第12回古代史講演会レポート

<テーマ> 天武王権とその業績

<日時>  2023年(令和5年)11月18日(土)午後1時~4時

<会場>  埼玉県立歴史と民俗の博物館講堂

<最初に>

 「友の会」の斉藤亨さんが、今回の講演の概要を述べられた。天武王権が日本の新しい制度を始めたこと、天武天皇が多くの大寺院を移築し、藤原京の造成をしたことなどである。

 斉藤さんは九州各地を歩かれ、多々良川沿いや鳥栖市周辺で、今では瓦と礎石しか残っていない廃寺を多く見つけられたことを話された。また、現存する国内最古の戸籍と言われる「川邊里」戸籍(筑前国嶋郡)についても話をされた。

 

 次回は、3月10日(日)午後1時からこの会場で予定され、テーマは「高市天皇と長屋親王であることが伝えられた。今回も、21ページの資料が受付で配布された。

 

 講演の冒頭、佃先生は「天武天皇は大変なことをやっている。そのことはその都度話してきたが、今回はその業績を整理してまとめて話してみたい。」と述べられ、

第1部 天武王権と各制度、第2部 「日本国」、第3部 天武王権と仏教、第4部 藤原京、と4部にわたる講演を開始された。

 

第1部 天武王権と各制度

<第1章 遣隋使・遣唐使

 日本列島から中国王朝への朝貢は、502年「倭王武」による「梁」への朝貢以降、途絶えていた。約百年後の600年(隋開皇20年)、俀国(たいこく)が隋に朝貢したことが、『隋書』俀国伝に書かれている。

 

 第9回古代史講演会レポートでも詳しく見たとおり、この『隋書』俀国伝は、日本の歴史学では、『隋書』倭国と呼ばれていて、大部分の本が「俀(たい)」の字を「倭(わ)」の字に直して出版している。(岩波文庫魏志倭人伝 他三篇』など)原文の表題に「俀国」と書かれ、原文の本文中に8回もでてくる「俀」の字をすべて「倭」の字に直している。『日本書紀』には、俀国(阿毎王権)は全く出てこないから、『日本書紀』の記述に合うように、日本の歴史学は資料の字を書き替えてしまっている。

 

 前に見たように、『隋書』俀国伝の記述を見てみよう。「俀国は百済新羅の東南水陸三千里の大海中にあり、…俀王の姓は阿毎(あま)、字は多利思比弧(たりしひこ)、阿輩雞彌と号す。…王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利となす。」

 

 俀王である「多利思比弧(たりしひこ)」は女帝の推古天皇聖徳太子ではなく、第9回講演会で詳しく述べたように、阿毎王権三代目の十五世物部大人連公である。

 

 607年にも阿毎王権は隋に朝貢する。『隋書』俀国伝に「大業3年(607年)、その王多利思比弧は使いを遣わし朝貢す。使者の曰く、「聞く海西の菩薩のような天子が重ねて仏法を興すと。故、遣わし朝拝して、兼ねて沙門数十人が来たり仏法を学びたい」という。その国書に曰く、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや。云々」と云う。帝は之を覧て悦ばず。鴻臚卿(そのときの外相)に謂いて曰く、「蛮夷の書、無礼有り。復た以て聞くことなかれ」という。」とある。

 

 「日出る処の天子」からの国書に対して、「日没する処の天子」である隋の煬帝が烈火のごとく怒ったという有名な文書である。「日出る処の天子」は聖徳太子ではなく、阿毎王権の多利思比弧である。阿毎王権は、仏教を学ぶために沙門数十人を隋に派遣している。

 

 遣隋使・遣唐使や冠位制度について考えるとき、『隋書』俀国伝は貴重な資料であり、同時に言うまでもなく『日本書紀』は最重要な資料である。古代について記された数少ない貴重な資料をどのように生かしていくかが重要である。『日本書紀』の記述だけが正しいとして、それに合致しない『隋書』俀国伝の表記を勝手に変更することは許されないだろう。両方の貴重な情報を生かす複合的な歴史的視点が必要になる。その点で、佃説「日本の古代史」は、これから見るように、『隋書』俀国伝と『日本書紀』の情報をともに生かした一つの規範と言えるのではないだろうか。

 

 翌年608年、隋の皇帝は文林郎裴清を俀国に遣わす、と『隋書』俀国伝は記している。

 

 裴世清が帰国するとき、学生四人、学問僧四人を隋に派遣したと、『日本書紀』は述べる。学生は、倭漢直福因、奈羅因訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧は、漢人日文南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済である。「漢人」と書かれているから中国からの渡来人であろう。

 

 やがて、中国大陸では618年に隋から唐の時代となる。『日本書紀』舒明4年(632年)8月、唐が高表仁を派遣し、これにしたがって僧旻(日文)などが帰国した、と記されている。同じく、『日本書紀』舒明12年(640年)10月、大唐の学問僧請安、学生高向漢人玄理、が帰国した、と記されている。

 

 日本では、635年、阿毎王権から天武王権に支配権が移る。阿毎王権が派遣した遣隋使・遣唐使である学問僧請安、学生高向漢人玄理は、天武王権に帰国していることを確認できる。

 

<第2章 諸制度の始まり>

 『隋書』俀国伝は600年に俀国が朝貢したという記事のすぐ後に、俀国(阿毎王権)の冠位制度を次のように記している。「内官に十二等有り。一を大徳という。次に小徳、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信、員に定数無し。」俀国(阿毎王権)には、徳・仁・義・禮・智・信の大小十二階があることがわかる。

 

 『日本書紀』では、冠位制度が推古紀に出てくる。推古11年(603年)12月、始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智併せて十二階。

 

 「推古11年(603年)に始めて冠位を行う」とあり、十二階の冠位は、下位の順番が少し変わるだけで俀国の冠位とほとんど同じである。隋に朝貢し、日本を支配していたのは俀国だから、『日本書紀』推古紀は、俀国(阿毎王権)の冠位制度のことを書いていることがわかる。このことから日本の冠位制度は、603年に俀国(阿毎王権)が初めて制定している、と考えられる。

 

 西暦635年以降、天武王権が日本を支配している。『日本書紀』は、天武王権を創始した「天武天皇の父」を歴史上に登場させない。したがって、その業績は孝徳天皇の業績として記述している。そのように読み解いていくと、『日本書紀』の記述から、遣隋使・遣唐使を重用して天武王権が国の制度を整えていく様を見ていくことができる。

 

 『日本書紀』孝徳即位前記(645年)、沙門旻(みん)法師高向史玄理を以て国博士と為す。僧旻は阿毎王権に帰国し、高向玄理は天武王権に帰国している。ともに、天武天皇の父によって、645年に国博士に任命されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化元年(645年)8月、故、沙門狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙を以て十師と為す。別に恵妙法師を以て百済寺の寺主と為す。「沙門狛大法師」は高句麗からの僧だろう。恵妙法師は「百済寺の寺主」だから、上宮王権の僧だろう。このように多くの僧を重用している。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、是月、博士高向玄理と釈僧旻に詔して八省・百官を置かしむ。

 

新しい制度を学んできた博士高向玄理と釈僧旻を起用し、中国の制度を見習って、国博士、八省・百官などの国の制度を整えている。

 

<第3章 「天武王権」の冠位制度>

 天武王権は635年に支配権を持ち、649年に九州を統一した。661年天武天皇の父が死去した後、天武天皇が即位する。天武天皇は663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、国を防衛しながら、国を整備していく。この流れの中で、天武王権は官位制度を制定していく。その様子を『日本書紀』から読み解いていこう。

 

その場合、前に見たように、「天武天皇の父」の業績は、舒明紀、皇極紀、孝徳紀の事績として、壬申の乱までの天武天皇の業績は天智紀などの事績として記されていることに注意する必要がある。

 

 『日本書紀』(舒明)9年(637年)、蝦夷征伐のために、大仁上毛野君形名を派遣する。「大仁上毛野君形名」には、「大仁」という阿毎王権の冠位が付いている。

 

 『日本書紀』(皇極)元年(642年)8月、百済から人質として来ている達率長福に「小徳」の位を授ける。

 

 「大仁」も「小徳」も阿毎王権の冠位である。最初、天武天皇の父は阿毎王権の冠位をそのまま引き継いでいる。天武王権は、同じ「倭人(天子)」系列の阿毎王権を支配下に置いて、王権を樹立したからだと考えられる。

 

 次の冠位制度についての『日本書紀』の記述を見よう。(孝徳)大化3年(647年)、是歳、七色の一三階の冠を制す。一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。…四曰、錦冠。大小二階有り。…五曰、青冠。大小二階有り。…六曰、黒冠。大小二階有り。…七曰、建武

 

 「七色の一三階」は「織冠」から始まり、阿毎王権の「大小十二階」(徳・仁・…)の冠位と全くなる。「七色の一三階」は天武王権が制定した最初の「官位」制度である。天武天皇の父は、独自の冠位制度を作っている。

 

 635年阿毎王権が天武王権に支配された後、九州には天武王権と上宮王権が並立していた。前回の講演会で述べたように、649年3月、上宮王権の重臣である蘇我倉山田石川麻呂を天武天皇の父が討って、上宮王権は天武王権の支配下に入り、天武王権は九州を統一する。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)2月、冠の一九階を制す。一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。七曰、大花上。八曰、大花下。九曰、小花上。十曰、小花下。十一曰、大山上。十二曰、大山下。十三曰、小山上。十四曰、小山下。十五曰、大乙上。十六曰、大乙下。十七曰、小乙上。十八曰、小乙下。十九曰、立身。

 

 647年の「七色の一三階」では、「一曰、織冠。大小二階有り。…二曰、繡冠。大小二階有り。…三曰、紫冠。大小二階有り。」となっていた。649年の「冠位一九階」では、「一曰、大織。二曰、小織。三曰、大繡。四曰、小繡。五曰、大紫。六曰、小紫。」と、初めの六階が全く同じである。同じ王権が制定し、冠位を増やしていることが分かる。

 

 従来は、「七色の一三階」も「冠位一九階」も『日本書紀』孝徳紀に書かれているので、ともに孝徳天皇が制定したと言われていた。

 

 『日本書紀』(孝徳)大化5年(649年)5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂等を新羅に遣わす。是歳、新羅王、沙(タク)部沙飡金多遂を遣わし、質とす。従者三十七人。

 

 「冠位一九階」の「小花下」、「大山上」の位がついた使者が、新羅に派遣され、新羅王は人質と従者37名を出し、朝貢したと書かれている。

 

 649年当時、新羅朝貢し、九州を支配していたのは天武王権であって、孝徳天皇ではない。「小花下」、「大山上」の冠位を使っていたのは天武王権であるから、天武天皇の父が「七色の一三階」や「冠位一九階」を制定していることがわかる。

 

 翌月の649年3月、天武天皇の父は上宮王権を討ち、王権を剥奪する。王権を剥奪された上宮王権の皇極は、656年に肥前から大和に移り、飛鳥京を造った。

 

 飛鳥京跡から、天武王権の官位が書かれた木簡が出土している。上宮王権が天武王権の支配下となった証拠である。天武天皇の父は、上宮王権を討つ計画を立てていたが、上宮王権の人々は「臣下」になる。それを見込んで、官位の数を増やしていたと考えられる。

 

 661年7月天武天皇の父は崩御する。直ちに天武天皇が即位して、「白鳳」年号を建てる。百済を滅亡から救うため、唐・新羅連合軍と戦っていた天武天皇は、663年の白村江の戦いで連合軍に敗れ、百済から大量の人々が日本に逃げて来る。

 

 この翌年664年、「冠位二十六階」が制定される。

 『日本書紀』(天智)3年(664年)2月、天皇、大皇弟に命じて冠位の階名を増し換えること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ぶ。其の冠は二十六階有り。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建。是を二十六階と為す。前の花を改めて錦という。錦より乙に至るまでに十階を加える。又前の初位一階を加え換えて大建・小建、二階と為す。

 

 天智天皇は上宮王権に属し、天武天皇は天武王権に属していて、全く王権が異なる。しかし、『日本書紀』は天武天皇天智天皇を同父母の兄弟として記述しているため、天智天皇が、弟の大海人皇子天武天皇)に命じて制定したと書いている。

 

 「冠位一九階」と「冠位二十六階」での冠位名を比べてみれば明らかに分かるように、「冠位二十六階」は「冠位一九階」を下敷きに作成している。ともに同じ王権によって作られている。「冠位二十六階」を制定したのは、天武天皇である。

 

 天武天皇は、663年の白村江の戦いの後、百済から逃れてきた人々を大量に受け入れている。その人々に冠位を与えるため、冠位を増やしているのである。

 

 『日本書紀』の記述により、古代日本では4回、冠位制度が定められたことが分かった。

 

 603年の「冠位十二階」、647年の「七色の十三階」、649年の「冠位一九階」、664年の「冠位二十六階」である。しかし、大和朝廷が一元的に支配していたとする『日本書紀』の記述では、なぜその時期にそのような冠位が定められたかが分からない。『日本書紀』の記述を単になぞるのではなく、深く記述の意味を読み解く佃説日本の古代史によって、このように解明することができた。

 

<第4章 氏姓制度

 各時代、各王権は、それぞれの「称号(姓)」を持っていた。「和気」=「別」(わけ)は渡来人の称号で、中国の称号である。

 

 中国から渡来した「多羅氏(たらし)」は「貴国」を建国した。(仲哀天皇神功皇后)「貴国」の称号は「宿祢(すくね)」であった。

 

 「倭の五王」は「倭国」を建設し、称号「連(むらじ)」を制定した。

 

 大陸から阿智臣が日本に渡来した時、「使主(おみ)」の称号が与えられた。後に、「使主」は「臣(おみ)」となる。

 

 672年、壬申の乱天武天皇は日本列島を統一した。その後、684年、「八色の姓(やくさのかばね)」を制定する。

 

 『日本書紀天武天皇13年(684年)9月、詔して曰く、「更に諸氏の族姓を改めて八色の姓を作り、以て天下の属性を混ぜる。一に曰う、真人。二に曰う、朝臣。三に曰う、宿禰。四に曰う、忌寸。五に曰う、道師。六に曰う、臣。七に曰う、連。八に曰う、稲置。」という。

 それまで、各王権が使っていた「称号(姓)」を統一している。

 

   [ここで、25分間の休憩がとられた。この時間を利用して、佃先生が持って

   おられる薬師寺金堂の見事な薬師三尊像の写真を、休憩時間を使って参加者

   に見てもらった。明治の岡倉天心は、この仏像を初めて見たとき、驚嘆し、

   深く感動したと伝えられている像である。]

        (薬師寺金堂 薬師三尊像

                          町田甲一著「薬師寺」より)

 

第2部 「日本国」

<第1章 律令国家>

 天武天皇は父の事績を受け継ぎ、661年に即位した後、国名、律令制国史、戸籍の整備をする。

 

 朝鮮半島の歴史書である『三国史記』は「新羅本紀文武王10年(670年)12月、倭国は更に日本を号す。自ら言う、日の出る所に近いので以て名とする。」と書いている。

 

 670年に倭国が「日本」と号すようになったとある。670年は、天武天皇が支配している時代である。「倭国」は「倭人(卑弥氏)」が自らつけた国名であり、「倭の五王」の時代、日本列島は「倭国」と言われていた。

 

 これに対して、天武天皇は「倭人(天氏)」であり、「倭人(卑弥氏)」の国名ではない名前を求め、律令国家としての国を内外に示すため新たな国名「日本」を定めた。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)2月、天皇・皇后共に大極殿に居して、親王・諸王及び諸臣を喚(め)して詔して曰く、「朕、今より更に律令を定め、法式を改めむと欲す。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然るに頓(にわか)に是のみを務(つとめ)に就(な)さば、公事を闕(か)くこと有らむ。人を分けて行うべし」という。

 

 天武天皇は681年、「律令」の編纂を命じる。

 『日本書紀持統天皇3年(689年)6月、諸司に令一部二十二巻を班(わか)賜う。

689年6月に「令」が完成する。「令一部二十二巻」が配布され、施行されるが、「律」の完成記事はない。

 

 『日本書紀天武天皇10年(681年)3月、天皇大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下安曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首・に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしむ。大嶋・子首、親(みずか)ら筆を執りて以て録す。

 

 天武天皇律令国家にふさわしいように「国史」の作成を命ずる。その結果、和銅5年(712年)に『古事記』が完成する。720年に『日本紀』が完成する。

 

 『続日本紀』(元正)養老4年(720年)5月、是より先、一品舎人親王、勅を奉りて『日本紀』を修む。是に至り功成り奏上す。紀三十巻、系図一巻。

 

 完成したのは、『日本紀』であって、『日本書紀』ではない。

(詳しい説明は、次回以降)

 

 天武天皇は日本で初めて全国の戸籍をつくる。

 

 『日本書紀』(天智)9年(670年)2月、戸籍を造る。盗賊と浮浪を断(た)つ。

 670年につくられた戸籍は「庚午年籍」と云われている。『日本書紀』は、天智天皇がつくったとしているが、天武天皇がつくっている。

 

 667年2月斉明天皇が死去すると、667年3月、中大兄は近江に移って天智天皇として即位した。そして、670年12月天智天皇は死去する。天智天皇に、全国の戸籍をつくる余裕はない。

 

 670年2月、天武天皇は全国の戸籍をつくっている。それを背景として、国名を「日本」に改めたと考えられる。国名、律令国史、戸籍と国家としての骨格を天武天皇が作っている。

 

第3部 天武王権と仏教

<第1章 「天武天皇の父」と僧旻(みん)>

 僧旻(みん)は、608年に隋に派遣され、25年間隋と唐で勉強し、632年に唐から帰国している。天武天皇の父は、僧旻を国博士、十師に任命し、八省・百官を設けている。『日本書紀』の記述から、如何に僧旻を敬愛していたかがわかる。前にも指摘したように、天武天皇の父の事績は、孝徳天皇の事績として『日本書紀』には記述されている。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)5月、是月、天皇、旻法師の房に幸して其の疾を問う。(或る本に、五年七月に云う、僧旻法師阿曇寺に於いて病に臥す。是に於いて天皇、幸して之を問う。よりて手を執りて曰く、「若(も)し、法師今日亡(し)なば、朕従いて明日亡なむ」という。)

 

 年月は「或る本」の「常色5年(651年)7月」が正しいが(古代史の復元⑧参照)、天武天皇の父は、「もし旻法師が今日亡くなれば、自分は従って明日亡なむ」、とまで言っている。旻法師は653年6月に死去する。

 

 『日本書紀』(孝徳)白雉4年(653年)6月、天皇、旻法師の命が終わると聞いて使いを遣わし弔う。并て多くの贈物を送る。皇祖母尊及び皇太子等、皆使いを遣わし旻法師の喪を弔う。遂に法師のために畫工狛堅部子麻呂・鮒魚戸直等に命じて多くの仏菩薩像を造る。川原寺に安置す。(或本に云う、山田寺に在る)

 

 「川原寺」は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。天武天皇の父は、旻法師のために多くの仏菩薩像を造り、自分が創建した寺に安置している。天武王権は、深く仏教に帰依している。

<第2章 天武天皇と寺院の創建・移築>

 

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。しかし、日本歴史学の通説は、そのように述べていない。それぞれの大寺の様子を詳しく見ていこう。

 

(1)大宰府観世音寺

 観世音寺は、福岡県の大宰府にあり、その宝蔵には所狭しと多数の仏像が置かれている。『続日本紀』には、和銅2年(709年)に元明天皇が「筑紫の観世音寺天智天皇が後岡本宮御宇天皇斉明天皇)のために創建した寺である」と詔(みことのり)した、と書かれている。

 

 この時代の歴史を今まで見てきたように、斉明天皇天智天皇が筑紫を支配したことは一度もない。したがって、この『続日本紀』の記述は正しい情報を伝えていない。それでは誰が創建したのだろうか。

 

 『二中暦』(※)に観世音寺の記載がある。この「年代暦」には、天武王権の年号が、僧要、命長、常色、白雉、白鳳、朱雀、朱鳥と順に列記され、「白鳳 二十三年 辛酉 対馬銀採 、観世音寺東院造」と書かれている。「白鳳」年号は、「辛酉(661年)」から23年続くという意味である。「白鳳」年号は天武天皇の年号であった。白鳳年間に、対馬から銀が採れたと書かれ、その後に観世音寺の東院が造られたと記載している。

 

 天武天皇3年(674年)3月、対馬国司守が「銀がこの国で初めて出ました。これを献上いたします。」と申し上げ、これによって、対馬国司守に小錦下位が授けられたことが、『日本書紀』に書かれている。『二中暦』の上の記載は、『日本書紀』に書かれている対馬で銀が初めて採れたことを伝え、天武王権の年号を正確に表しているなど、信用することができる。

 

 674年は壬申の乱の2年後であり、天武天皇の時代である。天武天皇の時代674年に、対馬で銀が採れている。『二中暦』の記載により、その後に、「観世音寺東院」が造られたとしてよい。観世音寺を造ったのは、天武天皇である。天智天皇は671年にすでに死去しており、674年以降に観世音寺を建てることはできない。

 

 現在の観世音寺は、「西院」であり、その東に創建の「観世音寺東院」があった。観世音寺は、天武天皇天武天皇の父のために創建した寺である。

観世音寺については、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な記述がある。)

 

※ 『二中暦』は鎌倉時代初期に成立したとされる、いわば百科事典である。13巻で作者未詳。平安時代の『掌中暦』と『懐中暦』を再編集したもので、人名・物名などを列挙している。

 

 (2)川原寺

 天武天皇壬申の乱に勝利すると、九州の大寺を大和に移築する。まず重要なのは、川原寺である。川原寺は、天武天皇の父が筑紫に創建した寺であり、655年10月に完成している。亡くなった旻(みん)法師のために多くの仏菩薩像を造って、安置した寺であった。壬申の乱の翌年673年、天武天皇は川原寺を天武天皇の宮(浄御原宮)の隣に移築した。(図1参照)

        (図1)

 通常の寺は南門が一番大きいが、川原寺では東門が一番大きくなっている。図1から分かるように、浄御原宮(天武天皇の宮)に接する門であるからである。壬申の乱に勝利した天皇は、敗北した天智王権に川原寺中金堂の礎石を大津から運ばせて、天武天皇の戦勝記念としている。

 

 『日本書紀天武天皇2年(673年)3月、是月、書生をあつめて始めて一切経を川原寺において写す。

 

 川原寺を移築すると、書生に一切経の写経をさせている。

(川原寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

(3)飛鳥寺

 飛鳥寺は、609年に筑紫に創建された「元興寺」を672年~677年の間に、天武天皇が大和に移築したものである。「元興寺」は阿毎王権が創建した寺であり、第9回古代史講演会レポートでも確認した見たように、隋の「裴世清」が来て、釈迦丈六の仏像を見ている。635年、阿毎王権は天武王権の臣下となる。同系列の王権であり、天武天皇は浄御原宮の近くに移築している。(図1参照)

 

 『日本書紀天武天皇6年(677年)月8月、天武天皇飛鳥寺一切経を読ましむ、と書かれている。天武天皇は熱心な仏教の信奉者である。

飛鳥寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に100ページほどの詳細な論考がある。)

(4)百済大寺

 639年に上宮王権の舒明天皇が「肥前神埼郡宮所」に創建した「百済大寺」は、641年焼失し、642年から皇極(斉明)天皇が再建する。

 

 壬申の乱の後の673年に天武天皇は再建された百済大寺を肥前から「大和の高市」に移築する。それが「高市大寺」である。

 この寺が677年からは「大官大寺」となり、これが奈良県桜井市の「吉備池廃寺」である。

 

 百済大寺は、天武王権と対立していた上宮王権が創建した寺であるから、浄御原宮から一番遠い所に移築されている。(図1参照)

百済大寺についても、『天武天皇と大寺の移築』(古代史の復元シリーズ⑧)に詳細な分析がある。)

 

 川原寺・飛鳥寺大官大寺は飛鳥の三大寺と云われている。すべて天武天皇が九州から大和に移築している。天武天皇は熱心な仏教徒であり、大和に大寺があるのは、天武天皇の業績ともいえる。       

                   (薬師寺東塔)

(5)薬師寺

   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲    佐佐木信綱

 

 この短歌でも有名な薬師寺は、天武天皇が「持統皇后」の病気平癒のために創建したとされている。私たちは、「天武天皇持統天皇に対する心持」と奈良路に流れるゆったりとした時をこの歌からも味わってきた。

 

 『日本書紀天武天皇9年(680年)月11月、皇后、体不豫。即ち皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す。仍りて一百僧を度(とくど)せしむ。是により安平を得る。是日、罪を赦す。

 

 「皇后、体不豫」のため、「薬師寺を興す」とある。

 

 『日本書紀』は、壬申の乱の翌年673年に天武天皇が即位して、「持統」は皇后になったと記している。したがって、680年の「皇后、体不豫」は「持統皇后」であるということになる。これが従来の解釈である。この解釈にしたがって、私たちは今まで、佐佐木信綱の歌も解釈してきた。

 

 ところが、その前の壬申の乱の最中に、『日本書紀天武元年(672年)6月24日、「…乃ち、皇后は輿に載り、之に従う。…」「皇后がお疲れになったので、しばらく輿を留めて休息なさった。…」と、「皇后」がすでに出てきている。

 

 今まで述べてきたように、天武天皇は661年に即位している。そして、壬申の乱の672年では、皇后は天武天皇と一緒に戦っている。『日本書紀』は673年に「持統」は皇后になったと記しているが、壬申の乱のときの皇后は、本当に「持統」なのだろうか?さらに、「持統」は、壬申の乱以前から皇后であったのだろうか?

 

 『日本書紀天武天皇2年2月の記述に従って、天武天皇の「妃」を婚姻の順番に列記してみよう。

① 初め鏡王の女額田姫王を娶り、十市皇女を生む

② 胸形君徳善の女尼子娘を納れて高市皇子命を生む

③ 宍人臣大麻呂の女カジ媛娘は二男二女を生む

④ 大田皇女を納れて妃と為す。大来皇女(大伯皇女)と大津皇子を生む

⑤ 正紀(持統)を立てて皇后と為す。皇后、草壁皇子尊を生む

⑥ 大江皇女、長皇子と弓削皇子を生む

⑦ 新田部皇女、舎人皇子を生む

⑧ 藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生む

⑨ 氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生む

⑩ 蘇我赤兄大臣の女大ヌノ娘、一男二女を生む

 「持統」は、657年に13歳の時、天智王権から大田皇女に続いて2番目の人質として天武天皇に差し出されている。全体では5番目の「妃」である。佃氏は、詳細な検討をして(『新「日本古代史」(下)』所収57号論文)壬申の乱のときの皇后は、①の「鏡王の女額田姫王」であり、「持統」ではないと結論している。

 

 『日本書紀』天武12年(683年)秋7月4日、天皇鏡姫王の家に幸(いでま)して病を訊(と)う。5日に鏡姫王薨る。是夏、始めて僧尼を請いて宮中に安居す。因りて浄行者三十人を簡(えら)出家せしむ。

 

 「鏡王の女額田姫王」は683年に「薨」去する。「薨」の字が使われている。661年天武天皇の即位とともに皇后となり、683年まで皇后であった。「皇后」は「持統」ではなく、「額田姫王」である。薬師寺は「額田姫王」の病気平癒のために天武天皇が造った寺である。

 

 『吉山旧記』は、「大善寺玉垂宮」の勾当職であった吉山家の由来と歴代の活躍が記されている記録で、平成14年に吉山昌希氏から久留米市に寄贈され、久留米市文化財収蔵館に保管されている。佃氏は信頼できる資料であると評価している。(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 この『吉山旧記』には、次のように書かれている。「天智天皇8年(669年)第二十一代 吉山久運安泰和尚高良御廟に参る。その後、入唐という。…(671年に帰朝) 同5年(676年)夜明(地名)へ唐渡薬師尊像を安置し傍らに一寺を建立す。寺を薬師寺と号す。」

 

 『日本書紀』の記述に合わせて「669年」を天智天皇としているが、「669年」に「吉山久運(安泰和尚)」は唐へ行き、「671年」に帰国し、「676年」「大善寺玉垂宮」に「薬師寺」を建立して、唐から渡って来た「薬師尊像」を安置していることが記録されている。

 

 薬師寺は676年に筑後の高良神社に創建された。今の久留米市にある大善寺玉垂宮である。筑後の「薬師寺」の創建である。中国から買い求めた薬師三尊像を安置するために建てられた。

 

 『吉山旧記』には、「一寺」を造るにも「天武天皇にお伺いした」とある。また、高良神社は天武天皇が創建した寺である。天武天皇は、筑後の高良神社に創建された「薬師寺」のことを知っていた。

 

 「額田姫王」が病気になったとき、「皇后のために誓願して初めて薬師寺を興す」として、682年に、「薬師寺」を筑後から大和の「飛鳥岡本」に移転している。

 

 「飛鳥岡本」に移転後の「薬師寺」の経緯については、第4部第2章 薬師寺の変遷 に続きます。

(『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」で、詳しく論じられている。佃收HPの「論文集」のページで見ることができる。)

 

第4部 藤原京

<第1章 天武王権と藤原京

 天武天皇は672年壬申の乱に勝利した後、九州の大寺を大和に移築していることはすでに見てきた。新都「藤原京」の造営も開始している。このことは、『日本書紀』や『万葉集』、藤原京跡から出土した木簡からも確認できる。

 

 「天武11年(682年)秋3月、小柴三野王及び内官大夫等に命じて。新城に遣わし其の地形を見しむ。よりて都つくらむとす」と、『日本書紀』に書かれている。

 

 天武天皇藤原京造営について、奈良文化財研究所の山本崇氏は次のように述べている。「『日本書紀』が語る都の造営過程は、藤原京から出土した木簡により裏付けられました。藤原京の中心ともいえる大極殿の真下には、幅6m、確認されているだけで570mにもおよぶ大規模な溝が掘られていました。この溝は、都の造営に必要な物資運搬のために掘られた人口の運河であると考えられます。この溝から「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡のほか、天武14年(685年)に制定された「進大肆」という位を記した削屑が出土しました。木簡の年代は、…都の造営時期とみごとに一致しており、木簡は、都の造営にかかわるものと見られます。」(2018年9月1日朝日新聞「be」)

 

 『万葉集』(巻十九)の「壬申の乱の平定以後の歌二首」とある天武天皇を詠った歌を見てみよう。

 

 皇(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 赤駒の 腹ばゆ田井を 京師(みやこ)となしつ         (『万葉集』4260番)

 

 大王(おおきみ)は 神にし座(ま)せば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)となしつ          (『万葉集』4261番)

 

 天武天皇は「神」であるから湿地帯を都(京師、皇都)にしたと称えている。都は藤原京であり、「壬申の乱の平定以後」であるから天武天皇が造っていることを『万葉集』からも確認できる。

 

<第2章 薬師寺の変遷>

 大橋一章氏(元早大文学部長)は『薬師寺』(保育社、昭和61年)の中で次のように述べている。「藤原京右京八条三坊の南西隅、つまり薬師寺の南西隅の発掘調査で、条坊の大路遺跡より下層で薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかったが、この溝は藤原京の条坊地割の施行の時点にはすでに埋められ、整備されていたことが明らかになった。」

 

 現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦を出土する溝が見つかった」という。薬師寺は、「藤原京」の下層に造られていた。「藤原京」の下層には「壬午(天武11年)」(682年)から「甲申(天武13年)」(684年)までの年を記した木簡が出土していることは前に見てきた。これは何を意味するのだろうか?

 

 680年11月「額田姫王」は病に臥す。天武天皇は「薬師寺を興すこと」を誓願した。誓願通り、682年天武天皇筑後から「飛鳥岡本」へ「薬師寺」を移築する。683年7月「額田姫王」は薨去する。またこの頃、「藤原京」の造営を開始し、天武天皇は「薬師寺」をさらに「藤原京」に移築している、と考えられる。

 

 さらに「高市天皇」は、天武天皇がつくった「藤原京」の上に新しい「藤原京」を造った。そのため、現「藤原京」の下層に「薬師寺式の軒瓦・軒平瓦が出土」したのではないだろうか。

 

 「高市天皇」は新しい「藤原京」に、688年までに「薬師寺」を移築する。これが、現在「本薬師寺」と呼ばれているところであり、金堂跡と思われる巨大な礎石群が残されている。

 

 710年、都は平城京に遷る。730年以降に、聖武天皇平城京に「薬師寺」を建てる。これを「平城京薬師寺」(現在の薬師寺)と呼ぼう。そのとき、新しい薬師三尊像を、唐から渡ってきた薬師三尊像をまねて国産として作らせ、金堂の本尊とした。

 

 建てられた当時「平城京薬師寺」には、国産の薬師三尊像が据えられていた。一方、「本薬師寺」には、中国から渡って来た薬師三尊像が据えられていた。

 

 ところが、平安時代の「薬師寺縁起」(長和四年)には、平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、本薬師寺から運んだもの(移座)である、と書かれている。平城京薬師寺金堂の薬師三尊像は、つくられた当初の国産の薬師三尊像ではなく、「本薬師寺」に置かれていた中国から渡って来た薬師三尊像に替わっている、と書かれている。

 

  一方、最初に平城京薬師寺金堂にあった国産の薬師如来像はどうなったのだろうか。平城京薬師寺講堂はたびたび火災に遭った後、嘉永5年(1852年)に再建された。その際、安政3年(1856年)に、それまで西院堂にあった国産の薬師三尊像が、講堂に安置されることになる。最初、平城京薬師寺金堂に置かれていた、国産の薬師三尊像は、このときから講堂に置かれるようになり、現在に至っている。(もっと詳しい経緯については、『古代文化を考える』第75号「藤原京薬師寺の謎を解く」参照)

 

 現在の薬師寺平城京薬師寺)を訪れると、金堂と講堂に、同じ様に大きい黒色の銅像である薬師三尊像が二体ある。どうして、同じ様なブロンズ像が二体あるのだろうかと、疑問に思う人は多いのではないだろうか。この謎は佃氏によって見事に解かれたのではないか。

       薬師寺金堂の薬師三尊像)

 【手前から日光菩薩薬師如来月光菩薩 単独の薬師如来写真は第1部の最後に】

 

 大橋一章氏は『薬師寺』の中で金堂の薬師三尊像について次のように語っている。「この薬師如来は、そのみごとな造形、比類のない美しさという点で、わが国彫刻史上の絶品であるが、古来この仏像に対する賞賛のことばもまた限りないものがある。…上半身にまとった法衣の自然な表現はまことに絶妙で、…命ある人間のぬくもりや触感までも感じさせるような表現は、まことに真に迫っている。」

 

 金堂の薬師三尊像は中国で作られ、最初久留米市大善寺玉垂宮に安置された。天武天皇により、「額田姫王」の病気平癒を願って大和の「飛鳥岡本」にうつされ、その後、天武天皇が造営していた藤原京にうつされる。次に、高市天皇がつくる藤原京の「本薬師寺」にうつされ、最後に、平城京にある現在の薬師寺に安置される。渡来した後、五回の変遷を経て、私たちの目の前に鎮座されている。

 

 一方、大橋一章氏は講堂の薬師三尊像について、「頬から鼻・唇のあたりの肉付けはやや平面的で、微妙な肉付けがなされておらず、そのため古風な印象が強い。また、耳も形式的につくられ、丸みのない単調な表現となっている。…単調さはまぬがれず、金堂本尊の写実的なつくりとは較ぶべくもない。」と述べられている。次の写真は講堂の薬師三尊像である。前に第1部の最後のところで見た金堂の薬師三尊像と見比べてみてほしい。

         (薬師寺講堂の薬師三尊像)

 「本薬師寺」の薬師三尊像が移座されて、平城京薬師寺金堂に安置されるようになった理由は、ここにもあるのではないだろうか。

 

 講演の最後に、佃先生は、「今回も日本古代史の定説と大分違う説なので、最初混乱するかもしれないけれど、じっくり考えて自分の見解を築いていってほしい。」と述べられた。

 

 次回第13回講演会は「高市天皇と長屋親王というテーマで、3月10日(日)午後1時~4時 埼玉県立歴史と民俗の博物館で開催される予定です。

                        (以上、HP作成委員会記)

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   埼玉県立歴史と民俗の博物館友の会 junosaitama