第11回古代史講演会レポート

<テーマ>  天武王権

<日時>   2023年9月3日(日)午後1時~4時

<会場>   さいたま市宇宙劇場5階   

<最初に> 

「友の会」の斉藤さんから、今回の講演は日本の国の基礎をつくった天武天皇の父(天武王権)についての話であることが説明された。『日本書紀』はこの天武天皇の父を消して記述し、天武天皇の後に天皇になった高市天皇天皇ではなく、皇子にしていることが述べられた。

 次に、次回以降の講演会の予定などについて話された。次回は11月18日(土)午後1時~4時に開かれ、テーマは「天武王権とその業績」である。会場はリニューアルされた埼玉県立歴史と民俗の博物館にもどる。

 

 今回も、13ページの資料と3枚綴りの地図が配られ、この資料と『新「日本の古代史」(佃説)』(略称:『通史』)をもとに講演がされた。また、会場は「友の会」の皆さんによって、手際よく設営され、講演会が開始された。

             

 最初に佃先生から、これから『日本書紀』による歴史改ざんの話に入っていくので、皆さん各自がよく考えながら聞いてほしい、という要望がされた。配布された地図を指され、吉野ヶ里遺跡の東に位置している「みやき町東尾」から地図上で下の方が、「肥前の飛鳥」と考えられると説明された。

<第1章 天武王権の樹立>

 『通史』に書かれた阿毎王権の年号に注目する。阿毎王権の年号は16世物部耳連公の「節中」(623~627年)で終わっている。ところが、物部氏の歴史書と言われている『先代旧事本紀』(以下『旧事本紀』と略記)から分かるように物部氏には16世の後に、17世、18世がいる。

 

 『日本書紀』(天武)13年(686年)9月の記事に、「諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作り」と書かれ、「一に曰う、真人。二に曰う、朝臣。三に曰う、宿禰。四に曰う、忌寸。五に曰う、道師。六に曰う、臣。七に曰う、連。八に曰う、稲置。」とあるように、天武天皇は「八色の姓」を制定している。

 

 『旧事本紀』には、17世物部連公麻呂は、「天武天皇の御世に天下の萬姓を八色に改定した日に連公を改めて物部朝臣の姓を賜る」とある。また、15世孫物部大人連公の孫の物部雄君連公は天武天皇から「氏上内紫冠位を賜る」と記載され、ともに天武天皇の臣下となっていることを示している。

 

 物部氏の阿毎王権は、天武天皇の王権の支配下に置かれ、年号も「節中」(623~627年)で終わっている。

 

 この時代、北部九州には三つの王権が並存していた。「阿毎王権」、「上宮王権」、「豊王権」である。江戸時代後期の鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)による『襲国偽僭考』や、李氏朝鮮碩学が15世紀に撰録した『海東諸国紀』(岩波文庫)によると、この三つの王権によらない年号が635年から連続して続いている。「僧要」(635~639年)「命長」(640~646年)「常色」(647~651年)「白雉」(652~660年)「白鳳」(661~683年)「朱雀」(684~685年)「朱鳥」(686~694年)「大和」(695年~)である。

 

 大宰府天満宮の奥の宝満山の麓にある竈門(かまど)神社の由緒には、「天武天皇白鳳2に神殿が創建された」とある。「白鳳」は天武天皇の年号であることがわかる。天武天皇は686年に死去しているから、「白鳳」、「朱雀」は天武天皇の年号である。上に並べた連続した年号は、天武天皇に続く王権の年号である。この王権を「天武王権」と名づける。

 

「僧要」の始まる635年から「白鳳」の始まる661年まで26年間、それから天武天皇が死去する686年までが25年間である。合計51年の長い間、天武天皇が新たな王権の「天武王権」を創始し、継続したとは考えられない。そうすると、初代である「天武天皇の父」がいて、「阿毎王権」を支配下に置いて「天武王権」を創建し、年号「僧要」を建て、天武天皇に引き継いだのではないだろうか。

 

天武王権の本拠地

 

 『旧事本紀』によると、ニニギノミコトの父である天火明命天孫降臨するとき、「天つ物部氏等25部人」が従者として天降り仕えた。この「天つ物部氏等25部人」は北九州に住み着き、福岡県鞍手郡を本拠地とした。物部氏は、「物部麁鹿火王権」から王権を奪い、552年に「阿毎王権」を鞍手郡に樹立した。この「阿毎王権」の中心人物達は、前に見たように物部氏17世、18世からは「天武王権」の臣下となる。したがって、鞍手郡などの北部九州は「天武王権」の支配領域となった。

 

 天武天皇が創建した神社を見てみよう。福岡県太宰府市の「竈門神社」、久留米市の「高良神社」、宗像市赤間の「七社神社」がある。すべて、北部九州の神社である。

 

 次に、天武天皇の初期の妃を見る。『日本書紀』(天武)2年(673年)2月、天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶り、十市皇女を生む。次に胸形君徳善の女尼子娘を納(いれ)て、高市皇子を生む。

 

 最初に、「鏡王」の女「額田姫王」を娶り、「十市皇女」を生む」とある。筑前鞍手郡に「十市」郷がある。「鏡王」は鞍手郡に居るのではないか。「胸形君徳善の女尼子娘を納(いれ)て、高市皇子を生む」とある。「胸形君徳善」は福岡県宗像の豪族(王)であろう。宗像君の娘と婚姻して、「高市皇子」を生んでいる。また、天武天皇宗像大社を大和の神武天皇陵に勧請している。天武天皇は、宗像で生まれ、育って、青年時代には宗像や鞍手郡に住んでいた。

 

 以上のことなどから、「天武王権」は北部九州を支配しており、本拠地は筑前の宗像である。宗像は天孫降臨の地であり、天武天皇天火明命の子孫と考えられる。物部氏の「阿毎王権」はかつての従者の子孫である。「天武王権」は、「阿毎王権」の上に君臨して、635年に天武天皇の父によって樹立され、661年ころに、天武天皇に引き継がれた王権である。(日本の冠位制度は、「阿毎王権」によって603年に初めて作られた。「天武王権」の冠位制度はそれを踏襲した形で、3回作られている。そのことからも、「天武王権」が、「阿毎王権」を支配下に置いて、その上に君臨してできた事がわかる。詳しくは『新「日本の古代史」(下)』の二 天武王権と天智王権 に述べられている。)

            

 

<第2章 『日本書紀』の百済救援>

 660年7月13日、百済は唐と新羅の連合軍に敗れる。百済王や太子隆をはじめ50人以上が唐に連行される。残存勢力が百済国の再興のために、日本に救援を要請する。663年8月、「白村江の戦い」で、百済と日本の連合軍は大敗を喫し、663年9月百済国は完全に消滅した。

 

 『日本書紀』によると、655年~661年は斉明天皇の世であり、斉明天皇は661年7月に「朝倉宮」で崩じた、とある。「称制」(即位の式を挙げずに政務を取る)として、661年8月~671年まで天智天皇が政務を執った、とされている。百済の救援は、斉明天皇天智天皇によって行われたと『日本書紀』は記述し、この時代に大海人皇子天武天皇)はほとんど登場していない。

 

 『旧唐書』「百済国伝」には、663年8月「白村江の戦い」で、日本軍は四戦四敗し、4百艘の船が焼かれて完敗した、とある。日本の軍船は、筑紫などの九州北部から出航したのだろう。第1章で見たように、この時代に北部九州を支配していたのは天武天皇である。『日本書紀』の記述と全く食い違っている。本当に斉明天皇天智天皇百済支援をしたのだろうか、という疑問が生じる。

 以下、この点から『日本書紀』の記述を見てみよう。

 

 斉明天皇は、660年12月大和から難波に来て諸軍備を備え、翌661年正月に筑紫に向かう。この軍船には、どういう訳か臨月の「大田皇女」が乗っているという。「大田皇女」は、皇極(斉明)が天武王権に人質として差し出して、天武天皇の妃となって、宗像に住んでいる。わざわざ、斉明天皇とともに、難波から筑紫に向かうはずがない。この船は途中、伊豫の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮に泊まり、3月、還りて「娜大津」(博多)に至り、磐瀬行宮に居す。天皇は此れを改め「長津」という、と書かれている。その後、斉明天皇は661年4月「朝倉宮」に遷り、661年7月「朝倉宮」で死去する。

 

 661年8月、「中大兄」は称制すると、「長津宮」(博多)に遷り、水軍を百済に派遣し、「兵仗・五穀」を送ったと書かれている。

 

 661年9月、皇太子(中大兄)、長津宮に御す。織冠を以て百済の王子豊璋に授ける、とある。「織冠」は649年に天武天皇の父が制定した「冠位十九階」であり、天智王権の中大兄が授けるものではない。さらに、百済の王子豊璋は天武王権に来ており、中大兄とは関係していない。

 

 また、(天智)2年(663年)3月、前将軍、中将軍、後将軍らを遣わし、2萬7千人を率いて新羅を打たしむ、とある。ところが、この将軍達を詳しく調べてみると、すべて天武王権の将軍たちである。(『新「日本の古代史」(下)』の二 天武王権と天智王権参照)

 

 『日本書紀』は、天武王権による百済支援を、すべて斉明天皇や中大兄(天智天皇)の事績として書き替えていることがわかる。

 

 斉明天皇の661年7月の崩御はどうだろうか。

 

 『日本書紀』(天智)6年(667年)2月、斉明天皇は娘の間人皇女と合葬された、と書かれている。間人皇女は665年2月に死去しており、667年2月に斉明天皇と合葬されたとある。

 ところが、『日本書紀』(斉明)4年(658年)5月、斉明天皇の孫の「建王」が八歳で死去したとき、斉明天皇は必ず「朕の陵に合葬せよ」と述べている。しかし、孫の「建王」と合葬されていない。

 もし、斉明天皇が661年7月「朝倉宮」で死去したのなら、5年半もの長い間殯(もがり)が行われていることになる。百済救援の最中にあり得ないことである。間人皇女も2年間も殯が行なわれていることになる。斉明天皇は、661年7月「朝倉宮」で死去したのではないのではないか。孫の「建王」と合葬することもしていない。斉明天皇は667年2月に死去し、その墓を造ることなく、直ちに2年前に死去した娘の間人皇女の墓に追葬されたのではないだろうか。

 

 斉明天皇は、661年7月「朝倉宮」で死去していない。すると、この記事は何を示しているのだろう。「朝倉宮」は唐・新羅と戦うために北部九州に造られた宮である。この時代、北部九州は天武王権が支配し、唐・新羅と戦っているのは天武王権である。661年「朝倉宮」で死去しているのは、天武王権の最重要人物のはずである。天武天皇の年号は、「白鳳」(661年~)には始まっている。と言うことは、661年7月「朝倉宮」で死去したのは、天武天皇の父ということになる。『日本書紀』は、天武天皇の父の死去を斉明天皇の死去に書き替えている。

 

 百済を援助して、唐・新羅連合軍と戦ったのは斉明天皇や中大兄(天智天皇)ではなく、天武王権である。斉明や中大兄は、そもそも、筑紫には来ていない。次回の講演会で詳しく述べるが、『日本書紀』は、「天武王権」の事績を「天智王権」の事績に書き替えている。

           


 <第3章 天武王権と百済

天武天皇の父」による北部九州の統一

 

 645年6月、「乙巳(いつし)の変」(前は「大化の改新」と呼ばれた)で中大兄(天智天皇)は、蘇我入鹿を討つ。このとき、中大兄は蘇我倉山田石川麻呂に相談し、協力を得て実行している。蘇我倉山田石川麻呂は上宮王権の最重要臣である。ところが、蘇我倉山田石川麻呂は649年3月に死去する。

 

 『日本書紀孝徳天皇大化5年(649年)3月、蘇我臣日向は蘇我倉山田石川麻呂を皇太子に謗って、「皇太子が海岸で遊んでいるのを見て、殺そうとした」と言う。皇太子(中大兄)はこれを信じて、孝徳天皇蘇我倉山田石川麻呂を攻め、蘇我大臣は妻子とともに自ら首をくくって死去した、とある。翌日の夕べ、蘇我臣日向らは寺を軍勢で囲み、物部二田造塩を召して大臣の首を斬らせ、二田塩は大刀を抜いてその死体を刺し、大声で叫び、斬刑を執行した、とある。

 

 孝徳天皇は「豊王権」であり、中大兄は「天智王権」であるから従来の解釈は成り立たない。さらに、「物部二田」は筑前鞍手郡にあり、大臣の首を切った「物部二田造塩」は「阿毎王権」の豪族だから、天武王権の臣下である。上宮王権の重臣である蘇我倉山田石川麻呂が、天武王権によって討たれている。蘇我倉山田石川麻呂の本拠地は、肥前国基肄郡山田郷と思われる。

 

 この事件は、天武天皇の父が、上宮王権の最重要臣である蘇我倉山田石川麻呂を討って、肥前基肄郡まで領土を拡大した事件と考えられる。最重要臣が討たれ、上宮王権は王権を剥奪され、皇極天皇は「皇極」に、中大兄皇子は「中大兄」になる。「上宮王権」が消滅して、「天武王権」だけが残り、「天武王権」が北部九州を統一したことを表わしている事件である。

 

 白村江の戦いの敗北と筑紫都督府

 

 660年7月、百済新羅・唐連合軍に敗北する。『旧唐書百済国伝に「是に至り乃ち其地を以て分けて熊津、馬韓、東明等五都督府を置き、各州縣を統べるに其の酋渠を立てて都督、刺史及び縣令と為す。右衛郎将王文に命じて熊津都督府と為し、兵を総べて以て是を鎮める。」と書かれている。

百済の地は、熊津、馬韓、東明等の五つに分割されて、「都督府」が置かれる。「都督府」は唐が占領地を武力で支配するために設置した統治機関である。

 

 先に述べたように、663年8月、「白村江の戦い」で百済・日本軍は大敗する。以後の『日本書紀』の記述を見よう。

 

 664年5月、百済鎮将劉仁願は朝散大夫郭務悰等を派遣し、12月郭務悰等は帰国する。

665年9月唐から劉徳高等が派遣され、総勢254人である。12月劉徳高等は帰国する。

この年665年、小錦守君大石等を大唐に遣わす。(等と謂うは小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌彌・吉士針間を謂う。)

 (天智)6年(667年)11月、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等を遣わして、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る、と書かれている。

 

 次に、『旧唐書』劉仁軌伝の記述を見る。

663年白村江の戦で百済・日本軍を破った唐の劉仁軌は、665年10月~12月に「新羅及び百済耽羅、倭の四国の酋長」を領(ひき)いて泰山(神に天子の支配を報告する山)へ行き、666年正月の「封禅の儀」に参列している。敗戦国が「封禅の儀」に参列していることを、唐の「高宗は甚だ悦ぶ」とある。

 

 「坂合部」=「境部」だから、坂合部連石積境部連石積は同じ人物と見られる。小錦守君大石と坂合部連石積等は、665年唐に行き、667年に熊津都督府司馬法聰等によって百済から、筑紫都督府に送られて来たことが、『日本書紀』の記述から確認できる。

 

 一方の『旧唐書』劉仁軌伝の記述では、百済・日本軍を破った唐の将軍劉仁軌は、665年「新羅及び百済耽羅、倭の四国の酋長」を領(ひき)いて泰山へ行き、666年正月の「封禅の儀」に敗戦国を参列させているという。

 

 以上のことから、次のことが分かる。唐の将軍劉仁軌は、小錦守君大石と坂合部連石積等を「領(ひき)いて泰山へ行き」、「封禅の儀」に敗戦国を参列させ、唐の劉仁願は、「熊津都督府司馬法聰等を遣わして、境部連石積等を「筑紫都督府」に送り」届けている。

 

 従来は、この小錦守君大石と坂合部連石積等の唐行きを、何と「遣唐使」としていた。「遣唐使」が、唐側に「領(ひき)い」られて、「泰山へ行き」、唐側に「送り届け」られることがあるだろうか。明らかに、敗戦国が「封禅の儀」に参列させられているのではないか。諸国に日本の敗戦を知らしめている。

 

 さらに、送り届けられた先は「筑紫都督府」である。先に見たように、百済は五つに分割されて、「都督府」が置かれた。「都督府」は唐が占領地を武力で支配するために設置した統治機関であった。「筑紫都督府」は筑紫を支配統治する唐の機関である。筑紫は唐の占領地になっている。今までの流れを整理しておこう。

  663年9月      白村江の戦で破れ、百済完全消滅

  664年10月       筑紫の割譲が決まる

  665年9月~11月   筑紫都督府の設置

  665年10月~12月   守君大石・坂合部連石積等が唐の泰山へ行く

  666年正月       敗戦国として「封禅の儀」に参列

  667年11月       唐は「境部連石積」を筑紫都督府に送り届ける

 

 対馬壱岐も筑紫もすべて唐の占領下になっている。天武天皇は、筑紫から難波(大阪)に遷る。これが、白村江の戦いの後の「日本の歴史」である。「日本の歴史学」では、「筑紫都督府」を日本が設置した「筑紫大宰府」だとしている。日本国民は、筑紫が占領されたことを知らない。現在の「日本の歴史」は大きく狂っている、と言える。

    ※ 岩波書店の『日本書紀』は、この「筑紫都督府」は「筑紫大宰府をさす。 

             原資料にあった修飾がそのまま残ったもの。」としている。小学館の『日本

     書紀』も「筑紫大宰府だとし、唐の官制に倣った文飾か、白村江の戦の後に

     大宰府を一時都督府と改称したか、未詳。唐が九州を占拠してこの官を置い

     たとする説もあるが、採らない」としている。

             (ここで15分の休憩に入った)

            

 

<第4章 天武王権による全国統一>

 筑紫を唐に割譲し、難波に遷った天武天皇百済から逃げて来る人々を受け入れる。『日本書紀』は天武天皇の事績を天智天皇の事績に書き替えているが、この様子を『日本書紀』の記事から、見てみよう。

 

 (天智)3年(664年)3月、百済王善光王等を以て難波に居(おら)しむ。

 (天智)4年(665年)2月、百済の百姓男女四百餘人を以て近江国神前郡に居(おら)しむ。

 (天智)5年(666年)是冬、百済の百姓男女二千餘人を以て東国に居(おら)しむ。

 (天智)8年(669年)、是歳 佐平余自信や佐平鬼室集斯等、男女七百代餘人を以て近江国蒲生郡に遷し居(お)く。663年に日本に亡命してきた「佐平余自信や佐平鬼室集斯等、男女七百代餘人」は、近江の蒲生郡に移している。

 

 このような中、天武天皇には幸運にも、667年11月13日「筑紫都督府」が廃止される。その前年666年11月、唐は高句麗を攻撃する。667年2月から本格的な攻撃が始まる。唐は筑紫や対馬壱岐に配備している兵を高句麗との戦いに向けて、日本から撤退する。

 

 唐に筑紫を割譲した天武天皇は、難波(大阪)に移る。唐の大軍を防ぐために、天武天皇は、さらに内陸部の大和に入りたい。しかし、大和には上宮王権が後飛鳥宮を築いている。649年に上宮王権は天武天皇の父の支配下に入り、冠位が与えられ、王権を剥奪され、年号も停止された。656年、斉明天皇(宝皇女)は天武天皇の父の支配から逃れるため、肥前の飛鳥から大和の飛鳥に来ている。天武天皇は、上宮王権に大和の飛鳥を明け渡すように要求する。

 

 前に述べたように、斉明天皇は667年2月に死去し、直ちに娘の間人皇女の墓に追葬されている。『日本書紀』(天智)6年(667年)、「3月の辛酉の朔にして己卯(19日)に近江に遷都した。」とある。斉明天皇が死去した翌月に、近江に遷都している。「この時、天下の人民は遷都を願わず、遠まわしに諌める者が多く、童謡(わざうた)も多かった。日ごと夜ごと火災が頻発した。」と書かれている。

 

 中大兄は斉明が生存中は動くことができず、斉明が死去すると直ちに妹の間人皇女の墓に追葬して、大和を天武天皇に明け渡し、近江に移る。これが、「近江遷都」である。大和を明け渡すので、斉明天皇の墓を造ることはできなかった。

 

 『日本書紀』(天智)6年(667年)8月、皇太子、倭の京に幸す、とある。「皇太子」は天武天皇である。この年667年8月、天武天皇は大和に入る。

 

 「筑紫都督府」の廃止後、唐の兵がいなくなり、以後の唐の侵略に備えて、天武天皇は防衛施設を築造する。

  667年11月13日   筑紫都督府の廃止

  667年11月14日~末 対馬の金田城を築く(唐が築いた城を改修)

  668年7月        筑紫率の任命(筑紫大宰府の開府)

  669年         水城の築造

  670年         大野城・基肄城の築造

 

 佃先生は、地図③で、この防衛施設の位置を確認した。

 太宰府天満宮の直ぐ北西に、数キロに渡って、高い堤防が築かれている。「水城」である。堤防の下には外敵の侵入を防ぐための堀が掘られている。川も無く、全くの平地に、突如高さが5mに及ぶような土手の堤防が出現する。地元の人は、前からあるから何とも思わないようだが、初めて見るものには、異様な風景である。唐の脅威が如何に凄ましかったか、を示している。

 

 唐と戦っていた高句麗は668年11月に滅びる。筑紫都督府を廃止した唐は、再び日本に迫って来る。『日本書紀』(天智)10年(671年)11月の記事には、対馬国司は唐が2千人、船47隻を派遣して来たことを筑紫大宰府に伝えている。このときには筑紫大宰府は存在している。唐側がこのまま筑紫に行くと、防人と戦争になることを恐れて、筑紫大宰府に報告している。朝鮮の『三国史記』によれば、唐は日本を征服するために来た、とあるが、「筑紫都督府」が再び設置されることは無かった。筑紫の唐への再割譲は無かった。天武天皇が防衛網を整備していたからである。

 

 「天智王権」は、667年2月斉明天皇が死去すると、同年3月近江に遷都し、天智天皇が即位した。柿本人麿は万葉集第29番歌で、天智天皇はどうして飛鳥を棄てて、辺ぴな大津に移られたのか、と詠っている。670年12月、天智天皇は死去する。

 

壬申の乱

 

 672年6月、天武天皇は兵を挙げる。「壬申の乱」の始まりである。まず、「美濃国」へ挙兵を命じている。また「不破の道を塞げ」と命じている。皆、天武天皇が土地を与えている人々である。「壬申の乱」の天武天皇側のルートは、「東国」から迂回して「近江の蒲生や神崎」を通り、「瀬田」から大友皇子大津宮を攻めている。天武天皇百済からの亡命者を住まわせた地域を通って、大友皇子の軍と戦っている。このことからも、百済からの難民を天武天皇が受け入れていることを確認できる。

 

 「壬申の乱」は、天武天皇が、日本列島統一のために「天智王権」を伐った事件である。『日本書紀』は天智天皇天武天皇は、同父母の兄弟であるとしている。今までの経緯から分かるように、二人は全く違う王権の天皇である。同父母の弟(天武天皇)に、実の娘を四人も差し出す兄(天智天皇)はいない。「壬申の乱」により、日本列島には「天武王権」による統一国家が誕生した。

 

 斉明(皇極)天皇は667年2月に死去し、直ちに娘の間人皇女の墓に追葬され、斉明天皇の墓は造られていない。672年、「壬申の乱」で天智王権は滅びる。

 

 この後、『続日本紀』(文武)3年(699年)に記事に、文武天皇越智・山科の二つの山陵を作ろうと欲する、とある。

 

 天智王権が滅びてから20年以上経った699年、持統天皇に援助されている文武天皇が新たに天智王権の斉明(皇極)天皇陵と天智天皇陵を造っている。「越智の山陵」は、斉明(皇極)天皇陵であり、「山科の山陵」は天智天皇陵である。「越智の山陵」は奈良県明日香村にある「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」である。巨石をくり抜き、二つの墓室を作っている。斉明(皇極)天皇と娘の間人皇女が新しい墓に埋葬されたのだろう。

 昨年、「牽牛子塚古墳」は築造当初の姿に復元整備を完了したと、最近の新聞が報じている。

        

         (2022年(昨年)、復元整備がされた「牽牛子塚古墳」)

 

 最後に、天武天皇の父の墓について述べておこう。『日本書紀』は、斉明天皇が661年4月「朝倉宮」に遷り、661年7月「朝倉宮」で崩じた、と記している。しかし、661年7月に「朝倉宮」で崩じたのは、斉明天皇ではなく、天武王権を創始した天武天皇の父であった。唐・新羅との戦いに向けて661年4月「朝倉宮」に遷ったのも天武天皇の父である。

   

 『溝楼』第8号(1999年11月)の「宮地岳城址の発見について」の中で、中嶋聡、向井一雄氏は「今回発見された古代山城遺跡-宮地岳城-は、…城址からは大野城、基肄城が間近に見え、お互いに連携させた防衛構想がうかがえる。」と述べている。

  

 宮地岳に古代山城が発見された。唐の軍は博多湾有明海から攻めて来るであろう。どちらの方向から攻めてきても、唐の大軍に対して指揮ができる位置にある。(図46)天武天皇の父は661年4月に「宮地岳城址」に本陣を構えた。これが「朝倉宮」である。さらに「大野城」「基肄城」を築き、唐の大軍を迎え撃つ防衛線をつくる。しかし、その3ヶ月後の661年7月崩御する。

     

 福岡県福津市に特質すべき古墳がある。宮地嶽神社の中にある「宮地嶽古墳」である。年代は、7世紀中ごろから後半にかけてのあたりと推定されている。死去した天武天皇の父の年代とよく合っており、地域も宗像である。

      (宮地嶽古墳)

 この古墳の説明版には「…とりわけ地下の正倉院といわれるこの古墳は奈良県南飛鳥の石舞台古墳に匹敵する程長大で、一つの石が高さ幅とも約5m、奥行き数mに及ぶ巨石八つで左右を囲み、その全長約23mという九州で最大の石室であります。…中でも金銅製透彫冠は精巧な冠残欠純金の歩揺がついた跡が残っている我国第一級の国宝であり、金銅製頭椎大刀は全長2mにも及ぶ全国最大級の大刀で類まれなるこれ等の優れた品は飛鳥時代美術工芸興隆の先駆として注目されており、当時この一帯を治めた埋葬者の絶大な威勢を示して余りあります。」とある。

 

 「宮地嶽古墳」は宮地岳と同じ名前である。また、玄界灘を見下ろす丘の上にあり、唐・新羅の軍船が博多湾に入ってくるのを最初に見つけることができる位置にある。天武天皇は、この位置に「宮地嶽古墳」を造り、父の墓とした。古墳の石室も副葬品も超一流の最高級品ばかりで、天武王権の創始者の墓に相応しい。

   (玄界灘まで伸びる参道)

 宮地嶽古墳は、宮地嶽神社の本殿の裏手100mほどの所にある円墳である。宮地嶽神社では、年2回(2,10月下旬)「光の道」と呼ばれる境内石段から玄界灘まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日が沈む。このことが、タレント嵐が主演するテレビで放映され、全国的にも知られるようになった。宗像地方で、宗像神社と並んで参拝者が多い神社である。拝殿に掛けられている大注連縄(しめなわ)は、直径2.5m、長さ13.5m、重さ5トンで日本最大と言われ、多くの人の目を引いている。

     

 

 今回も内容が豊富であったが、講演は4時の25分前に終了した。このあと、熱心な参加者の方から質問が出された。「筑紫都督府」は、どのような根拠で、唐の統治機関と言えるのか、などの質問であった。参加者の中で、少し話し合いがされた。これについては、このレポートを読んでいただきたいと思います。

 

 尚、今回の講演内容については『新「日本の古代史」(下)』(佃收著)の中の二「天武天皇天智天皇」(一)「天武王権」と「日本の歴史」(1)(66(1)号)、(三)「白村江の敗戦」後の唐・新羅と日本(58号)に詳しい記述があります。HPで読むこともできますので、是非参考にしていただきたいと思います。

 

 次回第12回古代史講演会は「天武王権とその業績」というテーマで、11月18日(土)午後1時~ もとの埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                          (以上、HP作成委員会記)

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama