軒平瓦が検出された。…さらに基壇当方の地山面に掘立柱の穴の一部が確認された。…それは瓦葺の掘立柱建物かもしれない。…掘立柱の建物であれば、本格的な寺院建築ではあるまいが、法輪寺の創建当初にはこのような小規模な建物で代用していたかもしれない。」

 

 670年の直後ころに三井寺法輪寺)は創建されるが、それより前に「瓦葺の掘立柱建物」があったようだ。さらに、大橋氏は述べる。「現在収蔵庫に安置されている木彫りの薬師如来坐像や伝虚空蔵菩薩像は丁度そのころの製作と考えられる。如来像の薬師像のほうが当初の本尊であったかもしれない。」

 

 三井寺法輪寺)には、創建前にこの地に「瓦葺の掘立柱」の寺院が存在していて、薬師如来坐像が当初の本尊であったかもしれない。現在は「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」が安置されているという。

 

 さて、607年ころ上宮法皇肥前に、元「法隆寺」を創建し、薬師如来像が造られていた。現「法隆寺」にある薬師如来像は、これとは別のものであった。三井寺法輪寺)は、瓦や伽藍配置を同じくし、その1.5倍がちょうど法隆寺となるように、法隆寺に先がけて造られた法隆寺ゆかりの寺院である。この法輪寺の当初の本尊が、止利仏師の造ったとされる薬師如来坐像である。

 

 この薬師如来坐像こそ、元「法隆寺」の薬師如来像ではないだろうか。一緒に安置されている伝虚空蔵菩薩像も、同じく飛鳥時代の作で、止利仏師が造ったものとされている。

 

そうすると、元「法隆寺」には、「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」および「玉虫の厨子」が安置されていた、と考えられる。622年、上宮法皇が病に臥したため、王后、王子等は病気平癒を願って上宮法皇の等身大の救世観音像を造る。法皇は遂に崩御する。623年、法皇の徳を称え、成仏を願って釈迦三尊像が造られ、救世観音像と釈迦三尊像を金堂に安置する。そこで、今まで置かれていた「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」は他の地に移されることになる。

 

 623年であるから、上宮皇太子(聖徳太子)は既に621年に死去しており、上宮王権では、「山背大兄王」の時代である。「山背大兄王」は斑鳩寺の北方の「三井」に慌てて「瓦葺の掘立柱寺院」を建て、そこに元「法隆寺」に置かれていた「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」を安置したのだろう。このようにして、三井寺法輪寺)の前身の「瓦葺の掘立柱寺院」ができた、と考えられる。

 

 670年、斑鳩寺が全焼する。斑鳩寺を再建する土地が見つからないので、「瓦葺の掘立柱寺院」を壊して、三井寺(法輪寺)を創建する。仏像は「瓦葺の掘立柱寺院」に安置されていたものをそのまま安置する。「法隆寺式伽藍配置」で、法隆寺に先がけて、その2/3の大きさになるように建てられた。

 

 現在、「薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩像」は法輪寺の講堂(収蔵庫)に、講堂の本尊とされる大きな4mの十一面観音菩薩立像(平安時代造)の両側に安置されており、薬師如来坐像法輪寺の本尊とされている。 

 

法輪寺講堂(収蔵庫)

(左 本尊の薬師如来坐像)(中央  十一面観音)( 右 伝虚空蔵菩薩像)       

 法輪寺の現在のHPを見ると「創建から江戸時代中期まで、当寺に関する資料は乏しいため、奈良時代の様子はほとんどわかりませんが、…平安時代の仏像を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。」と書かれているだけで、法隆寺との深い関係は示されていない。まして、法輪寺の本尊である「薬師如来坐像」が元「法隆寺」の本尊であったかも知れないことなど、微塵も感じさせない内容である。

 

 これに対して、美術史や歴史の研究で有名な田中英道氏は『国民の芸術』の8章の中の「最初の天才、止利仏師」の項目で、止利仏師の釈迦三尊像や救世観音像に続いて、法輪寺薬師如来像と虚空蔵菩薩像を取り上げ、「この両作品とも寺伝どおり、止利仏師の作と考えてよいだろう」、と所見を述べられている。法輪寺法隆寺の歴史的な関係には触れていないが、美術史の観点からの確かな指摘であり、さすがの記述だと思われた。

 

 佃先生の見事な謎解きによって、法隆寺の謎が解き明かされた。

 

        (法隆寺 百済観音像)

 また、美術史の大家である田中英道氏が「世界の中でも屈指の彫刻のひとつと考えられる」とされる「百済観音像」(法隆寺)は、明らかに飛鳥時代までに造られた仏像であると考えられるが、江戸時代元禄期に初めて「虚空蔵菩薩」として知られるまで、これも倉庫の中に埋もれていたようだ。その後も、明治初年まで「虚空蔵菩薩」の名で呼ばれていた。ようやく平成10年に「百済観音堂」が建立されて、そこに安置され、今では多くの観光客を集めている。やはり、法隆寺は九州から移築されたが故に、このようなことが多く起こったのだろうか、という想いが頭をよぎった。

 

 次回第11回古代史講演会「天武王権」というテーマで、9月3日(日)午後1時~ さいたま市宇宙劇場で開かれる予定です。     (以上、HP作成委員会記)

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama