<日時> 2024年(令和6年)3月10日(日) 午後1時~4時
<場所> 埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂
(東武アーバンパークライン(東武野田線) 大宮公園駅下車)
<テーマ> 高市天皇と長屋親王
<概要>
天武天皇の長男は、壬申の乱で大活躍したが、『日本書紀』では「高市皇子」と呼んでいて、天皇位に就いていないと述べている。天皇の兄弟や皇子は「親王」と呼ばれるが、『続日本紀』は『日本書紀』の記述に合わせて、「高市皇子」の長男を「長屋親王」ではなく、「長屋王」としている。『日本書紀』は「高市皇子」の死を「(持統)十年(696年)七月、後皇子尊薨る。」と記す。
ところが『懐風藻』には「高市皇子薨る後、皇太后(持統)は王・公・卿・士を禁中に引き入れて、継嗣を立てることを謀る。」と書かれている。「高市皇子」が死去したので次の天皇を立てることを議論している。太政大臣・皇子が死んだときは「日嗣を立てる」とは言わないであろう。「高市皇子」は「天皇」だったのではないだろうか。
また『万葉集』では、この「高市皇子」に対して、御名部皇女(妃)が「巻一77番」で「大君」、「巻二199番」で人麻呂が「大王」、と詠っている。「高市皇子」が「天皇」であった証拠ではないか。
昭和61年から平成元年にかけて、奈良市二条大路南のデパート建設予定地(平城宮の東南角に隣接)の発掘調査が行われ、出土した3万5千点以上の木簡の中に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字が入った木簡が発見された。明確に「長屋親王」と記されており、「長屋王」の父「高市皇子」が「天皇」であった物的証拠である。
その「長屋王」は729年2月に誣告を受けて自害する。(「長屋王の変」)
聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原不比等の子の藤原四兄弟が長屋王家(長屋王及び吉備内親王所生の諸王)を抹殺した政変で、一般的には藤原氏による、皇親の大官である長屋王の排斥事件とされている。
しかし優れた血筋と力を持つ長屋王家を自身の皇位と子孫の皇位継承への脅威と見做す聖武天皇が引き起こした事件とする見方がある。「変」では天皇の警護に当たる六衛府が動員されている。また最近では長屋親王の排除より、吉備内親王と息子の膳夫王を滅ぼすことに主眼があったともいわれている。
この事件の発端は、『続日本紀』の記述によると従七位下の漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学び国家を傾けんと欲す」と密告したことであった。事件後の738年、「語、長屋王に及べば墳して罵り」と、長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人を大伴子虫が斬殺するという事件が起こった。しかし、子虫が厳罰を受けた形跡はない。『続日本紀』も「東人は長屋王のことを誣告せし人なり」と記している。
日本の基礎を作り、絶大な権力を持っていた「天武王権」の滅亡に至る経緯を、今回と次回でお話しいただく予定である。