第5回古代史講演会レポ―ト

テーマ:倭人(卑弥氏)の渡来

2022(令和4)年4月29日(金)午後1時~4時

<最初に>

 友の会の斉藤さんから、今日の講演の3点の重要項目のこと、次回は7月24日(日)に予定されていること、友の会に多くの人が入会されることが望まれることなどの話があった。

   

 今回は講演の資料以外に三国志』濊(ワイ)伝以下東夷伝までの4枚のコピーが全員に配布された。冒頭、佃先生から「『三国志』については様々な資料があるが、一番信頼性が高いとされている資料のコピーなので各自大切に保管して、書き込みする場合は、これのコピーに書くとよい。」という説明があった。

<講演>

 第3回、第4回講演で「倭人(天氏)」の移住、天孫降臨について話されたので、それに続いて、今回のテーマは次の内容であった。

   第1章 「倭人(卑弥氏)」の移動

   第2章 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

   第3章 卑弥呼の渡来

 

第1章「倭人(卑弥氏)」の移動

 前221年に始皇帝は秦を樹立する。この前、「天氏」は「大凌河下流域」に、「卑弥氏」は「大凌河上流」にある「倭城」に居る。

 前200年頃、漢が大凌河周辺まで攻めてくる。「天氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に移り、「高天原」を建国する。「卑弥氏」は「大凌河上流」から「大凌河下流域」に下って、「天氏」の国を譲り受け、漢に応戦していることが『契丹古伝』の文書から確認できる。

 前50年頃、漢は支配を強化し、そのため「卑弥氏」は「大凌河下流域」から朝鮮半島南部に逃げ、「倭国」を建設する。同じ倭人でも「倭国」を名のるのは「卑弥氏」だけであり、「天氏」は「倭国」を名のらない。『三国志』韓伝、弁辰伝に「倭国」が出てくるが、これは朝鮮半島の「倭国」であり、「卑弥氏」の国である。

 朝鮮半島の「倭国」から一部が博多湾沿岸に渡来している。『後漢書』に、57年に後漢光武帝から金印をもらったと書かれている「倭奴国」は「卑弥氏」の国であることが、「松野連系図(卑弥氏)」からも確認できる。

 

 最近真贋論争が起きている「倭奴国」の金印は江戸時代に志賀島から発見されて、古代史の議論に大きな影響を与えている。金印は急斜面の畑の石囲いの中から発見されており、見つからないようなところに埋めてあったことなどから、本物であると考えることが妥当である。そうすると、「倭奴国」は滅ぼされたために金印を隠したと考えられる。

 『三国志倭人伝に、「不彌国」がでてきて、「倭奴国」が在った博多湾沿岸に「不彌国」がある。一方、『三国志』韓伝にも「不彌国」が記載されている。倭人伝の「不彌国」は、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部の人々が渡来して建国した分国であり、この「不彌国」が「倭奴国」を滅ぼしたと考えることができる。「倭奴国」は、「不彌国」に追い出され、「筑紫野市隈」へ逃げている。(このことについては次回触れる)

   

 

2 後漢時代の朝鮮半島と日本列島

 九州北部では、「倭人(天氏)」は吉武高木遺跡に天孫降臨し、その子孫が糸島市に移り、「伊都国」を樹立している。神皇は、須玖岡本遺跡に降臨して神都とする。「伊都国」は漢王朝朝貢し、鏡や璧(へき)をもらっている。それは大量の鏡や璧が三雲南小路遺跡ほかの王墓から出土していることからも分かる。

 一方、紀元0年頃、1章で見たように朝鮮半島の「倭国」の一部が渡来する。博多湾沿岸に「倭奴国」を樹立し、「神都」を滅ぼし、57年に光武帝から金印を賜る。その直後頃、朝鮮半島南部の「不彌国」から一部が博多湾に渡来し、「倭奴国」を追い出して「不弥国」(不彌国)を樹立する。

 「倭奴国」を追い出した「不弥国」は、200年頃までには「伊都国」に支配されている。『三国志倭人伝の記述で、「伊都国」にだけ王が居て、他の国には共通の副官「卑奴母離」(ひなもり:辺ぴなところを守る意味か)がいる。「卑奴母離」は「不弥国」他の国を監視している。70年~80年頃、「伊都国」は「不弥国」を討伐して、「伊都国王権」を樹立していると考えられる。

 

 朝鮮半島では、後漢時代に入り、107年「倭国王帥升」は後漢朝貢する。「倭国王帥升」は朝鮮半島南部にいた「倭人(卑弥氏)」の王である。その後、桓帝(147~167)と霊帝(178~183)の末に朝鮮半島で「韓国」と「濊国」が近隣諸国を荒らしまわる。「倭国乱」はこのとき朝鮮半島の「倭国」が乱れたことを表わしている。

 

 また、このとき多くの人々が日本列島に渡来している。「濊」に追い出された人々は朝鮮半島の東側を南下して、「山陰」「北陸」「四隅突出型墳丘墓」を造る。

 

 「韓」に追い出された人々は瀬戸内海に入り、岡山県「楯築墳丘墓」を造る。

 

 その後、朝鮮半島では204年に公孫度が死去して、公孫康が位を継ぎ、帯方郡を設置し、「韓」と「倭」を伐つ。

 

 この直後に、奈良県桜井市纏向纏向遺跡が突如として出現する。「庄内式土器」と呼ばれる土器様式が「纏向遺跡」とともに日本列島に初めて出現する。また、この遺跡からはベニバナの花粉が出土しており、ベニバナは3世紀の日本列島にはない。これらのことなどから、纏向遺跡を築いた人々は公孫康に追われて、朝鮮半島から渡来していることが分かる。

 

 第3章 卑弥呼の渡来

 『三国志』韓伝では、「倭は韓の南にある」と述べ、弁辰伝では「倭は弁辰の西隣にある」と述べているように、韓伝、弁辰伝の記述での「倭国」は朝鮮半島にある。後漢時代以降に「倭国」は朝鮮半島から北部九州に移っている。『三国志倭人伝は、「天氏」のように北部九州にすでに住み着いている「倭人」と「卑弥氏」のように後漢時代以降に渡来した「倭人」の記録であり、日本列島(北部九州)での記述となる。

          (ここで、10分間の休憩に入る)

           

 『三国志倭人伝の記述では、次の文「其国本亦男子為王住七八年倭国乱相攻伐暦年乃共立女子為王名曰卑弥呼」で初めて、女王卑弥呼が登場する。この文では、従来「倭国乱相攻伐暦年」が続けて解釈されてきた。しかし、佃説では、「倭国乱」の後に句点が打たれている意味であり、「倭国乱」と「相攻伐暦年」を別のこととして解釈しなければならないとする。「倭国乱」は霊帝の末(180年)頃の朝鮮半島南部の倭国のことであり、「韓国」が「倭国」を侵略したので、「倭国」は乱れていることを表わしている。「相攻伐暦年」は朝鮮半島南部から北部九州に移った「倭国」についてのことであり、すでに北部九州に渡来していた伊都国王朝と「倭国」との戦いを意味している。

 

 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島にあった。その後「倭国」は北部九州に移る卑弥呼朝鮮半島の「卑弥国」の出自で、名を「呼」という、あるいは「卑弥氏」で名を「呼」というと考えられる。220年~230年頃に、「倭国」は朝鮮半島南部から北部九州に移動して「伊都国王権」と戦い、「卑弥呼」が女王に共立されて勝利し、238年「卑弥呼」は魏に朝貢して「親魏倭王」の称号を得る。朝鮮半島の「倭国」が完全に消滅し、「卑弥呼」の北部九州の国が正式に「倭国」となる。

 

    (レジュメではここまでの予定であったが、時間があるので、

    「通史」を使って、邪馬壹国の位置についての内容に進んだ。)

          

 『三国志倭人伝に書かれている通りに辿って行くと、帯方郡から女王国までちょうど12,000里となる。辿っていく行程で、「行」の字が使われている場合は、実際に行く行程を表し、「行」の字がなく方向だけが示されている場合は行かないことを意味している。また、「到」の字は目的地に到ることを意味し、「至」の字は目的地ではないことを意味していると解釈する。

 

 女王国より以北の国々については戸数・道里を略載することができると書かれており、玄界灘に面した「末盧国」「伊都国」「奴国」「不彌国」の南に邪馬壹国はある。

 

 そのように考えていくと、邪馬壹国は「福岡県南区~小郡市」までにあり、邪馬壹国の都は「小郡市」にあり、卑弥呼の墓は「津古生掛古墳」と検証できる。

『新「日本の古代史」(上)』p.335~「私案「卑弥呼の墓」-津古生掛古墳と「径百餘歩」‐」に詳しく論じられている)

 

 今回の内容はここまでであり、次回(7月24日(日))にこの続きが話されることになった。                     (以上、HP作成委員会記)

 

     日本古代史の復元 -佃收著作集-